
俺は小学一年の夏に引っ越して、ど田舎の小学校に転入した。
冬の夜の山道で、人影に背負われた記憶が、三十年たった今も消えない。
引っ越す前の俺は、気ままに過ごしていた子どもだった。
転入先では、よそ者というだけで、周囲から浮いてしまった。
教室に入ると、全員の視線が一斉にこちらへ向く。
方言が分からない。給食の当番の順番も分からない。
休み時間になっても、誰も声をかけてくれなかった。
アウェイな毎日だった。
休み時間は、校庭の隅のブランコで過ごした。
風が吹くたびに、鎖が冷たく鳴った。
ある日、隣の席の子が、ぼそりと言った。
「お前んち、あの道の向こうやろ」
「あの道、夜は通ったらあかんで」
理由を聞こうとしたが、その子はもう席を立っていた。
転入してすぐ、近所の婆さんが、うちに回覧板を持ってきた。
玄関先で、俺の顔をじっと見て、ひとつだけ言った。
「夜の山で名字を呼ばれたら、返事をしたらいかんよ」
母は笑ってごまかし、婆さんは何も言わずに帰っていった。
子どもの俺は、意味も分からず、その言葉だけを耳に残した。
公民館の夜のマラソン
同じ年の冬、地域のマラソン大会の選手を選ぶ練習が始まった。
夜の八時ごろになると、公民館に地域の大人数人と、子どもたちが集まった。
公民館からスタートして、山道をぐるりと走って戻ってくる。
子どもの後ろから、大人が車のライトで照らしながら伴走するのだ。
何度か参加させられたが、俺はこの時間が一番嫌いだった。
俺は運動ができない。
みんなに付いていけず、いつも一人だけ遅れた。
伴走の大人は、先頭の子たちに付きっきりになる。
だから俺の後ろには、いつも暗闇があった。
「どう考えても選手には選ばれないのに、何で参加させられてるんだ」
俺は毎回、そう思っていた。
きっと、よそ者の俺に居場所を作ろうとした大人の優しさだったのだろう。
今ならそう思える。
でも当時の俺は、ただ恥ずかしくて、苦しいだけだった。
夜の山道に置き去り
ある雨上がりの夜の練習中のことだ。
地面は湿って、靴の底が泥を噛んでいた。
後ろ向きな考えの子どもがもたもたしているものだから、大人たちは苛立ったのだろう。
伴走の車から、声をかけられた。
「おい坊主! お前ちっと遅すぎるから、おっちゃん達、先の子たちに付いて行くかんな!」
「車も沢山はないから我慢しろ! 先に着いて待っとくからな!」
俺は、唖然とした。
田舎の夜の暗さは、尋常じゃない。
車のライトもなしに、どう走れというのだ。
「頑張れよー!!」
表向き前向きな言葉をかけながら、伴走車は去っていった。
テールランプが、カーブの向こうで見えなくなる。
最後に、エンジンの音が山に吸い込まれて消えた。
そこからは、完全な静寂だった。
虫の声もない。冬だから当然だ。
それなのに、どこかで、ざり、ざり、と砂利を踏む音がした。
振り返っても、道には自分の影があるだけだ。
足を止めると、音も止まる。
走り出すと、また一歩遅れて、音がついてくる。
その夜の山道は、まるで俺の足音を、ほんの少し遅れて真似しているようだった。
自分の息と、足音だけが聞こえる。
人家もほとんどなく、明かりなんてろくにない。
山道のほぼ中間で、行くも地獄、戻るも地獄だった。
月明かりにかろうじて照らされる道を、俺は吐きそうになりながら走った。
何度か走ったコースのはずなのに、まるで別の道だった。
明かりがあるのとないのとで、こうも違うのか。
後ろに大人がいるのといないのとで、こうも違うのか。
暗い。怖い。帰りたい。
こけた。痛い。
水たまりで、ズボンがどろどろになった。
暗くて、どうなっているのかも分からない。
膝がジンジンする。涙があふれてくる。
でも、きっと誰も迎えには来ない。
そう思ったとき、鼻の奥がつんとした。
泣きじゃくりながら、俺は走りに走った。
竹のドームの人影
左右から竹がせり出して、ドーム状に覆われた道に差しかかった。
湿った竹の匂いが、頭の上から降ってきた。
ドームを抜けた向こうの路上に、淡い月明かりの中、ぽつんと黒い人影が立っていた。
「おじちゃん達のだれかだ! 迎えに来てくれたんだ!!」
俺は、猛烈に救われた気持ちになった。
短距離走ばりの速さで、駆け寄ろうとした。
ふと、思った。
なんで車もないし、電灯も持っていないんだろう。
ゴールはまだずっと先のはずだ。
おじさんだって、車がないと大変なはずだ。
迎えに来たんじゃないのかな。
じゃあ、何のために、こんな暗闇に、電灯も持たず、一人でいるんだろう。
もしかして、人間じゃないのかな。
急に、やばい気がして、立ち止まった。
同時に、人影がこちらへ向かって走ってきた。
俺は泣き喚きながら、元来た道へ走り出した。
泥まみれの靴の中で足が滑って、顔から思い切り転んだ。
それどころではなかった。
足を引きずってでも、人影から離れようとした。
そのとき、人影が叫んだ。
「○○とこの!!」
○○は、俺の名字だ。
「○○とこのガキじゃないか。どうした、大丈夫か」
恥ずかしながら、俺は失禁して腰砕けになっていた。
暗くて、顔ははっきり見えない。
まだ面識も広くない。
けれど、俺の名前を知っているのだから、地域のおっさんの誰かなのだろう。
張りつめていた緊張が、いろんな形で切れた。
俺は耐えられず、おんおん泣いた。
「まあ帰ろう。親御さんも心配してるだろう」
おっさんは、俺の手を取って立たせた。
失禁も気にせず、おぶってくれた。
なんと幸せなことか。
背中の上のおっさん
おっさんの背中は、あたたかかった。
耳の後ろで、ふう、ふう、と息づかいが聞こえた。
けれど、その息には、なぜか白いもやがなかった。
吐く息が、冬の空気に溶けていく様子が、一度も見えない。
それに気づいたとき、俺はなぜか、まだ幸せな気持ちのままだった。
でも、どこか土の匂いがした。
安心しきっていた俺は、ふと思い立って、肩越しに聞いてみた。
「おじちゃん、車も電気もないの? 大丈夫?」
「あー…。ダメだダメだ」
おっさんが答えた。
変な返事だな、と思った。
ダメって、何がダメなんだろう。
緊張の糸が切れて有頂天だった俺には、遠い世界の声のように聞こえた。
他人事みたいだった。
「おじちゃんだけ来てくれたの? 他のみんなは?」
「あー…。ダメだよそれ」
噛み合わない。どういう答えだよ。
あれ、と思った。
山側に向かって歩いていないか。
公民館は、反対のはずだ。
「おじちゃん、こっちは…」
「あっ。ダメだよダメ! ダメダメ! もう聞くなっ、きくなっ、きくなっ、きくなっあ゙あ゙あ゙あ゙あああ!!!!」
おっさんの声が、伸びたテープみたいな、モァンモァンの声になった。
肩越しに急に振り向いた顔は、目の前で見ても、真っ暗闇だった。
俺の記憶は、そこで飛んだ。
目を覚ましたのは、その日の深夜だった。
夜の山道は、行きも帰りも、あの晩のままの顔をしていた。
心配して探しに来た親に、泣きながらビンタされて起こされた。
俺は、山道から谷側に少し入った草むらに倒れていた。
爪の間に、湿った土が詰まっていた。
父は、俺を背負って、黙って家まで歩いた。
母は玄関で、俺のズボンを見て、何も聞かずに風呂を沸かしてくれた。
湯船に浸かっても、背中のぬくもりだけが、消えなかった。
「どこで拾うてもろたん」
母が、扉の向こうからそっと尋ねた。
「竹のとこで、おじちゃんが」
そう答えた瞬間、母の足音が止まった。
しばらくして、母は低い声で言った。
「そのこと、誰にも言いなさんな」
一番怖かったのは、地域の連中が、誰一人として俺を探しに来ていなかったことだ。
先に着いて待っとくからな、と言った大人たちは、公民館で、何事もなかったように茶を飲んでいたという。
そして、後になって思い出した。
あの人影は、名字を呼んだのだ。
俺は、そのとき、返事をしていた。
「おじちゃん」と、泣きながら。
マラソン大会の選手には、結局、一度も選ばれなかった。
それを悔しいと思う余裕すら、あの頃の俺にはなかった。
公民館の前を通るたびに、遠くの山の稜線を、まともに見られなかった。
翌週、父と二人で、昼の山道を歩いた。
竹のドームは、拍子抜けするほど明るく、ただの竹林だった。
路上の泥の上には、俺の転んだ跡がはっきり残っていた。
けれど、その隣に並ぶはずの足跡は、どこにもなかった。
父は、それを黙って見下ろし、俺の肩に手を置いた。
「帰ろう」
それだけ言って、二度と、その場所のことを口にしなかった。
帰り道、父の手は、少しだけ汗ばんでいた。
似たような出来事は、他にも残されている。
川で釣り上げた布の人形のように、思わぬ形で過去が追いついてくる話もある。
風呂場の遺影と髪の毛のように、理由の分からない演出だけが残る話もある。
新居を引き払い、俺たち一家は引っ越した。