電気を消してから覗く決まり

電気を消してから覗く決まり

十条の斜面に建つアパート

三十年近く前の話になる。

私は新潟の長岡から東京へ出て、測量の専門学校に通っていた。

住んだのは、十条の駅から坂を上がったところにある木造モルタルのアパートだった。

柊荘という名前だった。

斜面に無理やり建てたような造りで、廊下がわずかに傾いていた。

家賃が安かった。

それだけが理由だ。

入居の日、大家さんが鍵を渡しながら言った。

「壁の穴は、塞がないでくださいね」

意味がわからないまま、はいと答えた。

※

床から三尺の高さ

部屋に入って、すぐに見つけた。

柊荘の壁には、どの部屋にも、床から三尺のところに穴が一つ空いていた。

三尺というのは、九十センチほどだ。

畳に座ったときの、ちょうど目の高さより少し高い。

直径は小指が入るかどうかという程度だった。

縁は丸く削れていて、新しいものではないとわかった。

隣の部屋に、まっすぐ通じている。

最初は、配線を通した跡だと思った。

※

覗くと赤かった

住みはじめて二週間ほどで、私は初めてそこを覗いた。

理由らしい理由はない。

ただ、目の高さにあるものは、いつか覗くものだ。

穴の向こうは、真っ赤だった。

光の加減ではなく、面として赤い。

私は、隣が赤い壁紙なのだろうと考えた。

そういう趣味の人もいる。

次の日も覗いた。

やはり赤かった。

その次の日も、その次の日も赤かった。

三日続けて同じ色だと、人は逆に安心するものらしい。

私は毎晩、帰ってくると覗くようになった。

※

赤の濃さが変わる

一月ほど経った頃、濃さに違いがあることに気づいた。

薄い日と、濃い日がある。

手帳の裏に、印をつけて記録してみた。

濃い日には、規則があった。

私が測量の実習で遅くなり、日付が変わってから帰った晩だ。

そういう日は、決まって濃かった。

逆に、夕方に帰った日は薄い。

薄いというのは、赤の向こうに白っぽいものが混じるということだ。

私は当時、それを湿度のせいだと考えていた。

今なら、別の説明ができる。

濃いのは、近いということだ。

※

三日目の記録

手帳の記録には、もう一つ気になる欄があった。

私は赤の濃さのほかに、その日の帰宅時刻も書いていた。

濃い日の帰宅時刻を並べると、ばらばらだった。

零時十分、一時二十分、二時ちょうど。

ただ、覗いた時刻はどれも同じだった。

帰ってから、十五分後だ。

鞄を置き、着替え、湯を沸かし、それから覗く。

私の順番は、いつも同じだった。

つまり向こうは、私が何分後に来るかを知っていたことになる。

知っていれば、待てる。

待っていたなら、濃さは近さだ。

薄い日というのは、間に合わなかった日なのだろう。

そう考えると、あの三月の記録は、私の生活時間の記録でもあった。

誰が誰を観察していたのか、わからなくなる。

※

隣に人がいるか確かめた

赤の濃さを記録しはじめてから、私は隣を確かめようとした。

まず、壁を軽く叩いてみた。

三回、間を置いて三回。

返事はなかった。

次に、廊下で待った。

土曜の朝から夕方まで、自分の部屋の戸を細く開けて座っていた。

隣の戸は、一度も開かなかった。

郵便受けも見た。

札は入っていない。

チラシもたまっていない。

誰も住んでいないなら、たまるはずだ。

たまらないということは、誰かが抜いているということになる。

私はそこで考えるのをやめた。

やめたつもりで、その晩もまた覗いた。

※

縁の埃だけが消える

次に気づいたのは、埃のことだった。

柊荘は古いので、どこにでも埃が積もる。

穴の縁にも、細かい灰色の粉が輪になって残っていた。

ある朝、その輪が一周だけ消えていた。

拭き取ったような跡だった。

私は触っていない。

覗くときは、顔を近づけるだけだ。

手で触れれば、指の跡が残る。

そういう跡ではなかった。

布で、内側から外へ、丁寧に押し出したような輪だった。

※

二階の奥の学生

柊荘の二階には、私を入れて四人が住んでいた。

いちばん奥が、佐々木という同い年の学生だった。

大学の二部に通っていて、昼は工場で働いていた。

ある晩、共同の流しで顔を合わせたときに、穴の話をした。

「あれ、うちのは塞いであるよ」

佐々木はそう言った。

塞いではいけないと言われなかったのか、と私は訊いた。

「言われたけど、前の人が塞いでた」

見せてもらった。

紙粘土のようなもので、丁寧に埋めてあった。

表面をならして、上から白い塗料まで塗ってある。

手間のかかる仕事だった。

「気にならないの」

「気にならない」

佐々木はそう言って、鍋を持って部屋へ戻った。

私はその夜、自分の穴を塞ごうかと考えた。

考えただけで、やらなかった。

塞いだら、向こうがどう出るのかがわからなかったからだ。

いま思えば、そこが分かれ目だった。

※

畳のくぼみ

その週の終わりに、もう一つ見つけた。

穴の下の畳に、くぼみが二つできていた。

正座した膝の跡のような、浅い丸だ。

間隔は、私の膝より狭かった。

私はその上に座ってみた。

合わない。

膝を寄せても、外側が余る。

子どもの膝なら合うかもしれない、と思った。

そう思った自分に、少し嫌な気分になった。

その晩、私は覗かなかった。

※

実習ノートに残っていた線

私は測量の学校にいたので、部屋でも図面をよく引いていた。

製図板を畳に置いて、正座で作業する。

その姿勢だと、目の高さがちょうど三尺あたりに来る。

いま考えると、私は毎晩、覗きやすい高さに自分を置いていたことになる。

当時の実習ノートが、実家に残っている。

先月、帰省したときに開いてみた。

数値の欄外に、鉛筆で細い横線が引いてあった。

一本ではない。

ノートの何ページにもわたって、同じ高さに一本ずつ引いてある。

定規を当てて引いたような、まっすぐな線だ。

引いた覚えがない。

線の長さを測ってみた。

どれも五センチだった。

穴と穴の間隔と、同じだ。

私はノートを閉じて、元の箱に戻した。

母には何も言わなかった。

※

大家さんに訊いた日

三月目の日曜日、私は一階の大家さんの部屋へ行った。

柊荘の大家さんは、七十をいくつか過ぎた女性だった。

玄関先で、私は前置きなしに訊いた。

「私の隣の部屋には、どういう人が住んでいるんですか」

大家さんは、湯呑みを持ったまま少し考えた。

それから、こう答えた。

「あなたの隣の部屋には、病気で目が赤い人が住んでいますよ」

私は、ああ、と言った。

納得した気になっていた。

目の赤くなる病気は、確かにある。

そういう人が、静かに暮らしている。

それだけの話だと思った。

階段を上がって、部屋の前まで来て、足が止まった。

私は隣の部屋の色を訊いたのではない。

住んでいる人を訊いたのだ。

大家さんは、色の話を一度もしていない。

私が赤い壁紙だと思っていたものが、何なのか。

それを、あの人はいま、正確に答えた。

※

製本所だった建物

その日の夕方、私はもう一度、一階へ下りた。

穴のことを訊いた。

大家さんは、そこは長く話してくれた。

柊荘は、もとは製本所の建物だったという。

戦後しばらく、坂の下の印刷屋の仕事を請けていた。

糊を引いた紙を並べて乾かす作業場が、二階だった。

糊の乾き具合は、光を透かして見る。

そのための穴が、部屋ごとに一つ空けてあった。

高さが三尺なのは、乾かし台の高さだからだ。

そして、大家さんはこう続けた。

「製本所では、乾き具合を見る者のほうが、暗いところにいたそうです」

明るい側から覗いても、何も見えない。

暗い側から、明るい側を見る。

それが順番だという。

「だから、覗くときは自分の部屋の電気を消してから、と言われてました」

大家さんの父親が、その製本所の職工長だったという。

紙の乾きを見るのは、いちばん経験のいる仕事だった。

早く仕上げれば紙が反り、遅ければ次の工程が詰まる。

だから、見る役の職人は、一日じゅう暗い部屋に座っていた。

「目を明るいところに慣らすと、透けたものが見えなくなるんですって」

大家さんはそう言った。

決まりは、もう一つあったらしい。

同じ色が三日続いたら、四日目は覗かない。

「三日同じなら、乾いてないってことだから、って父が言ってました」

乾いていないものを四日目に見ると、どうなるのか。

それは聞いていないそうだ。

私は、三日どころではなかった。

三月のあいだ、ほとんど毎晩、同じ赤を見ていた。

※

私は、自分が三月のあいだ、一度も電気を消していないことに気づいた。

帰ってすぐ、明かりを点けて、鞄を置いて、それから覗いていた。

赤く見えていたのは、こちらの電気が点いていたからでした。

そう言われたわけではない。

大家さんは何も言っていない。

私が自分で気づいただけだ。

明るい側にあるものが、光を通して赤く見える。

薄い皮膚と、血の通ったもの。

私の部屋の電気が、それを照らしていた。

※

電気を消して覗いた晩

その晩、私は初めて作法どおりにやってみた。

電気を消して、しばらく目を慣らして、穴に寄った。

真っ暗ではなかった。

細い光の筋があった。

隣の部屋に、明かりが点いている。

私は目を寄せた。

見えたのは、何もない部屋だった。

畳も家具もない。

板張りの床に、裸電球が一つ点いているだけだ。

そして正面の壁に、穴が一つ空いていた。

床から三尺の高さだ。

まっすぐ、こちらを向いている。

私は少し考えて、体が冷えた。

三尺の高さに顔を置ける姿勢が、ないのだ。

座れば目は二尺、立てば五尺になる。

膝立ちなら合うが、膝立ちの跡は畳に丸く二つ残る。

私の部屋の畳にあった、あのくぼみと同じ形になる。

あれは、こちら側の床についていた。

※

四日目を数えていた

部屋に戻って、私は手帳の裏の記録を見直した。

赤の濃さの印が、三月ぶん並んでいる。

三日以上続けて同じ濃さだった期間を数えた。

十一回あった。

そのうち九回は、四日目も同じ濃さだ。

残りの二回だけ、四日目に印が変わっている。

変わった日の欄には、自分で小さく書き込みがあった。

「白い」

もう一つの日には、こうある。

「近い」

書いた覚えがない。

字は私の字だった。

その二日とも、翌朝に穴の縁の埃が一周消えていた。

私は手帳を閉じて、押入れの奥に入れた。

いまも実家の物置にある。

開いていない。

※

電気メーターを見に行った

裸電球が点いていたのなら、電気は誰かが使っている。

そう考えて、私は翌朝、外階段の下へ回った。

柊荘の電気メーターは、裏の壁に横一列に並んでいた。

部屋番号の札が貼ってある。

私の部屋のメーターは、円盤がゆっくり回っていた。

隣の部屋のメーターは、止まっていた。

指で叩いても動かない。

止まっているのに、埃をかぶっていなかった。

並びのほかのメーターには、蜘蛛の巣が張っている。

そこだけ、拭いたようにきれいだった。

穴の縁と同じだ、と思った。

私はしばらく、その前に立っていた。

となりの家のおばさんが、ごみを出しに出てきた。

目が合ったので、会釈をした。

おばさんは、メーターのほうを見て言った。

「そこ、昔から回らないのよ」

それだけ言って、戻っていった。

※

入居者の一覧

翌週、私は引っ越しの相談という口実で、大家さんの部屋に上がった。

茶を出されて、机の上に入居者の一覧が置いてあった。

ノートを罫線で区切った、手書きのものだ。

部屋番号と、名前と、入居した年月が並んでいる。

私の隣の欄には、名前がなかった。

空欄でもない。

「目の赤い人」とだけ書いてあった。

入居の年月の欄も、空いている。

その行だけ、鉛筆だった。

大家さんは茶を注ぎながら、こちらを見ずに言った。

「そこは、十年ばかり空いてますよ」

空いている部屋の一覧に、なぜ行があるのかは訊けなかった。

※

二つ目の穴

私は二年住んで、柊荘を出た。

引っ越しの日、荷物をすべて運び出したあとの部屋を、最後に見た。

畳を上げて、掃除をした。

そのとき、壁の穴が二つになっていた。

もとの穴の、五センチほど横だ。

同じ大きさ、同じ高さ。

縁は丸く削れていて、新しいものには見えなかった。

私は開けていない。

二つ並んだ穴を、正面から見た。

人の目の間隔と、だいたい同じだった。

大家さんには言わずに、鍵を返した。

※

二十年後に坂を上がった

七年ほど前、仕事の帰りに十条で降りたことがある。

用があったわけではない。

坂を上がってみたくなっただけだ。

柊荘のあった場所には、新しいアパートが建っていた。

一階の郵便受けの前に、若い男が立っていた。

その日は雨で、私は傘を差したまま道の反対側から眺めていた。

男が郵便受けから何かを抜いて、部屋へ戻っていく。

それだけの景色だ。

私はそのとき、佐々木のことを思い出した。

連絡は取っていない。

塞いだ部屋に住んでいた彼が、その後どうしているかも知らない。

ただ、あの晩、彼が「気にならない」と二度言ったことだけを覚えている。

気にならないと二度言う人は、たいてい気にしている。

坂を下りながら、私は自分の癖のことを考えていた。

※

今の部屋の壁

柊荘は、十年ほど前に取り壊されたと聞いた。

坂の上には、今は三階建てのアパートが建っている。

私は五十を過ぎ、家族と一緒に埼玉に住んでいる。

新しい家だから、壁に穴などない。

それでも、癖だけが残った。

寝る前に、必ず電気を消してから壁を見る。

明るいまま見てはいけない、と体が覚えている。

去年の秋、寝室の壁紙に、丸い薄い汚れを見つけた。

床から三尺の高さだ。

大きさは、小指が入るかどうかという程度だった。

私は電気を消してから、その汚れを見た。

何も見えなかった。

見えないほうがいいのだと思っている。

覗いた側の記録は、たいてい残らない。

覗かれた側の記録だけが、家に残る。

同じような話は、ほかにもある。

無人駅の戸の下の隙間の話も、隙間の高さが意味を持っていた。

夜の窓を覗く名取りの女のように、覗く側と覗かれる側は、いつでも入れ替わる。

柊荘の決まりは、ただ一つだった。

電気を消してから覗くこと。

私は三月のあいだ、それを守らなかった。

あの三月、隣の部屋から見えていたものが何だったのか。

今も、考えないようにしている。

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