某コンサートホール
以前、某コンサートホールでバイトをしていました。その時の体験を話そうと思います。
初めに気が付いたのは、来客総数を試算するチケット・チェックの場所でした。
私たちはもぎったチケットを事務室に集め、総数を出して公演の主催者に報告するんです。
楽しい時間でした。殆ど女の子ばかりで、おしゃべりしながらチケットを数えるのは飽きることのない作業です。
私の場合、事務机に盛り上がったチケットの山を両手で崩しながら束を作って行くのですが、ある時、当日発売なのにぼろぼろの水分を含んで膨れ上がったチケットを見つけたのです。
記載事項を確認しようにもインクは滲んで、辛うじて「R-11-XX」という席番が読み取れるだけでした。
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さて、コンサートホールのバイトは演奏中、シフトによってホールの中にも入ることができます。
正直なところ、私はいわゆるタダ見を狙ってバイトを申し込んだクチでした(ごめんなさい)。
マホガニーの二重扉の傍らに座っているだけの気楽な仕事ですが、演奏中に体調の悪化されたお客さまがいればロビーまで導きますし、不正に録音を試みている方を発見すれば主催者に報告しなければなりません。
しかしその時まで、私は演奏中に何か不都合に出くわしたことはありませんでした。
その日もチケット・チェックを行った後、後半の演奏、シューベルトの四重奏を静かに楽しんでいたのを覚えています。
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ただ、演奏がゆったりとしたアダージョの楽章に入った時でした。
低音を基調とする弦楽器の曲調の端々に、トライアングルを打つような、鋭い高音が断続的に聴こえるのです。
はじめは演奏者が舞台を踏み鳴らす軋みかと思っていたのですが、「ぴん、ぴん、ぴん、ぴん」という音が段々大きくなって行き、やがて痛みとなって鼓膜に伝わるような、耐え難いトーンになって行きました。
私は思わず両手で耳を塞いで首を垂れると、ローファーの靴のところに一筋、透明な液体が流れてくるのが見えました。
ホールは舞台に向けて勾配が下って行く構造になっています。
カーブを描きながら流れてくる液体を逆に辿って見ると、僅かな照明の下、黒髪を短く刈りこんだ二十歳くらいの女性と不意に視線が合ったのです。
大きな瞳でした。その時、音は止み、液体は舞台の方へ流れて行きました。
その時は、誰かがペットボトルからミネラルウォーターのようなものを零しただけだと思い、それほど気にかけずに勤務を終えたような気がします。
ただ、更衣室で着替えながら繰り返し思い出したのは、あのトライアングルのような響きの、固い固い耳触り、不思議に粘り気のあるように見えた液体の、するすると舞台に下って行く様子。
そしてショートカットの女の子の周りがホールの青い照明を集めたようにぼんやり、鈍く光っていたように感じたことです。
今考えてみると、当時の私がそれほどその体験を不気味に感じなかったのは、ちょうど一時期の木村カエラのようなファッショナブルな女の子の髪型と、その表情の可愛さが影響したのだと思います。
それからも勤務は続きましたが、不思議と私はいつも濡れたチケットを探り当てました。
チケットはいつもぶよぶよに膨らんで、やはりR側の(つまり舞台に向かって右側の)同じ座席を示していました。
それからも何度か演奏中のホールに入り客席を眺める機会はあったのですが、あの女の子の姿は見えず、妙な音も聴こえませんでした。
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確か初めの奇妙な体験から半年くらい経過した時だったと思います。
私は客席に入る直前の、ロビーのゲートでチケットをもぎる勤務に就いていました。
私がもぎり、後輩の音大生の男の子がパンフレットを渡す手順です。
背後からは、曲名は忘れましたが、相当の音量でオケがリハーサルを行なっているのが聴こえました。
その時、本当に唐突に、あのトライアングルの「ぴん、ぴん、ぴん」という音が響いてきたのです。
先程、固い耳触りと書きましたが、こればかりはどう表現すれば良いか分かりません。
ともかく鼓膜をアイスピックで細かく痛ぶるように突くような、物理的に「痛い」音響なのです(今でも幻聴を感じる時があります)。
思わず後輩を振り返ろうと思いましたが、どうしてもできませんでした。
ただし、いわゆる金縛りではなく、私の好奇心です。しっかり目に焼き付けなければ、この音の真実を確かめられないという思いです……。
あの女の子が、チケットを持って私のゲートに近付いて来るのが見えました。
髪型が少し変わって、しかしそれでも Perfumeののっちさんのような、お洒落なおかっぱでした。
にっこり笑って、黒革のバッグからチケットを探っていました。
華奢な、ピアノを弾くように大きな指だったのを覚えています。ピンクのマニキュアでした。
『ああ、やっぱりぶよぶよのチケットだ』そう思った時、女の子の前髪がべったり、水で濡れていることに気が付きました。
おかっぱ頭の全体が、糊を塗ったように黒々と濡れているのです。
綺麗に切り揃えた前髪の束から雫が私の靴に落ち、「ぴん、ぴん」と撥ねました。
おかしなことに私はその時、怖いというよりなんだか納得が行ってしまったのです。
それでぶよぶよのチケットを裂くようにもぎって、ぼんやりと『可愛い子はピアスも良いのを付けているなあ』などと考えていました。
それでも、何人か続けてもぎっているうちに、急に混乱してきたのです。
『このホールのロビーはふかふかの絨毯なのに、なんであの子の雫は撥ねるんだろう』
『なんであの子の雫は、撥ねて “ぴん” と音がするんだろう』
と、考えまい考えまいとしながらぐるぐる回って、気を緩めれば膝が崩れるほど怖くなってきました。
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入り口から見える空は晴天でした。
演奏が始まりました。
私はチケットを事務室に預けてからゲートに戻ると、絨毯に透明な液体がぽつぽつ付いているのが見えました。
そこだけ絨毯の模様が歪んで見え、小さなレンズを所々に置いたような違和感があるのです。
私は逃げ出したい気分になりましたが、どうしてもそれを触らずにはいられませんでした。
すると、液体は私の指先で粘り、手首から前腕、肘にどろどろ流れて行きました。
指には一粒、少ししか手に取らなかったはずなのに、右手に幾筋も跡が付くほど液体が流れて行ったのです。
怖くて気味が悪くて仕方ありませんでしたが、私はモップを手に取って、公演が終了してから拭き取ろうとしました。
それなのに、丸く小さな水溜りの跡は取れませんでした。マネージャーが掃除を手伝ってくれたのですが、私が奮闘している作業を不思議そうに眺めていたのを覚えています。
その時は返答を聞くのが怖かったので黙っていたのですが、マネージャーにあの水滴の跡は見えていたのでしょうか?
もし見えていないのだとしたら…。そう考えると、バイトを辞めたくなるほど怖くなります。
最後にひとつだけ。私は指先に付いたあの水の臭いをどうしても表現できません。
何というか、淋しい、微かな臭いだったような気がします。