
うちの一族には、山に棲む大伯父がいる。
もう百年も前に、山の向こうで姿を消した人だ。
俺は子どもの頃、その人に助けられた。
去年の夏には、うちの息子まで、その人に叱られた。
長い話になるが、聞いてほしい。
百年前の夏の届け物
父方の祖母には、二つ違いの兄がいた。
つまり、俺の大伯父である。
名前は辰男といった。
祖母が十歳、辰男が十二歳の夏のことだ。
両親に頼まれて、辰男は、山を一つ越えた集落にある親戚の家へ、届け物に行くことになった。
風呂敷に包んだぼた餅だったと、祖母は話していた。
前の晩に、母親が小豆を炊いて、夜なべして丸めたものだという。
辰男は、それを胸に抱え、嬉しそうに家を出たそうだ。
山一つといっても、子どもの足で朝一番に出れば、夜には帰ってこられる距離だ。
歩き慣れた道だった。
辰男はいつも、朝一番に出て、夕方を少し過ぎた頃に帰ってきた。
ところが、その日は夜になっても、戻らなかった。
親戚の家に泊めてもらったのだろう。
両親は、あまり心配しなかった。
三日経った。
畑仕事も手伝ってほしくなり、父親が親戚の家へ迎えに行った。
辰男は、いなかった。
いないどころか、来てもいなかった。
慌てた両親は、自分の村と、親戚の集落の人々に頼んだ。
両方向から、山狩りをしてもらった。
けれど、辰男は見つからなかった。
結局、行方不明として処理された。
家には、風呂敷の端切れ一つ戻ってこなかった。
祖母はその後、生涯、兄の話をあまりしなかった。
仏壇の隅には、小さな白い位牌のような木札が一枚だけ、ひっそり立てかけてあった。
そこに書かれた名前は、年月で薄れて、誰にも読めなかった。
ただ一度だけ、俺にこう言った。
「兄さんはね、左足から草鞋を履く子だったんだよ」
意味はわからなかった。
けれど、その言葉だけが、ずっと耳の奥に残っていた。
杉の根元の苔むした石
それから、長い年月が流れた。
俺がまだ鼻たれ小僧で、ファミコンが出る少し前の夏休みのことだ。
小学四年生だった俺は、友達三人と一緒に、朝から山へ入った。
クワガタを捕りに行ったのだ。
その辺りの山は、一族の所有だった。
親父と、その兄弟で持っている山だ。
だから、普段からよく遊んでいた。
迷ったことは、一度もなかった。
山の入口には、大きな杉の木が一本立っていた。
その根元に、苔むした、平たい石があった。
俺は子どもの頃から、その石に腰かけて、弁当を食べるのが好きだった。
座り心地がよくて、ひんやりと冷たかった。
夏の盛りでも、その石だけは、いつも濡れたように冷えていた。
友達に「そこ、気持ち悪くないか」と聞かれても、俺は笑って流した。
その日も、石の上で握り飯を食べてから、奥へ奥へと進んだ。
最初のうちは、四人で仲良く虫を探していた。
けれど、やがて虫の大きさで、争いが起こった。
自分だけで一番大きいのを捕ってやる、という流れになり、それぞれバラバラに散った。
木を蹴飛ばした。
登ってみた。
根元を掘り返してみた。
夢中になって、時間を忘れた。
蝉の声が、頭の上から降るように響いていた。
汗が背中を伝い、腐葉土の甘い匂いが、鼻の奥まで入り込んだ。
麦わら帽子のつばが、枝に引っかかって、何度も脱げそうになった。
迷子の山で会った男の子
太陽が真上に来て、腹が減ってきた。
そろそろ戻ろうと、辺りを見回した。
自分がどこにいるのか、わからなかった。
小さな山だ。
下っていけば、どこかで知っている場所に出るだろう。
そう思って、斜面を下り始めた。
しかし、日が傾きかけても、一向に下山できなかった。
歩き疲れ、腹は減り、足の裏が痛かった。
俺はその場に座り込んで、泣き出した。
そのときだった。
目の前に、男の子が現れた。
本当に、突然だった。
ぱっと、そこに立っていた。
驚いたが、人がいたことに安心した。
自分より少し大きいくらいの子だった。
着物のようなものを着ていた気がする。
足元は、草鞋だった。
立ち止まったとき、左足が少しだけ前に出ていたのを、妙に覚えている。
「何だ、迷子になったのか」
男の子は、短くそう言った。
そして、俺の手を引いて歩き出した。
手は、ひんやりと冷たかった。
歩きながら、お互いに名前を言った。
俺は自分の名前を言った。
男の子も、名前を教えてくれた。
くだらない話をしながら、少し歩くと、見覚えのある道に出た。
山の入口の、あの杉の木のところだった。
「ここまで来れば、わかるな?」
俺は頷いた。
ありがとう、と言った。
男の子は、少し照れたように笑った。
「ばあさんによろしく」
そう言って、彼は、もう一度、山のほうへ戻っていった。
なぜ、山に戻るのだろう。
不思議に思いながら、俺は暗くなっていく道を、家に帰った。
家に帰って、実家の隣に住んでいた祖母に、その日のことを話した。
すると祖母は、手を止めて、長い時間、俺の顔を見つめた。
やがて、最初に書いた内容を、静かに話してくれた。
「それはね、山に棲む大伯父だよ」
祖母は、そう言った。
「兄さんは、まだ山で、帰り道を探しているんだよ」
祖母の目の縁が、赤くなっていた。
俺は、何と言っていいのかわからなくて、黙って頷いた。
次の日、祖母に連れられて、墓参りに行った。
終わり。
と、ならないのが、この話だ。
まだ続きがある。
山に棲む大伯父の説教
さらに月日は流れ、去年の夏のことだ。
小学五年生になった息子が、夏休みで家にいた。
暑さでだらだらしていると、嫁が雷を落とした。
「外で遊んできなさい!」
息子は、渋々、3DSを握りしめて、自転車に跨がった。
図書館に集まっている友達のところへ行く、と言っていた。
ところが、何を思ったのか、息子は件の山へ向かったらしい。
「名前を呼ばれたから」
後で、そう言っていた。
夕方になった。
十七時を過ぎても、息子は帰ってこなかった。
友達の家に、あちこち電話をかけた。
いない。
町内を探した。
見つからない。
十九時になった。
警察に捜索願を出そうとした、そのときだった。
玄関の戸が開いた。
息子が、ひょっこり顔を出した。
怒鳴る嫁を尻目に、息子は、俺に言ってきた。
「辰男くんが、たまには墓参りに来いって怒ってたよ」
その名前を聞いた瞬間、昔の記憶が一気によみがえった。
三十年間、忘れていた名前だった。
息子は、続けた。
「『昔助けた恩を忘れたか!』って言ってた」
「パパ、山で迷子になって、鼻水垂らして泣いてたんだって? ダセェ」
俺は、固まった。
横で、嫁が首をかしげていた。
「どうしたの? 辰男くんって、誰?」
まあまあ、とお茶を濁した。
山に棲む大伯父の話を、嫁にしたことは一度もなかった。
どう切り出せばいいのか、わからなかったのだ。
台所の流しで、嫁が皿を洗う音だけが、やけに大きく響いていた。
晩飯を食べ、久しぶりに息子と風呂に入って、詳しい話を聞いた。
息子の話は、こうだった。
家を出たら、山のほうから、何度も自分を呼ぶ声が聞こえた。
何だろうと思って近づいたら、着物のようなものを着た、見たことのない男の子がいた。
一緒に遊ぼうと言われて、遊んだ。
その子は、パパのことを知っているようだった。
この山でよく遊んでいたこと。
迷子になって、鼻水を垂らしながら泣いていたこと。
親に反発して、山でタバコを吸い、気持ち悪くなって吐き散らしたこと。
俺が山でしでかした恥ずかしいことを、あらいざらい聞いた。
同じように、山で出会った見えない誰かの話を、峠の先にあった灯りという体験談で読んだことがある。
墓の前で再会する話なら、庭にあるお墓も忘れがたい。
話が面白くて、帰りが遅くなったのだという。
最後に、男の子はこう言った。
「ばあさんがな、うちの孫は誰も墓参りに来ないと嘆いている」
「助けた恩を忘れていないなら、ばあさんの墓に来い」
「それから」
男の子は、少し間を置いて、続けたそうだ。
「パパに伝えてくれ。人の頭に腰かけて、飯を食うなと」
俺は、思わず息を止めた。
山の入口の杉の木の下の、あの苔むした石。
子どもの頃から、俺が腰かけて握り飯を食べていた、あの石。
翌日、一人で山へ行った。
朝の山は、露に濡れて、土の匂いがした。
杉の根元に着くまで、鳥の声ひとつ、聞こえなかった。
俺は、石の前で、しばらく立ち尽くした。
石の苔を、爪でそっとこすり落とした。
苔の下から、掠れた文字が現れた。
「辰男」と、読めた。
誰かが、行方知れずになった子のために、昔こっそり置いた石だったのだ。
俺は、手を合わせて、深く頭を下げた。
その夜、夢に大伯父が出てきた。
十二歳の姿のまま、俺を正座させて、延々と説教をした。
涙目で小さくなっている、四十男の俺の姿が見えた。
次の日、遅まきながら、嫁と子どもたちを連れて、墓参りに行った。
ばあちゃんの墓と、杉の根元の石に、それぞれ花を供えた。
ふと、石の上に、小さな草鞋が一足、揃えて置かれているのが見えた。
左足のほうが、少し前に出ていた。
おしまい。
長々とすまんかった。