
この話を知ってしまった人のところには、いつか鹿島さんが来る。
兵庫県の加古川で育った私は、高校一年の冬にそれを聞いた。
聞いた翌日、校内放送が流れた。
「昨日の話を口にした生徒は、職員室まで来なさい」
理由の説明は、最後までなかった。
放送が終わると、教室の空気が、ひやりと冷えた。
先生は黒板に向かったまま、チョークを持つ手を止めていた。
窓の外では、冬の雲が、低く垂れ込めていた。
誰も、ケンジの席を見なかった。
見ないことが、そのときの教室の礼儀のようだった。
その日から、校内でこの話をすることは、暗黙の禁止になった。
加古川線の鉄橋の話
話をしてくれたのは、同じクラスのケンジだった。
放課後の渡り廊下で、彼は声を落とした。
「戦争が終わってすぐの頃にな、駅の近くで、ひとりの女の人が悲しい目に遭ったんや」
「どんな目に」
「そこは、おれも詳しくは知らん。ただ、生きる気力を、すっかりなくしてしまったそうや」
「それで」
「鉄橋の上から、帰らぬ人になった」
ケンジはそれ以上、言わなかった。
言いたくない、という顔だった。
当時のことを覚えている人は、数日もすると、ほとんどいなくなったという。
時代が時代だったから、と祖母は後に言った。
問題が起きたのは、それから数か月後のことだ。
私はその夜、台所で祖母に尋ねた。
「ばあちゃん、鹿島さんって、知ってる?」
祖母は、煮物の火を止めた。
湯気の向こうで、しばらく黙っていた。
「その名前は、夜に口にするもんやない」
「昼なら、ええの」
「昼でも、あまり、よう言わん」
祖母は、乾いた手で、私の頭を撫でた。
「もし、夜中に目が覚めて、何か来たら」
「うん」
「目だけは、閉じたらあかんよ。何があっても」
その声は、いつもの祖母の声より、ずっと低かった。
朝は元気だった人が、その日のうちに帰らぬ人になる。
そんなことが、町のあちこちで続いた。
一軒の家で起きると、次は近所の家で起きる。
警察が聞き取りをすると、どの家にも同じ話があった。
「昨日の夜、おかしな光を見た」
亡くなった人は、決まって最期の朝、そう口にしていた。
当時の新聞にも載った事件だったそうだ。
町はたちまち、パニックになった。
夕方になると、通りから人影が消えた。
商店のシャッターは、日の暮れる前に下ろされた。
子どもたちは、日没までに家へ帰された。
町全体が、息をひそめて夜を待っていた。
加古川の警察署には、対策本部が置かれた。
地図に浮かんだ形
ある警察官が、事件の起きた家に印をつけて、地図の上で線を結んだ。
そして、気がついた。
線は少しずつ、ひとつの形になっていった。
首のない、手足のない、細長い胴の形だった。
地図を囲んだ大人たちは、しばらく誰も口をきかなかった。
壁の時計が、かち、と鳴った。
誰かが湯呑みを置く音が、やけに大きく響いた。
年配の刑事が、煙草を指に挟んだまま、火をつけるのを忘れていた。
「これは、偶然やない」
誰かが、かすれた声で言った。
形が決まれば、次に狙われる家も見当がつく。
警察は住民に告げた。
「光を見た人は、すぐに届け出てください」
それでも、線の上の家では、また誰かが光を見た。
そして、届け出る前に、帰らぬ人になった。
実は、あれは光ではなかったのだ。
最期の朝の告白は、どれも似ていた。
「夜中に、ふっと目が覚めました」
「ぼんやり明るいものが見えて、だんだん、こっちへ寄ってくるんです」
「光の中で、何かが動いていて」
「線香のような、湿った匂いがしました」
「畳を擦る音が、耳のすぐ近くで、止まって」
「首も手足もないものが、肩を左右に揺らしながら、這ってくるんです」
「怖くなって、目を閉じました」
その人たちは、みな、目を閉じた。
次に見た人も、その次の人も、同じだった。
目を閉じた人だけが、翌朝、帰らぬ人になった。
鹿島さん、と三度
次は自分の番だと悟った男が、加古川と高砂の間にある鹿島神社へ走った。
受験の前には、地元の人が必ず手を合わせに行く神社だ。
お祓いをしてもらった男は、神主の顔を見て、背筋が冷えたという。
神主は、長いこと黙っていた。
「暗闇の向こうに、強い怨みが見えます」
「お祓いでは、拭いきれません」
「ただ、ひとつだけ、守る手立てがあります」
男は身を乗り出した。
「夜、それが這ってきても、決して目を閉じてはいけません」
「目を開けたまま、口で三度、鹿島さん、鹿島さん、鹿島さんと叫びなさい」
「この神社の神様を、呼ぶのです」
その夜、男は寝床で息をひそめていた。
窓の外が、薄く明るくなった。
畳の目を擦るような音が、近づいてきた。
ずっ、ずっ、ずっ。
肩を揺らして這う音だった。
男の喉が鳴った。
まぶたが、勝手に落ちかける。
その瞬間、神主の声が耳の奥で響いた。
男は歯を食いしばって、目を見開いた。
「鹿島さん、鹿島さん、鹿島さん」
するとそれは、男の布団の周りを、ゆっくり二周したという。
そして、ふっと、闇に溶けて消えた。
朝になると、男は生きていた。
男は縁側に出て、冷たい朝の空気を、胸いっぱいに吸い込んだという。
庭の霜柱が、いつもより白く、まぶしく見えた。
隣の家の人が、不思議そうに、彼の顔を覗き込んだ。
「あんた、一晩で、えらい老けたなあ」
男は、返事ができなかった。
目を閉じなかった夜
話は、それで終わりのはずだった。
けれど怨みは、それほど浅くはなかった。
男が旅に出た先にも、それは現れたという。
その後の男のことは、誰も知らない。
ケンジは、話の最後に、こう言った。
「この話を知った人のところには、いつかそれが来るらしいで」
私は笑ってごまかした。
けれど、その夜から、私は寝る前に必ず、窓を確かめるようになった。
それから三年、何も起きなかった。
正確には、何も起きていないことにして、暮らしていた。
高校二年の秋、体育館の裏で、先輩たちがその話をしていた。
私が近づくと、ふっと話が止まった。
「お前、あの話、知ってる側か」
「……はい」
「そうか」
先輩は煙草の火を足で踏み消して、目を逸らした。
「じゃあ、夜は、窓を閉めとけ」
理由は、聞かなかった。
三年の春には、町の掲示板に、誰かが貼った紙を見た。
夜道の光に注意、と手書きで書かれていた。
その紙は、翌日にはもう剥がされていた。
誰が貼ったのかは、今も分からない。
その頃から、私は夜中に目を覚ますたび、天井の隅を確かめる癖がついた。
何もない天井の隅が、かえって怖かった。
大学進学を控えた冬の夜、私は夜中にふと目を覚ました。
その夜は、母が風邪で早く寝て、家の中が静まり返っていた。
石油ストーブの灯油が切れかけて、部屋の空気が、少しずつ冷えていった。
時計の秒針の音だけが、やけに大きかった。
カーテンの隙間が、ぼんやり白んでいた。
月の光にしては、色がぬるかった。
ずっ。
ずっ。
廊下の床板を擦る音が、私の部屋の前で止まった。
体が動かなかった。
目を閉じたい。
閉じてしまえば、見なくて済む。
そのとき、ケンジの声が蘇った。
目を閉じたら、だめだ。
私は目玉が乾くほど、天井を見つめ続けた。
鼻先を、湿った線香の匂いが通り過ぎた。
畳ではなく、フローリングの床なのに、あの擦れる音だけが、確かにそこにあった。
肩を揺らす影が、天井の白い壁に、ゆっくりと映った。
その影には、首がなかった。
手も足も、なかった。
肩を揺らす気配が、私の布団の縁まで来た。
冷たい空気が、頬を撫でた。
「鹿島さん、鹿島さん、鹿島さん」
自分の声とは思えない、掠れた声だった。
気配は、私の周りをぐるりと一周した。
そして、静かに、遠のいた。
朝まで、私は一睡もできなかった。
翌日、私はケンジに電話をかけた。
彼は黙って聞いてから、ぽつりと言った。
「おれのとこにも、去年の冬に来たわ」
「……そうか」
「あれ、本当に目を閉じたら、だめやったな」
「何て、唱えた」
「そのまま、三回や。声が裏返ったけどな」
「おれもや」
受話器の向こうで、ケンジが、かすかに笑った。
笑い声は、すぐに掠れて消えた。
その週末、私はひとりで鹿島神社へ行った。
参道の石段は、苔で湿っていた。
境内の杉の梢が、風もないのに、さわさわと鳴った。
手水舎の水は、指が痺れるほど冷たかった。
賽銭箱の前で手を合わせると、背中のあたりがふっと軽くなった。
帰り道、社務所の前で、掃き掃除をしていた老人が声をかけてきた。
「あんた、ここの話を知っとる顔やな」
「……はい」
「ええか。信じて、唱えなさい。疑うたら、神様にも届かんで」
老人はそれだけ言って、また箒を動かし始めた。
この話を読んでしまったあなたのところにも、いつか来るのかもしれない。
もし夜中に、床を擦る音が聞こえたら、決して目を閉じないでください。
そして、三度、鹿島さんと唱えてください。