フィラデルフィア消磁実験

フィラデルフィア消磁実験

私が二十歳の年から勤めた工場には、入ってはならない部屋が、ひとつだけありました。

昭和五十三年。

内陸の、川も海もない町の、磁気テープの工場です。

カセットテープが飛ぶように売れた時代でした。

私は検査係で、巻き上がったテープの音を、一日じゅう聞き比べる仕事をしていました。

単調で、静かで、いい職場でした。

検査の仕事のことを、少しだけ説明しておきます。

基準のテープと、できたばかりのテープを、ヘッドホンで聞き比べるのです。

合図の音、無音、また合図の音。

不良のテープは、無音のところで、かすかに砂を撒くような音がします。

私たちはそれを「砂が鳴る」と呼んでいました。

一日八時間、砂の音を探していると、耳が変に育ちます。

町を歩いていても、蛍光灯の唸りや、電線の鳴きが、いちいち聞こえてしまう。

あとになって思えば、あの耳が、私の運の分かれ目だったのかもしれません。

聞こえなければ、気づかずに済んだのですから。

あの部屋のことを除けば。

※

工場の北の端に、その部屋はありました。

鉄の引き戸に、色の抜けた札が一枚。

「消磁室」と書いてありました。

不良品のテープから、録音を消してしまうための部屋です。

中には、人の背丈ほど大きな消磁コイルが据えてありました。

戸が開くのは、週に一度きり。

入るのは、決まった者だけ。

新入りは、まず近づくなと教えられました。

教えてくれたのは、保全係の戸山さんという年寄りでした。

「ええか、坊主。あの部屋の前では、時計を外せ」

「時計、ですか」

「狂うからの。それとな」

戸山さんは、自分の胸の名札を、指の先でこつんと叩きました。

「名札は外して入れよ。鉄はな、憶える金属なんじゃ」

意味は、わかりませんでした。

ただ、戸山さんが冗談を言う顔ではなかったことだけ、妙に覚えています。

※

隣の工程に、矢野さんという先輩がいました。

五つ上で、よく笑う、気のいい人でした。

寮の部屋が隣で、風呂の順番を譲り合う仲でした。

「おまえ、夜、退屈じゃろ」

そう言って、自分のラジオを貸してくれたのは、入社した年の夏です。

重たい、古い、よく鳴るラジオでした。

「ええスピーカーが入っとる。磁石がでかいんじゃ」

「返さんでいいんですか」

「次の給料で新しいのを買うけん。それはもう、おまえのじゃ」

夜勤明けの寮で、そのラジオで野球を聞くのが、私の楽しみになりました。

夏には、二人で町の祭りに出かけました。

矢野さんは射的が下手で、五発外して、六発目で店の親父に笑われていました。

「おまえ、検査の腕はええのに、なんで当たらんのですか」

「テープは逃げんもん。的は逃げる気がするんよ」

「逃げませんよ、的は」

「逃げるんよ、わしからは」

帰り道、矢野さんは縁談の話を照れくさそうにしました。

事務のおばさんが世話を焼いてくれている、春には見合いをするかもしれない、と。

「そしたらラジオも、ほんまにおまえのもんじゃ。新婚の部屋で野球は聞けんけんな」

提灯の明かりの下で、あの人はよく笑っていました。

その顔を、いま、この世で私しか知らないのです。

矢野さんは検査の腕がよくて、消磁室の当番も任されていました。

「あの部屋、平気なんですか」

一度だけ聞くと、矢野さんは笑って、それからすこしだけ声を落としました。

「平気よ。……ただな、あの部屋の中では、歌を思い出せんのよ」

「歌?」

「どんな歌でもええ、頭ん中で歌ってみい言われても、出てこん。外に出たら、すっと戻る。妙な部屋よ」

私は笑いました。

笑って、済ませてしまいました。

※

最初の異変は、音でした。

夜勤の晩、消磁室の前の廊下を通ると、戸の向こうから、低い唸りが聞こえるのです。

機械は止まっている時間でした。

耳鳴りかと思って足を止めると、唸りも止まる。

歩き出すと、また、背中のあたりで唸る。

羽虫の群れが、遠くで湧いているような音でした。

保全の詰所でその話をすると、戸山さんは湯呑みを置いて、短く言いました。

「夜は、あの廊下を通るな」

理由は、教えてくれませんでした。

※

次は、方位磁石でした。

工場では、コイルの点検用に、小さな方位磁石を使います。

ある朝、消磁室の前の廊下で、ポケットの磁石が北を捨てました。

針がゆっくり回るのです。

右へ、左へ、迷うように。

戸から離れると、針は素直に北を向きました。

戸の前に戻ると、また迷う。

私はそれを、面白がってしまいました。

若かったのだと思います。

※

それから、日誌です。

消磁室の当番は、作業のあと、業務日誌に記録を残す決まりでした。

その日誌の、消磁室の欄だけ、字が薄いのです。

ほかの頁は濃いボールペンの字なのに、あの欄だけ、十年前の鉛筆書きみたいに掠れている。

書いた本人に聞いても、首をかしげるばかり。

「ちゃんと書いたがのう」

事務の人は、安物のペンのせいにしました。

私は、戸山さんの言葉を思い出していました。

鉄は、憶える金属。

なら、あの部屋は、憶えたものを消す部屋です。

紙の上の字まで消すのかと、そのときは、まだ冗談の側で考えていました。

※

時計のことも、書いておきます。

戸山さんの言いつけを、当番の人たちは案外まじめに守っていました。

それでも、うっかり者はいるものです。

消磁室の当番明けの人が、昼の休憩で、首をかしげているのを何度か見ました。

「わしの時計、また遅れとる」

決まって、数分。

決まって、当番の日にだけ。

時計屋に見せても、どこも悪くないと言われたそうです。

「磁気で狂うんじゃろ」と、みんなは笑って済ませました。

けれど私は、一度だけ、妙なものを見ています。

当番明けの三人の時計が、そろって、同じ分数だけ遅れていたのです。

狂うなら、ばらばらに狂うはずでしょう。

あれはまるで、あの部屋の中でだけ、時間の帳面が、薄く書かれているようでした。

※

秋の初めの、月曜日でした。

食堂に、矢野さんの姿がありませんでした。

休みかと思いました。

火曜も、水曜も、いませんでした。

木曜の昼、私はようやく、隣の工程の班長に尋ねました。

「矢野さん、どうかしたんですか」

班長は、箸を止めて、私を見ました。

「……誰?」

「矢野さんです。検査の。消磁室の当番の」

「うちの班に、そんな者はおらんよ」

冗談の顔ではありませんでした。

私は食堂を見回しました。

毎日、矢野さんと将棋を指していた人がいます。

矢野さんに縁談を世話しようとしていた、事務のおばさんがいます。

誰に聞いても、同じでした。

「矢野? はて」

「うちの工場に、そんな名前の人、おったかねえ」

首をかしげる顔、顔、顔。

からかわれているのだと思いたかった。

けれど、あの人たちの目は、本当に、何も知らない目でした。

※

寮に走って戻りました。

矢野さんの部屋の戸には、名前の札がありませんでした。

管理人さんに聞くと、その部屋は春から空き部屋だと言います。

「あんたの隣は、ずっと空いとるよ」

戸を開けてもらいました。

畳の上には、何もありませんでした。

ただ、窓際の畳だけ、家具の跡のように、四角く日に灼け残っていました。

誰かがそこに、長いこと、机を置いていたのです。

記録は消えても、日灼けは消えんのか、と、私は妙に冷静なことを考えていました。

それから、膝が震えました。

※

事務室で、私は頼み込んで、給与の綴りを見せてもらいました。

給与の台帳からは、欄ごと、矢野という姓が消えていました。

行が詰まっているのです。

五十音の、「や」のところ。

矢野さんの入るべき隙間が、最初からなかったように、前後の名前が続いている。

出勤簿も、名簿も、同じでした。

あの人は、書類の上では、最初からいなかったことになっていました。

帰りぎわ、事務のおばさんが、自分の手帳を繰っているのが見えました。

何かを探す手つきでした。

「どうかしましたか」

「いやあ……この頁の角、なんで折ったんか、思い出せんでねえ」

見せてもらうと、春の終わりの週の頁でした。

白紙です。

何も書いていない白紙の頁の角だけが、几帳面に、小さく折ってありました。

見合いの段取りは、たぶん、そこに書かれていたのだと思います。

インクは消せても、紙の折り目までは、消せなかったのです。

畳の日灼けと、同じことでした。

あの機械が消せるのは記録だけで、世界に残るへこみや灼けまでは、消しきれない。

そのことが、あの日の私には、ほんの少しだけ、救いでした。

※

その晩、私は保全の詰所で、戸山さんを待ちました。

戸山さんは、私の顔を見ると、湯を注ぐ手を止めました。

「……おまえ、憶えとるんか」

「憶えとるって、何をですか」

「名前じゃ。消えた者の名前よ」

私は、矢野さんの名前を言いました。

戸山さんは長いこと黙って、それから、戸口の外の暗がりを確かめました。

「消磁室の棚を見てこい。……いや、わしが行こう。おまえは知りすぎるな」

それでも私は、ついて行きました。

鉄の引き戸は、夜の中で、冷たい油の匂いがしました。

作業台の隅に、外し忘れた名札が一枚、伏せて置かれていました。

戸山さんが、手袋の先で、それを裏返しました。

名札の表面は、きれいに拭ったように、何も読めなくなっていました。

彫りが浅くなっているのです。

プレスで打った姓の溝が、砂で撫でたように、消えかかっている。

「外さんかったんじゃな、あの日」

戸山さんの声は、静かでした。

「機械はな、消せ言われたもんを消す。テープの中身も、鉄の中身も、区別せんのじゃ」

※

詰所に戻って、戸山さんは、古い話をひとつしてくれました。

「アメリカの海軍がな、戦争の時分、フィラデルフィアの港で、軍艦の磁気を消す実験をやりよったそうな」

「軍艦の?」

「機雷やレーダーから船を隠すために、船体の磁気を消す。消磁いうんは、もともと軍の技術よ」

「それで、どうなったんですか」

「船が、消えたそうな」

戸山さんは、湯呑みの中を見たまま続けました。

「与太話よ。じゃがな、その与太話にはこう続きがある。……消えたのは、船だけやなかった、と」

「乗っていた人は」

「戻った者も、おった。けどな、周りのほうが、その者らを憶えとらんかったそうな」

私は、廊下の唸りを思い出しました。

「戸山さん。消磁いうんは、記録を消すことでしょう」

「そうよ」

「ほんなら、人の記憶も……記録なんですか」

戸山さんは、答えませんでした。

答えないことが、答えでした。

※

なぜ私だけが、矢野さんを憶えているのか。

戸山さんは、私の寮の部屋を一目見て、言い当てました。

「そのラジオ、あいつのじゃろ」

「……はい。もらいものです」

「でかい磁石が入っとる。磁石はな、いちばん頑固に憶える鉄じゃ」

「これが、憶えとる?」

「あいつの録音が、そこに残っとるんよ。おまえはそれを、毎晩聞いとったんじゃ」

消された記録の、写しがひとつ、部屋の外に残っていた。

だから私の中の矢野さんは、上書きされずに済んだ。

戸山さんの理屈が正しいのかどうか、私には今もわかりません。

ただ、その晩から、私はラジオを抱いて眠るようになりました。

※

それからの半年、私は寮の机で、毎晩同じことをしました。

帳面に、あの人の名前を書くのです。

矢野。矢野。矢野。

忘れないために、ではありません。

確かめるためです。

ひと月ほどたった頃、帳面の最初の頁を開いて、私は指先が冷たくなりました。

最初の晩に書いた名前が、薄れ始めていたのです。

あとの頁ほど濃く、前の頁ほど薄い。

日誌のあの欄と、同じ掠れ方でした。

消すのは、あの部屋の中だけではないのです。

あの機械は、時間をかけて、外の記録にも手を伸ばす。

私はその晩から、名前を書くのをやめて、ラジオの銘板の裏に、針で小さく彫りました。

鉄は、憶える金属だからです。

彫った名前は、四十年たった今も、薄れていません。

矢野さんを憶えているのは、もう、私と、このラジオの磁石だけになったからです。

※

それからの私は、臆病になりました。

消磁室の当番を断り、名札は更衣室に置いて働きました。

戸山さんは翌年、定年で山の在所に帰りました。

別れ際、駅のホームで、あの人は一度だけ振り返りました。

「坊主。憶えとることを、誰にも言うな。……言えば、機械はおまえの声も、記録として扱う」

それが、最後の言葉でした。

工場は、平成に入ってすぐ閉まりました。

カセットの時代が、終わったのです。

跡地はいま、ホームセンターの駐車場になっています。

会社の社史も、図書館に一冊だけ残っています。

工場の見取り図の頁で、北の端のあの部屋は、「第二倉庫」と書かれていました。

消磁室の三文字は、どこにもありませんでした。

記録の上では、あの部屋も、最初からなかったことになっているのです。

※

一度だけ、車をあの駐車場の北の隅に停めたことがあります。

消磁室のあった、ちょうどそのあたりです。

エンジンを切ると、カーラジオが、切ったはずなのに、一瞬だけ鳴きました。

低い、羽虫のような唸りでした。

隣の座席で家内が「今の、何」と言いました。

「古い車じゃけん」と、私は答えました。

それきり、あの隅には停めていません。

※

矢野さんのラジオは、四十年たった今も、私の枕元で鳴ります。

たいていは、ただの古いラジオです。

ただ、風の強い晩に、たまに、妙な放送を拾います。

どこの局でもない周波数で、チャイムが鳴るのです。

夕方五時の、終業のチャイム。

あの工場で、毎日聞いた音です。

チャイムのあとに、大勢の下駄箱の音と、遠い笑い声が続きます。

その中に、よく笑う、懐かしい声がまじっている気がして、私は毎回、息を止めて聞き入ってしまう。

そして、決まって同じところで、放送は切れるのです。

誰かが、こちらに気づいたように。

ふつりと。

※

私ももう、いい年です。

私がいなくなれば、矢野さんを憶えている人間は、この世からいなくなります。

だから、こうして書き残すことにしました。

紙とインクは、磁気では消せんからです。

けれど、ひとつだけ、気がかりがあります。

この話を書き始めた晩から、机の上の方位磁石が、ゆっくり回り始めたのです。

右へ、左へ、迷うように。

あの廊下と、同じ回り方で。

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