北陸本線

北陸本線の、ある無人駅での話だ。

当時、私は隣町の工場まで、毎晩この線で通っていた。

帰りはいつも終電間際。

駅の名は伏せるが、海沿いの、ひどく小さな駅だった。

ホームは片側に一本きり。

屋根は木造で、雨漏りの跡が黒く滲んでいた。

待合室の蛍光灯は、いつも切れかけで、じじ、と鳴いていた。

十一月のその夜は、よく冷えた。

潮の匂いに、雪のにおいが混じり始めていた。

私はホームの端で、イヤホンで音楽を聴きながら、終電を待っていた。

時刻表によれば、列車まではあと十五分ほどあった。

ホームには、私のほかに誰もいなかった。

海から吹き上げる風が、頬を刺した。

いつもどおりの、退屈な夜になるはずだった。

この駅を使い始めて、もう二年になる。

夜の最後の客は、たいてい私ひとりだった。

改札もなく、切符は車内で精算する。

ホームの先には、灯りもない真っ暗な海が広がっていた。

波の音だけが、規則正しく、闇の底から届いてくる。

ときどき、その音が、人の寝息のように聞こえることがあった。

錆びたベンチに腰かけると、底冷えが、背骨を這い上がってくる。

私はコートの襟を立て、白い息を吐いた。

缶コーヒーは、もうすっかり冷えていた。

それでも、両手で包んでいると、わずかなぬくもりが残っていた。

その夜は、なぜだか、波の音がいつもより近く聞こえた。

まるで、海そのものが、ホームのすぐ下まで迫っているようだった。

遠くで、汽笛のような音が、一度だけ鳴った気がした。

だが、こんな時間に、船が出るはずもない。

気のせいだろうと、私は音楽の音量を、少しだけ上げた。

思えば、この駅には、前から妙なところがあった。

夏でも、ホームの一角だけが、やけに冷たいのだ。

そこを通ると、決まって首筋の毛が逆立った。

地元の人は、その辺りに、誰も立ち止まらなかった。

理由を尋ねても、皆、口を濁すばかりだった。

「あそこはな、昔から、そういう場所なんよ」

雑貨屋の老人だけが、一度そう言ったことがある。

そのときは、田舎の迷信だと、笑って聞き流していた。

ホームの掲示板には、色あせた古い時刻表が貼られていた。

その隅に、判読できないほどかすれた、手書きの文字があった。

「夜半の便、乗るべからず」とでも読めるような、奇妙な一行だった。

誰が、いつ書いたものかは、分からない。

今になって、その言葉の重みが、じわりと分かる。

あの冷たい一角は、ちょうど、扉が開いた一両が停まった場所だった。

偶然だと、片づけるには、できすぎていた。

土地は、覚えているのだと思う。

そこで何があったのかを、何十年経っても、忘れないのだ。

ふいに、線路の方が明るくなった。

列車だ、と思って顔を上げた。

だが、おかしい。

接近を知らせるベルも、放送も、何ひとつ鳴らなかった。

いつもなら、必ず先に鳴るはずのものが、まるでなかった。

それなのに、列車はもう、目の前に滑り込んでいた。

時刻表より、十分も早い。

ラッキー、と一瞬だけ思った。

けれど、足が動かなかった。

その列車が、妙に長いのだ。

いつもは三両か、せいぜい六両の編成だった。

ところが目の前のそれは、青い車体が、十両以上も連なっていた。

後ろの方など、短いホームから、すっかりはみ出している。

こんな小さな無人駅に、停まるはずのない長さだった。

私は、思わず先頭の方へ目をやった。

運転席のあるはずの場所は、ただ黒い影になっていた。

誰が、この列車を走らせているのか。

そもそも、走らせているものなど、いるのだろうか。

後尾は、ホームを越え、線路の闇へと続いていた。

どこまで連なっているのか、終わりが見えない。

数えようとして、私は途中でやめた。

数えてはいけない気がしたのだ。

ふと、一つの窓のカーテンが、わずかに揺れた。

風はない。

なのに、その布だけが、内側から押されたように膨らんだ。

隙間から、青白い顔の輪郭が、こちらを覗いている気がした。

目を凝らすと、カーテンは、また元どおりに閉じていた。

見間違いだと思いたかった。

けれど、見間違いにしては、その顔は、笑っていた。

口の端だけが、にい、と横に引かれていた。

目は、こちらを見ているのに、何も映していないようだった。

その顔は、ひとつではなかった。

隣の窓にも、その隣の窓にも、同じ笑みが並んでいた。

どの顔も、ぴくりとも動かず、ただ私を待っていた。

満員のはずなのに、声ひとつ、しなかった。

そして、車両があまりに古かった。

塗装はくすみ、鉄の継ぎ目に、赤い錆が浮いていた。

鉄道に詳しくない私でも、それくらいは分かった。

窓という窓は、どれもカーテンが引かれていた。

中の様子は、まったくうかがえない。

灯りも、ほとんど点いていなかった。

旅客列車のはずなのに、人の気配が、まるでないのだ。

鼻の奥に、奇妙なにおいが届いた。

潮の匂いではない。

濡れた灰のような、冷たく湿ったにおいだった。

近づこうとして、足が、勝手に半歩下がった。

車体の表面には、無数の細かい水滴が浮いていた。

まるで、たった今、深い水の底から上がってきたかのように。

風が吹いても、その列車のまわりだけ、空気が動かなかった。

音もなかった。

ディーゼルのうなりも、レールの軋みも、何ひとつ。

あれほどの鉄の塊が、息さえしていないのだ。

私の心臓の音だけが、やけに大きく、耳の中で鳴っていた。

私は、後ずさりした。

そのとき、気づいてしまった。

私のすぐ前の一両だけ、扉が開いていたのだ。

ほかの車両の扉は、すべて閉じている。

その一両だけ、扉が開いて、私を待っていた。

扉の奥は、塗りつぶしたように、真っ暗だった。

ホームの灯りが、その闇には、一筋も届かない。

車内の床も、座席も、何も見えない。

ただ、四角く切り取られた、黒があるだけだった。

足を踏み入れたら、二度と戻れない。

その闇の奥から、かすかに、音が漏れた気がした。

水の、したたる音。

ぴちょん、ぴちょん、と、規則正しく。

それから、ごく低く、誰かが何かをつぶやくような声。

聞き取ろうとすると、声は、すっと遠ざかった。

開いた扉の縁に、白い指のようなものが、見えた気がした。

見た、と思った瞬間、それは闇に溶けて消えた。

理屈ではなく、全身が、そう叫んでいた。

乗ってはいけない。

なのに、足の裏が、じりじりと前に出ようとする。

誰かに、後ろから押されているような気さえした。

扉の闇は、まるで、ゆっくりと呼吸をしているようだった。

吸い込まれそうになるたび、私は奥歯を噛みしめた。

イヤホンから流れる曲が、ひどく遠くに聞こえた。

現実の音だけが、どんどん薄くなっていく。

代わりに、あの水のしたたる音が、頭の奥で大きくなった。

ここで目を閉じたら終わりだ、と本能が告げていた。

唇が、勝手に震えて、意味のない言葉を漏らした。

助けて、とも、行け、ともつかない、ただの音だった。

海風が、ひときわ強く吹きつけた。

その風にすら、あの列車のまわりだけは、びくともしなかった。

世界から、その一画だけが、切り取られているようだった。

指先の感覚が、だんだんとなくなっていった。

寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、分からなかった。

ただ、心臓だけが、痛いほど脈打っていた。

生きている、というその実感だけを、私は必死に握りしめた。

今でも、あの一瞬を思い返すと、てのひらに汗がにじむ。

私は、ほんの数歩のところで、踏みとどまった。

もし、あのとき顔を上げるのが、一秒でも早かったら。

扉の闇と、目が合っていたかもしれない。

そう思うと、背中を、冷たいものが伝う。

私を見送ったのか、見逃したのか。

それは、今も分からないままだ。

ひとつだけ、確かなことがある。

あの夜以来、私はもう、終電に乗らない。

日が落ちる前に、用事はすべて済ませる。

暗くなってからの無人駅には、何かが降りてくる。

それを、身をもって知ってしまったからだ。

もし、あなたが田舎の小さな駅で、予定にない長い列車を見たら。

どうか、扉の奥を、覗かないでほしい。

そして、振り向かずに、その場を立ち去ってほしい。

あれは、迎えに来た列車だ。

けれど、誰を迎えに来るのかは、乗ってみるまで分からない。

そして、分かったときには、もう降りられない。

私が無事だったのは、ただ、運が良かっただけなのだろう。

あるいは、まだ、迎えの順番が来ていないだけなのかもしれない。

そう考えるたびに、私は、霜月の夜が来るのが、たまらなく怖いのだ。

自販機の灯りだけが、ホームに薄い光を落としていた。

その光の輪の外は、もう何も見えない闇だった。

時計の針が、十一時を回ったところだった。

終電を逃せば、この町には、もう動くものは何もない。

私は、早く帰りたい一心で、線路の先を見つめていた。

私は、ありったけの力で、その場に踏みとどまった。

私は、イヤホンの音量を、めいっぱい上げた。

音で、現実につなぎとめようとしたのだと思う。

そして、うつむいた。

自分の靴の先だけを、じっと見つめた。

早く、行ってくれ。

頼むから、私を置いて、行ってくれ。

正直に言えば、半泣きだった。

どれくらい、そうしていただろう。

おそるおそる、顔を上げた。

列車は、消えていた。

発車のベルも、走り去る音も、何ひとつ聞こえなかった。

いつのまにか現れ、いつのまにか消えていた。

イヤホンをしていたとはいえ、十両もの列車だ。

まったく音がしないなど、ありえない。

あの一両だけ、初めから、音がなかった。

私は、その場にしゃがみ込んでしまった。

膝が、笑って、立てなかったのだ。

やがて、聞き慣れたベルが鳴った。

接近の放送が流れ、いつもの短い電車が、ホームに入ってきた。

明るい車内に、数人の乗客の顔が見えた。

その、ありふれた顔を見たときの安堵を、私は今でも忘れられない。

席に座っても、しばらくは手の震えが止まらなかった。

向かいの窓に映る自分の顔は、血の気が引いて、紙のように白かった。

ふと、コートの裾が、じっとりと濡れているのに気づいた。

海になど、近づいた覚えはなかった。

それなのに、繊維の奥まで、冷たい水がしみ込んでいた。

かすかに、あの濡れた灰のにおいが、まだ残っていた。

私は、窓の外の闇から、急いで目をそらした。

隣に座っていた中年の男が、不思議そうに私を見ていた。

「兄ちゃん、顔色、悪いで。大丈夫か」

「ええ、少し、寒気がして」

私は、それだけ答えるのが、精一杯だった。

あの駅で何を見たのか、口にする気には、とてもなれなかった。

言葉にした途端、それが本物になってしまう気がした。

後日、私はその話を、駅の近くで雑貨屋を営む老人にした。

老人は、しばらく黙って、湯呑みを見つめていた。

「ああ、あれな」

ぽつりと、そう言った。

「昔な、この沖の海で、連絡船が一隻、沈んだことがあってな」

「ずいぶん前の、霜月の晩だったと」

私は、息を呑んだ。

私が見たのも、十一月の夜だった。

「迎えに来とるんかもしれんな」と、老人は静かに言った。

「あの船はな、霧の濃い晩に、暗礁に乗り上げたんやと」

「乗っとった者は、ほとんど帰らんかった」

私は、湯呑みを握る手に、力がこもるのを感じた。

「それと、列車と、何の関係が」

「さあな。わしにも分からん」

老人は、煙草に火を点けた。

「ただ、昔から言うんよ。この駅にだけ、来てはいかん便があると」

「来てはいかん便」

「そう。乗ってしもうた者は、二度と降りられん、いう話でな」

店の奥で、古い柱時計が、こつ、こつ、と時を刻んでいた。

「その船が沈んだ夜も、雪が降っとった」

老人は、窓の外の、暗い海の方を見た。

「助けを呼ぶ声が、夜通し、浜まで聞こえたそうや」

「朝になったら、声は、ぴたりとやんでおった」

私は、何も言えなかった。

あの扉の奥から漏れた、低いつぶやきを思い出していた。

つぶやきは、ひとつではなかった。

いくつもの声が、重なり合っていた。

どれも、ひどく疲れた、力のない声だった。

まるで、長いあいだ、誰かを待ち続けているような。

あれは、助けを求める声だったのか。

それとも、私を、招く声だったのか。

「あんた、扉の奥、覗かんかったか」と、老人が私を見た。

「……覗きました。真っ暗で、何も」

「そうか。覗くだけで、よう帰ってきたな」

老人は、それきり口をつぐんだ。

灰皿の上で、煙草の煙が、まっすぐに立ちのぼっていた。

帰り際、老人は、ひとつだけ忠告をくれた。

「もし、また見ても、名前を呼ばれても、振り向くな」

「名前、ですか」

「呼ばれても、振り向いた者は、おらんようになる」

私は、背筋が凍るのを感じた。

あの夜、うつむいていた私は、何も聞かなかった。

いや、聞こえなかったことに、しているだけかもしれない。

あの晩から、私は何度も、同じ夢を見るようになった。

真っ暗な車内に、私が一人、腰かけている夢だ。

窓の外を、見覚えのある海岸が、音もなく流れていく。

降りようとしても、扉は、どこにも見当たらない。

目が覚めると、決まって、枕がじっとりと濡れていた。

汗ではない。

それは、かすかに、潮の味がした。

あれから、十年以上が過ぎた。

私は、もうあの町には住んでいない。

けれど、雨の降る霜月の夜は、今でも眠れない。

遠くで電車の走る音がすると、つい、息をひそめてしまう。

その音に、ベルも放送もないことを、確かめてしまうのだ。

あの夜、駅にいたのは、本当に、私だけだったのだろうか。

開いた扉の奥で、誰かが、ずっと私を見ていたのではないか。

今でも、ふとした拍子に、潮の味が、舌の奥によみがえる。

「誰を、ですか」

老人は、答えなかった。

ただ、湯呑みの茶を、ずず、とすすっただけだった。

それ以来、私は終電を一本早めて、その駅で待つのをやめた。

けれど、ときどき思う。

あの夜、開いていた扉は、本当に、間違って開いたのだろうか。

それとも、あの闇の中には、私のための席が、ひとつ空いていたのだろうか。

確かめる気は、今もない。

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