
有給休暇を取るのは、年に一度あるかないかだ。
介護施設での夜勤が続いていた。
入居者の方が深夜に不安がって起き出すことは珍しくなく、手を握りながら夜明けを待つこともある。
看取りが重なる時期には、休み明けでもまだ疲れが残ったままシフトに入ることがあった。
今年の春、上司に無理を言って三日間の連休をもらった。
旅行の計画は何もなかった。ただどこかに行きたかった。
新幹線に乗って、気が向いた駅で降りた。
降り立った先が秩父だった。
駅前で観光地図を手に入れて、当てもなく歩き始めた。バスに乗り、終点で降り、川沿いの道を歩いていると、山の奥へ続く細い舗装路の脇に、古い看板が立っていた。
「一軒宿 みねの湯」
年月で字が薄くなっていた。でも矢印の先に瓦屋根が見えたから、なんとなく坂道を上ってみた。
宿は小さかった。玄関の引き戸を開けると、白髪を結い上げた女将さんが奥から出てきた。
「今夜は空いてますよ」
迷いなくそう言って、すぐに部屋へ案内してくれた。廊下は古い木の匂いがした。
料金は素泊まりで六千円だった。
夕方のうちに内湯に入った。誰もいない小さな湯船で、天井の木の節目を数えながら湯に浸かった。
長いこと感じていた疲れが、少しずつほどけていくような気がした。
夕食はコンビニで買ったおにぎりを部屋で食べた。窓の外で、鳥が鳴いていた。
夜になっても山の空気は冷えていて、布団を被っていると体の芯まで温まる感じがした。普段は夜中に目が覚めても仕事のことを考えてしまうのに、ここでは何も考えなかった。
ただ、眠れなかった。
※
夜の十一時を過ぎた頃、月が出ているのが窓から見えた。
露天に行ってみようと思った。
廊下の電球が薄暗く灯るだけで、宿の中は静まり返っていた。脱衣所の引き戸を開けると、外の夜気が入ってきた。
岩で囲まれた小さな湯船から、湯気が立ち上っていた。
先客がいた。
湯船の端に、老人が一人浸かっていた。白髪で、背の小さな方だった。
こちらが来ても動かず、空を見上げていた。
声をかけようか迷っていると、向こうから口を開いた。
「遅くまで起きてるんですね」
低くて、穏やかな声だった。
「眠れなくて」と答えると、老人は少し頷いた。
「ここは明け方になると鳥の声が聞こえる。それで自然と目が覚める。悪くないですよ」
しばらく二人で黙って湯に浸かっていた。
話したくなって、少しだけ仕事のことを口にした。介護施設の夜勤をしていること。看取りが続いていること。うまくできているのかいつもわからないこと。
老人は口を挟まず、ただ聞いていた。
しばらくして、「大変なお仕事だ」と言った。
それから少し間があって、続けた。
「でも、そこにいてくれる人がいると思えるだけで、ずいぶん違うんです。うまくできなくても、最後まで誰かが見ていてくれるということが、大事なことですよ」
胸に刺さった、というよりは、どこかに落ち着いた感じだった。
施設で入居者の方を見送るたびに、もっとできることがあったんじゃないかと考える。老人の言葉は、その問いへの答えではなかった。ただ、静かに問いを鎮めてくれるようなものだった。
少しの間、二人で月を見ていた。
「そろそろ上がります」と老人が言った。
立ち上がると、背中が丸くて、思ったより小さな体だった。
「お休みなさい」とだけ言って、引き戸の向こうへ入っていった。
私も「お休みなさい」と返した。
目を閉じて、しばらく湯に浸かっていた。
また開けたとき、脱衣所の向こうは静まり返っていた。老人の気配は、すっかり消えていた。
※
翌朝、朝食を運んできた女将さんに、昨夜のことを話した。
老人の男性が露天に浸かっていて、少し話した、と言ったとき、女将さんの手が少し止まった。
「露天は夕方六時で閉めているんです。夜は鍵をかけることにしていて」
私は首をかしげた。確かに引き戸は開いていた。湯船にもちゃんと入った。
「どんな方でしたか」と女将さんが聞いた。
白髪で小柄な、穏やかな話し方をする老人だ、と説明した。
女将さんはしばらく黙っていた。それから、「うちの主人の父に、似てますね」とだけ言った。
詳しくは聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
チェックアウトのとき、女将さんが小さな紙袋を持ってきてくれた。「よかったら、お持ちください」と言って。
中には、柚子の蜂蜜漬けの小瓶が入っていた。
「主人の父が昔からよく作っていたものです。お客さんに渡すのが好きで」
バス停のベンチで待ちながら、袋の口を少し開けた。
甘い、落ち着くような柚子の匂いがした。
施設に戻ってシフトに入ったとき、先輩に「なんかいい顔してる」と言われた。
あの夜のことをうまく話せなかった。
ただ少し楽になって帰ってきた、ということだけは確かだった。