…からの電話

あの電話のことを、僕はいまも、誰にも話していない。

話せば、また、かかってくる気がするからだ。

大学を卒業する直前の、まだ肌寒い三月のことだった。

僕と、沢田と、木島の三人は、卒業旅行に出かけた。

行き先は、沢田の家が持っている、湖のほとりの古い貸別荘だった。

祖父が建てたきり、もう何年も使われていない、という話だった。

山道を車で登りきると、針葉樹の林の奥に、その建物はあった。

黒く煤けた、二階建ての木造の別荘だった。

窓ガラスは曇り、軒下には、鳥の古い巣が、いくつも残っていた。

玄関の鍵を開けると、かびと、埃の匂いが、どっと押し寄せてきた。

廊下の奥は、昼でも、薄暗かった。

壁には、色の褪せた風景画が、傾いたまま、掛かっていた。

居間の棚に、一冊の古い宿帳が、置かれていた。

何気なくめくると、最後の記録は、二十年も前で止まっていた。

その最後の行に、震えた字で、こう書かれていた。

「電話に出るな」

「いたずらだよ。爺さん、ぼけてたから」と、沢田は笑い飛ばした。

僕は、その一行を、なぜか、写真に撮ることもできなかった。

湖は、別荘のすぐ下にあった。

風のない日で、水面は、鏡のように、空を映していた。

「いいとこだろ。電波は届かねえけどな」と、沢田が笑った。

確かに、携帯電話は、圏外を示したまま、うんともすんとも言わなかった。

その日の昼、僕たちは、湖のまわりを散歩した。

桟橋の先で、沢田が、一人の女の子と話し込んでいた。

地元の子だ、と沢田は言った。

色の白い、髪の長い子だった。

「別荘の電話番号、教えといたわ。今夜、電話くれるかもって」と、沢田は得意げだった。

「お前、ナンパしてる場合かよ」と、木島が呆れた。

そのとき僕は、ふと、妙なことに気づいた。

その女の子の足元から、影が、伸びていなかったのだ。

昼の、強い日差しの下なのに。

気のせいだ、と僕は思い直した。

それに、おかしなことが、もう一つあった。

その子は、ずっと、湖のほうを、向いて立っていた。

沢田と話しているのに、一度も、こちらを、見なかった。

「あの子、地元のどこの子だって?」と、あとで僕は聞いた。

「さあ。名前も、聞いてねえや」と、沢田は首をかしげた。

その日、湖のまわりで、僕たちは、他の人間を、一人も見かけなかった。

夜になった。

別荘には、黒い、古い黒電話が一台あった。

ダイヤル式の、ずいぶん旧式のものだ。

「これ、まだ繋がってんの?」と、僕は聞いた。

「さあな。爺さんの代のやつだし」と、沢田は肩をすくめた。

そもそも、こんな山奥の別荘に、電話線が来ていること自体、不思議だった。

僕たちは、暖炉の前で、缶ビールを開けて、馬鹿話をしていた。

夜の十一時を過ぎた頃だった。

突然、その黒電話が、鳴った。

ジリリリン、という、耳をつんざくような、古い音だった。

三人とも、一瞬、言葉を失った。

「ほら、例の子だろ」と、木島が、沢田の肩を小突いた。

沢田は、にやにやしながら、受話器を取った。

「はいはい、お待ちしてましたよ」

だが、次の瞬間、沢田の顔から、笑みが消えた。

「……もしもし?」と、沢田が、声を落とした。

受話器の向こうから、何かが、聞こえていた。

僕たちにも、その音は、かすかに漏れ聞こえた。

女の声だった。

だが、その声は、ひどく歪んでいた。

カセットテープを、早送りしたような。

『あなた……ギリリリリ……でしょう?』

そう、聞こえた。

早送りの、潰れた高い音にまぎれて、肝心なところが、聞き取れない。

「どなたですか」と、沢田が尋ねた。

だが、返ってくるのは、同じ言葉だけだった。

『あなた……ギリリリリ……でしょう?』

『あなた……ギリリリリ……でしょう?』

何度も、何度も。

壊れた機械のように、ただ、繰り返される。

その声には、抑揚が、まったく、なかった。

息継ぎの音も、しなかった。

ただ、同じ高さで、同じ速さで、言葉だけが、流れ続けた。

受話器を持つ沢田の手が、小刻みに、震えていた。

窓の外の湖が、月明かりに、白く、光っていた。

その水面に、ぽつんと、人影のようなものが、立っているのが、見えた気がした。

瞬きをすると、それは、もう、消えていた。

沢田の額に、汗が滲んでいた。

彼は、乱暴に、受話器を、叩きつけるように置いた。

「なんだったんだよ」と、木島が聞いた。

「わかんねえ。女の声で、ずっと同じこと、繰り返してた」と、沢田が答えた。

「あなた、なんとかでしょう、って。早送りみたいで、聞き取れねえんだ」

暖炉の薪が、ぱちん、と爆ぜた。

その音に、三人とも、びくりと、肩を震わせた。

「……いたずら電話だろ」と、僕は言った。

自分に言い聞かせるように。

「だよな。地元のガキの、いたずらだ」と、沢田もうなずいた。

その夜は、結局、それきり、電話は鳴らなかった。

だが、僕は、なかなか寝つけなかった。

あの、影のない女の子のことが、頭から、離れなかったのだ。

夜中、僕は、喉の渇きで、目を覚ました。

台所へ向かう廊下で、ふと、足が止まった。

あの黒電話の受話器が、外れて、床に、垂れ下がっていた。

確かに、沢田が、戻したはずだった。

受話器に、耳を、近づけてみた。

ツー、という発信音の奥で、かすかに、あの声が、聞こえた気がした。

僕は、急いで、それを、元に戻した。

翌朝、僕と木島は、先に帰ることにした。

沢田は、「もう一泊して、片付けてから帰る」と言った。

別れ際、沢田は、いつもの調子で、手を振った。

それが、僕が見た、生きている沢田の、最後の姿だった。

その夜、沢田は、湖で死んだ。

あとで聞いた話では、沢田は、その晩、夜通し、誰かと電話で話していたらしい。

近くの民宿の主人が、明かりの灯った別荘から、沢田の声を、聞いていた。

「誰と、話してるんだろうと、思ってね」と、主人は言った。

「だって、あの別荘の電話は、十年も前に、線が切られてるはずなんだよ」

その言葉に、僕は、足元が、崩れるような気がした。

あの夜、確かに、鳴った、黒電話。

あれは、どこから、繋がっていたのか。

夜中に、一人で湖に入っていって、溺れたのだという。

なぜ、そんなことをしたのか、誰にも、分からなかった。

警察は、事故と、自殺の両面で調べた。

だが、彼が、自ら死を選ぶ理由は、何一つ、なかった。

卒業も決まり、就職先も決まっていた。

葬儀の日、沢田の母親が、僕の手を取って、言った。

「あの子、最後に電話で、変なこと言ってたの」

「『誰かに、呼ばれてる気がする』って」

僕は、何も、言えなかった。

あの夜の電話のことを、口にすることが、できなかった。

言えば、何かが、こちらを、振り向く気がしたのだ。

沢田の四十九日が過ぎたころ、僕は、あの別荘のことを、調べてみた。

古い地元の新聞の縮刷版を、図書館で、片端から、めくった。

そして、見つけてしまった。

二十数年前、あの湖で、一人の若い女性が、亡くなっていた。

恋人に去られ、湖に身を投げたのだという。

記事には、こう書かれていた。

「女性は、亡くなる直前、何度も、別荘に電話をかけていた」

「だが、誰も、その電話に、出なかった」

宿帳の、あの一行が、頭をよぎった。

「電話に出るな」

沢田の祖父は、知っていたのだ。

あの、影のない女の子のことを、僕は、誰にも、言えなかった。

それから、一年が過ぎた。

僕は、社会人になり、忙しさの中で、少しずつ、あの夜のことを、忘れていった。

木島とも、たまにしか、連絡を取らなくなっていた。

ある夜、その木島から、突然、電話がかかってきた。

「久しぶりだな」と、僕は言った。

だが、木島の声は、ひどく、沈んでいた。

「なあ、覚えてるか。あの、湖の別荘でさ」と、木島は切り出した。

「沢田に、変な電話、かかってきただろ」

「ああ。あったな」と、僕は答えた。

心臓が、嫌な音を立て始めた。

「あの電話さ……」と、木島は、声を震わせた。

「俺のところにも、かかってきたんだ。昨日の夜」

僕は、息を、呑んだ。

「同じ、声だった。早送りみたいな、女の声」と、木島は続けた。

「『あなた……でしょう?』って。何度も、何度も」

「俺……死ぬのかな」

「沢田も、あの電話のあとに、死んだだろ」

「そんなの、ただの偶然だ」と、僕は、必死で言った。

「気にするなよ。なあ、久しぶりに、会わないか」

「そうだな……会おう」と、木島は、力なく、答えた。

待ち合わせの日を、決めて、僕たちは、電話を切った。

だが、その約束は、果たされなかった。

待ち合わせの日、木島は、現れなかった。

いくら電話をかけても、出ない。

嫌な予感だけが、膨らんでいった。

数日後、僕は、木島の死を、知った。

待ち合わせ場所へ向かう途中、踏切で、事故に遭ったのだという。

遮断機の下りた踏切に、なぜか、自分から、入っていったのだと。

目撃者は、口を揃えて、こう言った。

「あの人、何かに、呼ばれてるみたいだった」と。

木島の通夜で、僕は、彼の母親から、一枚のメモを、見せられた。

木島が、亡くなる前夜、走り書きしたものだという。

そこには、ただ、一言。

「やっと、聞き取れた」

それだけが、書かれていた。

僕は、その意味を、まだ、知らなかった。

知るのは、もっと、あとのことだ。

それ以来、僕は、電話に出るのが、恐ろしくなった。

着信があっても、決して、自分では出ない。

すべて、留守番電話に、任せた。

知らない番号には、二度と、出なかった。

数ヶ月が、過ぎた。

何も、起こらなかった。

僕は、少しずつ、また、あの恐怖を、忘れ始めていた。

いや、忘れたふりを、していただけ、かもしれない。

夜、電話が鳴るたびに、心臓が、跳ねた。

知らない番号の着信が、日に日に、増えていた。

非通知の着信も、何度か、あった。

そのたびに、僕は、画面を、ただ、見つめていた。

留守番電話には、いつも、何も、吹き込まれていなかった。

ただ、かすかに、テープを早送りするような、音だけが、残っていることが、あった。

そのころ、僕には、付き合い始めた恋人がいた。

その夜も、僕は、彼女と、長電話をしていた。

他愛もない話で、笑い合って、明日の約束をして、電話を、切った。

受話器を置いた、その直後だった。

電話が、また、鳴った。

彼女が、何か言い忘れたのだろう。

僕は、何の疑いもなく、受話器を、取った。

「もしもし、どうした?」

だが、聞こえてきたのは、彼女の声では、なかった。

『あなた……ギリリリリ……でしょう?』

全身の血が、凍りついた。

あの、声だった。

あの、早送りの、潰れた、女の声。

「やめろ! 誰なんだ!」と、僕は叫んだ。

だが、声は、止まらない。

『あなた……ギリリリリ……でしょう? あなた……ギリリリリ……でしょう?』

切れば、死ぬ。

なぜか、僕は、そう確信した。

沢田も、木島も、あの電話のあとに、死んだ。

だから僕は、受話器を、握りしめたまま、離さなかった。

耳に、あの声を、浴び続けた。

何時間、そうしていただろう。

気づけば、窓の外が、白み始めていた。

腕は、痺れ、指は、受話器に貼りついたようだった。

耳の奥が、その声で、いっぱいに、なっていた。

僕の頭の中で、誰かが、囁き始めた。

楽になれ、と。

もう、切ってしまえ、と。

切れば、この声からも、解放される、と。

その囁きは、自分自身の声と、区別が、つかなかった。

考えてみれば、僕にも、生きるのが、つらい時期は、あった。

就職してから、何もかも、うまくいかず、布団から、出られない朝もあった。

あの女は、きっと、その匂いを、嗅ぎつけたのだ。

弱った心は、甘い囁きに、抗えない。

死ねば、楽になる。

そう囁かれて、否定できる人間が、どれだけ、いるだろう。

僕は、爪が手のひらに食い込むほど、拳を、握りしめた。

痛みだけが、僕を、こちら側に、繋ぎとめていた。

僕は、奥歯を、噛みしめて、それに、抗った。

沢田と木島が、うなずいてしまったのは、これだ、と思った。

もう、限界だった。

そのときだ。

声の、早送りの部分が、少しずつ、ゆっくりに、なっていった。

『あなた……ギリ……ギリ……でしょう?』

潰れていた音が、ほどけていく。

歪んでいた声が、人間の声へと、近づいていく。

そして、とうとう、その言葉が、はっきりと、聞き取れた。

『あなた……死にたいん、でしょう?』

その瞬間、僕は、すべてを、理解した。

あの女は、ずっと、こう、訊いていたのだ。

死にたいんでしょう、と。

そして、沢田も、木島も、心のどこかで、それに、うなずいてしまったのだ。

「死にたくない!」と、僕は、叫んだ。

声を、振り絞って。

「俺は、死にたくない! 生きたいんだ!」

その瞬間、電話が、ぷつりと、切れた。

後には、静かな、発信音だけが、残った。

僕は、その場に、崩れ落ちた。

窓から、朝の光が、差し込んでいた。

あの女は、ただ、仲間が、欲しかったのかもしれない。

自分と、同じ闇を、抱えた者を。

だから、心の弱った瞬間を、狙って、訊いてくるのだ。

死にたいんでしょう、と。

うなずけば、引きずり込まれる。

拒めば、解放される。

たったそれだけの、残酷な、問いかけ。

僕は、たまたま、拒むことが、できただけだ。

あれから、何年も、経つ。

僕は、いまも、元気に、生きている。

あの電話は、二度と、かかってこない。

ただ、一つだけ、気がかりなことがある。

先日、僕の恋人が、ふと、こう言ったのだ。

「ねえ、あの夜の電話、切ったあと、すぐに、もう一回かけ直したんだけど」

「ずっと、話し中だったよね。あなた、誰と、話してたの?」

話し中だった、という、その時間。

僕は、確かに、受話器を、握りしめていた。

だが、あの声は、本当に、外から、かかってきたものだったのか。

それとも、僕自身の、いちばん弱い部分が、僕に、問いかけていたのか。

いまでも、僕には、分からない。

僕は、まだ、その問いに、答えられずにいる。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。