
今から10年程前、俺が通ってた中学校はA県M市M中学校だった。
恐山のある街を検索すれば判ると思う。
校舎は3階建てで、職員室側と教室側に分かれてた。
職員室側は1階が給食室、2階が職員室、3階が音楽室と視聴覚室だった。
この話はその音楽室と、一本のカセットテープに関わる話。
後から聞いた話だと、音楽室に関係のあった女の子が、そこで倒れて戻らなかったって聞いたけど、本当かどうかは知らん。
ただ、音楽室を通り抜けた先に階段があって、屋上に抜けるための階段が封鎖されてたのは覚えてる。
弟の時にも、その中学で同じようなことがあったから割りと本当の事かもしれない。
でも、俺は心霊現象とか呪いはハッキリ言って嫌いだし信じたくない。
だから、誰か科学的に説明してくれると助かる。未だに耳に残ってるから。
音楽室は、校舎のいちばん端にあった。
隣の教室との境は厚い防音の壁で、窓の外には、体育館の裏の杉林が迫っていた。
昼間でも、窓の下半分は暗かった。
屋上へ出る扉には、鎖が巻かれていて、白い札が一枚、ぶら下がっていた。
俺たちは、卒業するまで、その札の文字を誰も読めなかった。
俺が中学2年の合唱発表会の時だった。確か曲は「少年時代」を歌った気がする。
曲を決めて初めての音楽の時間で、伴奏の女の子は音楽室、それ以外は向かいの視聴覚室で練習をした。
最初の練習だったから、楽譜を渡されてCD聴いてるだけだったけど。
音楽の先生はうちの担任で、ショートカットの女の先生だった。
俺らの代で三十路になって、よくからかわれてた。
先生は、毎年この時期になると、放課後の音楽室に残って、各クラスの伴奏のお手本を録音していた。
録音には、音楽室の備品の古いラジカセを使う。
新品のカセットテープを、クラスの数だけ、職員室の引き出しから出して。
「せっかくだから、家でも練習できるようにね。」
先生は、そう言って、伴奏者の子に一本ずつ手渡していた。
その年、うちのクラスの伴奏は、バスケ部の女の子に決まった。
背が高くて、声が大きくて、ピアノだけは小さい頃から習っているという変わり種だった。
彼女は、そのテープを大切そうに鞄にしまい、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
あの笑顔を、俺は今でもはっきり思い出せる。
視聴覚室からは、細い渡り廊下を挟んで、音楽室の窓が見える。
練習の合間に、俺はぼんやり、その窓を眺めていた。
夕方の光が、ガラスに斜めに当たっていた。
その光の中で、ピアノの蓋が、ひとりでに少しだけ持ち上がったように見えた。
目を擦って、もう一度見ると、蓋は閉じていた。
きっと、疲れていたのだと思う。
そのときは、そう思った。
その先生がお手本のピアノ演奏を吹き込んだカセットテープが問題だった。
伴奏の女の子の朝
次の日、朝早くに学校に行くと伴奏の女の子がヒステリックに先生に話をしていた。
その女の子はバスケ部で気が強く、ヒステリックになることは良くあった。
しかし、そのとき変だったのは異様なまでに怖がっていたのだ。
女の子の周りにはいつも朝早く来る面子が集まっていて、数は5~8人ぐらいだったと思う。
その女の子が言うには、伴奏の途中に変な声が入っていた。
何かと思って耳を近づけたら変な言葉が聞こえる。
家で一人で聞いてたからすごく怖かった。
昨日も電話した通り先生に説明して欲しい、とのことだった。
女の子は、ほとんど眠れていない顔をしていた。
目の下に、うっすらと隈があった。
「夜中の二時に、もう一回聞いたの。同じところで、同じ声が入ってた。」
「確かめたかったの。気のせいだって、思いたくて。」
「でも、気のせいじゃなかった。」
彼女の指先が、小刻みに震えているのが分かった。
俺は、そんな彼女を見るのが初めてだった。
周りの女子が、「やばい、やばい」と囁き合っていた。
男子の一人が、「ドッキリじゃねえの」と笑った。
誰も、笑わなかった。
その男子の笑い声だけが、教室の天井に、むなしく上っていった。
先生は、
「テープは新品を使って音楽室の機材で録音したからそんなはずはないんだけど。」
と女の子を宥めながら説明した。
女の子は先生に非がないのを知って余計に怖くなったのか
「とにかく聞いて下さい。聞きたくないので隣のクラス行ってます。」
と言って教室から出ていった。
先生は教室にあるラジカセでそのテープを最初まで巻き戻した後、再生ボタンを押した。
「サー」というノイズとともにピアノの伴奏が流れだす。
最初の1分程は普通の伴奏だった。
「まだかよ」と思ってた頃にそれは来た。
ピアノの伴奏が急になくなり、「サー」というノイズだけが聞こえた。
次の瞬間、聞き取れない程の早口で何かを喋っている女性の声が聞こえた。
それは決して止まること無く、20秒程続いた後にプツリと終わり、すぐピアノ伴奏の続きが流れてきた。
「うわっ…」
「何これ…」
誰かが、「止めろ」と言った。
先生が、慌てて停止ボタンを押した。
教室に、ラジカセのモーターの音だけが残った。
その沈黙のなかで、誰かの歯がカチカチと鳴っているのが聞こえた。
それが自分の歯だと気づくまでに、少しかかった。
俺達だけではなく、先生までもが顔を真っ青にしてその場に立ち竦んでいた。
女性の声は明らかに機械で早送りにした感じではなく、人間では不可能な程の早口で何かを喋っている。
俺達の一人が先生に
「録音の機械とか壊れてたんじゃ…」
と言ったが、先生は
「私他のクラスの伴奏も昨日録音したからそれはないと思うけど…」
と呟くように言った。
そのとき、俺らの中の放送部の奴がこう言った。
「放送室の機材でスロー再生したらどうすか?」
この一言が、今でも俺の耳に残る、その声の原因になった。
カセットテープをスロー再生
放送室に行ったものの機材のスロー再生機能は申し訳程度のもので、殆ど速度は落ちなかった。
そこで、ちょっとでも聞こえるようにと音量を上げていくうちにかなりの大音量になった。
放送室には窓がなく、部屋自体も狭かったのでスピーカーの音が良く聞こえた。
カセットテープを早送りし、問題の部分が聞こえる手前で止めた。
放送室の空気は、梅雨の終わりの湿気を吸って、ぬるく重かった。
スピーカーの網目から、かすかに埃の焦げる匂いがした。
誰かが、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「流すぞ。」
放送部の奴が、そう言って、指を再生ボタンに置いた。
カチッという音と共にピアノ伴奏が流れ始めた。
音量はかなり大きく耳が痛くなるくらいだった。
そして、先程の再生より僅かに音がゆっくりになった。
ピアノの伴奏が急に途切れ、「サー」というノイズだけが流れる。
次の瞬間、ラジカセで聞いたときと桁違いの大音量で女性の声が流れる。
女性の声は相変わらず早口だが先程よりは聞き易かった。
そして、僅かにだが聞き取れる単語があった。それは、
「心臓が××××××××××××して、心臓が×××××××××××、心臓が×××××××××××××××アアアアアアアアァアアアアアア心臓が××××××××アアァアアアアアアアアアア××××××××××××××××アアアアア心臓が×××××××××アアアアアアアアァアアアアアアアアアアアァ
心臓が×××××××××アアアアァアアアアアアア××××××××××××××××アアアアアアアアアア心臓が×××××××××心臓が×××××××××××あ××××××心臓が×××××××××アアアアァアアアアアアアアァアアア
×××××××××××××あぁぁアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァ××××××××××××心臓が××××××××××アアアアァアアアアアアア××××。」
プツンと音が途切れいつものピアノの伴奏が始まった。
ピアノの音が、一小節ぶん、半拍遅れていた。
まるで、弾いている誰かが、息を整えているみたいに。
聞こえてきた言葉の異様さに心臓がバクバクと鳴っていた。
放送部の奴は、青い顔で、機材のつまみをゆっくり下げた。
「……この声さ。」
「うん。」
「録音されたものじゃない気がするんだよ。機械の向こうで、直接、喋ってる感じがする。」
「やめろよ。」
誰も、それ以上は言わなかった。
その夜、俺は布団の中で、自分の胸に手を当てた。
心臓が、ばくん、ばくんと動いている。
いつもより、ずっと大きく聞こえた。
耳の奥で、あの声が、一度だけ、小さくつぶやいた気がした。
俺は、母親の寝室の前まで行って、襖の向こうの寝息を、しばらく聞いていた。
生きている人の音が、ほしかったのだ。
先生は
「私音楽室にいつも一人でいるのに…………聞かなきゃ良かった………」
と言った。
そうして先生は俺達に無駄だと思うけどと一応の口止めをして、そのテープを持って行った。
そのテープがどうなったのかは判らない。
その後、2ヶ月くらい先生が一人の音楽室で大音量で音楽流しまくってて笑った記憶があるw
ってのが、俺が中学の時にあった話。
伴奏の女の子は「心臓が」って言葉と「血管?血液?」って言葉が聞こえたらしい
合唱発表会の本番
合唱発表会の本番は、十月の第三土曜日だった。
体育館は、保護者でいっぱいだった。
伴奏の女の子は、あれから、一度も弱音を吐かなかった。
背筋を伸ばして、ピアノの前に座る。
俺たちの歌声は、最初の一小節から、不思議なくらい揃っていた。
伴奏が、いつもより、ほんの少しだけゆっくりだった。
まるで、誰かの呼吸に、合わせているみたいに。
最後の和音が消えたあと、体育館に、一拍の沈黙が落ちた。
拍手が起きる前のその一拍のあいだに、ピアノの蓋が、小さく鳴った気がした。
誰も、気づいていなかった。
伴奏の女の子だけが、鍵盤の上で、ゆっくりと目を閉じていた。
拍手が起きた。
俺は、拍手に紛れて、小さく「ありがとう」と言った気がする。
誰に向けた言葉なのかは、自分でも分からなかった。
弟は、俺の三年後に同じ中学へ入った。
入学したての春、俺は何気なく、音楽室のことを訊いた。
「兄貴。あの階段の鎖さ。」
「ああ。」
「俺の三年のとき、一度だけ外れてたんだよ。」
「外れてた?」
「誰かが切ったんじゃなくて、鎖の輪が、一つだけ、きれいに開いてた。内側から。」
「内側って。」
「屋上の側から。」
弟は、そこで話を切って、麦茶を飲んだ。
俺は、それ以上、訊けなかった。
音楽室に残された楽譜
ここからは、卒業間際に聞いた後日談だ。
三月、俺は忘れ物を取りに、放課後の音楽室へ入った。
先生が、ピアノの前に座っていた。
鍵盤には触れず、譜面台の古い楽譜を、じっと見ていた。
「先生。」
「……ああ、君か。」
先生は、疲れた顔で笑った。
夕日が、先生の横顔を、橙色に染めていた。
「ねえ。あのテープのこと、まだ気にしてる?」
「気にしてる、っていうか。耳に残ってて。」
「そう。」
先生は、楽譜の隅を指でなぞった。
鉛筆で、小さな字が書き込まれていた。
『心臓が、こうなって、こうなって』
「この楽譜、四年前の伴奏者の子のなの。」
「四年前……」
「音楽室で、練習中に倒れてね。そのまま、戻らなかったの。」
先生の声は、驚くほど平坦だった。
「心臓に病気がある子でね。緊張すると早口になって、体のことを説明するのが癖だったの。」
「お医者さんに言われた通りに、症状を全部、覚えて言えるように。一人で、よく練習してた。」
「心臓が、こうなって、こうなって、って。」
俺は、息を飲んだ。
喉の奥が、からからに乾いていた。
手のひらに、汗が滲んでいた。
遠くで、運動部の掛け声が聞こえた。
先生は、続けた。
「あの日の録音もね、三回目のテイクだった。二回目までは、何も入ってなかったの。」
「三回目だけ、私が弾いている間に、誰かがすぐ後ろで、息を整えているような気配がしたのよ。」
「それで、気のせいだと思って、そのまま止めなかった。」
先生は、楽譜をそっと閉じた。
「屋上への階段を鎖で塞いだのも、その後ね。夜中に、誰もいない音楽室から、ピアノの音がするって、守衛さんが言うようになって。」
「……先生は、怖くなかったんですか。」
「怖かったわよ。でもね。」
先生は、ふと窓の外の杉林を見た。
「あの子は、きっと、聞いてほしかっただけなの。自分がどうして苦しかったのか。誰にも言えなかったことを。」
「だから私は、あの子の声を、消せなかった。」
俺は、何も言えなかった。
窓の杉林が、夕方の風で、ゆっくりと波打っていた。
ピアノの蓋は、閉じたままだった。
それでも、どこかで、小さな呼吸の音が、一度だけ聞こえた気がした。
窓のない放送室の天井で、換気扇が回っていた、あの日のことを思い出した。
あの音さえ、あのときは、ひどく遠く聞こえた。
「あのテープは、どうしたんですか。」
「去年の暮れに、校庭の桜の根もとへ埋めたわ。再生はしないまま。」
「怖くはなかったですか。」
「怖かったわよ。でも、あの子が、やっと続きを喋らなくてよくなった気がして。」
そう言って、先生はほんの少し、肩の力を抜いた。
二ヶ月、先生が音楽室で大音量の音楽を流し続けていた理由を、俺はそのとき初めて分かった気がした。
あの子が、また一人で喋り出さないように。
音で、満たしてやっていたのだ。
卒業して十年が経った今も、俺は、夜中にふと目が覚めると、自分の胸に手を当てる。
心臓が、静かに動いている。
それだけのことが、少し怖い。
そして、少しだけ、ありがたい。
もし、あの子の声が、まだどこかに残っているのなら。
せめて、誰かの音が、隣にあればいい。
声だけが残る話なら、廃病院の肝試しと三階の警備員や、赤い手形を夜中に洗う父親も、読み返すほど意味が変わる。
あれ以来、「少年時代」の旋律は、どこで流れていても、最後まで聞けない。
夏の終わりの音楽室の前を通るたび、伴奏の最初の一音を、息を詰めて待ってしまう。
今夜も俺は、小さな音量で、テレビをつけたまま眠る。