母からの手紙
息子が高校に入学してすぐ、母がいなくなった。
「母さんは父さんとお前を捨てたんだ」
父が言うには、母には数年前から外に恋人がいたそうだ。
落ち込んでいる父の姿を見て、息子は父を支えながら二人で生きていこうと思ったのだった。
しかし、母がいなくなってから家でおかしなことが起きるようになった。家全体が異様な雰囲気に包まれているのを感じた。
ドアが勝手に開いたり、棚の上のものが勝手に落ちるようになった。息子はふと「母は死んでいるのかも…」と思った。
母が失踪してから置いたままになっている、玄関にある母の靴を調べてみた。もし母が出ていったとしたら、靴が一足、足りないはずだ。
母の靴は全部ある。
母はこの家を出ていないということだ。
一番信じたくないことだが、父がこの家の中で母を殺したんだと思った。
『どうしてなんだ?』
父に聞きたくて仕方がない。
しかし、母を亡くして父まで逮捕されてしまったら、息子はどうやって生きていけばいいだろう。
父は母を愛していた。
きっと母は父を裏切ったんだ、殺されても仕方なかったんだ…そう思うようにした。父には何も言わず、何も知らないふりをしよう。息子はそう決心した。
※
その後も奇妙な現象は続いていた。ある日の夜中「ヒタ…ヒタ…」と、誰かが家を歩き回る足音で目が覚めた。ガタイのいい父の足音ではない。
その足音は息子の部屋に入ってきて、寝ているベッドにまで近づいてきたのだ。
『来ないでくれ』そう念じながら固く目をつぶり、布団に潜っていた。
頬に生ぬるい息を感じた。恐る恐る薄目を開けると、もの凄い形相の母が息子を見つめている。そして、耳元で「出…て行…け…」と囁いた。
『早くこの家を出たい!』
息子は心からそう思ったが、引越しをするにもその理由を父に話すことができない。
不思議なことに、母の霊を見るのはいつも息子だけのようだった。
母がいなくなってから、父は息子の面倒を見るため会社を辞めて在宅の仕事を始め、家事もこなすようになっていた。
息子のために毎日夕飯を用意してくれる父に、なぜ母を殺したのかと問い詰めることはできない。
しかし、この家には母の霊がいると感じていた息子は、どうすればよいのか常に悩んでいた。
ある日、物置小屋を片付けに入ったとき、異様な臭いがしたので奥の方を探ってみると、そこには布団に包まれた母がいた。
息子は急いでドアを閉めて物置小屋を出た。台所で料理をしていた父の「どうした?」という声が聞こえる。
息子は平静を装って「何でもないよ。宿題があったのを思い出したから」と答えた。
「もうすぐごはんだから、居間でやればいいよ」
息子は急いで部屋に戻り、通学カバンを開けて教科書を出そうとした。
そのとき初めて、カバンの底に四つ折の白い紙があることに気づいた。
開いてみると、それは母の字。
「早く逃げて、父さんは狂ってる」
母は必死になって息子を逃がそうとしていたのだ。