運河沿いの貸間に住み着いたもの
いつからか、俺の部屋に、黒い人影のようなやつが住み着いてしまった。
どこかで拾ってきてしまったのか、気づいたら、当たり前みたいにそこにいた。
部屋は、小樽の運河沿いにある、石造りの倉庫の一角だった。
昔は事務所だった二部屋を、そのまま貸間にしてあるという話だった。
壁は厚く、窓は小さく、冬でも思ったほどは冷えない部屋だった。
背格好は、小柄な人くらい。
顔も、手足も、はっきりとはしない。
ただ、黒い影が、人の形をして、ゆらゆらと動いているのだ。
はじめて気づいたのは、引っ越して一週間ほど経った夜だった。
部屋の隅で、何かがもぞもぞ動いている。
目の錯覚かと思って、何度もこすってみた。
でも、たしかにそこに、黒い影がいた。
普通なら、悲鳴をあげて逃げ出すところだろう。
でも、その影は、どこか間が抜けていて、不思議と怖くなかった。
近づいてみると、影はびくっと震えて、壁のほうへ下がった。
どうやら、向こうも俺を警戒しているらしい。
お互い様だな、と俺は思わず笑ってしまった。
それからしばらく、俺たちは微妙な距離を保っていた。
近づきすぎず、離れすぎず。
まるで、引っ越したばかりの隣人みたいに。
※
しょうもないイタズラばかり
そいつは、とにかくイタズラ好きだった。
積み上げた本を、わざわざ倒していく。
ハンガーにかけた服を、ぜんぶ床に落とす。
閉めたはずのクローゼットを、勝手に開ける。
トイレに入っていると、外から扉を開けてくる。
いちいち、しょうもないことばかりしてくるやつだった。
洗濯物をたたんでいると、後ろから一枚ずつ崩していく。
テレビを見ていると、リモコンをどこかに隠す。
朝、目覚まし時計を止めると、なぜか枕元に靴下が並べてある。
嫌がらせなのか、かまってほしいのか、よく分からない。
ただ、たしかなのは、こいつが暇を持て余している、ということだった。
まあ、大した害もないし、放っておけばいいか。
最初のうちは、俺もそう思っていた。
むしろ、一人暮らしの部屋に、にぎやかさが増した気さえした。
「またお前か」と話しかけると、影は少し動きを止める。
返事はないが、聞いているのは、なんとなく分かった。
いつしか俺は、こいつのイタズラを、半分楽しみにしていた。
仕事から帰って、何も起きていない日は、逆に物足りなかった。
「今日は大人しいな」と声をかけると、影はそっと姿を見せた。
その距離の縮まり方が、なんだか野良猫を手なずけるのに似ていた。
えさをやるわけでもないのに、少しずつ慣れていく。
気づけば、影は俺のそばで、ゆらゆらするようになっていた。
※
果物かごの林檎
そのころ、俺は毎週、市場で林檎を買っていた。
安く売っていたから、というだけの理由だ。
台所の窓辺に、籐の果物かごを置いて、そこに放り込んでおく。
あの影は、なぜか、そのかごの近くによくいた。
果物が好きな幽霊なんて、聞いたこともない。
でも、こいつは、なんだかそういうやつなのだ。
ひとつ、妙なことがあった。
林檎は、朝になると、決まって軸が同じ方角を向いていた。
前の晩に、俺は放り込んだだけだ。
向きなど、気にしたこともない。
それが、朝には全部、揃っている。
かじった跡があるわけでもない。
ただ、向きだけが直してある。
俺は、几帳面なやつだな、としか思わなかった。
その日から、俺はかごの前で少し立ち止まるようになった。
向きを崩してみたことも、一度だけある。
わざと、軸をばらばらにして寝た。
翌朝、全部そろっていた。
怒っている感じでも、得意げな感じでもなかった。
ただ、直してある。
それきり、俺は崩すのをやめた。
※
包丁で指を切った日
でも、一度だけ、ひやりとしたことがあった。
台所で、置いていたはずの包丁が、ひとりでに動いたのだ。
俺はそれで、指をすっと切ってしまった。
血がにじむ指を見て、はじめて、背筋が冷たくなった。
こいつ、もしかして、悪意があるんじゃないか。
油断させておいて、いつか俺に何かする気なんじゃないか。
それからは、少しだけ、そいつを警戒するようになった。
夜、影が近づいてくると、思わず身構えるようになった。
あんなに気を許していたのに、急に距離ができてしまった。
影のほうも、それを察したのか、少しおとなしくなった。
包丁の一件以来、俺は影に背を向けて寝るようになった。
影は、部屋の隅から、じっとこちらを見ているだけだった。
近づいてこようとしては、ためらって、引き返す。
その繰り返しを、俺は気づかないふりをしていた。
今思えば、あの頃のこいつは、寂しそうだった。
せっかくできた同居人に、急に壁を作られたのだから。
※
熱の出た晩
そんなある日、俺は体調を崩して、寝込んでしまった。
あまりのだるさに熱を測ると、四十度近くあった。
頭は割れそうに痛むし、体は鉛みたいに重い。
誰かに連絡しようにも、携帯はベッドから離れた机の上だった。
もう、起き上がる気力もない。
声を出すのも、しんどい。
このまま、誰にも気づかれずに朝を迎えるのかもしれない。
そんなことを、ぼんやり考えていた。
天井が、ぐにゃりと歪んで見えた。
汗が止まらないのに、体は寒くて震えていた。
水を飲みたくても、台所までが、はるか遠くに感じた。
こんなに心細い夜は、生まれて初めてだった。
外は雪だった。
運河の向こうで、除雪の音が、遠くしていた。
そんなとき、ふと、部屋の空気が動いた。
何かが、こちらに近づいてくる気配がした。
親の顔が浮かんだ。
連絡もろくにしていなかったな、と後悔した。
やりたいことも、まだ山ほど残っている。
こんなところで、参ってたまるか。
それでも、体はぴくりとも動いてくれなかった。
ふと、足元を見ると、あの黒いやつがいた。
ああ、やっぱり、こいつの仕業なのか。
そう思って、俺は半ば諦めていた。
でも、よく見ると、様子がおかしい。
そいつは、明らかに、焦っていた。
俺のまわりを、せわしなく行ったり来たりしている。
俺の顔を、何度ものぞき込んでいるのが、なんとなく分かった。
いつものイタズラっぽさは、まったくなかった。
ただ、おろおろと、どうしていいか分からない様子だった。
まるで、迷子の子どもみたいに見えた。
その姿に、俺はなぜか、ほんの少しだけ安心した。
こいつは、俺をどうにかする気なんかなかったんだ。
そう、はっきりと分かった。
警戒していた自分が、急に恥ずかしくなった。
「なんだよ……お前じゃ、ないのかよ」
俺は、かすれた声で、そうつっこんだ。
完全な空元気だった。
※
がこ、と落ちた音
そのときだ。
がこ、と何かが落ちる音がした。
俺は最後の力で、音のしたほうに手を伸ばした。
指先に、固いものが触れた。
携帯だった。
あの黒いやつが、机から、俺の手元まで落としてくれたのだ。
俺はすぐに、友達に電話をかけた。
「助けてくれ」と言うつもりだった。
でも、声が枯れて、ほとんど出ない。
電話の向こうで、友達は笑っていた。
「いたずら電話かよ、やめろって」
切られそうになって、俺は焦った。
どうしよう。
このままじゃ、伝わらない。
どうにか声を絞り出そうとしても、空気が漏れるだけだった。
額に脂汗がにじむ。
友達の指が、通話を切るボタンに伸びるのが、目に浮かんだ。
頼む、切らないでくれ。
心の中で、そう叫ぶことしかできなかった。
そのときだった。
とんでもない叫び声が、部屋じゅうに響き渡った。
あの、黒いやつの声だった。
電話の向こうの友達も、その声を聞いて、絶句した。
「お前、今の何だよ……」
ただごとじゃないと察した友達が、雪の中をすぐに駆けつけてくれた。
おかげで俺は、病院に運ばれて、なんとか事なきを得た。
後で友達は、あの叫び声のことを、何度も俺に聞いてきた。
「あれ、本当に何だったんだ」と。
俺は、うまく説明できなかった。
ただ、あいつが俺を助けてくれた、とだけ伝えた。
友達は、半信半疑の顔をしていた。
それでも、最後にこう言ってくれた。
「お前がそう言うなら、まあ、いいやつなんだろうな」と。
※
大家さんが話した倉庫の決まり
退院して部屋に戻ると、影はいつもの隅で、ゆらゆらしていた。
まるで、何ごともなかったかのように。
でも、俺には分かった。
こいつは、ちゃんと俺を待っていてくれたのだと。
「ただいま」と言うと、影はぴょこんと跳ねた気がした。
退院した日、俺は市場に寄って、林檎を三つ買った。
いつもの店の主人が、雪の話をしながら袋に入れてくれた。
部屋に戻って、かごに放り込む前に、少し迷った。
そろえてから入れるべきか、いつもどおり放り込むべきか。
結局、放り込んだ。
翌朝、三つとも、窓のほうを向いていた。
台所の床には、雪解けの足跡のようなものが、一つもなかった。
その春、俺は大家さんと、初めて長く話をした。
七十を過ぎた、口の重い人だった。
俺が何気なく、昔ここは何をしていたのかと訊いたときだ。
「うちの祖父の代までは、荷を扱っとった」
「あんたの部屋は、事務所じゃ。寝泊まりする者がおった」
大家さんは、湯呑みを両手で包みながら、そう言った。
荷役の頭を務めた人が、冬の晩だけ、そこに残っていたのだという。
吹き込む雪で荷が濡れないよう、一人で見ていたのだそうだ。
「決まりが、いくつかあってな」
俺は、湯呑みを置いた。
「荷札は、必ず海のほうへ向けて積むのが、この倉庫の決まりだった」
札が海を向いていれば、朝、船から降りてきた者が、外からでも中身が読める。
だから向きが揃っていないと、頭は自分で直したのだという。
「積み直しは、黙ってやるもんじゃ、と言うとったそうだ」
「誰がやったか分からんほうが、皆、気が楽じゃけえ」
大家さんは、そこで一度、言葉を切った。
「その人はな、しまいの冬に、雪で往生してな」
「朝、荷はぜんぶ、きれいに並んどったそうじゃ」
俺は、何と返せばいいのか分からなかった。
大家さんも、それ以上は言わなかった。
ただ、湯呑みの中をのぞき込んで、少し笑った。
「あんた、あの部屋、寒うないじゃろ」
言われてみれば、あの部屋だけは、冬でも底冷えがしない。
※
あれは積み直しだった
家に帰って、俺は台所の果物かごを見た。
林檎の軸は、その日も、全部同じ方角を向いていた。
窓のほうだった。
窓の外は、運河で、その先が海だ。
あれはイタズラではなく、ぜんぶ、積み直しだった。
積み上げた本を倒したのではない。
倒れそうな積み方を、崩して直していたのだ。
ハンガーの服も、クローゼットの扉も、たぶん同じことだ。
閉め切ると湿気がこもると、あいつは知っていたのだろう。
目覚ましを止めた朝に枕元へ並んでいた靴下も、順番だった。
そして、包丁だ。
俺は昔から、洗った包丁を、刃を手前に向けて置く癖がある。
荷を扱う者にとって、それは、いちばんやってはいけない置き方だ。
あの日、あいつは、刃を奥へ向け直そうとして、手が滑ったのだと思う。
結果として、俺は指を切った。
俺はそれを、悪意だと思った。
影に背を向けて、何週間も寝た。
その間ずっと、あいつは隅にいて、近づいては引き返していた。
俺は、そのことを思い出すたび、今でも少し、胸のあたりが重くなる。
正体が分からないものを、勝手に決めつけてしまうことについては、白い影の正体を読んだときにも、同じことを考えた。
※
今も部屋の隅にいる
あれから、しばらく経つ。
黒いやつは、今もまだ、俺の部屋にいる。
相変わらず、トイレの扉は開けてくる。
しかも、出るときに、わざわざ扉を閉めて、はさんでくる。
これが、本当に痛い。
ただ、純粋に痛い。
それでも、不思議と、嫌いになれない。
扉にはさまれるたびに、俺は「痛いって」と本気で抗議する。
すると、影は申し訳なさそうに、しゅんと小さくなる。
でも、次の日には、またやる。
反省する気は、どうやらないらしい。
あれもたぶん、扉を開けっぱなしにしない決まりなのだろう。
倉庫では、扉を開けたままにすると、雪が入る。
そう考えると、はさまれるのも、少しは我慢できる。
リモコンが見当たらなくて、あわあわしていると。
いつのまにか、見えるところに置いてくれている。
喋ってはくれないのが、少しだけ寂しい。
でも、こういうのは、喋らないのが普通なのかな。
気になって、霊感のある友達にも聞いてみた。
「悪いものではないと思うよ」と、その友達は言った。
「むしろ、あんたのことを、守ろうとしてるんじゃない」と。
その言葉を聞いて、俺はあの雪の夜のことを思い出した。
一度、「一緒に寝るか」と誘ってみた。
そうしたら、すっと、どこかへ消えた。
照れたのかもしれない。
翌朝、目を覚ますと、影はちゃんと部屋の隅に戻っていた。
少しだけ、距離が近くなっていた気がした。
喋らないやつとの同居も、慣れれば、悪くないものだ。
声のない相手だからこそ、伝わるものもあるのかもしれない。
気配だけで、なんとなく、機嫌が分かるようになってきた。
誰かがそばで見守ってくれていたと後から気づく話は、親友の加護にもあって、あれを読んだ夜は、なかなか寝つけなかった。
※
軸をそろえる
今でも、背中に、視線を感じる。
そう、ちょうど今、これを書いている俺の、すぐ後ろに。
あのとき、お前が携帯を落としてくれなかったら。
あのとき、お前が叫んでくれなかったら。
俺は、たぶん、今ここにいない。
イタズラばかりのやつだと思っていた。
悪意があるんじゃないかと、疑ったこともあった。
でも、いざというとき、俺のそばにいてくれたのは、こいつだった。
人でも、猫でもなく、ただの黒い影が。
あの晩、あいつが焦っていたのは、たぶん、俺が荷だったからだ。
濡らしてはいけないものが、一つ、目の前にあった。
それだけのことだったのだと思う。
俺は最近、林檎をかごに入れるとき、自分で軸をそろえるようになった。
全部、窓のほうへ向けて。
翌朝、直されていたことは、まだ一度もない。
それでいい、と思っている。