あの電話のことを、僕はいまも、誰にも話していない。
話せば、また、かかってくる気がするからだ。
※
大学を卒業する直前の、まだ肌寒い三月のことだった。
僕と、沢田と、木島の三人は、卒業旅行に出かけた。
行き先は、沢田の家が持っている、湖のほとりの古い貸別荘だった。
祖父が建てたきり、もう何年も使われていない、という話だった。
山道を車で登りきると、針葉樹の林の奥に、その建物はあった。
黒く煤けた、二階建ての木造の別荘だった。
窓ガラスは曇り、軒下には、鳥の古い巣が、いくつも残っていた。
玄関の鍵を開けると、かびと、埃の匂いが、どっと押し寄せてきた。
廊下の奥は、昼でも、薄暗かった。
壁には、色の褪せた風景画が、傾いたまま、掛かっていた。
居間の棚に、一冊の古い宿帳が、置かれていた。
何気なくめくると、最後の記録は、二十年も前で止まっていた。
その最後の行に、震えた字で、こう書かれていた。
「電話に出るな」
「いたずらだよ。爺さん、ぼけてたから」と、沢田は笑い飛ばした。
僕は、その一行を、なぜか、写真に撮ることもできなかった。
湖は、別荘のすぐ下にあった。
風のない日で、水面は、鏡のように、空を映していた。
「いいとこだろ。電波は届かねえけどな」と、沢田が笑った。
確かに、携帯電話は、圏外を示したまま、うんともすんとも言わなかった。
※
その日の昼、僕たちは、湖のまわりを散歩した。
桟橋の先で、沢田が、一人の女の子と話し込んでいた。
地元の子だ、と沢田は言った。
色の白い、髪の長い子だった。
「別荘の電話番号、教えといたわ。今夜、電話くれるかもって」と、沢田は得意げだった。
「お前、ナンパしてる場合かよ」と、木島が呆れた。
そのとき僕は、ふと、妙なことに気づいた。
その女の子の足元から、影が、伸びていなかったのだ。
昼の、強い日差しの下なのに。
気のせいだ、と僕は思い直した。
それに、おかしなことが、もう一つあった。
その子は、ずっと、湖のほうを、向いて立っていた。
沢田と話しているのに、一度も、こちらを、見なかった。
「あの子、地元のどこの子だって?」と、あとで僕は聞いた。
「さあ。名前も、聞いてねえや」と、沢田は首をかしげた。
その日、湖のまわりで、僕たちは、他の人間を、一人も見かけなかった。
※
夜になった。
別荘には、黒い、古い黒電話が一台あった。
ダイヤル式の、ずいぶん旧式のものだ。
「これ、まだ繋がってんの?」と、僕は聞いた。
「さあな。爺さんの代のやつだし」と、沢田は肩をすくめた。
そもそも、こんな山奥の別荘に、電話線が来ていること自体、不思議だった。
僕たちは、暖炉の前で、缶ビールを開けて、馬鹿話をしていた。
夜の十一時を過ぎた頃だった。
突然、その黒電話が、鳴った。
ジリリリン、という、耳をつんざくような、古い音だった。
三人とも、一瞬、言葉を失った。
「ほら、例の子だろ」と、木島が、沢田の肩を小突いた。
沢田は、にやにやしながら、受話器を取った。
「はいはい、お待ちしてましたよ」
だが、次の瞬間、沢田の顔から、笑みが消えた。
※
「……もしもし?」と、沢田が、声を落とした。
受話器の向こうから、何かが、聞こえていた。
僕たちにも、その音は、かすかに漏れ聞こえた。
女の声だった。
だが、その声は、ひどく歪んでいた。
カセットテープを、早送りしたような。
『あなた……ギリリリリ……でしょう?』
そう、聞こえた。
早送りの、潰れた高い音にまぎれて、肝心なところが、聞き取れない。
「どなたですか」と、沢田が尋ねた。
だが、返ってくるのは、同じ言葉だけだった。
『あなた……ギリリリリ……でしょう?』
『あなた……ギリリリリ……でしょう?』
何度も、何度も。
壊れた機械のように、ただ、繰り返される。
その声には、抑揚が、まったく、なかった。
息継ぎの音も、しなかった。
ただ、同じ高さで、同じ速さで、言葉だけが、流れ続けた。
受話器を持つ沢田の手が、小刻みに、震えていた。
窓の外の湖が、月明かりに、白く、光っていた。
その水面に、ぽつんと、人影のようなものが、立っているのが、見えた気がした。
瞬きをすると、それは、もう、消えていた。
沢田の額に、汗が滲んでいた。
彼は、乱暴に、受話器を、叩きつけるように置いた。
※
「なんだったんだよ」と、木島が聞いた。
「わかんねえ。女の声で、ずっと同じこと、繰り返してた」と、沢田が答えた。
「あなた、なんとかでしょう、って。早送りみたいで、聞き取れねえんだ」
暖炉の薪が、ぱちん、と爆ぜた。
その音に、三人とも、びくりと、肩を震わせた。
「……いたずら電話だろ」と、僕は言った。
自分に言い聞かせるように。
「だよな。地元のガキの、いたずらだ」と、沢田もうなずいた。
その夜は、結局、それきり、電話は鳴らなかった。
だが、僕は、なかなか寝つけなかった。
あの、影のない女の子のことが、頭から、離れなかったのだ。
夜中、僕は、喉の渇きで、目を覚ました。
台所へ向かう廊下で、ふと、足が止まった。
あの黒電話の受話器が、外れて、床に、垂れ下がっていた。
確かに、沢田が、戻したはずだった。
受話器に、耳を、近づけてみた。
ツー、という発信音の奥で、かすかに、あの声が、聞こえた気がした。
僕は、急いで、それを、元に戻した。
※
翌朝、僕と木島は、先に帰ることにした。
沢田は、「もう一泊して、片付けてから帰る」と言った。
別れ際、沢田は、いつもの調子で、手を振った。
それが、僕が見た、生きている沢田の、最後の姿だった。
その夜、沢田は、湖で死んだ。
あとで聞いた話では、沢田は、その晩、夜通し、誰かと電話で話していたらしい。
近くの民宿の主人が、明かりの灯った別荘から、沢田の声を、聞いていた。
「誰と、話してるんだろうと、思ってね」と、主人は言った。
「だって、あの別荘の電話は、十年も前に、線が切られてるはずなんだよ」
その言葉に、僕は、足元が、崩れるような気がした。
あの夜、確かに、鳴った、黒電話。
あれは、どこから、繋がっていたのか。
夜中に、一人で湖に入っていって、溺れたのだという。
なぜ、そんなことをしたのか、誰にも、分からなかった。
警察は、事故と、自殺の両面で調べた。
だが、彼が、自ら死を選ぶ理由は、何一つ、なかった。
卒業も決まり、就職先も決まっていた。
葬儀の日、沢田の母親が、僕の手を取って、言った。
「あの子、最後に電話で、変なこと言ってたの」
「『誰かに、呼ばれてる気がする』って」
僕は、何も、言えなかった。
あの夜の電話のことを、口にすることが、できなかった。
言えば、何かが、こちらを、振り向く気がしたのだ。
沢田の四十九日が過ぎたころ、僕は、あの別荘のことを、調べてみた。
古い地元の新聞の縮刷版を、図書館で、片端から、めくった。
そして、見つけてしまった。
二十数年前、あの湖で、一人の若い女性が、亡くなっていた。
恋人に去られ、湖に身を投げたのだという。
記事には、こう書かれていた。
「女性は、亡くなる直前、何度も、別荘に電話をかけていた」
「だが、誰も、その電話に、出なかった」
宿帳の、あの一行が、頭をよぎった。
「電話に出るな」
沢田の祖父は、知っていたのだ。
あの、影のない女の子のことを、僕は、誰にも、言えなかった。
※
それから、一年が過ぎた。
僕は、社会人になり、忙しさの中で、少しずつ、あの夜のことを、忘れていった。
木島とも、たまにしか、連絡を取らなくなっていた。
ある夜、その木島から、突然、電話がかかってきた。
「久しぶりだな」と、僕は言った。
だが、木島の声は、ひどく、沈んでいた。
「なあ、覚えてるか。あの、湖の別荘でさ」と、木島は切り出した。
「沢田に、変な電話、かかってきただろ」
「ああ。あったな」と、僕は答えた。
心臓が、嫌な音を立て始めた。
「あの電話さ……」と、木島は、声を震わせた。
「俺のところにも、かかってきたんだ。昨日の夜」
※
僕は、息を、呑んだ。
「同じ、声だった。早送りみたいな、女の声」と、木島は続けた。
「『あなた……でしょう?』って。何度も、何度も」
「俺……死ぬのかな」
「沢田も、あの電話のあとに、死んだだろ」
「そんなの、ただの偶然だ」と、僕は、必死で言った。
「気にするなよ。なあ、久しぶりに、会わないか」
「そうだな……会おう」と、木島は、力なく、答えた。
待ち合わせの日を、決めて、僕たちは、電話を切った。
だが、その約束は、果たされなかった。
※
待ち合わせの日、木島は、現れなかった。
いくら電話をかけても、出ない。
嫌な予感だけが、膨らんでいった。
数日後、僕は、木島の死を、知った。
待ち合わせ場所へ向かう途中、踏切で、事故に遭ったのだという。
遮断機の下りた踏切に、なぜか、自分から、入っていったのだと。
目撃者は、口を揃えて、こう言った。
「あの人、何かに、呼ばれてるみたいだった」と。
木島の通夜で、僕は、彼の母親から、一枚のメモを、見せられた。
木島が、亡くなる前夜、走り書きしたものだという。
そこには、ただ、一言。
「やっと、聞き取れた」
それだけが、書かれていた。
僕は、その意味を、まだ、知らなかった。
知るのは、もっと、あとのことだ。
※
それ以来、僕は、電話に出るのが、恐ろしくなった。
着信があっても、決して、自分では出ない。
すべて、留守番電話に、任せた。
知らない番号には、二度と、出なかった。
数ヶ月が、過ぎた。
何も、起こらなかった。
僕は、少しずつ、また、あの恐怖を、忘れ始めていた。
いや、忘れたふりを、していただけ、かもしれない。
夜、電話が鳴るたびに、心臓が、跳ねた。
知らない番号の着信が、日に日に、増えていた。
非通知の着信も、何度か、あった。
そのたびに、僕は、画面を、ただ、見つめていた。
留守番電話には、いつも、何も、吹き込まれていなかった。
ただ、かすかに、テープを早送りするような、音だけが、残っていることが、あった。
そのころ、僕には、付き合い始めた恋人がいた。
その夜も、僕は、彼女と、長電話をしていた。
他愛もない話で、笑い合って、明日の約束をして、電話を、切った。
※
受話器を置いた、その直後だった。
電話が、また、鳴った。
彼女が、何か言い忘れたのだろう。
僕は、何の疑いもなく、受話器を、取った。
「もしもし、どうした?」
だが、聞こえてきたのは、彼女の声では、なかった。
『あなた……ギリリリリ……でしょう?』
全身の血が、凍りついた。
あの、声だった。
あの、早送りの、潰れた、女の声。
「やめろ! 誰なんだ!」と、僕は叫んだ。
だが、声は、止まらない。
『あなた……ギリリリリ……でしょう? あなた……ギリリリリ……でしょう?』
※
切れば、死ぬ。
なぜか、僕は、そう確信した。
沢田も、木島も、あの電話のあとに、死んだ。
だから僕は、受話器を、握りしめたまま、離さなかった。
耳に、あの声を、浴び続けた。
何時間、そうしていただろう。
気づけば、窓の外が、白み始めていた。
腕は、痺れ、指は、受話器に貼りついたようだった。
耳の奥が、その声で、いっぱいに、なっていた。
僕の頭の中で、誰かが、囁き始めた。
楽になれ、と。
もう、切ってしまえ、と。
切れば、この声からも、解放される、と。
その囁きは、自分自身の声と、区別が、つかなかった。
考えてみれば、僕にも、生きるのが、つらい時期は、あった。
就職してから、何もかも、うまくいかず、布団から、出られない朝もあった。
あの女は、きっと、その匂いを、嗅ぎつけたのだ。
弱った心は、甘い囁きに、抗えない。
死ねば、楽になる。
そう囁かれて、否定できる人間が、どれだけ、いるだろう。
僕は、爪が手のひらに食い込むほど、拳を、握りしめた。
痛みだけが、僕を、こちら側に、繋ぎとめていた。
僕は、奥歯を、噛みしめて、それに、抗った。
沢田と木島が、うなずいてしまったのは、これだ、と思った。
もう、限界だった。
そのときだ。
声の、早送りの部分が、少しずつ、ゆっくりに、なっていった。
※
『あなた……ギリ……ギリ……でしょう?』
潰れていた音が、ほどけていく。
歪んでいた声が、人間の声へと、近づいていく。
そして、とうとう、その言葉が、はっきりと、聞き取れた。
『あなた……死にたいん、でしょう?』
その瞬間、僕は、すべてを、理解した。
あの女は、ずっと、こう、訊いていたのだ。
死にたいんでしょう、と。
そして、沢田も、木島も、心のどこかで、それに、うなずいてしまったのだ。
※
「死にたくない!」と、僕は、叫んだ。
声を、振り絞って。
「俺は、死にたくない! 生きたいんだ!」
その瞬間、電話が、ぷつりと、切れた。
後には、静かな、発信音だけが、残った。
僕は、その場に、崩れ落ちた。
窓から、朝の光が、差し込んでいた。
あの女は、ただ、仲間が、欲しかったのかもしれない。
自分と、同じ闇を、抱えた者を。
だから、心の弱った瞬間を、狙って、訊いてくるのだ。
死にたいんでしょう、と。
うなずけば、引きずり込まれる。
拒めば、解放される。
たったそれだけの、残酷な、問いかけ。
僕は、たまたま、拒むことが、できただけだ。
※
あれから、何年も、経つ。
僕は、いまも、元気に、生きている。
あの電話は、二度と、かかってこない。
ただ、一つだけ、気がかりなことがある。
先日、僕の恋人が、ふと、こう言ったのだ。
「ねえ、あの夜の電話、切ったあと、すぐに、もう一回かけ直したんだけど」
「ずっと、話し中だったよね。あなた、誰と、話してたの?」
話し中だった、という、その時間。
僕は、確かに、受話器を、握りしめていた。
だが、あの声は、本当に、外から、かかってきたものだったのか。
それとも、僕自身の、いちばん弱い部分が、僕に、問いかけていたのか。
いまでも、僕には、分からない。
僕は、まだ、その問いに、答えられずにいる。