閉館の決まった市の科学館で、私は最後の半年だけ、夜警をしていました。
取り壊しの前に、機械の盗難や火の始末を見張るだけの、簡単な仕事のはずでした。
応募したのは、その科学館に、亡くなった父の思い出があったからです。
父は、中学で物理を教えていました。
私がまだ小さいころ、休みの日になると、よくこの科学館へ連れてきてくれたのです。
父がいちばん好きだったのは、二階の物理展示室の、古い実験装置でした。
「二重スリット」という、光や電子の通り道を見せる装置です。
ついたてに細い窓が二つ開いていて、そこへ光を当てると、縞模様が浮かび上がる。
「いいか」と、父はよく私にこう言いました。
「見ていないあいだ、電子はな、二つの窓の、どっちも通っとるんだ」
「見た瞬間に、初めて、どっちか一方に決まる」
子どもの私には、意味がよく分かりませんでした。
ただ、見ていないものは、どこにでもいる。
その言葉だけが、妙に、頭の奥に残ったのです。
※
夜警の仕事は、二人一組の申し送りから始まりました。
引き継ぎをしてくれたのは、定年間際の、痩せた守衛さんでした。
警備室には、館内の映像を映すモニターが、十二面、壁一面に並んでいました。
「見るのは、この画面だけでええ。二時間に一度、館内を一周する」
守衛さんは、淡々とそう教えてくれました。
それから、帰りぎわに、ひとつだけ、妙なことを付け加えたのです。
「モニターはな、いっぺんに全部は、見られんからな」
「見ていない画面のことは、あんまり、考えんほうがええ」
私は、意味が分からず、聞き返しました。
「どういう意味ですか」
「なに、気にせんでええ。慣れたら分かる」
守衛さんは、それきり笑って、夜の坂道を下りていきました。
※
※
警備室の机の引き出しに、歴代の夜警が書いた、古い業務日誌がありました。
退屈しのぎに、私は、それをめくってみました。
多くは、異常なし、という素っ気ない記録ばかりでした。
けれど、何人かの夜警が、途中で、妙な書き込みを残していたのです。
「二階の廊下、見ていないと近づく」
「モニターは全部見るな。一つに決めろ」
「決めた画面の中には、いない。それでいい」
そして、どの筆跡も、数日ぶんで、ぷつりと途切れていました。
みな、長くは続かず、辞めていったようでした。
私は、その日誌を、そっと引き出しの奥へ戻しました。
読まなければよかった、と思いながら。
最初の一週間は、何ごともありませんでした。
がらんとした館内は、昼間の賑わいが嘘のように、静まり返っています。
モニターに映るのは、非常灯だけがともる、青白い廊下ばかりでした。
異変に気づいたのは、二週目の、雨の晩でした。
物理展示室を映す、七番のモニターから、低い唸りのような音が、かすかに聞こえたのです。
あの、二重スリットの装置が置かれている部屋でした。
けれど、装置の電源は、閉館後にすべて落としてあります。
耳を澄ますと、その唸りは、装置が正常に動いているときの、あの低い駆動音でした。
父の隣で、何百回と聞いた、懐かしい音です。
けれど、懐かしいと感じた次の瞬間、ぞっとしました。
動いていないはずの機械が、なぜ、あの音を立てるのか。
モニターの中の物理展示室は、変わらず、真っ暗なままでした。
音だけが、暗闇の中から、確かに、聞こえていたのです。
見回りに行くと、音は消えていました。
展示室は、しんと暗く、装置も、黙ったままでした。
気のせいだろうと、私は自分に言い聞かせました。
※
※
耐えきれなくなって、私は、管理会社に電話をかけたことがあります。
「夜勤を、二人にしてもらえませんか」と、頼んでみたのです。
電話口の担当者は、迷惑そうに言いました。
「あの館は、もう閉めるんです。一人で十分でしょう」
「でも、その、人影のようなものが」
「気のせいですよ。古い建物は、みんなそう言うんです」
取り合ってはもらえませんでした。
確かに、証拠は何もありません。
見ようとすれば、それは消える。
消えたものを、どうやって、人に見せればいいのでしょう。
私は、受話器を置いて、また、十二面のモニターと向き合うしかありませんでした。
次の異変は、物ではなく、位置でした。
二重スリットの装置には、来館者が光を当てるための、古いレバーが付いています。
夕方の見回りでは、そのレバーは、確かに右へ倒してありました。
ところが、深夜の見回りでは、レバーが、左へ倒れていたのです。
誰も、いないはずでした。
入口も非常口も、内側から施錠したことを、私は何度も確かめていました。
それでもレバーは、まるで誰かが実験をやり直したように、反対側へ倒れていました。
右か、左か。二つの窓の、どちらを通したのか。
父の言葉が、ふいに耳の奥で響きました。
見ていないあいだは、どっちも通っている――。
※
※
三つ目の異変は、匂いでした。
深夜の物理展示室に見回りに入ると、乾いた石灰の匂いが、ふっと鼻をかすめたのです。
チョークの匂いでした。
父の指に、いつも残っていた、あの匂いです。
この科学館に、黒板もチョークも、あるはずがありませんでした。
それなのに、二重スリットの装置の前だけ、その匂いが、濃く漂っていました。
まるで、誰かが今しがたまで、その装置を、誰かに説明していたかのように。
私は、思わず「父さん」と、小さく呼びかけていました。
返事は、ありませんでした。
ただ、装置のスクリーンの表面に、うっすらと、手のひらの跡が残っていたのです。
※
見回りのあいだも、私は、落ち着けなくなっていました。
懐中電灯で照らした正面には、いつも、何もいません。
けれど、光の当たらない、背中側の暗がりが、やけに気になるのです。
廊下を歩くと、自分の足音のあとに、もう一つ、遅れて足音が続く気がしました。
立ち止まると、その足音も、止まります。
振り返って懐中電灯を向けると、そこには、長く伸びた自分の影が、あるだけでした。
けれど、前へ向き直った瞬間、また、背後で、床の軋む音がするのです。
私は、見ている前だけを、辛うじて空っぽにしながら、歩いていました。
見ていない後ろは、何で満ちているのか。
考えないようにするほど、その気配は、濃くなっていきました。
それから、モニターに、人影が映るようになりました。
最初は、五番の、一階廊下のカメラでした。
暗い廊下の奥に、こちらに背を向けた、細い人影が立っている。
私は、警棒を握って、その廊下へ走りました。
けれど、着いたときには、廊下には、誰もいませんでした。
警備室に戻ると、五番の画面は、もう空っぽでした。
代わりに、今度は九番の、二階廊下に、同じ人影が映っていたのです。
私が見に行った廊下には、いない。
私が見ていない廊下に、いる。
背筋を、冷たいものが、つう、と伝いました。
※
私は、試すことにしました。
人影の映った画面から、決して、目を離さないでいよう、と。
九番のモニターを、私は、瞬きもせずに睨みつけました。
人影は、動きませんでした。
こちらが見ているあいだは、ぴくりとも、動かないのです。
けれど、隣の十番の画面が、視界の端で、ちらりと動いた気がしました。
つい、そちらへ目をやる。
その一瞬で、九番の人影は、また、消えていました。
見ている間だけ、その廊下には、誰もいないのです。
目を離した画面の中でだけ、それは、一歩ずつ、こちらへ近づいていました。
※
※
四つ目の異変は、私自身の、すぐ後ろで起きました。
警備室の、電源を落としたモニターは、黒い鏡のようになります。
その暗い画面に、椅子に座った私の姿が、ぼんやりと映っていました。
ある晩、その私の背後に、もう一つ、細い影が立っているのが見えたのです。
肩の少し上あたりに、こちらを覗き込むような、輪郭がありました。
私は、息を止めて、ゆっくりと、後ろを振り返りました。
けれど、そこには、誰も、いませんでした。
振り返って見た瞬間に、それは、いなくなったのです。
もう一度、正面の暗い画面に目を戻すと。
影は、また、私の背後に、立っていました。
※
五つ目の異変は、時間でした。
見回りは、二時間に一度と、決まっています。
けれど、ある晩、館内を一周して警備室に戻ると、時計が、四十分しか進んでいませんでした。
別の晩には、逆に、二時間半も経っていました。
モニターの隅に表示される時刻と、私の腕時計の時刻が、少しずつ、ずれていくのです。
見ていないあいだの時間は、どこかで、伸び縮みしているようでした。
日誌に時刻を書き込もうとして、私は、ペンを止めました。
その日の日付を、私は、思い出せなくなっていたのです。
見ていないもの。数えていないもの。確かめていないもの。
それらはすべて、この館の中で、決まらないまま、揺らいでいました。
十二面のモニターを、私は、必死で見渡しました。
けれど、人の目は、一度に一つの画面しか、はっきりとは見られません。
一つを見つめれば、残りの十一は、視界の外です。
守衛さんの言葉が、今になって、はっきりと分かりました。
「見ていない画面のことは、考えんほうがええ」
考えても、どうにもならないからです。
見ていない場所には、それは、いつも、いる。
父の言った電子と、同じでした。
観測されるまで、それは、あらゆる場所に、同時にいるのです。
私が一つの画面を選んで見た、その瞬間にだけ、他の場所にいることが、確定してしまう。
※
見るという行為が、それを、追い払っている。
けれど同時に、見ていない場所すべてに、それを、生み出している。
私は、自分の目が、二つしかないことを、初めて呪いました。
深夜二時を回ったころ、警備室の空気が、ひやりと重くなりました。
目の前の、七番のモニター。
あの、二重スリットの装置が、青白く、光っていました。
電源は、落としてあるはずでした。
画面の中で、装置のスクリーンに、あの縞模様が、くっきりと浮かんでいます。
誰も光を当てていないのに、実験は、ひとりでに、動いていたのです。
そして、その装置の前に。
こちらに背を向けた、細い人影が、じっと、縞模様を見つめて立っていました。
まるで、子どもの頃の父のように。
あるいは、その隣にいた、幼い私のように。
私は、その人影の背中に、見覚えがある気がして、目を凝らしました。
少し猫背の、なで肩の、あの立ち方。
物理を教えていたころの、父の後ろ姿に、よく似ていました。
けれど、それを確かめようと画面を見つめた瞬間、人影は、すっと薄くなりました。
見れば、消える。見なければ、そこにいる。
私は、父に会いたいのか、会いたくないのか、自分でも分からなくなりました。
会うためには、目を離さなければならない。
けれど目を離せば、それは、父ではない何かに、変わってしまう気がしたのです。
※
私は、その縞模様を、じっと見つめました。
幼い日、父の隣で見たものと、寸分違わない模様でした。
光を当てる者もいないのに、装置は、なぜ実験を続けているのか。
まるで、この館そのものが、誰かに観測されるのを、待っているようでした。
見てくれ、と。ここにいると、決めてくれ、と。
私は、そっと、七番のモニターから、目をそらしました。
そらしてしまえば、それが、どこへ行くのかも分からないのに。
私は、警備室の椅子から、立ち上がれませんでした。
モニターを見ていれば、それは、そこから動かない。
けれど、私は、まばたきをしなければなりません。
人は、目を開け続けることは、できないのです。
一秒にも満たない、そのまばたきの闇の中で。
それは、確実に、こちらへ一歩ずつ、近づいてくる。
私は、十二面の画面を睨んだまま、朝が来るのを、待ちました。
どの画面も、見ていない一瞬にだけ、背後の気配が、濃くなっていく気がしました。
※
※
子どものころ、私は一度、父にこう尋ねたことがあります。
「じゃあ、だれも見てない世界は、どうなってるの」
父は、少し考えてから、笑って答えました。
「さあな。だれも見てないんだから、だれにも分からんよ」
「こわいね」
「こわいか。父さんは、面白いと思うがなあ」
あのときの父は、本当に、面白そうな顔をしていました。
今の私には、あの言葉が、面白いどころか、恐ろしくてなりません。
だれも見ていない世界に、何がいるのか。
それを、私は、あの夜警の半年で、知りすぎてしまったのです。
父は生前、量子の話をするたびに、決まって嬉しそうでした。
「この世界はな、見られて初めて、かたちになるんだ」
「だから、ちゃんと見てやらんとな。見てやることが、いちばんの優しさだ」
その言葉を、私は、温かいものとして受け取っていました。
けれど今なら分かります。見てやらなければ、それは、かたちを持てないまま、暗闇に漂い続けるのです。
この科学館に取り残された何かも、ずっと、見てくれる誰かを、待っていたのかもしれません。
その晩を最後に、私は、夜警の仕事を辞めました。
科学館は、予定どおり取り壊され、今は、更地になっています。
あの二重スリットの装置が、どこへ行ったのかは、知りません。
ただ、あれから、私は、ひとつのことが怖くてなりません。
今、この文章を書いている私の、背中側。
私が振り返って見るまで、そこに何がいるのかは、決まっていないのです。
見た瞬間に、初めて、どちらか一方に、決まる。
だとしたら、振り返らないでいるあいだ、そこには。
父の声が、また、耳の奥で聞こえます。
見ていないものは、どこにでもいる、と。
この文章を、私は、明かりを全部つけた部屋で書いています。
それでも、背中の側だけは、どうしても、明るくなりません。
見なければ、決まらない。
ならば、見なければいいのだと、頭では分かっています。
けれど人は、いつか必ず、振り返ってしまう生き物です。
あなたも、今、自分の背後を、確かめたくなっていませんか。
どうか、ゆっくりと、確かめてください。
振り返るまでは、そこに何がいるのか、まだ、決まっていないのですから。