イタズラ好きな何か

イタズラ好きな何か

子どもの頃、私のそばには、いつも「いたずら好きな何か」がいました。

姿は、見えませんでした。

声も、聞こえませんでした。

それでも、たしかにそこにいる、とわかるのです。

気配というより、悪ふざけの結果で、その存在を知るような感じでした。

今思えば、不思議な話です。

けれど、私にとっては、それが当たり前の日常でした。

これは、その何かと過ごした、少し奇妙で、少し切ない子ども時代の記憶です。

幼い頃の私は、それを、特別なことだとは思っていませんでした。

誰のそばにも、こういう何かがいるのだろう、と。

だから、誰にも話しませんでした。

話す必要さえ、感じなかったのです。

それが、自分だけのことだと知ったのは、ずっとあとになってからでした。

※

いちばん多かったのは、肩を叩くいたずらでした。

私が誰かと並んで座っていると、その人の肩が、ふいにトントンと叩かれるのです。

叩かれた人は、当然、振り返ります。

けれど、そこには誰もいません。

いるのは、隣でぽかんとしている、私だけ。

「ねえ、今、叩いたでしょ」

そう言われても、私には身に覚えがありません。

「叩いてないよ」

そう答えても、たいていは信じてもらえませんでした。

その何かは、巧妙でした。

相手が、こちらを見ていない、ほんの一瞬の隙を狙うのです。

だから、いつも私が、犯人にされました。

小学校の三年生くらいになると、私もすっかり慣れて、何も言わなくなりました。

学校では、ずいぶんと、損な役回りでした。

授業中、前の席の子の背中が、つつかれる。

その子が振り返って、私をにらむ。

先生にまで、私が叱られる。

「こら、よそ見をするな」

そう言われても、私は何もしていないのです。

給食の時間には、誰かのスプーンが、こてんと倒れました。

掃除の時間には、立てかけたほうきが、ひとりでに、ぱたんと倒れました。

そのたびに、まわりの目が、私に集まりました。

私は、もう、言い訳もしませんでした。

言ったところで、信じてもらえないと、わかっていたからです。

「またお前か」

そう言われて、苦笑いを返すのが、私の癖になっていました。

※

困ったのは、時計でした。

私の身のまわりの時計は、いつも、少しずつ狂っていました。

電池の時計も、コンセントの時計も、関係ありませんでした。

アナログも、デジタルも、おかまいなしでした。

ひと月で、十五分から三十分は、平気でずれるのです。

朝、目覚まし時計を見て、あわてて飛び起きたことが、何度もありました。

音楽も、そうでした。

好きな曲を聴いていると、ときどき、速さが変わるのです。

急に早送りのようになったり、ゆっくりになったり。

ある日、あまりにうるさいので、私は思わずつぶやきました。

「もう、うるさいなあ」

すると、その瞬間、音楽はぴたりと、もとの速さに戻りました。

私は、思わず笑ってしまいました。

なんだか、すねた子どもをなだめたような気分でした。

夜、布団に入ると、私はときどき、暗い天井に向かって話しかけました。

「ねえ、君は、だれ?」

返事は、ありませんでした。

「どうして、ぼくのそばにいるの?」

やはり、返事はありませんでした。

ただ、枕もとの目覚まし時計が、かちりと、小さな音を立てるだけでした。

まるで、ここにいるよ、と答えるように。

こわい、とは、不思議と思いませんでした。

その何かは、私を、おどかしたことが一度もなかったからです。

いたずらは、いつも、どこか温かいものでした。

だから私は、その存在を、こわがるどころか、心のどこかで頼りにしていました。

テレビの砂嵐が、急に映ることもありました。

消したはずの電気が、ぱっと、ついていることもありました。

鉛筆が、机の上を、ころころと、ひとりでに転がることもありました。

そのどれもが、ほんの小さな、ささやかないたずらでした。

大きな物が壊れたことは、一度もありません。

誰かが、けがをしたことも、ありません。

今思えば、その何かは、加減を知っていたのです。

私を、ほんの少し困らせて、けれど、決して傷つけない。

そういう、やさしいいたずらばかりでした。

※

その何かは、いたずら好きでしたが、どこか、間の抜けたところもありました。

高校生のときのことです。

私は、隣に座っていた女の子の肩を、いつものくせで叩こうとしました。

いえ、正確には、その何かが、叩いたのです。

女の子が振り返ると、私は両手がふさがっていました。

ちょうど、紙コップにジュースを注いでいる最中だったのです。

叩けるはずが、ありません。

「え、今、誰が……」

女の子は、青ざめて、あたりを見回しました。

私は、どう説明していいか、わかりませんでした。

「ごめん、たぶん風じゃないかな」

苦しい言い訳でした。

その何かは、自分のいたずらの後始末を、いつも私に押しつけるのです。

一度だけ、その何かを、はっきりと感じた友人がいました。

中学のときの、親友でした。

二人で私の部屋にいたとき、机の上の鉛筆が、すうっと、転がったのです。

風もないのに、ひとりでに。

親友は、目を丸くして、固まりました。

「今の、見た……?」

「うん。いつものことだよ」

私が、こともなげにそう言うと、親友は、ぽかんとしました。

「お前、こんなのと、ずっと暮らしてるのか」

「まあ、生まれたときから、かな」

親友は、しばらく考えてから、ぽつりと言いました。

「なんか、お前のこと、見ててくれてる感じだな」

その一言が、なぜか、長く心に残りました。

※

けれど、その何かは、ただのいたずら者ではありませんでした。

ときどき、私を、守ってくれたのです。

ある日、私が道を歩いていると、突然、後ろから服を引っぱられました。

思わず、立ち止まりました。

その、ほんの一瞬あとです。

目の前に、上の階から落ちてきた植木鉢が、音を立てて砕けました。

もし、あのまま歩いていたら。

私は、その場に、しゃがみこんでしまいました。

「……ありがとう」

誰もいない背後に向かって、私は、小さくそうつぶやきました。

返事は、ありませんでした。

ただ、肩のあたりが、ふっと、温かくなった気がしました。

忘れられないことが、もうひとつあります。

小学生のとき、私は、池のほとりで遊んでいました。

ぬかるんだ岸を、ふざけて、走り回っていたのです。

そのとき、足首を、ぐいと、つかまれた気がしました。

私は、つんのめって、その場に転びました。

泥だらけになって、半べそをかきました。

けれど、顔を上げて、ぞっとしました。

私が走っていこうとした先は、足のつかない、深みだったのです。

あのまま走っていたら、どうなっていたか。

その何かは、私を転ばせてまで、止めてくれたのでした。

※

その何かのおかげで、できた友達もいました。

高校を出て、私は、知らない町で一人暮らしを始めました。

心細い、毎日でした。

ある日、隣に座っていた同級生の肩が、トントンと叩かれました。

彼は振り返り、私を見て、首をかしげました。

「今、叩いた?」

「いや、僕じゃないよ。……たぶん」

そんな、おかしなやりとりから、私たちは笑い合い、仲良くなりました。

いつものいたずらが、人と人を、つないでくれたのです。

思えば、その何かは、私が一人ぼっちにならないように、見守っていたのかもしれません。

いたずらという、不器用なやり方で。

その何かは、私に、大切な人も、運んでくれました。

大学の図書館で、勉強をしていたときのことです。

私の隣に座っていた女性の肩が、トントンと叩かれました。

彼女は顔を上げ、きょとんとして、あたりを見ました。

「あの、今、呼びました?」

「いえ、僕は何も……」

言いかけて、私は、いつものことだと気づきました。

「ごめんなさい、たぶん、僕の連れのいたずらです」

思わず、そう口にしていました。

「お連れ、いらっしゃいます?」

彼女は、誰もいない隣を見て、笑いました。

その笑顔が、きっかけでした。

私たちは、やがて、寄り添って歩くようになりました。

あのトントンがなければ、私は、声をかけることすら、できなかったでしょう。

※

その何かのいたずらが、ぱたりとやんだのは、私が二十歳を、いくつか過ぎた頃でした。

肩を叩かれることも、なくなりました。

時計が狂うことも、なくなりました。

音楽が、勝手に速さを変えることも、なくなりました。

はじめは、ほっとしました。

けれど、しばらくすると、なぜか、ひどく寂しくなりました。

あんなにわずらわしかったいたずらが、もうない。

そのことが、こんなにも、心に穴をあけるとは思いませんでした。

私は、長いあいだ、その何かと一緒に生きてきたのだと、はじめて気づきました。

いたずらがやんでから、私の毎日は、おそろしく静かになりました。

肩を叩かれて、人に疑われることも、なくなりました。

言い訳をすることも、苦笑いをすることも、なくなりました。

それは、楽なことのはずでした。

けれど、楽になればなるほど、私はうつろになっていきました。

夜、布団に入って、暗い天井に話しかけても。

もう、時計は、かちりとも、鳴りませんでした。

「ねえ、まだ、いるの?」

そう問いかけても、部屋は、ただ、しんとしているだけでした。

私は、自分でも驚くほど、その静けさが、こたえました。

※

ある日、私は、ふとしたことから、母にこんな話を聞きました。

私には、もう一人、きょうだいがいるはずだった、というのです。

私が生まれる、少しあと。

母は、もう一人、子を授かっていました。

けれど、その子は、生まれてくることが、できませんでした。

「生きていれば、あなたの、一つ下の弟だったのよ」

母は、静かに、そう言いました。

私は、言葉を失いました。

頭の中を、これまでのいたずらが、ひとつひとつ、よぎっていきました。

肩を叩くいたずら。

狂う時計。

私を守ってくれた、あの手。

母は、しばらく黙ってから、続けました。

「あなたが二つになる前のことだから、あなたは、覚えていないでしょうけど」

「お母さんは、その子のことを、ずっと、心のどこかで思っていたのよ」

私は、母の手が、かすかに震えているのに、気づきました。

「もし、生きていたら。きっと、あなたと、仲良くしていたでしょうね」

その言葉を聞いて、私の胸の奥が、熱くなりました。

仲良く、どころではありません。

その弟は、ずっと、私のそばにいてくれたのです。

私が気づかないあいだ、ずっと。

私は、そのことを、母に話そうとして、やめました。

うまく、言葉にできる気が、しなかったからです。

※

あれは、弟だったのかもしれません。

生まれてこられなかった弟が、ずっと、私のそばにいてくれた。

いたずらをして、私を笑わせて。

危ないときには、私を守って。

一人にならないように、そっと、人と人をつないで。

言葉も、姿も持たない弟が、それでも精いっぱい、兄と一緒にいようとしてくれたのです。

思えば、いたずらは、いつも、私が寂しいときに、多くなりました。

友達とけんかをした日。

テストで、ひどい点を取った日。

そんな夜にかぎって、時計は大きく狂い、音楽は速さを変えました。

まるで、ふさぎこむ私の気を、そらそうとするように。

おどけて、私を、笑わせようとするように。

弟は、兄が落ちこむのを、見ていられなかったのかもしれません。

自分にできる、たったひとつのやり方で。

姿も、声も、持たないまま。

それでも、精いっぱい、そばにいようとしてくれたのです。

二十歳を過ぎて、いたずらがやんだのは。

きっと、もう大丈夫だと、安心してくれたからなのでしょう。

私が、ひとりでも生きていけると、見届けてくれたから。

私は今でも、ときどき、仏壇に手を合わせます。

母が、小さな位牌を、ひとつ、増やしていたのです。

名前のない、戒名だけの位牌でした。

その前に座ると、私は、心の中で語りかけます。

「いろいろ、ありがとうな」

「おかげで、兄ちゃんは、ちゃんと大人になれたよ」

返事は、もちろん、ありません。

けれど、線香のけむりが、ふっと、不自然に揺れることがあります。

気のせいかもしれません。

気のせいで、いいのです。

そう思うだけで、私の胸は、あたたかくなるのですから。

※

姿を見たことは、一度もありません。

声を聞いたことも、一度もありません。

それでも、私には、確信があります。

あの何かは、まぎれもなく、私の弟だったのだと。

会えなかったぶん、ずっとそばで、私を見守ってくれていたのだと。

※

あれから、私の時計は、もう狂いません。

きっかり正確に、時を刻んでいます。

音楽も、いつもどおりの速さで、流れていきます。

それは、平穏な日々のはずでした。

けれど私は、ときどき、正確な時計を見つめながら、思うのです。

もう一度でいいから、あのいたずらに、振り回されてみたいと。

肩を叩かれて、誰かに疑われたい。

狂った時計に、あわてて飛び起きたい。

そのいたずらの向こうに、たしかに、弟がいたのですから。

会ったことのない、けれど、誰よりそばにいてくれた弟が。

今、私にも、小さな子どもがいます。

その子が、ときどき、誰もいない方を見て、きゃっきゃと笑うことがあります。

何もない空間に、手を伸ばすこともあります。

そんなとき、私は、そっと心の中で思うのです。

もしかしたら、この子のそばにも。

あのいたずら好きが、遊びに来ているのかもしれない、と。

そう思うと、私は、こわいどころか、うれしくなります。

子どもの笑い声を聞きながら、私は、そっと天井を見上げます。

「今度は、この子をよろしくな」

声に出さず、心の中で、そう頼んでみるのです。

きっと、聞こえているはずだと、私は信じています。

姿の見えないやさしさは、きっと、世代を越えて受け継がれていくのだと思います。

今でも私は、静かな部屋で、そっと耳をすませることがあります。

あのトントンという音が、また聞こえてこないかと。

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