黒い人影

いつからか、俺の部屋に、黒い人影のようなやつが住み着いてしまった。

どこかで拾ってきてしまったのか、気づいたら、当たり前みたいにそこにいた。

背格好は、小柄な子どもくらい。

顔も、手足も、はっきりとはしない。

ただ、黒い影が、人の形をして、ゆらゆらと動いているのだ。

はじめて気づいたのは、引っ越して一週間ほど経った夜だった。

部屋の隅で、何かがもぞもぞ動いている。

目の錯覚かと思って、何度もこすってみた。

でも、たしかにそこに、黒い影がいた。

普通なら、悲鳴をあげて逃げ出すところだろう。

でも、その影は、どこか間が抜けていて、不思議と怖くなかった。

近づいてみると、影はびくっと震えて、壁のほうへ下がった。

どうやら、向こうも俺を警戒しているらしい。

お互い様だな、と俺は思わず笑ってしまった。

それからしばらく、俺たちは微妙な距離を保っていた。

近づきすぎず、離れすぎず。

まるで、引っ越したばかりの隣人みたいに。

そいつは、とにかくイタズラ好きだった。

積み上げた本を、わざわざ倒していく。

ハンガーにかけた服を、ぜんぶ床に落とす。

閉めたはずのクローゼットを、勝手に開ける。

トイレに入っていると、外から扉を開けてくる。

いちいち、しょうもないことばかりしてくるやつだった。

洗濯物をたたんでいると、後ろから一枚ずつ崩していく。

テレビを見ていると、リモコンをどこかに隠す。

朝、目覚まし時計を止めると、なぜか枕元に靴下が並べてある。

嫌がらせなのか、かまってほしいのか、よく分からない。

ただ、たしかなのは、こいつが暇を持て余している、ということだった。

まあ、大した害もないし、放っておけばいいか。

最初のうちは、俺もそう思っていた。

むしろ、一人暮らしの部屋に、にぎやかさが増した気さえした。

「またお前か」と話しかけると、影は少し動きを止める。

返事はないが、聞いているのは、なんとなく分かった。

いつしか俺は、こいつのイタズラを、半分楽しみにしていた。

仕事から帰って、何も起きていない日は、逆に物足りなかった。

「今日は大人しいな」と声をかけると、影はそっと姿を見せた。

その距離の縮まり方が、なんだか野良猫を手なずけるのに似ていた。

えさをやるわけでもないのに、少しずつ慣れていく。

気づけば、影は俺のそばで、ゆらゆらするようになっていた。

でも、一度だけ、ひやりとしたことがあった。

台所で、置いていたはずの包丁が、ひとりでに動いたのだ。

俺はそれで、指をすっと切ってしまった。

血がにじむ指を見て、はじめて、背筋が冷たくなった。

こいつ、もしかして、悪意があるんじゃないか。

油断させておいて、最後に俺を殺す気なんじゃないか。

それからは、少しだけ、そいつを警戒するようになった。

夜、影が近づいてくると、思わず身構えるようになった。

あんなに気を許していたのに、急に距離ができてしまった。

影のほうも、それを察したのか、少しおとなしくなった。

今思えば、あの包丁も、わざとじゃなかったのかもしれない。

ただ、当時の俺には、そう思う余裕はなかった。

包丁の一件以来、俺は影に背を向けて寝るようになった。

影は、部屋の隅から、じっとこちらを見ているだけだった。

近づいてこようとしては、ためらって、引き返す。

その繰り返しを、俺は気づかないふりをしていた。

今思えば、あの頃のこいつは、寂しそうだった。

せっかくできた同居人に、急に壁を作られたのだから。

そんなある日、俺は体調を崩して、寝込んでしまった。

あまりのだるさに熱を測ると、四十度近くあった。

頭は割れそうに痛むし、体は鉛みたいに重い。

誰かに連絡しようにも、携帯はベッドから離れた机の上だった。

もう、起き上がる気力もない。

声を出すのも、しんどい。

このまま、誰にも気づかれずに、ここで死ぬのかもしれない。

そんなことを、ぼんやり考えていた。

天井が、ぐにゃりと歪んで見えた。

汗が止まらないのに、体は寒くて震えていた。

水を飲みたくても、台所までが、はるか遠くに感じた。

こんなに心細い夜は、生まれて初めてだった。

そんなとき、ふと、部屋の空気が動いた。

何かが、こちらに近づいてくる気配がした。

親の顔が浮かんだ。

連絡もろくにしていなかったな、と後悔した。

こんな形で終わるなんて、あんまりだ。

やりたいことも、まだ山ほど残っている。

こんなところで、終わってたまるか。

それでも、体はぴくりとも動いてくれなかった。

ふと、足元を見ると、あの黒いやつがいた。

ああ、やっぱり、こいつに取り憑かれて死ぬのか。

そう思って、俺は半ば諦めていた。

でも、よく見ると、様子がおかしい。

そいつは、明らかに、焦っていた。

俺のまわりを、せわしなく行ったり来たりしている。

俺の顔を、必死にのぞき込んでいるのが、なんとなく分かった。

いつものイタズラっぽさは、まったくなかった。

ただ、おろおろと、どうしていいか分からない様子だった。

まるで、迷子の子どもみたいに見えた。

その姿に、俺はなぜか、ほんの少しだけ安心した。

こいつは、俺を殺す気なんかなかったんだ。

そう、はっきりと分かった。

警戒していた自分が、急に恥ずかしくなった。

「なんだよ……お前じゃ、ないのかよ」

俺は、かすれた声で、そうつっこんだ。

完全な空元気だった。

そのときだ。

がこ、と何かが落ちる音がした。

俺は最後の力で、音のしたほうに手を伸ばした。

指先に、固いものが触れた。

携帯だった。

あの黒いやつが、机から、俺の手元まで落としてくれたのだ。

俺はすぐに、友達に電話をかけた。

「助けてくれ」と言うつもりだった。

でも、声が枯れて、ほとんど出ない。

電話の向こうで、友達は笑っていた。

「いたずら電話かよ、やめろって」

切られそうになって、俺は焦った。

どうしよう。

このままじゃ、伝わらない。

必死に声を絞り出そうとしても、空気が漏れるだけだった。

額に脂汗がにじむ。

友達の指が、通話を切るボタンに伸びるのが、目に浮かんだ。

頼む、切らないでくれ。

心の中で、そう叫ぶことしかできなかった。

そのときだった。

『うあぁぁぁぁっ!!』

とんでもない叫び声が、部屋じゅうに響き渡った。

あの、黒いやつの声だった。

電話の向こうの友達も、その声を聞いて、絶句した。

「お前、今の何だよ……」

ただごとじゃないと察した友達が、すぐに駆けつけてくれた。

おかげで俺は、病院に運ばれて、なんとか助かった。

後で友達は、あの叫び声のことを、何度も俺に聞いてきた。

「あれ、本当に何だったんだ」と。

俺は、うまく説明できなかった。

ただ、あいつが俺を助けてくれた、とだけ伝えた。

友達は、半信半疑の顔をしていた。

でも、俺の中では、もう確信に変わっていた。

それでも、最後にこう言ってくれた。

「お前がそう言うなら、まあ、いいやつなんだろうな」と。

退院して部屋に戻ると、影はいつもの隅で、ゆらゆらしていた。

まるで、何ごともなかったかのように。

でも、俺には分かった。

こいつは、ちゃんと俺を待っていてくれたのだと。

「ただいま」と言うと、影はぴょこんと跳ねた気がした。

その瞬間、入院中のもやもやが、すうっと消えていった。

ああ、帰ってきたんだな、と心から思えた。

あれから、しばらく経つ。

黒いやつは、今もまだ、俺の部屋にいる。

相変わらず、トイレの扉は開けてくる。

しかも、出るときに、わざわざ扉を閉めて、はさんでくる。

これが、本当に痛い。

萌えとか、そういうのじゃない。

ただ、純粋に痛い。

それでも、不思議と、嫌いになれない。

それでも、なんだかんだ、仲は良いと思っている。

扉にはさまれるたびに、俺は「痛いって!」と本気で抗議する。

すると、影は申し訳なさそうに、しゅんと小さくなる。

でも、次の日には、またやる。

反省する気は、どうやらないらしい。

でも、それすらも、今では憎めない。

リモコンが見当たらなくて、あわあわしていると。

いつのまにか、見えるところに置いてくれている。

林檎が好きらしく、果物かごのあたりに、よくいる。

林檎をひとつ置いておくと、翌朝には、なぜか少し場所が動いている。

かじった跡があるわけでもないのに、不思議だ。

たぶん、眺めて楽しんでいるんだろう。

果物が好きな幽霊なんて、聞いたこともない。

でも、こいつは、なんだかそういうやつなのだ。

喋ってはくれないのが、少しだけ寂しい。

でも、こういうのは、喋らないのが普通なのかな。

気になって、霊感のある友達にも聞いてみた。

「悪いものではないと思うよ」と、その友達は言った。

「むしろ、あんたのことを、守ろうとしてるんじゃない?」と。

その言葉を聞いて、俺はあの夜のことを思い出した。

一度、「一緒に寝るか」と誘ってみた。

そうしたら、すっと、どこかへ消えた。

照れたのかもしれない。

翌朝、目を覚ますと、影はちゃんと部屋の隅に戻っていた。

少しだけ、距離が近くなっていた気がした。

喋らないやつとの同居も、慣れれば、悪くないものだ。

声のない相手だからこそ、伝わるものもあるのかもしれない。

気配だけで、なんとなく、機嫌が分かるようになってきた。

今でも、背中に、視線を感じる。

そう、ちょうど今、これを書いている俺の、すぐ後ろに。

あのとき、お前が携帯を落としてくれなかったら。

あのとき、お前が叫んでくれなかったら。

俺は、たぶん、もうこの世にいなかった。

イタズラばかりのやつだと思っていた。

悪意があるんじゃないかと、疑ったこともあった。

でも、いざというとき、俺のそばにいてくれたのは、こいつだった。

人でも、霊でもなく、ただの黒い影が。

理屈では、説明がつかない。

でも、世の中には、理屈では説明のつかない優しさだって、たしかにあるんだと思う。

あの、しょうもなくて、優しい黒い影が、それを俺に教えてくれた。

だから、これだけは言わせてくれ。

普段は、口にするのが、なんだか照れくさい。

でも、今日くらいは、ちゃんと伝えておきたい。

いつもイタズラばっかりだけど。

あのときは、本当に、ありがとうな。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。