娘の目

娘の目

うちの沿線には、古い木の跨線橋が残っている駅がある。

去年の秋、その駅で体験した話を書く。

今でも、思い出すと指先が冷たくなる。

私と、小学四年の娘の話だ。

※

その日は土曜で、二駅先のショッピングモールへ、娘と二人で買い物に出ていた。

娘の上履きと、冬物の肌着と、私の台所用品。

帰りにフードコートでソフトクリームを半分こした。

どこにでもある、休日の夕方だった。

モールでは、娘はゲームコーナーの太鼓のゲームで二回遊んだ。

ソフトクリームは、娘がチョコで、私がバニラ。

半分こする約束が、いつも三分の一しか回ってこない。

「詐欺やわ」と言うと、娘はけらけら笑った。

あの笑い声を、私はその日の最後の「普通」として覚えている。

帰りの電車を待つために、私たちは駅のホームにいた。

この駅は古い。

大正の頃に開業したと、駅の看板に書いてある。

ホームの屋根は木の柱で、改札の上には、これも木造の跨線橋が架かっている。

緑色の鉄柵と、飴色にすり減った床板。

渡ると、足の下で、みしり、と音がする。

改札で切符を入れると、駅員さんが「橋、気ぃつけてな」と言う。

床板が古いから、という意味だと、ずっと思っていた。

実は私は、この町の生まれではない。

生まれは、もっと西の、母の在所のほうだ。

嫁いでこの沿線に越してきたとき、里の母に駅の写真を送ったら、妙な返事が来た。

「その橋、渡るときは、振り返らんことよ」

どういう意味かと訊いても、母は笑って、それ以上は言わなかった。

「年寄りの言うことよ。気にしんさんな」

気にしんさんな、と言うくらいなら、最初から言わなければいいのに。

そのときは、そう思っただけだった。

この駅で降りる人は、たいてい橋を使わない。

構内の端に新しい地下道ができていて、地元の人はみんなそっちを通る。

雨の日も、地下道のほうが濡れないのに、わざわざ遠回りになる地下道を使う。

「なんで誰も橋を渡らんのやろね」

引っ越してきた頃、夫に訊いたことがある。

「さあ。古いけん、揺れるんが嫌なんと違う?」

夫はこの町の生まれだが、そういえば夫も、橋を使ったところを見たことがない。

一度だけ、しつこく訊いたら、夫は困った顔で言った。

「子供の頃、ばあちゃんに言われとったんよ。橋の上で、知らん子と目ぇ合わせなさんなって」

「知らん子?」

「昔は子供が多かったけん、そういう意味やろ」

夫は笑って、それきりだった。

この町の年寄りは、みんな同じことを、違う言い方で子供に教えていたらしい。

※

ホームで電車を待ちながら、娘と今日の買い物の話をしていた。

新しい上履きを、月曜に下ろすかどうかという議題だった。

ふと、隣の娘が、頭の上に向かって小さく手を振った。

視線の先は、跨線橋だった。

夕方の逆光で、橋の窓は暗かった。

人影は、見えなかった。

「誰に振ったん?」

「こっちを見てる人がいたから、振り返しただけだよ」

「誰もおらんよ」

「いたよ」

娘は、こともなげに言った。

子供の言うことだ。

ガラスに映った誰かか、光の加減だろう。

私はそれ以上、考えなかった。

考えなかったことを、あとで何度も悔やむことになる。

※

十七時を過ぎて、ホームに人が増え始めた。

三十メートルほど離れたベンチの近くに、スーツ姿の男の人が立っているのに気づいた。

四十代くらいの、ごく普通の勤め人に見えた。

ただ、様子が、どこか変だった。

鞄を足元に置いたまま、じっと線路を見ている。

首の角度が、ずっと同じなのだ。

電車が来るほうではなく、ただ足元の線路を見下ろしている。

「あの人、なんか怖いね」

娘が小声で言った。

「見んの。こっち向いとき」

言いながら、私も横目で見てしまっていた。

アナウンスが入った。

まもなく三番線を、快速電車が通過します。

黄色い線の内側まで、お下がりください。

男の人が、す、と一歩前に出た。

黄色い線を、越えた。

風が先に来た。

快速の前照灯が、ホームの端を白く照らした。

男の人が、もう一歩、足を出しかけた。

そこからは、一瞬だった。

駆けてきた駅員さんが、男の人の腕を掴んで、力任せに後ろへ引いた。

二人分の体が、ベンチのほうへ倒れ込んだ。

快速が、轟音を立てて通過していった。

私は、その全部を見ていたわけではない。

男の人が線を越えた瞬間に、私は娘の目を、両手で塞いでいたからだ。

考えるより先に、手が動いていた。

見せてはいけない。

それだけだった。

手のひらの下で、娘のまつ毛が、ぱちぱちと動いていた。

※

ホームは、しばらく騒然としていた。

男の人は、ベンチに座らされて、うつむいていた。

怪我は、なかったようだった。

駅員さんに何か訊かれて、男の人は首を振りながら、切れ切れに答えていた。

近くにいたから、その声は聞こえてしまった。

「後ろから、呼ばれた気がして」

「気がついたら、線の内側におって」

「呼ばれたって、誰にです」

「分からんのです。子供の声やった気がするけど」

駅員さんの手が、一瞬だけ止まったのを、私は見た。

それから駅員さんは、何も言わずに、メモの続きを書いた。

駅員さんは、疲れた顔で何かをメモしていた。

よくあることなのか、初めてのことなのか、その顔からは読めなかった。

私は娘の手を引いて、ホームの反対側の端へ移動した。

娘は、意外なほど落ち着いていた。

怖がって泣くかと思ったのに、静かだった。

その静かさが、あとから思えば、最初の違和感だった。

ベンチのほうを、もう一度だけ見た。

男の人は、膝の上で自分の左手首を、さすり続けていた。

寒さをこらえる仕草には、見えなかった。

何かを、拭い落とそうとしているように見えた。

娘も、同じところを見ていた。

「あのおじさんの腕、まだ痕がついとるね」

三十メートル先の手首の痕なんて、見えるはずがなかった。

私は聞こえなかったふりをして、娘の手を引いた。

※

事故にならなかったので、電車はすぐに動いた。

次の各駅停車に乗った。

夕方の車内は、ほどよく混んでいた。

吊り革の下で、私は娘の頭を撫でた。

「怖かったね」

「うん」

「もう大丈夫やけんね」

娘は、しばらく黙っていた。

それから、窓の外を見たまま、言った。

「あの人、引っぱられよったね」

手が、止まった。

「……何が?」

「腕のところ。こう、ぎゅって」

娘は、自分の左手首を、右手で掴んでみせた。

「駅員さんが引っぱってくれたけんね」

「ちがうよ」

娘は、首を振った。

「駅員さんの前。線路のほうから、引っぱられよった」

車内の暖房が、急に効かなくなった気がした。

「見えたん? お母さん、目ぇ塞いどったよ」

「見えたよ」

娘は、やっと私のほうを向いた。

「上からだと、ぜんぶ見えたもん」

「上から?」

「うん。あのおじさんの帽子のつむじも見えた」

男の人は、帽子なんて被っていなかった。

そう言いかけて、思い出した。

倒れ込んだとき、駅員さんの制帽が、ホームに転がったのを。

つむじが見えるとしたら、真上からだけだ。

ホームに立っていた私にも、娘にも、見えるはずのない角度だった。

「上からって、どこから」

娘は、なんでそんなこと訊くの、という顔をした。

「だってわたし、あのとき、橋の上にいたもん」

※

娘は、ずっと私の隣にいた。

それは、絶対に間違いない。

私の右手は娘の目を塞ぎ、左手は娘の肩を抱いていた。

あの騒ぎの間、娘の体は一度も、私から離れていない。

なのに娘は、跨線橋の上から見た景色を話している。

私は、それ以上訊けなかった。

代わりに、別のことを訊いた。

「橋の上に、誰かおった?」

娘は、こくんと頷いた。

「見してくれた子がおった」

「どんな子」

「着物の子。ちっちゃい子」

「その子と、お話したん?」

「ううん」

娘は、窓の外に目を戻した。

「手ぇ振ったら、覚えててくれたみたい」

帰り道に振った、あの小さな手。

あれが、始まりだったのだ。

訊いたら、何かが決まってしまう気がした。

家に着くまで、娘はいつもの娘だった。

晩ごはんのから揚げを喜び、お風呂で歌をうたい、九時に寝た。

寝顔は、どこにでもある九歳の顔だった。

夫には、その夜のうちに話した。

男の人が助けられたところまでは、深刻な顔で聞いていた。

娘の「上から見えた」のくだりで、夫は少し笑った。

「子供の言うことやろ。テレビの見すぎと違うか」

そうやね、と私も笑った。

笑いながら、夫が一度も橋を渡らない人だということを、考えていた。

私だけが、眠れなかった。

夜中に一度、娘の部屋を覗いた。

娘は、仰向けで眠っていた。

常夜灯の下で、その顔は間違いなく私の娘で、間違いなく九歳で、それなのに私は、布団の膨らみをしばらく数えてしまった。

何を確かめたかったのか、自分でも分からない。

ただ、天井と娘の顔の間の、何もない空間が、その晩はやけに広く見えた。

※

次の日、里の母に電話をした。

買い物の話のふりをして、それとなく、駅でのことを話した。

男の人が助けられたこと。

娘の目を塞いだこと。

娘が「上から見えた」と言ったこと。

母は、長いこと黙っていた。

電話の向こうで、テレビの音が消えた。

「お母さん?」

「……その橋、まだあったんね」

母の声は、低かった。

「昔からね、あの手の古い橋には、言われがあるんよ」

「渡るときに振り返っちゃいけん、いうやつ?」

「そう」

「なんで振り返っちゃいけんの」

母は、また少し黙った。

それから、諦めたように言った。

「上から見とる子と、目が合うけんね」

背中が、すっと冷えた。

「目が合うたら、どうなるん」

「どうもならん。どうもならんけど」

母は、そこで言葉を選んだ。

「たまに、貸してくれ言うてくる子がおるんと」

「……何を」

「目ぇよ」

それきり、母はこの話をしなくなった。

電話を切ったあと、受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。

貸してくれ、と言ってくる子。

娘が跨線橋に振った、小さな手を思い出した。

あれは、挨拶ではなくて、返事だったのかもしれない。

※

それから何日かして、私は市の図書館へ行った。

郷土資料の棚に、沿線の歴史をまとめた薄い本があった。

あの駅のページも、あった。

跨線橋の竣工は、大正の終わり。

それまでは、線路をじかに渡る構内踏切だったらしい。

「児童の横断が危険視され、地元の寄付により跨線橋が架けられた」

つまりあの橋は、もともと、子供を線路から遠ざけるために架けられた橋だった。

ページの隅に、白黒の写真が載っていた。

渡り初めの日の記念写真だという。

欄干にずらりと並んだ、着物姿の子供たち。

みんな下の線路を覗き込んで、笑っている。

その中で、一人だけ。

端の小さな子が、線路ではなく、カメラのほうを、まっすぐ見ていた。

百年前のレンズを、まっすぐに。

説明書きには、こうあった。

「以後、この駅では線路への立ち入りが絶えたと伝わる」

絶えた理由までは、書いていなかった。

橋が危険を防いだのか。

それとも、橋の上から、誰かが見張るようになったのか。

本を閉じて、私は静かに棚へ戻した。

母の言う「上から見とる子」が、どこの子なのか。

それ以上調べるのは、やめにした。

帰りに駅を通ると、ちょうど夕方で、跨線橋が逆光になっていた。

あの日と、同じ光だった。

窓の暗がりに向かって、私は生まれて初めて、小さく頭を下げた。

守ってくれたのか、借りていっただけなのか、まだ分からない相手に。

どちらであっても、娘は今、隣で笑っている。

それだけを、お礼の理由にした。

代わりに、正月に帰ったとき、娘に古いお守りをひとつ持たせた。

「ばあばの町の神社のよ」と言って。

お守りを渡すとき、母は娘の目をじっと見た。

「ええ子やね」と言って、頭を撫でた。

撫でながら、母の目は、娘の顔のもう少し上を見ている気がした。

娘はそれを、今もランドセルに付けている。

※

年が明けて、気になることが、ひとつだけ増えた。

三学期の授業参観で、廊下に子供たちの絵が貼り出されていた。

写生会で校庭を描いたのだという。

娘の絵は、すぐに見つかった。

上手だった。

鉄棒も、桜の木も、白い体操帽の子供たちも、ちゃんと描けていた。

ただ、全部、真上から見た構図だった。

校庭にいたはずの娘の絵だけが、鳥の目で描かれていた。

帽子の白い丸が、点々と並んでいた。

つむじの位置まで、丁寧に塗り分けてあった。

担任の先生は「発想が自由で素敵です」と笑っていた。

私は、うまく笑えなかった。

帰り道に、それとなく訊いた。

「あの絵、どうやって描いたん?」

「思い出して描いた」

「校庭、あんなふうに見えた?」

「見えたよ」

娘は、少し考えてから、付け足した。

「見せてもろたけん」

誰に、とは、訊けなかった。

※

あれから一年近く経つ。

娘は元気で、学校でも変わったことはない。

ただ、ひとつだけ。

あの駅を使うとき、娘は改札を出ると、必ず一度だけ、跨線橋を見上げる。

逆に、見上げない日も、たまにある。

「今日は、おらんの?」

「うん。どっか行っとる」

どっか、がどこなのか、私は考えないようにしている。

いない日のほうが、なぜか少しだけ、怖い。

挨拶みたいに、ちょこんと頭を下げることもある。

一度だけ、訊いたことがある。

「誰かおるん?」

娘は、こともなげに答えた。

「知っとる子がおるけん」

「……そう」

「まだ、こっち見よるよ」

娘の声に、怖がっている色は、少しもない。

友達の話をするのと、同じ声だった。

それが救いなのか、そうでないのか、私にはまだ判断がつかない。

私は、振り返らなかった。

母の言いつけを、今は守っている。

先日、駅の掲示板に、お知らせが貼り出された。

老朽化のため、跨線橋は今年度いっぱいで取り壊されるらしい。

よかった、と思う気持ちと、別の気持ちが、半分ずつある。

橋がなくなったら、あの子は、どこから見るのだろう。

あの日、私は娘の目を塞いだ。

間に合ったと、ずっと思っていた。

でも、時々考える。

私が塞いだあの数秒、娘の目は、どこで、誰に、使われていたのだろう。

そして、貸したものは、もう、返してもらえたのだろうか。

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