サヨちゃんと掘った砂のトンネル

砂場(フリー写真)

小学校に上がるまで、俺は広島の山あいに住んでいた。

その頃に、サヨちゃんという子と遊んでいた。

遊んでいた、という言い方が正しいのかどうかは、いまもわからない。

サヨちゃんの話を、俺は四十を過ぎるまで誰にもしなかった。

去年、その公園の跡地を見に行って、ようやく人に話す気になった。

話す気になったのは、確かめたいことが一つ片づいたからだ。

片づいたというより、余計に始末が悪くなった。

それでも、黙っているよりはましだと思っている。

俺はいま四十六で、子どもが二人いる。

上の子が、去年ちょうど六つになった。

サヨちゃんと遊んでいた頃の、俺と同じ歳だ。

その子が砂場で遊ぶのを見ていて、急に思い出した。

思い出したというより、ずっと置いてあったものが出てきた感じだった。

母方の実家は、見渡す限り畑ばかりの土地だった。

幼稚園も保育園もない。

俺は母と祖母と三人で家にいて、父が帰るのを待つだけの毎日だった。

退屈で仕方がなかった。

楽しみは、週に一度か二度、母が町へ買い物に行くときについていくことだった。

町といっても、商店が十軒ほど並んだ通りがあるだけだ。

バスは一日に四本。

母は自転車の後ろに俺を乗せて、二十分かけて坂を下りた。

帰りは上りなので、押して歩く。

その時間が、俺は嫌いではなかった。

公園は、通りのいちばん端にあった。

角に酒屋があって、その裏手だ。

柵はなく、門柱だけが二本立っていた。

名前の書かれた板は、上のほうが割れていた。

何という公園なのか、俺はいまも知らない。

町には小さな公園があって、母はそこに俺を置いていく。

砂場と、滑り台と、鉄棒がひとつ。

遊具はそれだけだった。

滑り台は、塀を背にして立っていた。

塀との間は三十センチほどしかなく、そこに金網が張ってある。

子どもでも通れない幅だ。

金網は下の端が地面に埋まっていて、めくれてもいない。

塀の向こうは、他所の家の裏庭だった。

犬が繋がれていて、人が通ると必ず吠える。

その犬が吠えたのを、俺は一度も聞いたことがない。

公園にいるあいだ、犬の鎖の音だけが聞こえた。

じゃら、と短く鳴って、それきり動かない。

一度、塀の隙間から覗いたことがある。

犬は伏せたまま、滑り台のほうを見ていた。

サヨちゃんは、いつもその裏から現れた。

乾いた砂のトンネル

初めて会った日のことは、はっきり覚えている。

夏の終わりで、砂場の砂が白く乾いていた。

母が「一時間で戻るけえ」と言って、道の向こうへ消えた。

振り返ったら、砂場の縁にもう座っていた。

黒いスカートに、白いシャツ。

おかっぱの髪が、風でも動かなかった。

俺は、その子がいつからそこにいたのかわからなかった。

砂場の縁は、腰を下ろせば砂がつく。

サヨちゃんのスカートには、砂がついていなかった。

そのことに気づいたのは、ずっとあとだ。

膝も、手のひらも汚れていない。

砂場で遊んでいる子の手ではなかった。

爪だけが、少し長かった。

切っていないというより、伸ばしている長さだった。

「なにするん」

そう聞かれて、俺はスコップを差し出した。

それで、山を作ることになった。

二人で砂を寄せて、膝くらいの高さの山にした。

乾いた砂だから、上から水をかけないと固まらない。

サヨちゃんは、水を汲みに行かなかった。

手のひらで山の表面を何度も叩いただけだ。

それだけで、砂は石みたいに固くなった。

乾いた砂は、叩いても固まらない。

それは子どもでも知っている。

俺は、水を汲んでこようかと言った。

「いらん」

サヨちゃんは、それだけ言って叩き続けた。

掌の音が、乾いた木を叩く音に似ていた。

俺も真似をして叩いてみた。

俺のほうは、ぱすぱすと鈍い音しか出ない。

砂も固まらなかった。

「へたくそ」

サヨちゃんはそう言って、俺の側の斜面も自分で叩いた。

「トンネル掘ろ」

そう言って、サヨちゃんは向こう側にしゃがんだ。

両側から穴を掘って、真ん中で手が触れたら開通だ。

俺は腕を肘まで突っ込んで、掻き出した。

砂は冷たかった。

外はあんなに暑いのに、山の中だけが冷たかった。

指先に、砂の粒より細かいものが触れた。

髪の毛のような感触だった。

そのときは、犬の毛か何かだと思った。

そろそろ手が届くだろう、と思ったときだった。

何かが、俺の手首を掴んだ。

掴まれて、そのまま引かれた。

子どもの力ではなかった。

俺は頭から砂山に突っ込んで、顔が埋まった。

固まった砂は崩れず、口にも鼻にも砂が入ってきた。

息ができない。

「やめてよ、サヨちゃん」

砂の中で、俺はそう叫んだ。

掴む力が、ふっと消えた。

顔を上げると、サヨちゃんは山の向こう側に立っていた。

中腰で、両手を山の両脇に突っ込んだままだった。

そして、こちらを見て笑っていた。

その手の長さでは、真ん中まで届くはずがない。

山の幅は、大人が両手を広げたくらいあった。

俺は、しゃっくりが止まらなくなった。

そこへ母が戻ってきた。

サヨちゃんは俺の横をすり抜けて、母に向かって丁寧にお辞儀をした。

母は「あら、ご丁寧に」と笑った。

それから、サヨちゃんは走って行った。

走ったのに、砂場に足跡が残っていなかった。

俺はそれを見て、母に何も言えなくなった。

サヨちゃんの手

それ以来、俺はサヨちゃんに目をつけられたらしい。

母が町へ行くたび、俺は公園に降ろされる。

降ろされて、母の姿が角を曲がると、入れ違いにサヨちゃんが来る。

一度も、間違ったことがなかった。

母の自転車が角を曲がる音が、合図のようだった。

俺は鉄棒の下に座って、門のほうを見ないようにしていた。

見ないようにしても、視界の端に白いシャツが入ってくる。

入ってきたときには、もう砂場の縁にいる。

来る音を、俺は一度も聞いていない。

砂を踏む音も、門をくぐる音もしない。

気がつくと、そこにいる。

だから俺は、いつからいたのかを言えないのだ。

母がまだ道にいる間は、絶対に出てこない。

服はいつも同じだった。

黒いスカートと、白いシャツ。

汚れていたことも、洗いたてだったこともない。

親が付き添って来ているのを、俺は一度も見ていない。

公園には、先に遊んでいる子がいることも多かった。

サヨちゃんが門をくぐると、その子たちが動く。

小さい子も、小学校の高学年らしき子も、すっと帰っていく。

誰も走らない。

騒がない。

遊び道具を置いたまま、黙って出て行く子もいた。

一度だけ、小学生くらいの男の子が残ったことがある。

その子は、しばらくブランコのあたりで俺たちを見ていた。

サヨちゃんが顔を上げて、その子のほうを見た。

それだけで、男の子は自転車に乗って帰った。

サドルに座らず、立ったまま漕いでいた。

その男の子とは、その後も町で何度か顔を合わせた。

向こうは、俺を見ると目をそらした。

一度だけ、すれ違いざまに小声で言われた。

「あれと、遊びよるん」

それだけ言って、走って行った。

俺だけが、残される。

断ればいい、と大人は言うだろう。

断れなかった。

断ったらどうなるのかを、俺は考えたくもなかった。

サヨちゃんは、俺に命令をしない。

「これしよ」としか言わない。

その言い方のほうが、断りにくかった。

命令なら、嫌だと言える。

誘いは、断ると悪いことをした気になる。

子ども相手に、それを使い分ける子だった。

いま思えば、それがいちばん妙なところだ。

ある日、植え込みの脇に使い捨てのライターが落ちていた。

サヨちゃんはそれを拾わずに、人差し指で軽く触った。

触った瞬間、火が点いた。

風のある日で、炎は横に倒れていた。

倒れたまま、しばらく消えなかった。

「火、点いとる」

俺がそう言うと、サヨちゃんは指を離した。

火はそこで消えた。

ライターは、そのあとも同じ場所に落ちていた。

翌週も、その次の週も。

誰も拾わないのだと思っていた。

帰るときに見たら、位置だけが少し変わっていた。

また別の日、塀の上を猫が歩いていた。

サヨちゃんは、足元の枯れ葉を丸めて猫に投げた。

届く距離ではなかった。

枯れ葉が半分も行かないうちに、猫が塀から落ちた。

猫は受け身を取らなかった。

背中から落ちて、そのまま動かずにいた。

しばらくして起き上がり、よろけながら向こうへ行った。

サヨちゃんは、それを見て笑っていた。

声は出さない。

口の形だけで笑う子だった。

猫は、次の週から公園に来なくなった。

塀の上を通る道を、変えたのだと思う。

犬も、相変わらず吠えなかった。

公園の生き物は、その頃には鳩しかいなかった。

その鳩も、砂場には降りてこなかった。

一張羅の白いシャツ

その頃から、俺は家にこもるようになった。

母が町へ行くと言っても、行かないと答える。

「どしたん、あんた」

理由は言えなかった。

言っても信じてもらえないと、子どもながらにわかっていた。

祖母にも言わなかった。

祖母は信心深い人で、話せば何かしてくれたかもしれない。

いまでは、話しておけばよかったと思っている。

祖母は、俺が公園に行かなくなった理由を聞かなかった。

聞かないかわりに、上着の内側に小さな布の袋を縫いつけた。

中身は見せてもらえなかった。

「持っとき」

それだけ言われた。

その上着は、引っ越しのときに捨ててしまった。

捨てたのは母だ。

九州に着いて、荷ほどきの最中に見つけて、迷わず捨てた。

「こんなん、いつの間に」

母は袋の中身を見たはずだが、何も言わなかった。

俺も、聞かなかった。

公園に行かなくなって、ひと月ほど経った。

その間、俺は家の縁側から道のほうを見ていた。

何かが来るのを待っていたわけではない。

ただ、来るとしたらそこからだと思っていた。

夜になると、足の裏が砂っぽい感じがした。

洗っても取れない。

布団に入ると、シーツがざらつく。

朝には、何もなくなっている。

俺は布団を自分で払うようになった。

母に言うと、また町に連れて行かれる気がしたからだ。

砂の感触は、ひと月ほど続いて、やがて消えた。

消えたのは、家族で買い物に行く前の週だった。

消えたときは、正直ほっとした。

終わったのだと思った。

いま思えば、あれは終わったのではない。

待っていただけだ。

ある日曜、父が休みで、家族三人で買い物に行くことになった。

父が車を出すという。

車ならサヨちゃんには会わない。

俺は、すぐに行くと答えた。

デパートで、父に玩具を買ってもらった。

車の中で箱を開けて、部品を数えた。

楽しかった時間を、俺はそこまでは覚えている。

父は運転しながら、鼻歌を歌っていた。

母は助手席で、買い物の袋の中身を数えていた。

夕方で、西日がまっすぐ入ってくる時間だった。

車の中は、少し暑かった。

信号待ちの指先

帰り道、車が公園の前の道に入った。

公園の入口は、こちら側の歩道にある。

運の悪いことに、その入口の真横で信号に停められた。

俺は後部座席で、窓から公園を覗いた。

覗かなければよかった。

サヨちゃんは、いた。

一人で、砂場の横に立っていた。

何かを指差して、大きく笑っていた。

声は聞こえない。

体を折って、地面に這いつくばるようにして笑っていた。

あんな笑い方をする子を、俺は前にも後にも見ていない。

笑っているのに、体が跳ねていない。

腹を抱えている形なのに、肩が上下しない。

形だけの笑い方だった。

遠かったのに、口の中まで見えた気がした。

信号が青になって、車が動き出した。

サヨちゃんの姿が、窓の枠から外れていく。

外れる直前、俺は見てしまった。

彼女の指先が、車と同じ速さで動いていた。

指していたのは、公園の中の何かではない。

走り出した車の、後ろの窓だった。

俺は座席に伏せた。

伏せたまま、家に着くまで顔を上げなかった。

母に「酔ったんか」と聞かれて、うんと答えた。

父は、その晩も普通だった。

普通だったことを、俺はよく覚えている。

父にも母にも、何も言わなかった。

翌日、父の車が追突された。

信号で止まっていたところに、後ろから来た車が突っ込んだ。

父は首をひどく傷めて、長い入院になった。

仕事も続けられなくなった。

その年のうちに、俺と母は父の実家のある九州へ移った。

俺は、そこで小学校に入った。

サヨちゃんに会うことは、二度となかった。

消えた町名からの通報の話のように、その町のことを調べたこともある。

サヨという名の子がいたかどうかは、わからなかった。

花壇の隅の白い筋

去年、仕事で広島に行く機会があった。

一日空いたので、俺はその町へ寄った。

公園は、まだあった。

場所は変わっていない。

門の位置も、当時のままだった。

向かいの商店はシャッターが下りていて、看板の字も消えかけていた。

平日の昼で、子どもは一人もいなかった。

滑り台の塗装は、二度は塗り替えられていた。

下の層に、当時の青い色が少し残っている。

手すりの錆びた感触だけ、覚えているものと同じだった。

砂場のあった場所には、低い花壇が作られていた。

植わっているのは、季節外れの葉物だけだった。

俺は花壇の縁に腰を下ろして、しばらく座っていた。

座ってから、位置がちょうど昔の砂場の縁だと気づいた。

向かい側に、当時のサヨちゃんが座っていた場所がある。

そこにも、いまは何も生えていなかった。

土が、その一角だけ白っぽかった。

砂場は埋められて、花壇になっていた。

鉄棒はなくなっていたが、滑り台だけが同じ場所に立っていた。

塀も、金網も、当時のままだった。

俺は滑り台の裏へ回った。

回るには、鉄棒のあった側からしか入れない。

反対側は、いまも植え込みで塞がっている。

子どもの頃、俺はそこへ入ろうとしたことがない。

入ろうと思ったこともなかった。

塀との隙間に、手を入れてみた。

滑り台の裏は、大人の手も入らない幅しかなかった。

金網は下まで張ってあって、地面に埋め込まれている。

錆びてはいるが、切られた跡はない。

俺はメジャーを持っていなかったので、手のひらで測った。

親指と小指を広げた幅より、少し狭い。

二十センチあるかどうかだ。

子どもの頃の記憶では、三十センチはあると思っていた。

実際には、もっと狭かった。

子どもが、ここから出入りすることはできない。

しゃがんで見ていたら、管理の人らしい年配の男性が通りかかった。

「なんかありました」

「いえ。昔ここで遊んどったもんで」

男性は、少し黙った。

「砂場ね、埋めたんですよ。三十年くらい前に」

「なんでですか」

「さあ。わしが来る前の話じゃけえ」

「何かあったんですかね」

「砂場を埋めるのは、猫が来るからじゃろ」

男性はそう言って、少し笑った。

それから、真顔になって付け足した。

「けど、ここの砂場は、埋めたあとも砂が出てきよったらしいですよ」

「出てくる」

「掘っとらんのに、花壇の隅に溜まるんじゃと」

俺は、花壇の隅を見た。

黒い土の上に、白い砂が細く筋を引いていた。

そう言って、自転車を押して行った。

一日先に咲いていた朝顔のように、順番の合わない話はどこにでもある。

俺の場合は、公園の砂場だった。

父の事故がサヨちゃんのせいだとは、思っていない。

思いたくない、と言うほうが近い。

思ってしまえば、あの日に窓から覗いた俺の責任になる。

父は八十を過ぎて、いまも施設で元気にしている。

公園の話は、一度もしていない。

ただ、いまでも夏の終わりに乾いた砂を見ると、手首のあたりが冷たくなる。

掴まれた場所は、右の手首だ。

四十年経っても、そこだけは日に焼けない気がしている。

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