
夜の二階の部屋で、階段を上る足音を聞いたのは、高校三年の秋でした。
その足音の主が誰なのか、僕は今も、確かめられずにいます。
実家は、僕が生まれる三年前に、父が建てた二階建ての木造住宅です。
玄関を入ってすぐ、急な階段が二階へ伸びています。
階段は全部で十三段あります。
手すりは、古い杉の無垢材で、冬になると指先が痛くなるほど冷たくなります。
壁紙は、父が自分で貼った薄い緑色で、角のあたりが少し剥がれていました。
階段の踊り場には、母が飾った小さな招き猫が、いつも同じ方向を向いて座っていました。
その招き猫の目が、夜になると、廊下の灯りを受けて、ぼんやり光ります。
子どもの頃は、その光が怖くて、階段を駆け上がったものです。
いま思えば、あの招き猫は、家を見守っていたのかもしれません。
あるいは、見守りきれずに、ただ黙って座っていたのかもしれません。
そのうち、いちばん上の一段だけは、体重をかけると必ずきしみます。
家族は誰でも、その音を聞けば、誰が上がってきたのかわかりました。
母なら、ゆっくり。
父なら、どすどす。
兄なら、二段飛ばしでした。
僕の部屋は、階段を上がった突き当たりにありました。
隣の部屋は、兄の部屋です。
家鳴りとポスター
建てた場所が悪かったのか、実家では昔からラップ現象が絶えませんでした。
夜になると、壁や柱が、ぴしり、ぴしりと鳴ります。
母は、「木は夜に縮むから」と言っていました。
僕も、家鳴りだと思って、気にしないようにしていました。
けれど、その秋は、少しだけ様子が違っていました。
九月の終わりの夜、台所の蛇口から、誰も使っていないのに、水が一滴ずつ落ち続けていたことがありました。
十月の初めには、居間のテレビが、深夜にひとりでに点いていました。
画面には、砂嵐だけが映っていて、リモコンは、母の手の届かない棚の上にありました。
父は、「古い家だから、電気系統がおかしいんだろう」と笑っていました。
笑っているのに、その夜から、父は玄関の鍵を二重に閉めるようになりました。
そして、先週のことです。
雨上がりの湿った匂いが、夜の廊下に、ふわりと漂っていました。
雨など、降っていなかったのに。
濡れたコートのような、冷たくて重たい匂いでした。
その日は、十月の第三週の木曜日でした。
外は風が強く、雨戸がときおりがたがたと揺れていました。
僕は机に向かって、文庫本を読んでいました。
壁には、好きな映画のポスターを貼っていました。
ときどき、ポスターの裏の壁から、こつん、と小さな音がします。
その夜は、いつもより音が大きく、ポスターそのものが鳴っているようでした。
紙が、ぴりぴりと震えているのです。
「おかしいな」
僕は、顔を上げて、ポスターを見つめました。
窓は閉まっていて、風は入ってきません。
ポスターの角だけが、誰かに触れられたように、ふわりと浮き上がりました。
それから、ゆっくりと、元に戻りました。
背筋に、薄い冷気が走りました。
そのときです。
外の階段から、足音が聞こえてきました。
階段を上る足音
とん、とん、とん。
一段ずつ、ゆっくり上がってくる足音でした。
兄が帰ってきたのだ、と僕は思いました。
兄は大学生で、夜遅くに帰ってくることがよくありました。
でも、兄にしては、足音が静かすぎます。
とん、とん、とん。
足音は、途中で止まらず、一定の間隔で続いていました。
階段は十三段しかありません。
十三段なら、数秒で上がりきってしまうはずです。
それなのに、足音は、いつまで経っても止みませんでした。
とん、とん、とん。
三分ほど経ったでしょうか。
その間、僕は、息をするのも忘れて、耳を澄ませていました。
数えれば、十三段で終わるはずの音が、その倍以上、続いている気がしました。
階段の下からは、ぼんやりと、雨上がりのような匂いが昇ってきました。
廊下の電灯が、一度だけ、ちらりと暗くなりました。
階段を上る足音は、僕の部屋のドアのすぐ外で、ふっと止まったように思えました。
さすがに不審に思って、僕は本を閉じました。
時計を見ると、針は午後十一時過ぎを指していました。
立ち上がって、ドアの前に立ちました。
取っ手に手をかけると、金属が冷たくなっていました。
そっとドアを開けて、廊下に顔を出しました。
知らない女の訪問
階段の途中に、見知らぬ女の人が立っていました。
二十代半ばくらいで、薄いグレーのコートを着ていました。
髪は肩につくくらいの長さで、少し濡れているように見えました。
とても困ったような顔で、僕を見上げていました。
「あ、あの、○○さん、いらっしゃいますか」
兄の名前でした。
僕は、咄嗟に、兄の彼女だと思いました。
「兄は、まだ帰っていませんけど」
「そうなんですか」
女の人は、途端にしょんぼりした顔になりました。
「何時ごろ、戻りますか」
「さあ、ちょっとわからないです」
「わかりました。また、来ますね」
女の人は、小さく会釈をして、階段を下りていきました。
とん、とん、とん。
足音は、上るときと同じ、一定の間隔でした。
玄関の戸が開く音は、聞こえませんでした。
「兄貴も、変わった人と付き合っているな」
僕は、苦笑いしながら、ドアを閉めました。
廊下の床には、小さな水滴が、点々と階段の方へ続いていました。
しゃがんで指で触れると、ひんやりと冷たく、わずかに土の匂いがしました。
不審に思いつつも、僕は雑巾を取りに行く気力もなく、そのままにしてしまいました。
翌朝、水滴は、跡形もなく乾いていました。
雨戸は閉まったままで、階段の下には、傘ひとつ置かれていませんでした。
その事実を思い出すたびに、胸の奥が、すうっと冷たくなります。
机に戻って、文庫本を開いたときです。
僕は、ふと、気がつきました。
兄が見せた写真
兄は今、出張中なのです。
二週間前から、遠くの支社に行っていて、帰ってくるのは来週のはずでした。
彼女なら、そんなことは知っているはずです。
いや、それ以前に、家族でもない人が、こんな時間に二階まで上がってくるでしょうか。
どうして僕は、あの人を見たとき、兄の彼女だと決めつけたのでしょう。
どうして、兄が出張中だということを、さっきまで忘れていたのでしょう。
背中が、ぞくりと冷えました。
もう一つ、気づいたことがありました。
足音は、確かに十三段を上りました。
けれど、いちばん上の一段の、あのきしむ音だけが、聞こえなかったのです。
体重のあるものなら、必ず、鳴るはずでした。
僕は、布団をかぶって、朝まで、眠れませんでした。
翌朝、母に、そのことを話しました。
母は、洗い物の手を止めて、しばらく黙っていました。
「そう。やっぱり、また来たのね」
「また、って」
「昔からね、時々いるのよ。気にしなくていいから」
母は、それだけ言って、水道の蛇口を閉めました。
その夜、父にも、同じことを聞いてみました。
「階段を上る足音って、うちでは誰が一番多く聞いてるの」
父は、新聞を畳みながら、静かに答えました。
「俺と母さんは、もう何十回も聞いてるよ。ただ、お前にだけは、言わなかったんだ」
「どうして」
「怖がって、この家を嫌いになってほしくなかったからさ」
父の指先が、新聞の端を、細かく何度も折り返していました。
その仕草を見て、僕は、これ以上聞くのをやめました。
代わりに、母が淹れてくれた熱いほうじ茶を、黙って飲みました。
湯呑みの温かさだけが、確かなものに感じられました。
けれど、階段を上る足音は、その後も何度か、遠くの夜に響いていたのです。
聞こえるたびに、僕は、布団の中で息をひそめました。
ドアを開けて確かめる勇気は、二度と出ませんでした。
それが正しかったのか、今でもわかりません。
二週間後、兄が出張から戻ってきました。
その夜、僕は兄の部屋で、あの日のことを話しました。
兄は、話の途中で、顔色を変えていきました。
「どんな顔だった」
「髪は肩くらいで、グレーのコートで」
兄は、何も言わずに、財布を取り出しました。
財布の奥から、色あせた写真が一枚、出てきました。
写真の中で、女の人が、笑っていました。
グレーのコートを着て、肩までの髪を風に揺らして。
「それ、あの人だよ」
「兄貴、これ、いつの写真」
「去年の冬だ。雨の日に、駅で撮った」
兄の声は、かすかに震えていました。
僕は、思わず声が出ました。
「大学の頃、付き合ってた人だ」
兄は、写真を見つめたまま、小さく言いました。
「一年前に、別れたんだ。連絡もつかなくなって」
「別れたって」
「それ以上は、聞かないでくれ」
兄は、写真を財布にしまい、ゆっくり目を閉じました。
僕は、それ以上、何も聞けませんでした。
あれから、実家に足音は来ていません。
けれど、夜の階段を上がるたび、僕はいちばん上の一段を、わざと強く踏みます。
そうして、きしむ音を聞いて、ほっとするのです。