継ぎ帳

継ぎ帳

祖父の四十九日を終えて、私は、山あいの生家に、蔵の片づけに戻りました。

私の家は、その集落でいちばん古い旧家で、代々、小さな祠を守ってきました。

蔵は、母屋の裏手にあり、私が子どものころから、開けてはいけないと言われていました。

「あそこは、跡取りが継ぐまで、開けたらいかん」

祖父は、生前、よくそう言っていました。

その跡取りが、独り身の私だということを、私はあまり深く、考えていませんでした。

子どものころ、この蔵の前を通るたびに、私は、なぜか足がすくみました。

祖父は、月に一度、蔵の前で、裏の祠に向かって、長いこと手を合わせていました。

「じいちゃん、なにをお願いしてるの」

「お願いじゃない。ご報告じゃ」

「なんの、ほうこく」

「大人になったら、お前が、するようになる」

幼い私には、その意味が、まるで分かりませんでした。

祖父は、村の人からも、どこか一目置かれていました。

『あの家の当主に、嘘を言うても、みんな知られてしまう』

そんな言い伝えが、この集落には、古くからあったのです。

漆喰の扉を開けると、黴と、古い木の匂いが、どっと押し寄せてきました。

埃をかぶった長持や、農具に混じって、奥に、桐の箱がひとつ、ぽつんと置かれていました。

ほかの荷物とは、明らかに、扱いが違っていました。

箱だけが、綺麗に拭き清められ、真新しい紐で、結ばれていたのです。

※

祖父の葬儀の日、親戚の一人が、ふと漏らした言葉が、耳に残っていました。

「この家の当主はな、みんな、自分の最期を、前もって知っとったそうだ」

「だから、あんなに、落ち着いて逝けるんだと」

そのときは、ただの言い伝えだと、聞き流していました。

けれど今、蔵の帳面を前にして、その言葉の重みが、じわりと、のしかかってきます。

祖父もまた、雪の朝に筆を置くと、自ら書いてから、逝ったのでしょうか。

桐の箱の中には、古びた一冊の帳面が、入っていました。

表紙には、墨で「継ぎ帳」と、書かれていました。

つぎちょう、と読むのでしょう。

めくると、中は、何代にもわたる、違う筆跡で、埋め尽くされていました。

どのページも、短い一文が、ぽつり、ぽつりと、記されているだけです。

はじめのほうの文字は、もう、かすれて読めません。

それでも、辛うじて読める行を、私は、追っていきました。

「山の水、三度涸れて、里を出づる者、相次ぐべし」

「橋、大水にさらはれ、二度と架からず」

それは、まるで、この土地の行く末を、言い当てた言葉のようでした。

※

読み進めるうちに、私は、妙なことに気づきました。

帳面に書かれた出来事は、どれも、実際に、この村で起きたことだったのです。

祖父から聞いた話を、私は、思い出していました。

戦後まもなく、村の井戸が、三年続けて涸れたこと。

そのころ、多くの家が、村を捨てて、町へ出ていったこと。

そして、私が生まれる少し前、大水で、村の古い橋が流されたこと。

その橋は、今も、架け直されないままです。

帳面には、ほかにも、いくつもの行がありました。

「赤きあざ持ちたる子、生まれ出でむ。その子、里を離れず」

私は、はっとしました。

隣のおばあさんの息子さんが、首筋に、大きな赤いあざを持って生まれたことを、思い出したのです。

その人は、村を出ることなく、今も、田を守って暮らしています。

「山、火を噴かずして焼け、けものの声、絶ゆべし」

三十年前、落雷で山が焼け、しばらく獣が姿を消したと、祖父から聞いていました。

どの一行も、書かれた時期より、あとに起きたことばかりでした。

偶然にしては、あまりに、正確すぎました。

帳面の言葉は、ひとつ残らず、後になって、現実になっていました。

予言、という言葉が、頭をよぎりました。

けれど、と、私は思い直しました。

古い言い回しなど、どうとでも、後から意味をつけられるものです。

帳面の筆跡は、数えてみると、十を超えていました。

力強い楷書もあれば、震えるような、老いた手のものもありました。

どれも、この家の当主が、代々、一行ずつ書き継いできたものなのでしょう。

墨の色は、古い行ほど、茶色く褪せていました。

一代につき、たった一行。

それだけを書き遺して、当主たちは、次の代へと、この帳面を渡してきたのです。

一行を書くために、人は、一生を、この家で過ごしたということでした。

私は、その重みに、めまいがしました。

※

そのとき、蔵の入口で、声がしました。

隣の家の、老いたおばあさんでした。

私が戻っていると聞いて、様子を見に来てくれたのです。

おばあさんは、私の手にした帳面を見て、顔色を変えました。

「あんた、それを、開けたのかね」

「ええ。蔵の奥に、ありました」

「開けたら、いかんかったのに」

おばあさんの声が、細く、震えていました。

「その帳面はな、開いた者が、次を継がにゃならんのよ」

「継ぐ、というと」

「次の一行を、書かにゃならん。それが、この家の、跡取りの役目じゃ」

私は、笑おうとして、うまく笑えませんでした。

※

※

おばあさんは、蔵の框に腰を下ろして、ぽつりと話し出しました。

「わたしが娘の時分にな、あんたの曾祖父さんが、当主じゃった」

「あの人も、ある日から、人が変わったようになってな」

「机に向かって、何やら、書いてばかりおるようになった」

「書いたことが、次の年、みんな、そのとおりになった」

「村の者は、みんな、あの家を、恐れとった」

「恐れて、そして、頼りにもしとった」

おばあさんは、そこで、深いため息をつきました。

「跡取りが継ぐいうんは、田や畑のことじゃない」

「この、帳面を継ぐいうことなんじゃ」

「昔からな、この家の跡取りは、みんなこの帳面を継いできた」

「書いてあることは、ぜんぶ、そのとおりになる」

「なぜなら、書いた者が、そう書いたからじゃ」

おばあさんの言葉は、謎かけのようでした。

「起きることを、書くんじゃない」

「書いたことが、起きるんじゃ」

私は、ぞくりとして、帳面を、閉じようとしました。

けれど、指が、うまく動きませんでした。

最後に書かれた行を、私は、まだ、読んでいなかったのです。

読まずには、いられませんでした。

※

帳面の、いちばん新しい行。

それは、祖父の筆跡で、こう記されていました。

「午の年、火の兆しある年に、蔵を継ぐ者、現れてこの帳を開くべし」

今年は、まさに、午の年でした。

蔵を継ぐ者とは、独り身の、私のことに、ほかなりませんでした。

祖父は、自分がいなくなったあとのことを、正確に、書き遺していたのです。

背筋が、氷の芯を通したように、冷たくなりました。

そして、そのすぐ下に。

もう一行、続きがありました。

祖父のものではない、見慣れない筆跡で。

※

「継ぎたる者、次を継ぐ。ほかに継ぐ者、なし」

その一行を、私は、何度も読み返しました。

継ぐ者は、ほかに、いない。

独り身で、子もない私が、この家の、最後の跡取りでした。

だとすれば、この帳面を継ぐのも、私で、終わりということです。

けれど、その筆跡に、私は、見覚えがありました。

癖のある、右上がりの、その字。

それは、まぎれもなく、私自身の、筆跡だったのです。

私は、まだ、一文字も、書いていませんでした。

それなのに、そこには、私の字が、並んでいたのです。

筆跡だけではありません。

墨のかすれ方も、はねの癖も、私が普段、手紙で書くものと、そっくりでした。

未来の私が書いた一行が、なぜか、過去の当主の行の、すぐ下にある。

時間の順序が、まるで、ねじれていました。

私は、この帳面が、ただ未来を当てるものではないと、悟りました。

これは、書く者と、書かれる出来事の、順番を、消してしまう帳面なのです。

書くから起きるのか、起きるから書くのか。

その境目は、もう、どこにも、ありませんでした。

※

※

私は一度、町の古文書に詳しい人に、写しを見てもらおうとしました。

けれど、書き写そうと筆を執ると、なぜか、まったく別の文字が、書けてしまうのです。

私の手は、帳面の文字を、写すことを、拒みました。

仕方なく、その人には、口で内容を伝えました。

「珍しい、家の予言書ですな」と、その人は言いました。

「よくある、後付けの偽書でしょう。気になさらんことです」

私も、そう思いたかった。

けれど、帰り道、その人から電話がかかってきました。

「あの話に出てきた、赤いあざの子。うちの近所にも、いましたよ」

「……気味が悪いから、この話は、忘れましょう」

それきり、その人とは、連絡が取れなくなりました。

震える指で、私は、その最後の一行に、触れてみました。

墨が、指先に、ついてきました。

最後の一行は、まだ、乾いていなかったのです。

たった今、誰かが、書いたばかりのように。

あるいは、これから、私が書くことが、もう、そこにあるように。

桐の箱の底に、一本の古い筆が、そっと、添えてありました。

私の右手が、ひとりでに、その筆へ、伸びていくのを感じました。

止めようとしても、止まりませんでした。

※

※

私は、その晩、帳面を桐の箱に戻し、蔵に固く鍵をかけました。

こんな迷信に、付き合っている場合ではない。

翌朝には、町へ帰るつもりでした。

けれど、朝、目を覚ますと、帳面は、なぜか、私の枕元に置かれていました。

鍵をかけたはずの蔵から、ひとりでに、出てきたかのように。

箱に戻しても、戻しても、翌朝には、また枕元に、あるのです。

私は、思いきって、それを燃やそうとしました。

けれど、火を近づけると、右手が、ぴたりと、動かなくなりました。

まるで、見えない手に、手首を掴まれたようでした。

帳面は、燃えることを、私に許しませんでした。

その問いの答えを、私は、あの帳面のどこかで、すでに読んでしまった気がします。

読んだのに、思い出せない。思い出したくない、というほうが、正しいのかもしれません。

あれから、私は、あの生家で、暮らしています。

※

燃やすことも、捨てることも、できないと分かってから、私は、あきらめました。

ある晩、気づくと、私の手は、帳面に、一行を書き終えていました。

「秋の初め、隣家の柿の木、時ならず実を落とすべし」

自分で書いたのに、書いた覚えが、ありませんでした。

数日後、隣のおばあさんが、青い顔で、駆け込んできました。

「あんた、うちの柿がな、まだ青いのに、みんな落ちてしもうた」

「こんなこと、生まれて初めてじゃ」

私は、何も、言えませんでした。

帳面に書いた通りのことが、たった数日で、現実になっていたのです。

おばあさんは、私の顔を見て、それ以上、何も聞かずに、帰っていきました。

あの目は、かつて祖父を見ていた、あの、恐れの目でした。

町の仕事は、辞めました。

蔵の帳面は、今、私の机の上に、開かれたまま、置いてあります。

私は、時折、自分でも気づかぬうちに、そこへ、一行を書き足しています。

何を書いたのか、書いたそばから、覚えていません。

けれど、書いたことは、必ず、しばらくして、現実になるのです。

帳面の、まだ何も書かれていない、まっさらな次のページ。

そこを見つめていると、白い紙の奥に、うっすらと、文字の影が透けて見える気がします。

まだ書いていないのに、もう、そこに在る言葉。

それが何なのかを、私は、確かめる勇気を持てません。

確かめた瞬間、それが、この村の、次の出来事になってしまうからです。

知ることと、決めることの区別が、私の中から、少しずつ消えていきます。

この村に、これから何が起きるのか。

それを、私は、たぶん、もう、知っています。

※

※

祖父が、なぜ、私に何も告げなかったのか。

今なら、少しだけ、分かる気がします。

告げれば、私は、逃げたでしょう。

逃げれば、帳面は、継ぐ者を失います。

だから祖父は、ただ「跡取りが継ぐまで開けるな」とだけ、言い遺したのです。

開けてしまえば、もう、戻れないことを、知っていたから。

私が蔵の扉に手をかけたあの瞬間、すべては、もう、決まっていたのでしょう。

いいえ。決まっていたのではなく、私が、決めてしまったのです。

この帳面を開くと、遠い昔の当主が、そう書いた通りに。

月に一度、私は、裏の祠に手を合わせるようになりました。

祖父が、あれは報告なのだと言った意味が、今なら分かります。

これから村に起きることを、私は、祠に、告げているのです。

告げるのではなく、決めているのかもしれません。

手を合わせるたびに、指先に、乾かない墨の匂いが、まとわりつきます。

私は、この家の、最後の当主です。

私のあとに、この帳面を継ぐ者は、もう、いません。

次にこの帳面を開く者が、いないことも。

※

帳面をめくり返すうち、私は、あることに気づきました。

どの当主も、最後に書いた一行の内容が、自分自身の、終いのことだったのです。

「当主、雪の朝、筆を置くべし」

その一行のあとに、その代の筆跡は、ぷつりと途絶えていました。

当主は、自らの最期の時さえ、書き記してから、次の代へ帳面を渡していたのです。

知っていて、なお、書く。

書いたから、その通りになる。

どちらが先かも分からぬまま、当主たちは、自分の終いを、自分で決めていました。

私は、自分がいつか書くであろう、最後の一行のことを、考えました。

それを書いた瞬間に、何が起きるのか。

考えるだけで、指先が、氷のように、冷えていきました。

夜になると、机の上の帳面が、かすかに、墨の匂いを立てます。

まだ書いていないはずの、次の一行が、そこに滲み出てこようとしているのです。

私は、それを見ないように、目を伏せて、暮らしています。

見てしまえば、それは、決まってしまうから。

村の人は、もう、私の家の前を、通らなくなりました。

あの家の当主に会うと、先のことを、知られてしまう。

そんな昔からの言い伝えを、みな、思い出したのでしょう。

私は、たった一人、この帳面と、向き合っています。

だから私は、いちばん最後の一行だけは、まだ、書かずにいるのです。

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