沖のブイと弟の左腕の傷

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三年前の夏、家族でI県の海辺のキャンプ場へ出かけた。

そこで私は、沖のブイにしがみついて震えている弟を見た。

弟の左腕には、向こう側まで貫く傷があった。

その傷の奥から、後日、医者が取り出したものを、私は今も忘れられない。

崖の上のキャンプ場

そのキャンプ場は、崖の上にあった。

駐車場から細い階段を下りていくと、小さな砂浜に出る。

地元では名の知れた海水浴場らしく、車が何台も停まっていた。

家族は五人。

父と母、兄、中学二年の弟、そして私。

弟は反抗期のただ中で、この旅行を最後まで嫌がっていた。

「行きたくない。友達と遊ぶ」

「たまには家族で行くものだ」

父は弟の腕をつかんで、車に乗せた。

弟は後部座席の窓に額を押しつけて、一言も話さなかった。

キャンプ場に着くと、管理人の老人が受付に座っていた。

日に焼けた顔で、帽子のつばが汗で黒くなっていた。

「泳ぐのは、旗の見える範囲までな」

老人は、地図に赤いペンで線を引いた。

「沖にブイが五つ並んどるでしょう。あれより外には出んこと」

「ブイは、五つですね」

母が確かめるように言った。

「五つ。ただね」

老人は、少し言い淀んだ。

「沖のブイは、数えんほうがええよ。たまに、一つ多いけん」

冗談だと思って、私たちは笑った。

老人だけが、笑わなかった。

テントを張り終えたのは、昼前だった。

崖の下の砂浜には、家族連れが何組もいた。

波は穏やかで、空はやけに青かった。

兄と私は、浅いところでゴムボートに空気を入れた。

弟は着替えると、誰とも話さず、一人で泳ぎに出ていった。

最初は、崖の真下の岩場。

それから、遊泳区域のいちばん外側にあるブイのあたり。

弟は昔から、一人で遠くへ行くのが好きだった。

私たちは、いつものことだと思って見ていた。

沖のブイの数

正午ごろから泳ぎ始めて、一時間ほどが過ぎた。

私は浜辺のパラソルの下で、麦茶を飲んでいた。

遠くから、声が聞こえた。

最初は、波の音かと思った。

「……が……て」

違う。人の声だった。

沖のブイのあたりで、誰かが叫んでいる。

目を凝らすと、弟だった。

ブイに両腕を回して、体を丸めている。

兄が先にボートへ走った。

私も後を追って、ボートに飛び乗った。

兄がオールを漕ぐ間、私は何気なく沖を見渡した。

赤い球が、横一列に浮かんでいる。

ひとつ、ふたつ、みっつ。

無意識に、数えていた。

よっつ、いつつ。

その先に、もうひとつ。

六つ目のブイが、いちばん遠くに浮かんでいた。

管理人の言葉が、頭をよぎった。

あれは、冗談ではなかったのか。

けれどボートは、弟のほうへ進んでいる。

弟がしがみついているのは、五つ目のブイだった。

少なくとも、そう見えた。

近づくと、弟の顔が見えた。

唇が紫色になって、歯がカチカチと鳴っていた。

目は、きつく閉じられている。

「何してんのー? 足でもつったの?」

兄が声をかけた。

弟は、目を開けなかった。

「……人っ! 人が! 腕ひっぱって!」

「人? 誰かに悪戯でもされたのか」

「ぎゃー! 子供! 服着てるっ!」

何を言っているのか、さっぱり分からなかった。

とにかく、ブイにしがみついた弟の脇を抱えて、ボートに引き上げた。

そのとき、私は気づいた。

弟の左腕、二の腕のあたりから、血が流れている。

海水に薄まって、ピンク色の筋が、ボートの底に広がっていった。

弟は、まだ「人が、人が」と繰り返していた。

目は、頑なに閉じたままだった。

「もう大丈夫だよ。岸に戻るから」

私がそう言うと、弟はようやく、ゆっくりと目を開けた。

そして私の背後の海を見て、悲鳴を上げて顔を伏せた。

私は振り返った。

何もなかった。

波と、ブイと、空があるだけだった。

ブイは、五つしか見えなかった。

六つ目は、どこにもなかった。

弟の左腕の傷口

岸に戻ると、兄が弟を背負って、崖の上のテントまで運んだ。

母が救急箱を開けて、傷を洗った。

傷口は、二センチほどの小さなものだった。

ただ、その傷は、腕を貫通していた。

入り口と出口が、同じ大きさで並んでいた。

鋭い歯を持つ魚に噛まれたのだろう、と父は言った。

弟は毛布にくるまったまま、しばらく黙っていた。

やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。

沖のブイにつかまって、ぼんやり浜を眺めていたこと。

ふと、離れたブイのあたりに、子供が一人浮かんでいるのが見えたこと。

「子供が一人でこんな沖まで、大丈夫なのかな」

そう思った瞬間、背中が冷たくなったという。

「何だか分からないけど、絶対に目を合わせたらダメだと思ったんだ」

弟は、毛布の端を握りしめた。

「目を逸らしたら、その嫌な感じが、少しずつこっちに近づいてきて」

「目を開けたら見てしまう。見たら、終わりだと思った」

怖くて泳いで戻ることもできず、ブイにしがみついたまま、助けを呼んでいたのだという。

私の声が聞こえるまで、ずっと目を閉じていた。

「兄ちゃんたちの声がして、返事をした瞬間、目を開けちゃったんだ」

弟の声が、かすれた。

「そしたら、左腕に子供がしがみついてた」

「顔が半分、溶けたみたいになってて」

「指が、腕にめり込んでた。髪の毛が体中に巻きついて」

「あのブイがなかったら、俺、連れていかれてた」

ここまで話して、弟は黙った。

私たちは、顔を見合わせた。

ボートで引き上げたとき、弟の体に、髪の毛なんてついていなかった。

それは、私が一番よく知っていた。

「ブイにつかまったまま、夢でも見たんだろう」

父はそう言って、話を打ち切った。

腕の傷は、魚の仕業ということになった。

弟だけが、最後まで首を振っていた。

その夜、バーベキューの煙の向こうで、私はふと階段のほうを見た。

崖の階段の、いちばん下の段が濡れていた。

乾いた夜なのに、ぽつ、ぽつ、と小さな足跡が、上へ続いている。

裸足の、子供の足跡に見えた。

私は誰にも言わず、サンダルの底でそっと擦って消した。

テントに戻ると、弟が毛布の中から、小さな声で言った。

「ボートに上げてもらう前に、もう誰かが俺の腕をつかんでたんだ」

私は何も返せなかった。

その夜、兄が昼間に撮った浜辺の写真を、スマートフォンで見返した。

正午ごろに撮った一枚があった。

沖に、ブイが並んでいる。

数えてみると、六つあった。

いちばん遠いブイの横に、小さな丸いものが浮かんでいた。

ブイと同じ大きさで、色だけが違う。

拡大しようとして、私は指を止めた。

見てはいけない気がして、画面を消した。

あの日以来、私は似た体験談を探して読むようになった。

土地が持つ気配を語る話なら、大きな馬のような体験談がある。

水辺ではなくても、誰かの視線が残る場所の話は、団地のエレベーターにもあった。

どの話にも、答えは書かれていない。

翌朝、父が管理人の老人に、事情を話しに行った。

老人は帽子を取って、長いあいだ黙っていた。

「掴まれたのは、左かね」

父が頷くと、老人は海のほうを見た。

「昔から、あの沖では、よう子供がしがみついて来るんです」

「泳ぎの下手な子は、特にな」

それ以上は、何も話してくれなかった。

手術のあとの銀色の皿

旅行から帰って二週間が過ぎた。

弟の腕の傷は、一向に良くならなかった。

それどころか、赤黒く腫れあがって、膿みはじめた。

母に連れられて、弟は外科を受診した。

レントゲンの画面を見て、医者の眉が動いた。

傷口の奥に、何か異物が入っているという。

膿の原因は、それらしかった。

簡単な手術で取り出せば、すぐに治ると言われた。

翌日、弟は手術を受けた。

私は待合室で、母と並んで座っていた。

母は何も言わず、ずっと指を組んでいた。

手術は、三十分ほどで終わった。

医者が出てきて、マスクを外した。

「異物は全部取り除きました。これで怪我も治るでしょう」

「先生、ありがとうございました」

母が深く頭を下げた。

医者は、少し間を置いた。

「……つかぬことを伺いますが、この傷は、どうやってついたものですか」

「海で、魚か何かにやられたと聞いています」

「そうですか」

医者は言葉を探すように、手元の銀色の皿を見た。

皿には、ガーゼがかけられていた。

「傷口の奥、骨のすぐ近くに、絡みつくように入っていました」

「髪の毛は、少なくとも二十センチはあります」

「海の流れで入り込んだものとは、考えにくいのですが」

母が、弟の腕を見つめていた。

弟の髪は、短く刈ってあった。

医者が、ガーゼをそっとめくった。

皿の上にあったのは、長い髪の毛の塊と、引き剥がしたような小さな生爪だった。

母が、息を呑んだ。

私は、声が出なかった。

爪は、大人のものではなかった。

子供の親指ほどの、小さな爪だった。

その後、弟は元気に過ごしている。

ただ、海にだけは、絶対に近づかない。

左腕には今も、小さな指の形をした傷跡が残っている。

あの浜の沖に六つ目のブイが浮かんでいるのかどうかは、確かめていない。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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