継ぎ帳

祖父の四十九日を終えて、私は、山あいの生家に、蔵の片づけに戻りました。

私の家は、その集落でいちばん古い旧家で、代々、小さな祠を守ってきました。

蔵は、母屋の裏手にあり、私が子どものころから、開けてはいけないと言われていました。

「あそこは、跡取りが継ぐまで、開けたらいかん」

祖父は、生前、よくそう言っていました。

その跡取りが、独り身の私だということを、私はあまり深く、考えていませんでした。

子どものころ、この蔵の前を通るたびに、私は、なぜか足がすくみました。

祖父は、月に一度、蔵の前で、裏の祠に向かって、長いこと手を合わせていました。

「じいちゃん、なにをお願いしてるの」

「お願いじゃない。ご報告じゃ」

「なんの、ほうこく」

「大人になったら、お前が、するようになる」

幼い私には、その意味が、まるで分かりませんでした。

祖父は、村の人からも、どこか一目置かれていました。

『あの家の当主に、嘘を言うても、みんな知られてしまう』

そんな言い伝えが、この集落には、古くからあったのです。

漆喰の扉を開けると、黴と、古い木の匂いが、どっと押し寄せてきました。

埃をかぶった長持や、農具に混じって、奥に、桐の箱がひとつ、ぽつんと置かれていました。

ほかの荷物とは、明らかに、扱いが違っていました。

箱だけが、綺麗に拭き清められ、真新しい紐で、結ばれていたのです。

祖父の葬儀の日、親戚の一人が、ふと漏らした言葉が、耳に残っていました。

「この家の当主はな、みんな、自分の最期を、前もって知っとったそうだ」

「だから、あんなに、落ち着いて逝けるんだと」

そのときは、ただの言い伝えだと、聞き流していました。

けれど今、蔵の帳面を前にして、その言葉の重みが、じわりと、のしかかってきます。

祖父もまた、雪の朝に筆を置くと、自ら書いてから、逝ったのでしょうか。

桐の箱の中には、古びた一冊の帳面が、入っていました。

表紙には、墨で「継ぎ帳」と、書かれていました。

つぎちょう、と読むのでしょう。

めくると、中は、何代にもわたる、違う筆跡で、埋め尽くされていました。

どのページも、短い一文が、ぽつり、ぽつりと、記されているだけです。

はじめのほうの文字は、もう、かすれて読めません。

それでも、辛うじて読める行を、私は、追っていきました。

「山の水、三度涸れて、里を出づる者、相次ぐべし」

「橋、大水にさらはれ、二度と架からず」

それは、まるで、この土地の行く末を、言い当てた言葉のようでした。

読み進めるうちに、私は、妙なことに気づきました。

帳面に書かれた出来事は、どれも、実際に、この村で起きたことだったのです。

祖父から聞いた話を、私は、思い出していました。

戦後まもなく、村の井戸が、三年続けて涸れたこと。

そのころ、多くの家が、村を捨てて、町へ出ていったこと。

そして、私が生まれる少し前、大水で、村の古い橋が流されたこと。

その橋は、今も、架け直されないままです。

帳面には、ほかにも、いくつもの行がありました。

「赤きあざ持ちたる子、生まれ出でむ。その子、里を離れず」

私は、はっとしました。

隣のおばあさんの息子さんが、首筋に、大きな赤いあざを持って生まれたことを、思い出したのです。

その人は、村を出ることなく、今も、田を守って暮らしています。

「山、火を噴かずして焼け、けものの声、絶ゆべし」

三十年前、落雷で山が焼け、しばらく獣が姿を消したと、祖父から聞いていました。

どの一行も、書かれた時期より、あとに起きたことばかりでした。

偶然にしては、あまりに、正確すぎました。

帳面の言葉は、ひとつ残らず、後になって、現実になっていました。

予言、という言葉が、頭をよぎりました。

けれど、と、私は思い直しました。

古い言い回しなど、どうとでも、後から意味をつけられるものです。

帳面の筆跡は、数えてみると、十を超えていました。

力強い楷書もあれば、震えるような、老いた手のものもありました。

どれも、この家の当主が、代々、一行ずつ書き継いできたものなのでしょう。

墨の色は、古い行ほど、茶色く褪せていました。

一代につき、たった一行。

それだけを書き遺して、当主たちは、次の代へと、この帳面を渡してきたのです。

一行を書くために、人は、一生を、この家で過ごしたということでした。

私は、その重みに、めまいがしました。

そのとき、蔵の入口で、声がしました。

隣の家の、老いたおばあさんでした。

私が戻っていると聞いて、様子を見に来てくれたのです。

おばあさんは、私の手にした帳面を見て、顔色を変えました。

「あんた、それを、開けたのかね」

「ええ。蔵の奥に、ありました」

「開けたら、いかんかったのに」

おばあさんの声が、細く、震えていました。

「その帳面はな、開いた者が、次を継がにゃならんのよ」

「継ぐ、というと」

「次の一行を、書かにゃならん。それが、この家の、跡取りの役目じゃ」

私は、笑おうとして、うまく笑えませんでした。

おばあさんは、蔵の框に腰を下ろして、ぽつりと話し出しました。

「わたしが娘の時分にな、あんたの曾祖父さんが、当主じゃった」

「あの人も、ある日から、人が変わったようになってな」

「机に向かって、何やら、書いてばかりおるようになった」

「書いたことが、次の年、みんな、そのとおりになった」

「村の者は、みんな、あの家を、恐れとった」

「恐れて、そして、頼りにもしとった」

おばあさんは、そこで、深いため息をつきました。

「跡取りが継ぐいうんは、田や畑のことじゃない」

「この、帳面を継ぐいうことなんじゃ」

「昔からな、この家の跡取りは、みんなこの帳面を継いできた」

「書いてあることは、ぜんぶ、そのとおりになる」

「なぜなら、書いた者が、そう書いたからじゃ」

おばあさんの言葉は、謎かけのようでした。

「起きることを、書くんじゃない」

「書いたことが、起きるんじゃ」

私は、ぞくりとして、帳面を、閉じようとしました。

けれど、指が、うまく動きませんでした。

最後に書かれた行を、私は、まだ、読んでいなかったのです。

読まずには、いられませんでした。

帳面の、いちばん新しい行。

それは、祖父の筆跡で、こう記されていました。

「午の年、火の兆しある年に、蔵を継ぐ者、現れてこの帳を開くべし」

今年は、まさに、午の年でした。

蔵を継ぐ者とは、独り身の、私のことに、ほかなりませんでした。

祖父は、自分がいなくなったあとのことを、正確に、書き遺していたのです。

背筋が、氷の芯を通したように、冷たくなりました。

そして、そのすぐ下に。

もう一行、続きがありました。

祖父のものではない、見慣れない筆跡で。

「継ぎたる者、次を継ぐ。ほかに継ぐ者、なし」

その一行を、私は、何度も読み返しました。

継ぐ者は、ほかに、いない。

独り身で、子もない私が、この家の、最後の跡取りでした。

だとすれば、この帳面を継ぐのも、私で、終わりということです。

けれど、その筆跡に、私は、見覚えがありました。

癖のある、右上がりの、その字。

それは、まぎれもなく、私自身の、筆跡だったのです。

私は、まだ、一文字も、書いていませんでした。

それなのに、そこには、私の字が、並んでいたのです。

筆跡だけではありません。

墨のかすれ方も、はねの癖も、私が普段、手紙で書くものと、そっくりでした。

未来の私が書いた一行が、なぜか、過去の当主の行の、すぐ下にある。

時間の順序が、まるで、ねじれていました。

私は、この帳面が、ただ未来を当てるものではないと、悟りました。

これは、書く者と、書かれる出来事の、順番を、消してしまう帳面なのです。

書くから起きるのか、起きるから書くのか。

その境目は、もう、どこにも、ありませんでした。

私は一度、町の古文書に詳しい人に、写しを見てもらおうとしました。

けれど、書き写そうと筆を執ると、なぜか、まったく別の文字が、書けてしまうのです。

私の手は、帳面の文字を、写すことを、拒みました。

仕方なく、その人には、口で内容を伝えました。

「珍しい、家の予言書ですな」と、その人は言いました。

「よくある、後付けの偽書でしょう。気になさらんことです」

私も、そう思いたかった。

けれど、帰り道、その人から電話がかかってきました。

「あの話に出てきた、赤いあざの子。うちの近所にも、いましたよ」

「……気味が悪いから、この話は、忘れましょう」

それきり、その人とは、連絡が取れなくなりました。

震える指で、私は、その最後の一行に、触れてみました。

墨が、指先に、ついてきました。

最後の一行は、まだ、乾いていなかったのです。

たった今、誰かが、書いたばかりのように。

あるいは、これから、私が書くことが、もう、そこにあるように。

桐の箱の底に、一本の古い筆が、そっと、添えてありました。

私の右手が、ひとりでに、その筆へ、伸びていくのを感じました。

止めようとしても、止まりませんでした。

私は、その晩、帳面を桐の箱に戻し、蔵に固く鍵をかけました。

こんな迷信に、付き合っている場合ではない。

翌朝には、町へ帰るつもりでした。

けれど、朝、目を覚ますと、帳面は、なぜか、私の枕元に置かれていました。

鍵をかけたはずの蔵から、ひとりでに、出てきたかのように。

箱に戻しても、戻しても、翌朝には、また枕元に、あるのです。

私は、思いきって、それを燃やそうとしました。

けれど、火を近づけると、右手が、ぴたりと、動かなくなりました。

まるで、見えない手に、手首を掴まれたようでした。

帳面は、燃えることを、私に許しませんでした。

その問いの答えを、私は、あの帳面のどこかで、すでに読んでしまった気がします。

読んだのに、思い出せない。思い出したくない、というほうが、正しいのかもしれません。

あれから、私は、あの生家で、暮らしています。

燃やすことも、捨てることも、できないと分かってから、私は、あきらめました。

ある晩、気づくと、私の手は、帳面に、一行を書き終えていました。

「秋の初め、隣家の柿の木、時ならず実を落とすべし」

自分で書いたのに、書いた覚えが、ありませんでした。

数日後、隣のおばあさんが、青い顔で、駆け込んできました。

「あんた、うちの柿がな、まだ青いのに、みんな落ちてしもうた」

「こんなこと、生まれて初めてじゃ」

私は、何も、言えませんでした。

帳面に書いた通りのことが、たった数日で、現実になっていたのです。

おばあさんは、私の顔を見て、それ以上、何も聞かずに、帰っていきました。

あの目は、かつて祖父を見ていた、あの、恐れの目でした。

町の仕事は、辞めました。

蔵の帳面は、今、私の机の上に、開かれたまま、置いてあります。

私は、時折、自分でも気づかぬうちに、そこへ、一行を書き足しています。

何を書いたのか、書いたそばから、覚えていません。

けれど、書いたことは、必ず、しばらくして、現実になるのです。

帳面の、まだ何も書かれていない、まっさらな次のページ。

そこを見つめていると、白い紙の奥に、うっすらと、文字の影が透けて見える気がします。

まだ書いていないのに、もう、そこに在る言葉。

それが何なのかを、私は、確かめる勇気を持てません。

確かめた瞬間、それが、この村の、次の出来事になってしまうからです。

知ることと、決めることの区別が、私の中から、少しずつ消えていきます。

この村に、これから何が起きるのか。

それを、私は、たぶん、もう、知っています。

祖父が、なぜ、私に何も告げなかったのか。

今なら、少しだけ、分かる気がします。

告げれば、私は、逃げたでしょう。

逃げれば、帳面は、継ぐ者を失います。

だから祖父は、ただ「跡取りが継ぐまで開けるな」とだけ、言い遺したのです。

開けてしまえば、もう、戻れないことを、知っていたから。

私が蔵の扉に手をかけたあの瞬間、すべては、もう、決まっていたのでしょう。

いいえ。決まっていたのではなく、私が、決めてしまったのです。

この帳面を開くと、遠い昔の当主が、そう書いた通りに。

月に一度、私は、裏の祠に手を合わせるようになりました。

祖父が、あれは報告なのだと言った意味が、今なら分かります。

これから村に起きることを、私は、祠に、告げているのです。

告げるのではなく、決めているのかもしれません。

手を合わせるたびに、指先に、乾かない墨の匂いが、まとわりつきます。

私は、この家の、最後の当主です。

私のあとに、この帳面を継ぐ者は、もう、いません。

次にこの帳面を開く者が、いないことも。

帳面をめくり返すうち、私は、あることに気づきました。

どの当主も、最後に書いた一行の内容が、自分自身の、終いのことだったのです。

「当主、雪の朝、筆を置くべし」

その一行のあとに、その代の筆跡は、ぷつりと途絶えていました。

当主は、自らの最期の時さえ、書き記してから、次の代へ帳面を渡していたのです。

知っていて、なお、書く。

書いたから、その通りになる。

どちらが先かも分からぬまま、当主たちは、自分の終いを、自分で決めていました。

私は、自分がいつか書くであろう、最後の一行のことを、考えました。

それを書いた瞬間に、何が起きるのか。

考えるだけで、指先が、氷のように、冷えていきました。

夜になると、机の上の帳面が、かすかに、墨の匂いを立てます。

まだ書いていないはずの、次の一行が、そこに滲み出てこようとしているのです。

私は、それを見ないように、目を伏せて、暮らしています。

見てしまえば、それは、決まってしまうから。

村の人は、もう、私の家の前を、通らなくなりました。

あの家の当主に会うと、先のことを、知られてしまう。

そんな昔からの言い伝えを、みな、思い出したのでしょう。

私は、たった一人、この帳面と、向き合っています。

だから私は、いちばん最後の一行だけは、まだ、書かずにいるのです。

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