
小学二年生の頃のことだ。
その日、俺は学校の帰り道で、同じクラスのS君と遊んでいた。
特別に仲が良いわけではなかったが、何度か家を行き来したこともある。
一緒に宿題をしたり、駄菓子屋に寄ったりする程度の、普通の友達だった。
俺たちは、町外れにある古びたアパートの敷地内にいた。
夕方の光が薄く差し込む静かな場所で、人の気配はほとんどなかった。
コンクリートの通路に並んで座り、何をしていたかは思い出せないが、笑いながら小石を蹴っていたような気がする。
しばらくすると、俺はなぜかアパートの二階が気になって仕方がなくなった。
そこに“何か”がある気がした。
S君も同じだったようで、急に真顔で言った。
「なぁ……二階、何があるんだろう」
空気が変わった。
言葉にできない違和感が、空気を重くした。
S君は立ち上がり、「ちょっと見に行こう」と言った。
俺もつられて立ち上がり、二人で鉄の階段を上がり始めた。
※
カン、カン、と鉄の音が響く。
S君が先に登り切り、二階の廊下の角を曲がって姿が見えなくなった。
その瞬間、俺の体がピタリと止まった。
理由はわからない。
ただ、全身の奥で“警報”が鳴った。
――立ち止まれ。
――上がるな。
理屈ではなく、本能が叫んでいた。
しばらくその場で固まっていたが、S君は戻ってこなかった。
声も聞こえない。
それでも、俺はどうしても階段を上がることができなかった。
身体が凍りつくというより、「これ以上進んだら戻れなくなる」という確信のような恐怖が押し寄せた。
結局、俺は逃げるようにしてその場を去り、一人で家に帰った。
※
翌日、S君は学校に来なかった。
子どもだった俺は、深く考えず「風邪かな」と思った。
だが、一週間経ってもS君は現れない。
気になってクラスの友達に「Sどうしたんだろう?」と聞いてみた。
けれど、返ってきたのは意外な言葉だった。
「Sって誰?」
誰に聞いても同じだった。
担任も、まるでそんな生徒は最初からいなかったかのように話題に出さない。
S君の机には、すでに別の生徒が座っていた。
家に帰って母親に「Sが学校に来なくなった」と話しても、「誰なの、その子?」という顔をされた。
「前に家に遊びに来たじゃない」と言っても、母は首をかしげるだけ。
そのうち俺も、日常の中に流され、S君の存在を少しずつ忘れていった。
※
中学生になって、ふとした拍子にS君のことを思い出した。
『あの子、どうしているんだろう?』
懐かしさと同時に、あの時の“違和感”が胸をよぎった。
何人かの同級生に聞いてみたが、やはり誰も知らない。
例のアパートを見に行くと、すでに取り壊されており、跡地にはダンボール工場の倉庫が建っていた。
S君の家を探そうと思っても、記憶の道筋が曖昧だった。
途中までは思い出せるのに、どうしても最後の角が思い出せない。
小学校の卒業アルバムを開いても、S君の名前はなかった。
巻末の住所録にも載っていない。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
俺の記憶の中では、S君は確かに存在していた。
だが、現実の記録の中では「初めからいなかった」ことになっている。
※
俺は家中のアルバムを引っ張り出して、小学校の写真を片っ端から確認した。
春の遠足の集合写真。
俺とS君と数人で立ち入り禁止の場所に入って、先生に怒られた。
その出来事を、はっきりと覚えている。
でも――その写真の中に、S君はいなかった。
そこにいるはずの場所に、空白があった。
※
今でも時々、S君のことを思い出す。
顔も、声も、覚えている。
あの時、一緒に遊んだ感触も。
それなのに、どこにも記録がない。
誰も覚えていない。
あの日、階段を登り切ったS君は、
一体どこへ行ってしまったのだろう。
――そして、あの時、もし俺も二階に上がっていたら。
今ここにいる「俺」も、誰の記憶の中にも存在していなかったのだろうか。