フィラデルフィア消磁実験

私が二十歳の年から勤めた工場には、入ってはならない部屋が、ひとつだけありました。

昭和五十三年。

内陸の、川も海もない町の、磁気テープの工場です。

カセットテープが飛ぶように売れた時代でした。

私は検査係で、巻き上がったテープの音を、一日じゅう聞き比べる仕事をしていました。

単調で、静かで、いい職場でした。

検査の仕事のことを、少しだけ説明しておきます。

基準のテープと、できたばかりのテープを、ヘッドホンで聞き比べるのです。

合図の音、無音、また合図の音。

不良のテープは、無音のところで、かすかに砂を撒くような音がします。

私たちはそれを「砂が鳴る」と呼んでいました。

一日八時間、砂の音を探していると、耳が変に育ちます。

町を歩いていても、蛍光灯の唸りや、電線の鳴きが、いちいち聞こえてしまう。

あとになって思えば、あの耳が、私の運の分かれ目だったのかもしれません。

聞こえなければ、気づかずに済んだのですから。

あの部屋のことを除けば。

工場の北の端に、その部屋はありました。

鉄の引き戸に、色の抜けた札が一枚。

「消磁室」と書いてありました。

不良品のテープから、録音を消してしまうための部屋です。

中には、人の背丈ほど大きな消磁コイルが据えてありました。

戸が開くのは、週に一度きり。

入るのは、決まった者だけ。

新入りは、まず近づくなと教えられました。

教えてくれたのは、保全係の戸山さんという年寄りでした。

「ええか、坊主。あの部屋の前では、時計を外せ」

「時計、ですか」

「狂うからの。それとな」

戸山さんは、自分の胸の名札を、指の先でこつんと叩きました。

「名札は外して入れよ。鉄はな、憶える金属なんじゃ」

意味は、わかりませんでした。

ただ、戸山さんが冗談を言う顔ではなかったことだけ、妙に覚えています。

隣の工程に、矢野さんという先輩がいました。

五つ上で、よく笑う、気のいい人でした。

寮の部屋が隣で、風呂の順番を譲り合う仲でした。

「おまえ、夜、退屈じゃろ」

そう言って、自分のラジオを貸してくれたのは、入社した年の夏です。

重たい、古い、よく鳴るラジオでした。

「ええスピーカーが入っとる。磁石がでかいんじゃ」

「返さんでいいんですか」

「次の給料で新しいのを買うけん。それはもう、おまえのじゃ」

夜勤明けの寮で、そのラジオで野球を聞くのが、私の楽しみになりました。

夏には、二人で町の祭りに出かけました。

矢野さんは射的が下手で、五発外して、六発目で店の親父に笑われていました。

「おまえ、検査の腕はええのに、なんで当たらんのですか」

「テープは逃げんもん。的は逃げる気がするんよ」

「逃げませんよ、的は」

「逃げるんよ、わしからは」

帰り道、矢野さんは縁談の話を照れくさそうにしました。

事務のおばさんが世話を焼いてくれている、春には見合いをするかもしれない、と。

「そしたらラジオも、ほんまにおまえのもんじゃ。新婚の部屋で野球は聞けんけんな」

提灯の明かりの下で、あの人はよく笑っていました。

その顔を、いま、この世で私しか知らないのです。

矢野さんは検査の腕がよくて、消磁室の当番も任されていました。

「あの部屋、平気なんですか」

一度だけ聞くと、矢野さんは笑って、それからすこしだけ声を落としました。

「平気よ。……ただな、あの部屋の中では、歌を思い出せんのよ」

「歌?」

「どんな歌でもええ、頭ん中で歌ってみい言われても、出てこん。外に出たら、すっと戻る。妙な部屋よ」

私は笑いました。

笑って、済ませてしまいました。

最初の異変は、音でした。

夜勤の晩、消磁室の前の廊下を通ると、戸の向こうから、低い唸りが聞こえるのです。

機械は止まっている時間でした。

耳鳴りかと思って足を止めると、唸りも止まる。

歩き出すと、また、背中のあたりで唸る。

羽虫の群れが、遠くで湧いているような音でした。

保全の詰所でその話をすると、戸山さんは湯呑みを置いて、短く言いました。

「夜は、あの廊下を通るな」

理由は、教えてくれませんでした。

次は、方位磁石でした。

工場では、コイルの点検用に、小さな方位磁石を使います。

ある朝、消磁室の前の廊下で、ポケットの磁石が北を捨てました。

針がゆっくり回るのです。

右へ、左へ、迷うように。

戸から離れると、針は素直に北を向きました。

戸の前に戻ると、また迷う。

私はそれを、面白がってしまいました。

若かったのだと思います。

それから、日誌です。

消磁室の当番は、作業のあと、業務日誌に記録を残す決まりでした。

その日誌の、消磁室の欄だけ、字が薄いのです。

ほかの頁は濃いボールペンの字なのに、あの欄だけ、十年前の鉛筆書きみたいに掠れている。

書いた本人に聞いても、首をかしげるばかり。

「ちゃんと書いたがのう」

事務の人は、安物のペンのせいにしました。

私は、戸山さんの言葉を思い出していました。

鉄は、憶える金属。

なら、あの部屋は、憶えたものを消す部屋です。

紙の上の字まで消すのかと、そのときは、まだ冗談の側で考えていました。

時計のことも、書いておきます。

戸山さんの言いつけを、当番の人たちは案外まじめに守っていました。

それでも、うっかり者はいるものです。

消磁室の当番明けの人が、昼の休憩で、首をかしげているのを何度か見ました。

「わしの時計、また遅れとる」

決まって、数分。

決まって、当番の日にだけ。

時計屋に見せても、どこも悪くないと言われたそうです。

「磁気で狂うんじゃろ」と、みんなは笑って済ませました。

けれど私は、一度だけ、妙なものを見ています。

当番明けの三人の時計が、そろって、同じ分数だけ遅れていたのです。

狂うなら、ばらばらに狂うはずでしょう。

あれはまるで、あの部屋の中でだけ、時間の帳面が、薄く書かれているようでした。

秋の初めの、月曜日でした。

食堂に、矢野さんの姿がありませんでした。

休みかと思いました。

火曜も、水曜も、いませんでした。

木曜の昼、私はようやく、隣の工程の班長に尋ねました。

「矢野さん、どうかしたんですか」

班長は、箸を止めて、私を見ました。

「……誰?」

「矢野さんです。検査の。消磁室の当番の」

「うちの班に、そんな者はおらんよ」

冗談の顔ではありませんでした。

私は食堂を見回しました。

毎日、矢野さんと将棋を指していた人がいます。

矢野さんに縁談を世話しようとしていた、事務のおばさんがいます。

誰に聞いても、同じでした。

「矢野? はて」

「うちの工場に、そんな名前の人、おったかねえ」

首をかしげる顔、顔、顔。

からかわれているのだと思いたかった。

けれど、あの人たちの目は、本当に、何も知らない目でした。

寮に走って戻りました。

矢野さんの部屋の戸には、名前の札がありませんでした。

管理人さんに聞くと、その部屋は春から空き部屋だと言います。

「あんたの隣は、ずっと空いとるよ」

戸を開けてもらいました。

畳の上には、何もありませんでした。

ただ、窓際の畳だけ、家具の跡のように、四角く日に灼け残っていました。

誰かがそこに、長いこと、机を置いていたのです。

記録は消えても、日灼けは消えんのか、と、私は妙に冷静なことを考えていました。

それから、膝が震えました。

事務室で、私は頼み込んで、給与の綴りを見せてもらいました。

給与の台帳からは、欄ごと、矢野という姓が消えていました。

行が詰まっているのです。

五十音の、「や」のところ。

矢野さんの入るべき隙間が、最初からなかったように、前後の名前が続いている。

出勤簿も、名簿も、同じでした。

あの人は、書類の上では、最初からいなかったことになっていました。

帰りぎわ、事務のおばさんが、自分の手帳を繰っているのが見えました。

何かを探す手つきでした。

「どうかしましたか」

「いやあ……この頁の角、なんで折ったんか、思い出せんでねえ」

見せてもらうと、春の終わりの週の頁でした。

白紙です。

何も書いていない白紙の頁の角だけが、几帳面に、小さく折ってありました。

見合いの段取りは、たぶん、そこに書かれていたのだと思います。

インクは消せても、紙の折り目までは、消せなかったのです。

畳の日灼けと、同じことでした。

あの機械が消せるのは記録だけで、世界に残るへこみや灼けまでは、消しきれない。

そのことが、あの日の私には、ほんの少しだけ、救いでした。

その晩、私は保全の詰所で、戸山さんを待ちました。

戸山さんは、私の顔を見ると、湯を注ぐ手を止めました。

「……おまえ、憶えとるんか」

「憶えとるって、何をですか」

「名前じゃ。消えた者の名前よ」

私は、矢野さんの名前を言いました。

戸山さんは長いこと黙って、それから、戸口の外の暗がりを確かめました。

「消磁室の棚を見てこい。……いや、わしが行こう。おまえは知りすぎるな」

それでも私は、ついて行きました。

鉄の引き戸は、夜の中で、冷たい油の匂いがしました。

作業台の隅に、外し忘れた名札が一枚、伏せて置かれていました。

戸山さんが、手袋の先で、それを裏返しました。

名札の表面は、きれいに拭ったように、何も読めなくなっていました。

彫りが浅くなっているのです。

プレスで打った姓の溝が、砂で撫でたように、消えかかっている。

「外さんかったんじゃな、あの日」

戸山さんの声は、静かでした。

「機械はな、消せ言われたもんを消す。テープの中身も、鉄の中身も、区別せんのじゃ」

詰所に戻って、戸山さんは、古い話をひとつしてくれました。

「アメリカの海軍がな、戦争の時分、フィラデルフィアの港で、軍艦の磁気を消す実験をやりよったそうな」

「軍艦の?」

「機雷やレーダーから船を隠すために、船体の磁気を消す。消磁いうんは、もともと軍の技術よ」

「それで、どうなったんですか」

「船が、消えたそうな」

戸山さんは、湯呑みの中を見たまま続けました。

「与太話よ。じゃがな、その与太話にはこう続きがある。……消えたのは、船だけやなかった、と」

「乗っていた人は」

「戻った者も、おった。けどな、周りのほうが、その者らを憶えとらんかったそうな」

私は、廊下の唸りを思い出しました。

「戸山さん。消磁いうんは、記録を消すことでしょう」

「そうよ」

「ほんなら、人の記憶も……記録なんですか」

戸山さんは、答えませんでした。

答えないことが、答えでした。

なぜ私だけが、矢野さんを憶えているのか。

戸山さんは、私の寮の部屋を一目見て、言い当てました。

「そのラジオ、あいつのじゃろ」

「……はい。もらいものです」

「でかい磁石が入っとる。磁石はな、いちばん頑固に憶える鉄じゃ」

「これが、憶えとる?」

「あいつの録音が、そこに残っとるんよ。おまえはそれを、毎晩聞いとったんじゃ」

消された記録の、写しがひとつ、部屋の外に残っていた。

だから私の中の矢野さんは、上書きされずに済んだ。

戸山さんの理屈が正しいのかどうか、私には今もわかりません。

ただ、その晩から、私はラジオを抱いて眠るようになりました。

それからの半年、私は寮の机で、毎晩同じことをしました。

帳面に、あの人の名前を書くのです。

矢野。矢野。矢野。

忘れないために、ではありません。

確かめるためです。

ひと月ほどたった頃、帳面の最初の頁を開いて、私は指先が冷たくなりました。

最初の晩に書いた名前が、薄れ始めていたのです。

あとの頁ほど濃く、前の頁ほど薄い。

日誌のあの欄と、同じ掠れ方でした。

消すのは、あの部屋の中だけではないのです。

あの機械は、時間をかけて、外の記録にも手を伸ばす。

私はその晩から、名前を書くのをやめて、ラジオの銘板の裏に、針で小さく彫りました。

鉄は、憶える金属だからです。

彫った名前は、四十年たった今も、薄れていません。

矢野さんを憶えているのは、もう、私と、このラジオの磁石だけになったからです。

それからの私は、臆病になりました。

消磁室の当番を断り、名札は更衣室に置いて働きました。

戸山さんは翌年、定年で山の在所に帰りました。

別れ際、駅のホームで、あの人は一度だけ振り返りました。

「坊主。憶えとることを、誰にも言うな。……言えば、機械はおまえの声も、記録として扱う」

それが、最後の言葉でした。

工場は、平成に入ってすぐ閉まりました。

カセットの時代が、終わったのです。

跡地はいま、ホームセンターの駐車場になっています。

会社の社史も、図書館に一冊だけ残っています。

工場の見取り図の頁で、北の端のあの部屋は、「第二倉庫」と書かれていました。

消磁室の三文字は、どこにもありませんでした。

記録の上では、あの部屋も、最初からなかったことになっているのです。

一度だけ、車をあの駐車場の北の隅に停めたことがあります。

消磁室のあった、ちょうどそのあたりです。

エンジンを切ると、カーラジオが、切ったはずなのに、一瞬だけ鳴きました。

低い、羽虫のような唸りでした。

隣の座席で家内が「今の、何」と言いました。

「古い車じゃけん」と、私は答えました。

それきり、あの隅には停めていません。

矢野さんのラジオは、四十年たった今も、私の枕元で鳴ります。

たいていは、ただの古いラジオです。

ただ、風の強い晩に、たまに、妙な放送を拾います。

どこの局でもない周波数で、チャイムが鳴るのです。

夕方五時の、終業のチャイム。

あの工場で、毎日聞いた音です。

チャイムのあとに、大勢の下駄箱の音と、遠い笑い声が続きます。

その中に、よく笑う、懐かしい声がまじっている気がして、私は毎回、息を止めて聞き入ってしまう。

そして、決まって同じところで、放送は切れるのです。

誰かが、こちらに気づいたように。

ふつりと。

私ももう、いい年です。

私がいなくなれば、矢野さんを憶えている人間は、この世からいなくなります。

だから、こうして書き残すことにしました。

紙とインクは、磁気では消せんからです。

けれど、ひとつだけ、気がかりがあります。

この話を書き始めた晩から、机の上の方位磁石が、ゆっくり回り始めたのです。

右へ、左へ、迷うように。

あの廊下と、同じ回り方で。

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