イセポ・テレケ

北海道の海(フリー素材)

十年以上も昔の話。会社の先輩と中学以来の友人と俺の三人で、盆休みに有給を足して十一日間の北海道旅行へ出掛けた。

車一台にバイク一台の、むさ苦しい野郎だけの貧乏旅行だったが、それは素晴らしいものになるだろうと胸を弾ませていた。

しかし出発当日から台風に見舞われ、フェリーは大時化の中を航行。

無事に苫小牧港へ到着はしたが、何の因果か北の大地に足を付けてから連日、怪異と遭遇する羽目になった。

艱難辛苦を乗り越え、旅は知床で折り返して六日目、道東の海岸沿いを一気に南下して根室へやって来た。

花咲港で名物のハナサキガニを食し、日本最東端の納沙布岬で北方領土の歯舞群島を間近に臨み、双眼鏡で水晶島の監視塔で小銃を肩にかけて警戒に当たる兵士の姿を捉えた。

また、西の彼方へ沈み行く夕日を、男三人が肩を並べて見守ったりした。

チャシ跡群や、旧日本軍が建造したトーチカや掩体壕の遺跡群は、時間も時間なので明日見に行くことにして、本日の宿を探しに根室市内へ向かう。

根室駅前にある観光案内所へ着いたのは、午後18時を過ぎた頃だった。

パンフを見比べながら、ああでもないこうでもないとやっている俺達。

そこへ軽トラに乗ったおっちゃんが現れ、宿を探しているのかと話しかけられた。

「ホテルではなく安価な民宿で、魚介類とハナサキガニが手頃な価格で食えるような所へ」と条件を提示すれば、「それなら俺の所に決定だ」とおっさんは親指を立てる。

どことなく、映画『プラトーン』に登場したバーンズ軍曹に似たおっさんだ。

おっさんは民宿を営みながら、漁師もやっているのだそうだ。

宿泊代に二千円を足せば、晩飯にハナサキガニに加えてもう一品付けると言った。

「宜しくお願いします」と、俺達はおっさんに向けて頭を下げた。

美味い飯を食い、美味い酒を飲み、風呂に入って、久しぶりに屋根の下で布団へ入って眠った。

テントとは違って寝心地が段違いだ。それに熊等の襲撃を恐れる心配がないのは最高だ。

これで22:00(フタフタマルマル)就寝、02:00(ゼロフタマルマル)起床でなければ至福だったのだが……。

何でも、おっさんが操舵する船で凄い所へ連れて行ってくれるのだそうだ。

午後23時まで食堂で俺達と飲んでいたのだが、午前2時きっかりにおっさんは起こしにやって来た。

船で摂る朝飯の支度も済んでいるとか……(いつ寝てんだ)。

厚着して眠い目を擦りながら外へ出ると、エンジンをかけた軽トラが待っていて、有無を言わさず荷台へ乗せられた。

そして港へ向かい、おっさんが操舵する船で真っ暗な海原へ出る。

出港して暫く無言だったおっさんが、ちょっとショートカットして行くからと俺達に断りを入れた。

深夜で島影どころか目の前の波すら見えない海の上だ。

何をショートカットするのかと思えば、現在は別の国家が占有している、日本固有の領土がある海域だった。

北海道に来て熊と相対する覚悟はしていたが、流石に拿捕までは想定外……。気構えも何も出来ていない。

極寒の牢獄に囚われ、餓死と貧困に怯えながら、空缶に用を足すことになるのは絶対に御免だ。

俺達は船長兼民宿の親父のおっさんに向かって本気で土下座したよ。

地図にしか見えない赤い一点鎖線の内側へお願いだから帰しておくれと……。

それに対しておっさんは、

「お前等、俺がどこでカニを捕ってくるか知っているか?

道内では船影がちらりと見えただけでカニは岩陰に隠れてしまうが、こちらでは真上を船が通ろうと、のうのうと行列を作って歩いているくらい擦れていないから捕り放題だ。

まあ、言ってみれば俺の庭みたいなものだ。

もし露助の警備艇に臨検されそうになっても、漁船には分不相応な高出力エンジンを積み、操舵室後ろの壁には分厚い鉄板が仕込まれているから、小銃の弾くらいなら耐えられる」

と鼻で笑った。

強力な鼻薬も常時、搭載済みだと。

もう腹を括っておっさんに全てを任せるしかない。

「それって密漁?」などとおっさんに訊ねる余裕も無かった。

波を蹴立てて船は進み、空も白み始め、360度全てに島影すら見えない大海原。

暫くすると水平線から顔を出す黄金色に輝く朝日だった。

北海道へやって来て、二十歳をとうに過ぎた男三人が景色に目を奪われ、息を呑み、胸を詰まらせた事が幾度となくあったが、この朝日の神々しさは格別だった。

今現在、俺達が地球上のどの辺りにいるかを忘れるくらいに……。

地理的になかなか見られない御来光を拝んだ後、おっさんの用意してくれた朝飯を食った。

海苔と塩だけの握り飯に、カニ味噌と身の入った味噌汁。

それらを頬張りながら、俺は艫で甲板に腰を下ろして海を見ていた。

2、3メートル先、波間に顔を出す白いのがいる。

ゴマフアザラシの幼獣……ゴマちゃんかと思ったが、天に向けてにょっきり伸びる一対の長い耳があった。

前脚を出し水面へ置いたかと思うと、そこを支点によっこらしょと胴体を海中から引き抜く。

波の上に乗って後脚二本で立ち上がり、鼻をぴくぴくさせて周囲を警戒する一匹の白ウサギ……。

俺の右手から握り飯がこぼれて海へ落ちた。

こちらを一対の赤い目が見て、それから小首を傾げる……。その仕草が妙に人間臭い。

ウサギはくるりと俺に背中を向け、後脚二本で立ったまま波の上を走り去って行った。

まるで『不思議の国のアリス』のワンシーンだ……。

何だったんだ今のは……と、呆気に取られる暇もなく、また一匹、また一匹とウサギが浮き上がってくる。

海面へ這い出たウサギ達は後脚二本で立ち上がり、先程のウサギを追うように同じ方向へ走って行った。

気が付けば、船の周囲はウサギで埋まる程になっている。

海域が沸き立ったかのように白く染まり、無数のウサギが海面へ這い出て列を作り、同じ方向へ去って行く。

白波が立ったような有様だ。

数千羽、数万羽いるのだろうか、走るウサギが作る白い線は水平線まで到達しそうな勢いだ。

船上にいる全員がその光景に圧倒され、言葉を失った。

その中で最初に我へ返ったのはおっさんだった。

慌てて船を動かし、海上に這い出たウサギ達を蹴散らして回頭、船を根室の港へ向けて走らせる。

その揺れで俺達も自我を取り戻したのだが、おっさんの飛ばし方が尋常ではなかった。

まるで何かから必死で逃れようとしているかのように、操舵輪を握る顔は青ざめ引き攣っている。

「ウサギが立った。大津波が来るぞ」

アイヌの伝承にあるそうだ。海で『ウサギ(イセポ)が立つ(テレケ)』と、大海嘯(だいかいしょう)の前触れであると……。

大海嘯とは大津波のことだ。

道内の古い漁師達は伝承を信じ、ウサギやアイヌ語の意である『イセポ』を海上で口にすることを禁じていたという。

アイヌ達が海上にいる時は『イセポ』の代わりに『カイクマ』という言葉を用いた。

「奴等は南……内地へ向けて走って行ったな……今回はこっちに被害はないかもしれない」

アイヌの昔話で、ある男がトンケシという場所を通り掛かった時、丘の上にウサギが立っていて海の方へ手を突き出し、しきりに何かを招き寄せるような仕草をしているのを目撃する。

彼は、丘の下にある集落で周辺六ヶ所の首領が集まり酒宴を開いているので、「津波が来るから早く逃げろ」と警告したが、首領達は酔っていて津波など怖くないと刀を振り回し相手にしなかった。

男は呆れ、内陸へ向けて去って行った。

その直後、トンケシの集落は津波に飲まれ、全滅してしまった。

トンケシの丘にいたのはウサギの大将=津波を呼ぶ神で、海にいる無数の仲間を呼び寄せる儀式を行っていたのだと……。

「ウサギが立つ(イセポ・テレケ)を白波が立つことだなどと今では言われているが……じゃあ、俺達が見たアレは一体なんなんだ!?」

おっさんが必死になる理由は解る。

1994年に起きた北海道東方沖地震による津波の記憶が新しい。

道内での被害は少なかったが、北方領土では死者行方不明者を出し、一万人近い住民がロシア各地へ移住を余儀なくされた。

あのウサギの群れが津波の予兆現象であるとしたら……。

道内に残るウサギと津波に纏わる伝承では、予兆現象があった即日から十年程の間に津波が起こったとされる。

宿に戻った俺達は、早々に根室を後にした。

今日は釧路湿原の脇を抜け、阿寒国立公園を目指す。

観光化されたとは言え、アイヌの伝承や文化が残っている場所だ。

それに内陸部だから津波に襲われる心配はまず無いだろう。

結局、俺達が北海道にいる間に津波は起こらなかった。

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