海鳴りの入り江

静かな入り江の辺り

あれは去年の九月、僕が隠岐の島に調査で渡ったときの話だ。

僕は大学の研究室で海洋生物の分布調査をしている。日本海側の離島をいくつか回る調査行程の最後に、島根県の隠岐諸島の一つ、人口三百人ほどの小島に渡った。宿は港のそばにある民宿で、七十を過ぎた女将さんが一人で切り盛りしていた。部屋は二階の六畳間で、窓からは港と、その向こうの暗い海が見えた。

調査は島の北側の磯場を中心に行う予定だった。初日の夕食のとき、女将さんに明日のルートを伝えると、急に箸を止めた。

「北の磯は構わんけど、その先の入り江には行かんでくださいよ」

地図を見ると、磯場の先に小さな入り江がある。断崖に挟まれた狭い水路で、満潮時には陸路からはアクセスできなくなる場所だった。衛星写真で見ても水面が異様に暗く、地形が入り組んでいるのが分かった。

「潮が危ないんですか」と聞くと、女将さんは首を振った。

「潮じゃないです。……あそこには、おるんです」

何がいるのかと尋ねても、女将さんはそれ以上答えなかった。代わりに、刺身の皿を下げながら小さく言った。

「島の人間はみんな知っとります。あの入り江には近づかん。昔からそう決まっとるんです」

迷信だろう、と思った。離島にはこの手の言い伝えが多い。特定の浜に近づくな、特定の岩に触れるな。漁師の安全祈願や、過去の事故の記憶が民間伝承として残ったもの。そう解釈して、僕はその夜、地図に入り江のマークをつけた。調査の候補地として。

翌朝、磯場での採集は順調だった。九月の海はまだ温かく、岩場のタイドプールには目当ての貝類がいくつも見つかった。ヒザラガイの仲間が三種、ヨメガカサの群落、それにカメノテの密集地帯。データを記録しながら、磯場の端まで進んだ。

午前中の作業を終え、機材を片付けていると、磯場の先に入り江が見えた。距離にして二百メートルほど。断崖が左右からせり出し、その間に暗い水面がのぞいている。潮は引いていて、崖下の岩場を伝えば歩いて行けそうだった。

研究者としては、未調査の磯場を見過ごすのは惜しい。あの水深なら独自の生態系がある可能性もある。女将さんの言葉は気になったが、言い伝えの類だろうと判断した。昼過ぎ、僕は採集バッグを持って入り江に向かった。

崖に沿って岩場を歩くと、海水の色が変わった。磯場では明るい翡翠色だった水面が、入り江に近づくにつれて濃い藍色に沈んでいく。水深が急に深くなっているのだ。海底が見えない。手前の磯場では二メートルほどの浅い水底が見えていたのに、入り江では底が完全に暗闇に消えていた。

入り江の中は、音がなかった。

波の音が、聞こえない。外海のうねりが断崖で遮られているのだろうが、それにしても静かすぎた。自分の呼吸と、長靴が岩を踏む音だけが反響した。海鳥の声すらしなかった。

崖の壁面に、何か刻まれているのが目に入った。

苔に覆われた岩肌に、人の手で彫ったと思われる溝がある。近づいて苔をこすり取ると、文字ではなかった。線が三本、縦に並んでいる。その下に、横線が一本。何かの記号、あるいは印のようだった。彫りは深く、相当な時間をかけて刻んだものに見えた。

同じ印が、少し先の岩にもあった。さらに奥にも。入り江の壁面に、等間隔に刻まれている。数えると、見える範囲だけで十二あった。

奥へ進むうちに、足元の岩場が妙に滑りやすくなった。海藻でも生えているのかと思ったが、違った。岩の表面に、何か粘度のある膜のようなものがへばりついている。半透明で、わずかに青みがかっている。触ると冷たく、指の間から糸を引いた。海生生物の粘液に似ていたが、どの種のものとも一致しなかった。

そのとき、耳の奥で音がした。

低い、低い音。地鳴りのような、あるいは何か巨大なものが水の中で息を吐いたような、重い振動。鼓膜に直接触れるような圧を感じた。可聴域の下限ぎりぎり、体の内側で感じるような低周波だった。

入り江の水面が、揺れていた。風はない。波もない。なのに、中央の水面だけが、呼吸するように上下していた。ゆっくりと、規則的に。何かが水面の下で、大きく息をしているように。

足が動かなかった。

恐怖ではなかった。少なくとも、そのときは恐怖だとは思わなかった。ただ、動けなかった。水面を見つめたまま、何分経ったのか分からない。日の角度が変わっていた。時計を見ると、午後一時だったはずが、三時半になっていた。

二時間半。記憶がない。

僕は採集バッグを掴み、入り江を出た。走ったのか歩いたのか覚えていない。気がつくと磯場に戻っていて、外海の波の音が耳に飛び込んできた。あの静寂のあとでは、普通の波の音がひどく騒がしく感じた。手が震えていた。採集バッグの中を見ると、入り江で採取したはずのサンプルが一つもなかった。

民宿に戻ると、女将さんが玄関に立っていた。僕の顔を見て、何も言わず奥に引っ込んだ。しばらくして、湯飲みに入った白湯を持って戻ってきた。

「行ったんですね」

僕は黙ってうなずいた。

女将さんは隣に座り、しばらく黙っていた。それから、ぽつりぽつりと話し始めた。

この島では、あの入り江のことを「ウミナリ」と呼ぶらしい。漢字で書けば「海鳴り」。年に数回、入り江の底から低い音が聞こえる日があり、島の人間はその日を「海鳴りの日」と呼んで漁に出ない。

「昔、あの入り江に漁船が入って戻ってこなかったことがあるんです。三十年ほど前のことです。船は見つかりました。入り江の奥の岩場に、きれいに座礁しとった。エンジンもかかったまま。でも中は空っぽだった。乗っていた三人は、今も見つかっとりません」

女将さんは湯飲みを見つめたまま続けた。

「あの三人は、ウミナリの日に出たんです。みんな止めたのに。若い漁師でね、迷信だと笑っとった」

それ以来、入り江は禁足地になった。岩壁の印は、いつ誰が刻んだのか分からないが、島の年寄りは「あれは境界の印だ」と言うそうだ。

「何の境界ですか」と僕が聞くと、女将さんは湯飲みを両手で包んで言った。

「こっちと、あっちの」

翌日から調査を続けたが、入り江には近づかなかった。北側の磯場でデータを取りながら、何度か入り江の方角に目をやった。遠くから見ると、断崖の隙間に覗く水面は、昼間でも暗かった。

三日後に島を離れるとき、港で漁師の老人に挨拶をした。調査中に何度か顔を合わせ、磯場の地形について教えてもらった人だった。老人は僕の顔をじっと見て、急に腕を掴んだ。

「あんた、ウミナリに行ったね」

どうして分かるのかと聞くと、老人は僕の左手を指差した。

手の甲に、薄い青い痣のようなものがあった。いつできたのか分からない。あの粘膜のようなものに触れた指の近くだった。日焼けの痕かと思っていたが、言われてみると色が違う。肌の下に、薄い藍色が透けている。

「それが消えるまで、海に近づいたらいかんよ。……あっちに引かれるから」

老人はそれだけ言って、船に戻っていった。

あれから一年が経つ。痣はまだ消えていない。それどころか、わずかに広がっている気がする。

それだけなら、まだよかった。

最近、夜中にあの音が聞こえるようになった。低い、低い、水の底から這い上がるような振動。目を閉じると、あの入り江の暗い水面が見える。呼吸するように上下する、あの水面が。

僕は今、海から百キロ以上離れた内陸の街に住んでいる。

それでも、聞こえる。

昨夜は、枕元に水の匂いがした。

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