
昨夜のことだ。
今こうして文章にしていながらも、正直、自分でも信じ切れていない。
ただ、当事者である俺がいちばん混乱しているのは確かだ。
※
仕事を終えて帰宅すると、母親が風邪で寝込んでいた。
俺は簡単な食事を用意したり、薬を飲ませたり、できる範囲で世話をした。
しかし――わずか十五分ほどで、俺自身も強烈な悪寒に襲われた。
普段は滅多に風邪をひかない。
それだけに、妙にあっけなく発症したことが気にかかった。
遅れて帰宅した兄に後を任せ、俺は自室で布団をかぶった。
眠りに落ちかけたころだ。
「ガン…ガン…ガン…」
枕元の横に置いてある高さ一五〇センチほどのタンスが、
誰かに蹴られるように揺れた。
だが、そのときの俺は異常に無関心だった。
「変だな」と思うより先に意識が沈み、いつの間にか眠っていた。
※
夢の中で、俺は自分の部屋にいた。
これは夢だ、という自覚もないまま、ただ薄暗い空間で横になっていた。
身体が異様に重い。
まるで十キロの重りを四肢にくくりつけられたように、思うように動かない。
腕を持ち上げても、すぐにベッドに落ちてしまう。
金縛りとは少し違う。
動くには動くのに、動かす気力が吸い取られていくような感覚だった。
そして、気配を感じて横を見ると――
目の前二十センチほどの距離に、それはいた。
真っ黒な、球体の“もや”。
黒というより、“闇そのもの”が丸まってそこにあるようだった。
「(……頭?)」
「(いや、人の形とは違う……何だ、これ)」
もやは輪郭だけ揺らし、
『にい』
と、笑ったように見えた。
俺は反射的に飛び起きたが、部屋には何もなかった。
「夢かよ……気味悪い……」
そう呟いた直後、また眠気に引きずられる。
そして眠るたびに、必ず“もや”が現れ、
同じ距離で“にい”と笑う。
目覚めては眠り、眠っては笑われる。
その無限ループのなかで、時間の感覚がどんどん崩れていった。
何度目かの遭遇のとき、突然、頭上から声が落ちてきた。
『危ないよ!!』
少女の声。
小学生くらいの、幼い声だった。
『そいつ、これから質問してくるよ。間違えると――』
そこだけ、どうしても思い出せない。
だが、良くない言葉だったことだけは覚えている。
「助けてくれ……頼む……」
『私はアリス。あなたの答えは全部、私が教えるから。言われたとおり、くり返して』
アリス――頭の中に“亜理子”という字が浮かんだ。
現実感がないのに、なぜかその名前だけ妙に生々しかった。
※
「怖い?」
男の声がした。
もやの声だ、と理解した瞬間、冷たいものが背中を走った。
『怖くない。お前は“ここにいない”。そう言って』
「こ……怖くない。お前は……ここにいない」
言いつけ通りに答えると、
もやが放っていた圧のようなものが、一瞬しぼんだ。
それから七つか八つの質問が続いた。
内容は覚えていない。
アリスの言葉も、もやの問いも、なぜか今はすっぽり抜け落ちている。
ただひとつだけわかるのは――
アリスの答えを言うたびに、もやの“力”が弱まっていたということだ。
そして最後の質問。
「私は?」
少年のようにも、老人のようにも聞こえる、不気味な声。
夢の俺は理解した。
これが最後だ。ここで間違えたら終わりだ。
『あなたと、ともだち』
「あなたと……ともだち」
――瞬間、背筋が総毛立った。
もやの気配が、一気に膨れ上がったのだ。
それは“喜び”だった。
まるで捕食者が獲物を掴んだときのような、濁った悦び。
『あ、な、た、と、と、も、だ、ち』
次の瞬間、もやとアリスが同時に言った。
理解した。
アリスは味方などではなかった。
最初から、もやの一部だったのだ。
夢の俺は絶叫した。
そして自分でも気づかぬうちに布団を蹴り飛ばし、階下へ走っていた。
※
ダイニングでは、母親が朝食のサンドイッチを作っていた。
振り向いて、微笑んだ。
「おはよう。変な顔してるよ」
「母さん……こ、怖い夢を見た……もやみたいなのが――」
俺は必死で説明した。
ところが母親は、「風邪ひいてたんだから」と取り合ってくれない。
怖がってくれれば、どれだけ救われただろう。
だが、母親は半ば笑いながら、冷蔵庫にレタスを取りに行った。
その瞬間――
母親の肩が、不自然に震え始めた。
「あ、な、た、と、と、も、だ、ち」
声がした。
耳のすぐ後ろ、わずか二センチの距離で。
慌てて振り向いた俺は、絶句した。
母親はレタスを握りつぶしながら、
口を“縦に”, 裂けるように開いていた。
声もなく、音もなく、
白目を剥きながら、全身を震わせて笑っていた。
涎が飛び散り、指がレタスにめり込み、
その顔には――
“もや”と同じ、にいという笑みが浮かんでいた。
※
悲鳴で目が覚めた。
夢だった……のだろうか。
だが、枕元のタンスの三段目は、
現実でも半分飛び出していた。
右足の弁慶の泣き所には、
硬いものを何度もぶつけたような痣ができていた。
眠りにつく前に聞こえた
「ガン、ガン、ガン」という音は、
俺自身だったのかもしれない。
――でも。
もしそうだとしたら。
タンスの横で
“それ”を見ていた俺は、
一体、誰だったんだろう。