名も知らぬ息子

私は、雪の深い町の、古い市立図書館で働いています。

築六十年を越える、煉瓦造りの建物です。

天井が高く、冬は底冷えのする、静かな場所でした。

利用者の顔は、たいてい、覚えてしまいます。

この町は、冬になると、半年近く雪に閉ざされます。

図書館は、そんな町の、数少ない灯りのような場所でした。

床は、歩くたびに、古い木の軋む音を立てました。

書架のあいだには、いつも、黴と紙の匂いが漂っていました。

私は、その静けさが、嫌いではありませんでした。

祖母の代から、この町で暮らしてきました。

両親は、駅前で、小さな金物屋を営んでいます。

私は、本が好きで、この図書館に、勤めました。

何事もない、静かな毎日のはずでした。

あの男が、現れるまでは。

だから、あの男のことは、すぐに気づきました。

初めて会ったのは、三年前の、雪のちらつく朝でした。

通勤の途中、横断歩道で信号を待っていたときです。

隣に立った男が、ふいに、こう言いました。

「僕の、お母さんですか」

私は、耳を疑いました。

当時、私は二十四歳で、子どもなど、いません。

男は、どう見ても、四十を過ぎていました。

「……人違いです」

そう答えると、男は、ひどく不思議そうな顔をしました。

なぜ嘘をつくのか、とでも言いたげな表情でした。

信号が青に変わり、私は、逃げるように歩き出しました。

その男の風体は、普通ではありませんでした。

痩せこけて、目だけが、やけにぎょろりとしていました。

季節はずれの、よれよれのシャツを着ていました。

真冬だというのに、上着も、着ていませんでした。

唇は、紫色に、乾いていました。

肌は、蝋のように、白かったのを覚えています。

そして、その黄色い鞄が、妙に、気になりました。

口が、固く、結ばれていました。

中に、何が入っているのか、ついに、分かりませんでした。

ただ、母への、贈り物ではないかと、今は、思うのです。

肩から、色のあせた黄色い布の鞄を、下げていました。

それが、彼との、最初の出会いでした。

翌朝も、男は、同じ場所に立っていました。

「僕の、お母さんですか」

問いは、いつも、同じでした。

「違います」

そう言えば、男は、素直に去っていきました。

気味は悪いけれど、警察に届けるほどでは、ないと思いました。

その頃の私は、まだ、軽く考えていました。

町にはたまに、心を病んだ人も、いるものです。

そういう人だろうと、自分に言い聞かせました。

けれど、一つ、気になることが、ありました。

男の吐く息が、白く、ならないのです。

あんなに寒い朝なのに、彼の口元だけは、静まっていました。

けれど、夜になると、あの目が、まぶたの裏に浮かびました。

私を見ているようで、私の奥の、誰かを見ているような目でした。

朝、鏡を見るのが、こわくなりました。

自分の顔の奥に、知らない誰かが、いる気がしたのです。

食事も、喉を、通らなくなりました。

体重が、みるみる、落ちていきました。

けれど、それは、甘い判断でした。

ある日から、男は、図書館に現れるようになりました。

開館と同時に入ってきて、貸出台の私を、じっと見るのです。

何を借りるでもなく、ただ、立っていました。

その視線は、恨みでも、欲でも、ありませんでした。

ただ、ひたすらに、何かを、探していました。

迷子の子どもが、親を探すときの、あの目でした。

私は、思わず、彼に、尋ねたことがあります。

「あなたの、お母さんは、どんな人?」

男は、少し、考えてから、言いました。

「やさしい、手の、あったかい人」

その答えに、私は、言葉を、失いました。

彼の中の時間は、幼いあの日で、止まっているのだと、感じました。

だからこそ、よけいに、私は、ぞっとしたのです。

「僕の、お母さんですか」

利用者のいる前で、そう問われ、私は青ざめました。

同僚に頼み、やんわりと帰ってもらう日が、続きました。

年配の同僚が、一度、私に言いました。

「あの人、昔から、この町にいる気がするねえ」

「でも、どこの誰かは、誰も知らないんだよ」

「私が子どもの頃にも、いた気がするんだ」

「歳を、取らないねえ、あの人は」

同僚は、そう言って、寒そうに、肩をすくめました。

私は、笑って流そうとして、うまく、笑えませんでした。

その日の帰り道、私は、遠回りをしました。

同じ道を、通りたくなかったのです。

それでも、電柱の陰に、あの黄色い鞄が、見えた気がしました。

振り返ると、そこには、誰も、いませんでした。

雪だけが、しんしんと、降り続けていました。

歳を取らない、という一言が、耳に、こびりつきました。

その言葉に、私は、うまく相槌が打てませんでした。

やがて、彼の来館は、毎日になりました。

私は、とうとう、声を荒げてしまいました。

「もう、来ないでください。気持ちが悪い」

言ってはいけない言葉も、口にした気がします。

男は、殴られた子どものような顔をして、うつむきました。

そして、その日から、ぱたりと、姿を消しました。

ほっとしたのも、束の間でした。

次の、母の日の朝のことです。

アパートの玄関前に、一輪の花が、置かれていました。

萎れた、赤いカーネーションでした。

私は、とっさに、あの男だと悟りました。

住まいまで、知られていたのです。

背筋が、氷のように、冷たくなりました。

その夜から、私は、眠れなくなりました。

玄関の鍵を、何度も、確かめました。

廊下で物音がするたび、心臓が、跳ね上がりました。

カーテンの隙間から、外をうかがう癖が、つきました。

雪明かりの中に、あの痩せた影を、探してしまうのです。

ある晩、確かに、窓の外に、人影を見ました。

痩せた男が、じっと、こちらを見上げていました。

私が悲鳴をあげると、影は、雪の中に、溶けました。

翌朝、玄関の下には、足跡が、ありませんでした。

私は、その日、初めて、仕事を、休みました。

布団を、頭から、かぶりました。

それでも、あの声が、耳の奥で、繰り返されました。

積もったばかりの、まっさらな雪だけが、広がっていました。

人が立てば、跡が残るはずなのに。

私は、この世のものではない何かに、追われているのだと、悟りました。

母に、電話で、相談しました。

「気のせいだよ」と、母は、笑いました。

でも、その声は、どこか、こわばっていました。

母もまた、何かを、感じていたのかもしれません。

父に相談し、交番へ行きましたが、相手にされませんでした。

被害と呼べる事件は、何も、起きていないのですから。

それでも、私の不安は、日ごとに、膨れ上がっていきました。

その冬は、記録的な、大雪でした。

ある夜、私は、古い図書館に、一人で残っていました。

書庫の整理で、閉館後も、居残っていたのです。

暖房の切れた館内は、しんと、凍えていました。

外では、風が、窓を叩いていました。

吹雪の音だけが、館内に、こだましていました。

私は、懐中電灯の光を頼りに、書庫を歩いていました。

自分の足音が、やけに、大きく響きました。

ふと、背後に、気配を感じて、振り返りました。

誰も、いません。

けれど、書架の奥から、かすかに、声が聞こえた気がしました。

「おかあさん」

私は、懐中電灯を、握りしめました。

声は、確かに、書架の奥から、しました。

けれど、その声には、いつもの、棘がありませんでした。

むしろ、必死に、何かを、伝えようとする響きでした。

今にして思えば、あれは、警告だったのでしょう。

火事を、知らせに、来てくれていたのです。

帰ろうと、出口へ、急ぎました。

そのときです。

ぱちり、と、どこかで、乾いた音がしました。

焦げくさい匂いが、鼻をつきました。

古い配線から、火が、出ていたのです。

炎は、乾いた本を舐めて、みるみる広がりました。

私は、逃げようとして、崩れた書棚の下敷きに、なりました。

足が、挟まれて、動きません。

「誰か、助けて」

声は、煙に、掻き消されました。

熱が、背中に、迫ってきます。

煙が、喉を、焼きました。

目も、開けていられません。

本の焦げる匂いが、あたりに、充満していました。

ぱちぱちと、火の粉が、頬に、降りかかります。

意識が、遠のいていきました。

両親の顔が、一瞬、脳裏を、よぎりました。

「ごめんね」と、心の中で、つぶやきました。

親より先に逝く、親不孝を、詫びたのです。

指先の感覚が、消えていきました。

もう、駄目だと、思いました。

そのときでした。

煙の向こうから、あの、聞き慣れた声が、しました。

「おかあさん、どこですか。おかあさん」

私は、迷わず、叫んでいました。

不思議と、こわさは、ありませんでした。

その声だけが、闇の中の、たった一つの、光でした。

三年間、こわいと思ってきた声に、私は、すがったのです。

「ここ、ここです。助けて。ここにいるの」

炎を掻き分けて、あの男が、現れました。

男もまた、どこかで火傷を負い、血を流していました。

それでも、渾身の力で、書棚を持ち上げてくれました。

私を引きずり出し、出口へと、押し出しました。

改めて見ると、男の傷は、私よりずっと、重そうでした。

それなのに、男は、穏やかに、微笑んだのです。

「僕の、お母さんですか」

私は、この期に及んで、なぜか、こう答えていました。

「……ええ。ええ、そうよ」

涙が、頬を、ぽろぽろと、こぼれ落ちました。

男は、心から、うれしそうに、笑いました。

その笑顔は、長い旅の果てに、家に帰り着いた者の顔でした。

苦しみも、痛みも、そこには、ありませんでした。

ただ、深い、安堵だけが、浮かんでいました。

外に助け出され、私は、意識を失いました。

気がつくと、病院のベッドの上でした。

軽い火傷だけで、命に別状は、ありませんでした。

けれど、消防の人は、不思議なことを言いました。

あの火事の現場から、私一人しか、運び出していない、と。

血を流した男など、どこにも、いなかった、と。

焼け跡からも、私以外の痕跡は、見つかりませんでした。

退院してから、私は、あることが、気にかかりました。

あの男は、どこの誰だったのか。

私は、図書館に残された、古い郷土資料を、調べました。

そして、一枚の、色あせた新聞記事を、見つけたのです。

六十年ほど前の、火事の記事でした。

焼けたのは、まさに、この図書館の、前身の建物でした。

記事には、一人の少年が、逃げ遅れて亡くなった、とありました。

その子は、入院中の母を探して、吹雪の夜に家を出たそうです。

私は、指先が、震えるのを、止められませんでした。

「僕の、お母さんですか」

あの問いの意味が、ようやく、腑に落ちました。

男は、ずっと、母を、探していたのです。

六十年もの、長い、長い、あいだ。

たどり着いた先で、火に、巻かれたのだといいます。

享年、十歳。

母は、その火事を知らぬまま、翌朝、息を引き取ったと、結ばれていました。

少年は、母に、会えなかったのです。

私は、その記事を、そっと、閉じました。

涙が、こぼれました。

あの男は、私を、母だと、思ったのでしょうか。

それとも、母を探すうちに、誰かを、助けたくなったのでしょうか。

本当のところは、分かりません。

ただ、一つだけ、確かなことが、あります。

彼は、火の中で、迷わず、私を選んで、助けてくれました。

六十年間、母に会えなかった魂が、です。

私を助けることが、彼にとって、母を救うことだったのかもしれません。

あるいは、ただ、誰かの役に、立ちたかったのでしょうか。

自分が、あんなに、探し続けた場所へ、私を、帰してくれたのです。

その春、私は、図書館を、辞めました。

焼け跡は、更地になり、小さな公園に、なりました。

私は、時々、そこを、訪れます。

隅に、一輪の、カーネーションを、供えるためです。

赤い花を置くたび、胸の奥が、温かくなります。

こわい話のはずなのに、私は、彼を、こわいとは、思いません。

ただ、いとおしく、そして、少しだけ、切ないのです。

雪の降る夜には、決まって、彼を思い出します。

あの、白い息の出ない口元を。

あの、迷子のような、まなざしを。

彼は、もう、迷っていないでしょうか。

母の、あたたかい手に、たどり着けたでしょうか。

そうであってほしいと、私は、雪空に、祈ります。

去年の冬、公園で、小さな女の子に、会いました。

その子は、誰もいない空を見上げて、手を、振っていました。

「あのお兄ちゃん、だあれ?」と、私は、尋ねました。

「やさしいお兄ちゃん。おかあさんを、さがしてるの」

女の子は、そう言って、無邪気に、笑いました。

私は、その空を、しばらく、見上げていました。

彼は、まだ、この町の、雪の中に、いるのかもしれません。

けれど、もう、こわくは、ありませんでした。

私は、女の子と並んで、空に、手を振りました。

「いってらっしゃい」と、小さく、声をかけました。

雪が、ひとひら、私の手のひらに、落ちました。

それは、ほんの少しだけ、温かい気が、しました。

名も知らぬ息子は、今日も、母を、探しています。

いつか、その旅が、終わりますように。

公園の木々が、雪の重みで、しなっていました。

その枝の向こうに、彼の後ろ姿が、見えた気がしました。

痩せた背中は、もう、以前ほど、寂しくは、ありませんでした。

きっと、いつか、見つかります。

あの、あたたかい手のぬくもりに、たどり着けますように。

そう祈ると、雪が、少し、やわらかく降り始めました。

まるで、誰かの、返事のように。

あの男は、いったい、何だったのでしょう。

幽霊、とは、少し違う気がするのです。

あんなに温かい手で、私を、抱え上げてくれたのですから。

あれ以来、あの男を、一度も見ていません。

「お母さんですか」と、問う声も、途絶えました。

きっと、探していた誰かに、ようやく、会えたのでしょう。

雪が降ると、私は、時折、思い出します。

名も知らぬ、あの息子のことを。

そして、そっと、雪空に向かって、つぶやくのです。

「今度は、迷子に、ならないでね」と。

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