
一年前から一人暮らしを始めて以来、不眠症に悩まされていた。
眠りが浅く、何度も夜中に目が覚める。
夢の中でも、誰かが部屋の中を歩く気配を感じていた。
そんなある日、姉が遊びに来た。
「へぇ……ここに住んでるんだ。そうか、そうか、なるほどね」
姉は部屋をぐるりと見回し、そう言って帰っていった。
霊だの何だのを口にするような人ではない。
ただ、この人の“勘”だけは昔から異常に鋭かった。
じゃんけんで一度も勝てなかったし、誰かが来るとか、親戚が亡くなるとか、嫌になるほどよく当たる。
一度、通勤中の電車で電話がかかってきたことがあった。
『今すぐ降りて。話したいことがあるの』
言われるままに降りたが、話の内容は他愛もない雑談だった。
正直、苛立ちを感じた。
けれど、その直後――降りた先の駅から数駅先で、大きな事故が起きていた。
姉に理由を聞いても、「別に」としか言わない。
そんな人だ。
だからこそ、あの日の「なるほどね」という言葉が、心に引っかかっていた。
※
数日後、姉から小包が届いた。
中には、一体の人形が入っていた。
淡いピンク色のドレスを着た、古風な顔立ちの人形だった。
電話をかけて「これ何?」と尋ねると、姉は言った。
『とりあえず枕元に置いて寝てみて』
理由は言わない。
気味が悪かったが、何となく従うことにした。
その夜――驚くほど深く眠れた。
久しぶりに朝まで一度も目を覚まさなかった。
翌朝、姉に電話をした。
「すごくよく眠れた。あの人形、何?」
『そう。よかったね。それはもう、あげるよ』
それだけ言って、電話は切れた。
※
それ以来、枕元にその人形を置くのが習慣になった。
毎日見ているうちに、なぜか愛着が湧いてきた。
服を買って着せ替えたり、ブラシで髪を整えたり。
他の人形を見ても何も感じない。
でも、この子だけは不思議なほど可愛い。
姉は何も言わないけれど、やはり何か“理由”があるような気がしていた。
※
後日談 ― 1 ―
連休中、姉が遊びに来た。
「これ、お土産」
差し出されたのは、小さなピンクの靴。
驚いた。
実はその少し前、初めて自分で縫ったピンクのワンピースを人形に着せていたのだ。
可愛くできたけれど、靴だけ合うものが見つからず、諦めていたところだった。
姉にそのことは一言も話していない。
さらに姉は、隣の部屋から聞こえる家族の騒がしい声に耳を傾け、ぽつりと呟いた。
「もうすぐ引っ越すよ、ここ」
そして連休の最終日、隣の家族は突然いなくなった。
夜逃げだったらしい。
相変わらず、姉の“勘”はよくわからない。
※
後日談 ― 2 ―
姉からもらった人形は、今でも枕元にいる。
お正月、私は初めて自分で人形用の着物を縫った。
出来映えが嬉しくて、人形を連れて帰省した。
姉はそれを見るなり、「はい、これ」と言って小さな包みを渡した。
中には、ちりめんの草履が入っていた。
――草履。
私は着物を作ったことを一言も話していなかったのに。
「なんでわかったの?」と聞いても、姉は笑ってお茶をすするだけだった。
※
後日談 ― 3 ―
ある日、姉から電話がかかってきた。
『鞄の中にあるぬいぐるみ、出して』
思い当たる節がなく、首をかしげながら探すと、
友人からもらったぬいぐるみストラップが見つかった。
『それ、こっちで処分するから送って』
理由も言わず、姉は電話を切った。
私はその通りにした。
姉がそう言うときは、必ず“何か”があるから。
それから数日後、彼氏の浮気が発覚した。
相手は――そのストラップをくれた友人だった。
怒りと絶望でしばらく泣いた。
でも同時に、姉があの時“何を見たのか”が気になって仕方なかった。
※
姉は今も多くを語らない。
けれど、私が眠れるようになった夜から、
確かに何かが変わった気がする。
あの人形の微笑みは、今日もどこか、姉の面影に似ている。