電気を消してから覗く決まり

十条の斜面に建つアパート

三十年近く前の話になる。

私は新潟の長岡から東京へ出て、測量の専門学校に通っていた。

住んだのは、十条の駅から坂を上がったところにある木造モルタルのアパートだった。

柊荘という名前だった。

斜面に無理やり建てたような造りで、廊下がわずかに傾いていた。

家賃が安かった。

それだけが理由だ。

入居の日、大家さんが鍵を渡しながら言った。

「壁の穴は、塞がないでくださいね」

意味がわからないまま、はいと答えた。

床から三尺の高さ

部屋に入って、すぐに見つけた。

柊荘の壁には、どの部屋にも、床から三尺のところに穴が一つ空いていた。

三尺というのは、九十センチほどだ。

畳に座ったときの、ちょうど目の高さより少し高い。

直径は小指が入るかどうかという程度だった。

縁は丸く削れていて、新しいものではないとわかった。

隣の部屋に、まっすぐ通じている。

最初は、配線を通した跡だと思った。

覗くと赤かった

住みはじめて二週間ほどで、私は初めてそこを覗いた。

理由らしい理由はない。

ただ、目の高さにあるものは、いつか覗くものだ。

穴の向こうは、真っ赤だった。

光の加減ではなく、面として赤い。

私は、隣が赤い壁紙なのだろうと考えた。

そういう趣味の人もいる。

次の日も覗いた。

やはり赤かった。

その次の日も、その次の日も赤かった。

三日続けて同じ色だと、人は逆に安心するものらしい。

私は毎晩、帰ってくると覗くようになった。

赤の濃さが変わる

一月ほど経った頃、濃さに違いがあることに気づいた。

薄い日と、濃い日がある。

手帳の裏に、印をつけて記録してみた。

濃い日には、規則があった。

私が測量の実習で遅くなり、日付が変わってから帰った晩だ。

そういう日は、決まって濃かった。

逆に、夕方に帰った日は薄い。

薄いというのは、赤の向こうに白っぽいものが混じるということだ。

私は当時、それを湿度のせいだと考えていた。

今なら、別の説明ができる。

濃いのは、近いということだ。

三日目の記録

手帳の記録には、もう一つ気になる欄があった。

私は赤の濃さのほかに、その日の帰宅時刻も書いていた。

濃い日の帰宅時刻を並べると、ばらばらだった。

零時十分、一時二十分、二時ちょうど。

ただ、覗いた時刻はどれも同じだった。

帰ってから、十五分後だ。

鞄を置き、着替え、湯を沸かし、それから覗く。

私の順番は、いつも同じだった。

つまり向こうは、私が何分後に来るかを知っていたことになる。

知っていれば、待てる。

待っていたなら、濃さは近さだ。

薄い日というのは、間に合わなかった日なのだろう。

そう考えると、あの三月の記録は、私の生活時間の記録でもあった。

誰が誰を観察していたのか、わからなくなる。

隣に人がいるか確かめた

赤の濃さを記録しはじめてから、私は隣を確かめようとした。

まず、壁を軽く叩いてみた。

三回、間を置いて三回。

返事はなかった。

次に、廊下で待った。

土曜の朝から夕方まで、自分の部屋の戸を細く開けて座っていた。

隣の戸は、一度も開かなかった。

郵便受けも見た。

札は入っていない。

チラシもたまっていない。

誰も住んでいないなら、たまるはずだ。

たまらないということは、誰かが抜いているということになる。

私はそこで考えるのをやめた。

やめたつもりで、その晩もまた覗いた。

縁の埃だけが消える

次に気づいたのは、埃のことだった。

柊荘は古いので、どこにでも埃が積もる。

穴の縁にも、細かい灰色の粉が輪になって残っていた。

ある朝、その輪が一周だけ消えていた。

拭き取ったような跡だった。

私は触っていない。

覗くときは、顔を近づけるだけだ。

手で触れれば、指の跡が残る。

そういう跡ではなかった。

布で、内側から外へ、丁寧に押し出したような輪だった。

二階の奥の学生

柊荘の二階には、私を入れて四人が住んでいた。

いちばん奥が、佐々木という同い年の学生だった。

大学の二部に通っていて、昼は工場で働いていた。

ある晩、共同の流しで顔を合わせたときに、穴の話をした。

「あれ、うちのは塞いであるよ」

佐々木はそう言った。

塞いではいけないと言われなかったのか、と私は訊いた。

「言われたけど、前の人が塞いでた」

見せてもらった。

紙粘土のようなもので、丁寧に埋めてあった。

表面をならして、上から白い塗料まで塗ってある。

手間のかかる仕事だった。

「気にならないの」

「気にならない」

佐々木はそう言って、鍋を持って部屋へ戻った。

私はその夜、自分の穴を塞ごうかと考えた。

考えただけで、やらなかった。

塞いだら、向こうがどう出るのかがわからなかったからだ。

いま思えば、そこが分かれ目だった。

畳のくぼみ

その週の終わりに、もう一つ見つけた。

穴の下の畳に、くぼみが二つできていた。

正座した膝の跡のような、浅い丸だ。

間隔は、私の膝より狭かった。

私はその上に座ってみた。

合わない。

膝を寄せても、外側が余る。

子どもの膝なら合うかもしれない、と思った。

そう思った自分に、少し嫌な気分になった。

その晩、私は覗かなかった。

実習ノートに残っていた線

私は測量の学校にいたので、部屋でも図面をよく引いていた。

製図板を畳に置いて、正座で作業する。

その姿勢だと、目の高さがちょうど三尺あたりに来る。

いま考えると、私は毎晩、覗きやすい高さに自分を置いていたことになる。

当時の実習ノートが、実家に残っている。

先月、帰省したときに開いてみた。

数値の欄外に、鉛筆で細い横線が引いてあった。

一本ではない。

ノートの何ページにもわたって、同じ高さに一本ずつ引いてある。

定規を当てて引いたような、まっすぐな線だ。

引いた覚えがない。

線の長さを測ってみた。

どれも五センチだった。

穴と穴の間隔と、同じだ。

私はノートを閉じて、元の箱に戻した。

母には何も言わなかった。

大家さんに訊いた日

三月目の日曜日、私は一階の大家さんの部屋へ行った。

柊荘の大家さんは、七十をいくつか過ぎた女性だった。

玄関先で、私は前置きなしに訊いた。

「私の隣の部屋には、どういう人が住んでいるんですか」

大家さんは、湯呑みを持ったまま少し考えた。

それから、こう答えた。

「あなたの隣の部屋には、病気で目が赤い人が住んでいますよ」

私は、ああ、と言った。

納得した気になっていた。

目の赤くなる病気は、確かにある。

そういう人が、静かに暮らしている。

それだけの話だと思った。

階段を上がって、部屋の前まで来て、足が止まった。

私は隣の部屋の色を訊いたのではない。

住んでいる人を訊いたのだ。

大家さんは、色の話を一度もしていない。

私が赤い壁紙だと思っていたものが、何なのか。

それを、あの人はいま、正確に答えた。

製本所だった建物

その日の夕方、私はもう一度、一階へ下りた。

穴のことを訊いた。

大家さんは、そこは長く話してくれた。

柊荘は、もとは製本所の建物だったという。

戦後しばらく、坂の下の印刷屋の仕事を請けていた。

糊を引いた紙を並べて乾かす作業場が、二階だった。

糊の乾き具合は、光を透かして見る。

そのための穴が、部屋ごとに一つ空けてあった。

高さが三尺なのは、乾かし台の高さだからだ。

そして、大家さんはこう続けた。

「製本所では、乾き具合を見る者のほうが、暗いところにいたそうです」

明るい側から覗いても、何も見えない。

暗い側から、明るい側を見る。

それが順番だという。

「だから、覗くときは自分の部屋の電気を消してから、と言われてました」

大家さんの父親が、その製本所の職工長だったという。

紙の乾きを見るのは、いちばん経験のいる仕事だった。

早く仕上げれば紙が反り、遅ければ次の工程が詰まる。

だから、見る役の職人は、一日じゅう暗い部屋に座っていた。

「目を明るいところに慣らすと、透けたものが見えなくなるんですって」

大家さんはそう言った。

決まりは、もう一つあったらしい。

同じ色が三日続いたら、四日目は覗かない。

「三日同じなら、乾いてないってことだから、って父が言ってました」

乾いていないものを四日目に見ると、どうなるのか。

それは聞いていないそうだ。

私は、三日どころではなかった。

三月のあいだ、ほとんど毎晩、同じ赤を見ていた。

私は、自分が三月のあいだ、一度も電気を消していないことに気づいた。

帰ってすぐ、明かりを点けて、鞄を置いて、それから覗いていた。

赤く見えていたのは、こちらの電気が点いていたからでした。

そう言われたわけではない。

大家さんは何も言っていない。

私が自分で気づいただけだ。

明るい側にあるものが、光を通して赤く見える。

薄い皮膚と、血の通ったもの。

私の部屋の電気が、それを照らしていた。

電気を消して覗いた晩

その晩、私は初めて作法どおりにやってみた。

電気を消して、しばらく目を慣らして、穴に寄った。

真っ暗ではなかった。

細い光の筋があった。

隣の部屋に、明かりが点いている。

私は目を寄せた。

見えたのは、何もない部屋だった。

畳も家具もない。

板張りの床に、裸電球が一つ点いているだけだ。

そして正面の壁に、穴が一つ空いていた。

床から三尺の高さだ。

まっすぐ、こちらを向いている。

私は少し考えて、体が冷えた。

三尺の高さに顔を置ける姿勢が、ないのだ。

座れば目は二尺、立てば五尺になる。

膝立ちなら合うが、膝立ちの跡は畳に丸く二つ残る。

私の部屋の畳にあった、あのくぼみと同じ形になる。

あれは、こちら側の床についていた。

四日目を数えていた

部屋に戻って、私は手帳の裏の記録を見直した。

赤の濃さの印が、三月ぶん並んでいる。

三日以上続けて同じ濃さだった期間を数えた。

十一回あった。

そのうち九回は、四日目も同じ濃さだ。

残りの二回だけ、四日目に印が変わっている。

変わった日の欄には、自分で小さく書き込みがあった。

「白い」

もう一つの日には、こうある。

「近い」

書いた覚えがない。

字は私の字だった。

その二日とも、翌朝に穴の縁の埃が一周消えていた。

私は手帳を閉じて、押入れの奥に入れた。

いまも実家の物置にある。

開いていない。

電気メーターを見に行った

裸電球が点いていたのなら、電気は誰かが使っている。

そう考えて、私は翌朝、外階段の下へ回った。

柊荘の電気メーターは、裏の壁に横一列に並んでいた。

部屋番号の札が貼ってある。

私の部屋のメーターは、円盤がゆっくり回っていた。

隣の部屋のメーターは、止まっていた。

指で叩いても動かない。

止まっているのに、埃をかぶっていなかった。

並びのほかのメーターには、蜘蛛の巣が張っている。

そこだけ、拭いたようにきれいだった。

穴の縁と同じだ、と思った。

私はしばらく、その前に立っていた。

となりの家のおばさんが、ごみを出しに出てきた。

目が合ったので、会釈をした。

おばさんは、メーターのほうを見て言った。

「そこ、昔から回らないのよ」

それだけ言って、戻っていった。

入居者の一覧

翌週、私は引っ越しの相談という口実で、大家さんの部屋に上がった。

茶を出されて、机の上に入居者の一覧が置いてあった。

ノートを罫線で区切った、手書きのものだ。

部屋番号と、名前と、入居した年月が並んでいる。

私の隣の欄には、名前がなかった。

空欄でもない。

「目の赤い人」とだけ書いてあった。

入居の年月の欄も、空いている。

その行だけ、鉛筆だった。

大家さんは茶を注ぎながら、こちらを見ずに言った。

「そこは、十年ばかり空いてますよ」

空いている部屋の一覧に、なぜ行があるのかは訊けなかった。

二つ目の穴

私は二年住んで、柊荘を出た。

引っ越しの日、荷物をすべて運び出したあとの部屋を、最後に見た。

畳を上げて、掃除をした。

そのとき、壁の穴が二つになっていた。

もとの穴の、五センチほど横だ。

同じ大きさ、同じ高さ。

縁は丸く削れていて、新しいものには見えなかった。

私は開けていない。

二つ並んだ穴を、正面から見た。

人の目の間隔と、だいたい同じだった。

大家さんには言わずに、鍵を返した。

二十年後に坂を上がった

七年ほど前、仕事の帰りに十条で降りたことがある。

用があったわけではない。

坂を上がってみたくなっただけだ。

柊荘のあった場所には、新しいアパートが建っていた。

一階の郵便受けの前に、若い男が立っていた。

その日は雨で、私は傘を差したまま道の反対側から眺めていた。

男が郵便受けから何かを抜いて、部屋へ戻っていく。

それだけの景色だ。

私はそのとき、佐々木のことを思い出した。

連絡は取っていない。

塞いだ部屋に住んでいた彼が、その後どうしているかも知らない。

ただ、あの晩、彼が「気にならない」と二度言ったことだけを覚えている。

気にならないと二度言う人は、たいてい気にしている。

坂を下りながら、私は自分の癖のことを考えていた。

今の部屋の壁

柊荘は、十年ほど前に取り壊されたと聞いた。

坂の上には、今は三階建てのアパートが建っている。

私は五十を過ぎ、家族と一緒に埼玉に住んでいる。

新しい家だから、壁に穴などない。

それでも、癖だけが残った。

寝る前に、必ず電気を消してから壁を見る。

明るいまま見てはいけない、と体が覚えている。

去年の秋、寝室の壁紙に、丸い薄い汚れを見つけた。

床から三尺の高さだ。

大きさは、小指が入るかどうかという程度だった。

私は電気を消してから、その汚れを見た。

何も見えなかった。

見えないほうがいいのだと思っている。

覗いた側の記録は、たいてい残らない。

覗かれた側の記録だけが、家に残る。

同じような話は、ほかにもある。

無人駅の戸の下の隙間の話も、隙間の高さが意味を持っていた。

夜の窓を覗く名取りの女のように、覗く側と覗かれる側は、いつでも入れ替わる。

柊荘の決まりは、ただ一つだった。

電気を消してから覗くこと。

私は三月のあいだ、それを守らなかった。

あの三月、隣の部屋から見えていたものが何だったのか。

今も、考えないようにしている。

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