義母と過ごした時間
公開日: 心霊ちょっと良い話
思いつくままつらつら書いたので、長くなってしまいました。
苦痛な方はどうぞスルーしてください。苦労を支え合った義母との思い出です。
※
私が妊娠7ヶ月頃のこと。
大阪で娘家族と暮らしていた旦那のお母さんが突然、東京に居る私達と一緒に暮らしたいと言ってきた。
義姉は性格がかなりキツく、呆れるほどお金に汚い人で、きっと色々あったのだろう。
義母は、
「我が子ながら…くたびれた」
と呟いた。
疲れ果てた義母を快く迎えてあげたかったのだが、その時の私にはかなりの覚悟が必要だった。
何故なら、旦那は全く働かず、大きなお腹の私の収入でカツカツの生活をしていたからだ。
生まれて来る赤ちゃんに可愛らしいベビー服を用意してやるどころか、旦那の借金もあり、赤ん坊を抱えて今後どうやって働いて行くのか先が見えない状況だった。
しかし、義姉の
「母ちゃんそっちに送るからな!」
という一言で私の心は決まった。
母親をまるで荷物扱いの口調が許せなかった。
何不自由ない生活は無理っぽいけど、今より心穏やかな生活はさせてあげられる。
今だって苦労しているんだし、お義母さん一人増えたところで苦労ついでだわ…。
そう決心すれば、後は何も躊躇する理由はない。
私は最大限の歓迎の気持ちを込めて義母を迎えた。
小さなカバン一つ持って駅のホームに降り立った義母の姿を初めて見た時(この時が初対面でした)、私は心の底から安心感を覚えた。
それは義母に対する同情ではなく、実の母に対する愛情と同じものだった。
初めて会う人にそんな感情を抱くのが不思議だったが、前世というものがあるのなら、義母と私はその昔、本当の親子だったのかもしれない。
実際、私と義母は本当の親子のように仲が良かった。
よく話し、そしてよく笑った。親子喧嘩もした。
仕事で遅く帰って来る私を、義母は寝ないで待っていてくれた。
二人でホットミルクを飲みながら、寝るまでの僅かな時間、義母はアルバムを開いては自分の半生を私に語った。
それは息子である旦那も知らない話ばかりで、語ると言うよりも私に伝える作業に似ていた。
※
私は女の子を出産した。
義母もとても喜んでくれた。
そして私に、
「あんた、次もすぐだよ。次は男の子や」
そう言った。
「ええっ!冗談じゃないですよぉ。これ以上はやってけないですよぉ」
「いやいや。そうじゃない。これは決まりごとだからね。大丈夫。いい子に育つよ。宝物だよ」
そう言って、義母はにっこり微笑み赤ちゃんに頬ずりした。
※
出産したからと言って、休んでいる暇は私にはなかった。
何せ食い扶持がまた一人増えたのだから。飢えさせてなるものか。
退院するとすぐにまた働き出した。
そんな生活でも私は確かに幸せだった。
幸か不幸かは自分で決めるものだとつくづく思う。
義母も幸せであったと信じたい。
※
そんな中、義母が突然、
「大阪に帰りたい」
と言い出した。
孫の顔も見せてもらった。あんたにも会えた。
次の孫の顔を見られないのが心残りだけどしょうがない。生まれ育った大阪で死にたい…と。
とても元気な義母から『死ぬ』という言葉を聞き、不自然な不安を感じたのだが、引き止めてはいけないような気がした。
そして、義母の気持ちに沿えるように、義母にはちょっと待っていてもらって、お金の工面をしたり義姉と交渉したりして、義姉の近所にアパートを借りることができた。
義母を送り出した日、手を振る義母の姿を最後にするつもりは毛頭なかったのに。
※
三ヶ月ほど経った頃だろうか。
義姉から義母が亡くなったという連絡を受けた。
無意識に覚悟をしていたのか、その連絡を私は厳粛な気持ちで受け止めた。
しかし、お葬式に行き、義母の遺品整理のため義母のアパートを訪れた時は胸を掻き毟られた。
広告の裏に几帳面な小さな文字で、ここに来てからの家計簿が記されていた。
僅かな年金と、僅かな私の仕送りを細々と書き記す義母の姿を思うといたたまれなかった。
何もしてあげられなかったと思う。
美味しいものを沢山食べさせてあげたかったし、旅行にも一緒に行きたかった。
義母のために何かをプレゼントもしたかった。
結局何もできず仕舞い。
心の中で義母に詫びた。
※
悲しみ塞ぐ気持ちを払拭してくれたのが義姉だった。
義姉も義母が大阪に戻って来た時に、私と同じような予感を感じたらしい。
そして彼女は、母親に生命保険をかけたのだ。
悲しみは義姉に対する怒りに変わった。
「この金はあんたにやる義理はないからな!」「面倒見て何も貰えんとはお生憎様やな」
そんな下品な言葉を聞き、一発殴ってやろうかとさえ思った。
だが義母の霊前でその娘を殴る訳にもいかず、どんな無神経な発言も耐えることにした。
義姉を憎む気持ちは、お葬式から帰って来てからも消えなかった。
※
深夜、ふと人の気配で目が覚めた。
見れば、義母が正座して私を見つめている。
驚いて、
「お義母さん、どうしたの!?」
と飛び起きて尋ねた。
すると頭の中に直接義母の声が響いた。
『あんたに何も残してあげられなくてごめんな』
そう言って、義母は畳に手をついて頭を下げた。
いよいよ驚いて、私も布団の上に正座し、
「そんなこと、何にも思ってませんってば!!」
『○○子(義姉の名前)のこと、許してやってね。あの子も今辛いんや。許したってね』
母親の気持ちは母親になれば痛いほど解る。
どんな子供であっても可愛いし、子供の欠点は自分のせいだと自分を責めるし、増してや子供が苦しんでいるのなら、自分が死んでいたって心配するものだ。
私も手をついて義母に頭を下げた。
「お義母さんごめんなさい。もうお義姉さんのこと許したから。もう悪く言いません」
そう言って頭を上げると、義母はすーっと消えて行った。
私は布団の上に正座したまま、暫く義母と会話をした幸せな余韻を楽しんでいた。
※
義母とはその後、もう一度再会した。
義母の予言通り、私はすぐに男の子を身籠り、そして出産。
旦那の改心を願っての出産だった。
しかし願いは届かず、相変わらず働かないのだ。二人の子供の父親なのに。
私は全てに失望しかけていた。生活に疲れ過ぎていたんだと思う。
※
ある朝、仕事に行く時間が迫っても私は頑張る気力が湧かず『仕事に行きたくない…』などとぼんやり考えながら椅子に座っていた。
『私ばっかり何でこんなに辛いんだろ…』そう思うと涙が出そうになった。
その時だった。
『この甲斐性なしっっっ!!!!』
突然頭の中に轟いた怒鳴り声。しかしそれは懐かしい、紛れもなく義母の声だった。
びっくりして顔を上げると、目の前に義母が立っていた。
義母は生まれたばかりの息子を抱っこしている。
そして『この子を飢えさせる気?』と言わんばかりの表情で、私に息子を突きつけてきた。
「あのぉ…甲斐性なしはあなたの息子さんなんですけど…」
そう呟いてみたら、何故だか急に笑えてきた。
きっと義母は、何度も旦那の尻を叩きに来ていたに違いない。
その度に『やれやれ…』と消えては、また何度も出直す義母の姿を想像すると可笑しくて。
ひとしきり笑ったら元気が出た。
「そうだね、頑張らなくっちゃね。ありがとう、お義母さん」
そう言うと、義母はにっこり微笑み『大丈夫だから』と言い残して消えて行った。
※
不意に赤ん坊の泣き声が聞こえた。いつから泣いていたんだろう。
泣き声が耳に入らないほど私はどうかしていた。
もしかしたらノイローゼの一歩手前だったのかも。
それを義母が叱って助けてくれたものだと思っている。
きっとずっと見守っていてくれたのだと思う。
自分の努力で切り開いて生きて来たと思っていたけど、振り返れば、信じられない程の幸運と転機が幾つもあった。
旦那とはその後、離婚することになってしまったが。義母も理解してくれていると思う。
※
現在、子供は二人とも高校生。あっという間です。
娘は益々綺麗に、息子は私を見下ろすぐらいに大きく逞しい青年に。
二人とも大学へ向けての勉強に忙しくしています。
でも、仕事で忙しい私を気遣って、家事を分担してやってくれる優しい子供達です。
経営する会社も今のところ順調で、親孝行をする余裕もできました。
沢山心配をかけた両親と、旅行に行ったり買い物をしたり。
そんな時には、心の中に必ず義母が居ます。
※
義母との思い出をここに投稿させてもらったのは、先日義母と十数年ぶりに再会したからです。
その日は娘の誕生日でした。
夜中に目を覚ますと、義母がまた正座して私を見ていました。
私もまた、義母と向かい合うようにベッドの上に正座しました。
義母は何も言いません。ただ微笑んで「うんうん」と頷いているだけでした。
やがて静かに立ち上がると、すーっと消えて行きました。
きっと私が建てた家を見に来てくれたんだろうと思います。義母に見せたかったから。
そして大きくなった孫を見て、私を誉めてくれたんだと思います。
ここまで来られたのはあなたのおかげです。消えて行く義母の後姿に手をついて頭を下げました。
その瞬間、義母と過ごした光景が鮮明に脳裏に浮かび上がりました。
それは二人でよく行ったあの公園のベンチ。並んでアイスクリームを食べたあの日の光景。
義母は、娘としたかったことを全部私にしてくれたんだと…。
私を嫁ではなく娘として愛してくれていたんだと、改めて気付きました。
そう思うと涙がぽろぽろ溢れて、頭を上げることができませんでした。
またいつか、義母に会いたい。
そして来世というものがあるのなら、また巡り会いたい。
私には母が二人居ます。
何て幸せなことなんでしょう。
義母への感謝を何かの形で書き残したく思いました。
長文、駄文、失礼しました。