勘の鋭い姉と枕元の人形

姉妹

一年前に一人暮らしを始めてから、ずっと眠れずにいた。

その部屋に枕元の人形が来た日から、私は朝まで一度も目を覚まさなくなった。

送ってきたのは姉だ。

理由は、いまも聞かされていない。

眠りが浅く、何度も夜中に目が覚める。

目が覚めているのか夢の続きなのか、わからない時間が長かった。

部屋の中を、誰かがゆっくり歩く気配がする。

フローリングを踏む音ではない。

畳を擦るような、乾いた音だった。

この部屋にはフローリングしかない。

それでも私は、自分の耳のほうを疑っていた。

築十二年のワンルームで、最寄り駅からは徒歩九分。

南向きで、家賃は相場より一万円ほど安かった。

安い理由を、不動産屋は日当たりと駅距離で説明した。

納得したというより、それ以上訊かなかった。

眠れない夜の順番は、いつも同じだった。

まず、冷蔵庫のモーターが止まる。

部屋が完全に静かになる。

それから、床を擦る音が、玄関のほうから始まる。

ベッドの脇まで来て、そこで止まる。

止まったあとは、何も起きない。

起きないまま、朝になる。

病院にも行った。

睡眠導入剤を二種類試して、どちらも効かなかった。

「環境を変えるのもひとつですよ」

医師にそう言われて、私は引っ越し費用のことを考えた。

結局、何もしなかった。

入居のとき、鍵は二本渡された。

シリンダーは新しく、交換したばかりだと説明された。

前の入居者のことは、訊かなかった。

訊いてはいけない気がしたわけではない。

ただ、その頃の私は、何に対しても質問をしない人間になっていた。

仕事は忙しく、休日は寝て終わる。

寝て終わるのに、疲れは取れない。

そういう一年だった。

部屋の間取りは、玄関から短い廊下があって、その奥に六畳の洋室がある。

廊下の左手に風呂とトイレ。

右手にキッチンと、小さな収納。

収納の扉は、閉めても五ミリほど浮いた。

建て付けが悪いのだと思っていた。

引っ越してきた日、その扉だけ、養生テープの跡が残っていた。

前の人が、閉じていたのだろう。

私は跡を剥がして、そのまま使った。

なるほどねという一言

引っ越して半年ほど経った春先に、姉が遊びに来た。

手土産のプリンを冷蔵庫に入れてから、姉は部屋を一周した。

「へぇ……ここに住んでるんだ」

「うん」

「そうか、そうか、なるほどね」

それだけ言って、姉は三十分ほどで帰っていった。

玄関で靴を履きながら、一度だけ、天井の隅を見上げた。

私も見上げたが、そこには煙感知器があるだけだった。

姉は、霊だの何だのを口にするような人ではない。

高校では化学部で、大学では薬学部に行った。

根拠のない話をいちばん嫌う人だった。

ただ、この人の勘だけは昔から異常に鋭かった。

姉は昔から、じゃんけんで一度も負けたことがなかった。

誰かが訪ねてくる日を、玄関を見もせずに言い当てる。

親戚が具合を悪くした日は、朝から電話の前に座っている。

一度、通勤中の電車で電話がかかってきたことがあった。

「今すぐ降りて。話したいことがあるの」

言われるままに降りたが、話の内容は他愛もない雑談だった。

正直、苛立ちを感じた。

けれど、その直後のことだ。

降りた駅から数駅先で、大きな事故が起きていた。

私はホームのベンチで、その報せを見ていた。

姉に理由を聞いても、「別に」としか言わない。

そんな人だ。

だからこそ、あの日の「なるほどね」という一言が、心に引っかかっていた。

なるほど、の前に、姉は何を確かめたのだろう。

姉とは五つ違いで、子どもの頃から手のかからない人だった。

泣いているところを見た記憶がない。

怒っているところも、たぶんない。

感情の起伏がないのではなく、出す前に処理してしまう人なのだと思う。

祖母が入院したときも、姉は先に荷物をまとめていた。

「なんで用意してるの」

「そろそろだと思ったから」

連絡が来たのは、その日の夜だった。

母は、姉のそういうところを怖がっていた。

父は、単に運がいいのだと言っていた。

私は、どちらの側にも立たないようにしていた。

中学生の頃、姉に一度だけ訊いたことがある。

「どうやってわかるの」

姉は宿題の手を止めずに答えた。

「わかるんじゃなくて、先に見えてるだけ」

「同じでしょ」

「違う」

「どこが」

「わかるのは、あとから。見えるのは、まえから」

祖母の家に伝わる古い籠の話を、姉から一度だけ聞かされたこともある。

のちに白目のない赤子の編み籠という話を読んで、私はその晩のことを思い出した。

どちらの話も、途中で終わっていた。

意味がわからなかった。

いまもわかっていない。

ただ、その言い方だけは、はっきり覚えている。

枕元の人形の縫い目

数日後、姉から小包が届いた。

中には、一体の人形が入っていた。

淡いピンクのドレスを着た、古風な顔立ちの人形だった。

顔は陶器で、髪は本物の毛のように細い。

胴体は布で、綿がしっかり詰まっていた。

新しいものではなかった。

ドレスの裾は日に焼けて、うっすら茶色くなっていた。

電話をかけて「これ何」と尋ねると、姉は言った。

「とりあえず枕元に置いて寝てみて」

「なんで」

「いいから」

「怖いんだけど」

「怖いのは、今のほうでしょ」

そう言われて、私は黙った。

眠れていないことを、姉には一度も話していなかった。

その夜、私は驚くほど深く眠れた。

久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさなかった。

翌朝、姉に電話をした。

「すごくよく眠れた。あの人形、何」

「そう。よかったね」

「だから、何なの」

「それはもう、あげるよ」

それだけ言って、電話は切れた。

それ以来、枕元の人形を置くのが習慣になった。

毎日見ているうちに、なぜか愛着が湧いてきた。

服を買って着せ替えたり、ブラシで髪を整えたり。

他の人形を見ても何も感じない。

でも、この子だけは不思議なほど可愛いと思う。

ある晩、髪を結い直そうとして、背中のほうを向けた。

胴体の布の合わせ目に、縫い目が一本走っている。

その縫い目だけが、別の色の糸で縫い直してあった。

上の三センチほどは薄い生成りの糸。

そこから下は、はっきりした白い糸だった。

針目の細かさも、途中から急に細かくなる。

誰かが一度ほどいて、また閉じたということだ。

中に何が入っているのかは、確かめなかった。

綿の感触しかしなかったし、それ以上、指を入れる気にならなかった。

古い調度や器物にまつわる話は、子どもの頃から好きだった。

入口のない離れの鏡台のような話を、面白がって読んでいた側の人間だ。

自分の枕元にそういうものが置かれるとは、思っていなかった。

人形が来てから、床を擦る音は一度も聞こえなくなった。

完全に消えたのではない。

消えたのは、私が起きている時間の分だけだ。

朝、目を覚ますと、人形の顔の向きが少し変わっている日があった。

最初は、寝返りで枕を動かしたのだろうと思った。

けれど、変わるのはいつも同じ向きだった。

玄関のほうを向いている。

私は一度だけ、寝る前に人形の足の先に付箋を貼ってみた。

翌朝、付箋は剥がれていなかった。

向きだけが、また玄関のほうを向いていた。

それ以来、試すのをやめた。

眠りの深さは、日を追うごとに増していった。

夢を見なくなった。

見ないというより、覚えていない。

朝、枕カバーの同じ場所に、いつも細い髪が一本落ちていた。

私の髪は肩までの黒で、それは私のものだった。

ただ、落ちている場所が毎朝まったく同じだった。

枕の右上の角から、指二本ぶん内側。

私は寝相がいいほうではない。

それでも、髪の位置だけは動かなかった。

ちりめんの草履の箱

連休中、姉がまた遊びに来た。

「これ、お土産」

差し出されたのは、小さなピンクの靴だった。

人形用の、革でできた靴だ。

私は、指先が冷たくなるのを感じた。

その少し前、私は初めて自分でワンピースを縫って、人形に着せていた。

ピンクの生地で、襟だけ白くした。

可愛くできたけれど、靴だけ合うものが見つからず、諦めていたところだった。

姉にそのことは一言も話していない。

写真も送っていない。

「なんでわかったの」

「別に」

「別にって何」

姉は答えず、隣の部屋から聞こえる家族の声に耳を傾けていた。

壁の向こうで、子どもが走り回る音がしていた。

「もうすぐ引っ越すよ、ここ」

姉はそう呟いた。

連休の最終日、隣の家族は本当にいなくなった。

夜逃げだったらしい。

朝、共用廊下に、子ども用の長靴が片方だけ残っていた。

管理会社の人が回収に来るまで、それは三日間そこにあった。

隣の部屋は、その後すぐに次の入居者が決まった。

内見に来た人が、玄関の前で立ち止まっているのを、覗き穴から見た。

不動産屋が何か説明して、その人は肩をすくめて中に入った。

次の日には、契約したと管理人が言っていた。

「この階は、回転が早いんですよ」

管理人はそう言って、廊下の電球を替えていた。

何号室が早いんですか、とは訊かなかった。

正月、私は初めて人形用の着物を縫った。

出来映えが嬉しくて、人形を連れて実家に帰った。

姉はそれを見るなり、「はい、これ」と言って小さな包みを渡した。

中には、ちりめんの草履が入っていた。

草履。

着物を作ったことを、私は一言も話していない。

「なんでわかったの」

姉は笑ってお茶をすするだけだった。

春になって、姉から電話がかかってきた。

「鞄の中にあるぬいぐるみ、出して」

思い当たる節がなく、首をかしげながら探した。

友人からもらったぬいぐるみのストラップが、内ポケットから出てきた。

「それ、こっちで処分するから送って」

理由も言わず、姉は電話を切った。

私はその通りにした。

姉がそう言うときは、必ず何かがあるからだ。

それから数日後、恋人の浮気が発覚した。

相手は、そのストラップをくれた友人だった。

怒りと悲しさでしばらく泣いた。

泣きながら、姉があのとき何を見たのかが気になって仕方なかった。

ストラップを送った日の夜、私は久しぶりに眠れなかった。

床を擦る音がした。

玄関から、ベッドの脇まで。

そこで止まって、その晩はいつまでも止まったままだった。

枕元の人形は、いつもの位置にいた。

ただ、その夜だけ、玄関ではなく、私のほうを向いていた。

翌朝、姉から短いメッセージが来た。

「もう大丈夫」

それだけだった。

私は返信をしなかった。

何を訊いても、答えは同じだとわかっていたからだ。

押入れのもう一体

その年の盆、私は実家に帰った。

姉は出かけていて、夕方まで戻らないと母が言った。

二階の姉の部屋に、私は充電器を借りに入った。

机の上は、昔と同じように片付いていた。

押入れを開けたのは、ただ延長コードを探すためだった。

下の段の、衣装ケースの上。

箱に入らないまま、人形が一体、仰向けに寝かせてあった。

淡いピンクのドレス。

陶器の顔。

細い髪。

私の枕元の人形と、同じ顔だった。

違うのは、その一体には着せ替えの跡がまったくないことだった。

ドレスは着せられたときのまま。

髪は結われたことがなく、後ろで一度束ねてあるだけ。

靴も草履も履いていない。

私は、その人形をそっと起こして、背中を見た。

縫い目は一本だけだった。

薄い生成りの糸が、上から下まで、同じ細かさで通っていた。

姉の押入れにあったもう一体は、背中の縫い目が、はじめの糸のままだった。

私は人形を元の向きに戻して、押入れを閉めた。

階下で、母が麦茶を出す音がしていた。

夕方に帰ってきた姉は、私が二階にいたことに触れなかった。

夕食のあと、麦茶のグラスを片付けながら、一度だけ言った。

「あの子、まだ玄関のほう向いてる」

私は、箸を置いた。

「なんで知ってるの」

「別に」

「ねえ」

「向いてるうちは、いいの」

姉はそう言って、流しの水を止めた。

それ以上は、何も言わなかった。

皿を拭きながら、母が小さな声で言った。

「あの人形な、おばあちゃんの家から出たもんよ」

「二体あったの」

「対やったと思う。仏間の押入れの、いちばん上」

「なんで姉さんが持ってたの」

「あの子が、譲ってくれ言うてね」

母はそれ以上、話を続けなかった。

母がその話をやめるときの手つきを、私は知っている。

布巾を畳んで、置く。

置いたら、もう終わりだ。

その夜、私は自分の布団の中で、姉の言葉を並べ直した。

向いてるうちは、いい。

では、向かなくなったら何なのか。

ストラップの夜、人形は私のほうを向いていた。

あの夜だけだ。

あの夜だけ、姉は「もう大丈夫」と送ってきた。

順番が、逆だった気がした。

その晩、私は自分の部屋の押入れから、古い小包の箱を引っ張り出した。

姉が最初に人形を送ってきた箱だ。

捨てられずに取ってあった。

伝票の控えが、内側にまだ貼ってある。

次に、ピンクの靴が入っていた紙袋を探した。

袋の内側に、宅配便のシールが折り込まれたまま残っていた。

姉は連休に手渡しで持ってきたのに、その袋には発送のシールが貼られていた。

どこかへ送ろうとして、やめたのだろう。

消印ではなく、発送予定日の欄に日付が印字されていた。

私はスマートフォンの写真フォルダを開いた。

ワンピースを縫っている途中の写真が、一枚だけ残っていた。

生地を裁っただけの、まだ襟もついていない状態の写真だ。

日付を並べた。

小包の消印は、私がワンピースを縫いはじめるより、二日前だった。

姉は、後から当てているのではなかった。

先に用意して、私が追いつくのを待っていた。

あとで写真の撮影日時も確かめた。

端末の記録は、加工しないかぎり書き換わらない。

二日という差は、どう並べ替えても縮まらなかった。

姉は連休に、手渡しでピンクの靴を持ってきた。

その袋は、その前に一度、送られる予定になっていた。

送り先の欄は、消してあった。

薄い修正液が、シールの表面に乾いて残っていた。

それから何年も経つが、私は姉に何も訊いていない。

訊けば、また「別に」と言われるだけだからだ。

枕元の人形は、今夜も同じ場所にいる。

ドレスの裾は、少しずつまた日に焼けてきた。

髪を整えるとき、私は背中を見ないようにしている。

白い糸のほうが、生成りの糸より、ほんの少し短くなっている気がするからだ。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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