イタチの仕業

祖父の通夜の晩のことです。

故郷は、山あいの、小さな集落でした。

祖父の家は、築百五十年を超える、古い庄屋屋敷です。

黒く煤けた梁が、天井で、太く交差していました。

廊下は、磨かれた板張りで、歩くたびに、低く軋みました。

その長い廊下の、突き当たり。

奥座敷に、祖父は、白い布をかけられて、安置されていました。

親戚や弔問の客は、みな、表側の広間に集まっていました。

線香の煙が、座敷を、青くかすませていました。

私は、人いきれが少し苦手で、そっと、その輪を抜けました。

案内されたのは、屋敷のいちばん奥の、小さな和室でした。

三方の壁が、ガラス張りになった、不思議な造りの部屋です。

祖父が、晩年、盆栽を眺めるために、改築した部屋だと聞きました。

その夜、私は、その部屋に、一人でいました。

ガラスには、カーテンの一枚もありません。

外は、ただ、墨を流したような、闇でした。

裏手の山には、江戸の頃からの、一族の墓が並んでいます。

集落のはずれには、古い祠が一つ、ありました。

幼い頃、祖父に、その由来を聞いたことがあります。

「昔な、この土地で、ひどい飢饉があったんだ」

祖父は、静かな声で、そう言いました。

「逃げ遅れた者を、弔うために、あの祠は立てられた」

「だから、夜に山へ入ってはいけないよ」

子ども心に、その話は、妙に、耳に残りました。

その祠のことを、私は、その晩、ふと、思い出していました。

最初の異変は、光でした。

山の上のほうから、白い光が、ゆっくりと、なぎ払うように動いたのです。

獣よけの、サーチライトか何かだろう、と思いました。

けれど、その光が、ガラス越しに、壁を撫でるたび。

部屋の壁に、見たことのない影が、ゆらりと、踊りました。

人の形にも、木の形にも、見える影でした。

二つ目の異変は、空気でした。

ふいに、部屋の温度が、すとんと、下がりました。

真夏だというのに、首すじが、ひやりとしたのです。

そして、かすかに、土と、線香の混じったような匂いがしました。

奥座敷の、祖父の枕元の匂いと、同じ匂いでした。

その部屋は、廊下を、ずいぶん隔てているはずでした。

三つ目の異変は、音でした。

長い廊下の、向こうの端から。

何かを、ずるり、ずるりと、引きずるような足音が、聞こえ始めたのです。

私は、息を、止めました。

客はみな、表の広間にいるはずです。

誰かが、部屋を間違えて、迷い込んできたのか。

足音は、一定の間隔で、近づいてきました。

ずるり。

ずるり。

歩幅が、人のものにしては、どこか、おかしいのです。

何かを引きずる音と、足音とが、別々に、聞こえました。

私は、ガラスに映る自分の顔から、目をそらせませんでした。

足音が、近づくにつれて。

廊下と部屋を仕切る襖が、異変を起こしました。

ブワン、ブワン、と。

その足音に合わせて、襖が、波打ち始めたのです。

風など、どこにもありません。

閉めきった、奥の部屋でした。

やがて、三方のガラスが、ビリビリと、共振を始めました。

低い、地鳴りのような震えでした。

部屋全体が、揺れていました。

まるで、舟の上に、いるようでした。

足音は、ついに、襖の、すぐ向こうまで来ました。

私は、声も、出せませんでした。

襖の、二十センチ向こう。

そこに、何かが、立っている気配がありました。

私は、ただ、畳の一点を、見つめていました。

開けてはいけない。

理屈ではなく、体の芯が、そう叫んでいました。

指一本、動かせませんでした。

気配は、しばらく、襖の前に、留まっていました。

それから、また、ずるり、と。

行きつ、戻りつ。

廊下を、何度も、往復しはじめました。

その音が、完全に消えるまで。

ずいぶん、長い時間が、かかりました。

足音が消えたあとも、私は、動けませんでした。

夜が明けて、表が騒がしくなってから、ようやく、襖を開けました。

廊下には、何も、ありませんでした。

引きずった跡も、足跡も、何一つ。

私は、表の広間へ行き、親戚に、震える声で尋ねました。

「ゆうべ、奥のほうへ行った人は、いますか」

親戚たちは、顔を見合わせました。

裏へ回った者は、誰一人、いないというのです。

代わりに、年老いた伯父が、こう言いました。

「ああ、それはな、イタチの仕業だよ」

「この家には、昔から、野生のイタチが棲みついていてな」

「夜に、廊下を、歩き回るんだ」

「大きな、低い声で、唸ることもある」

「ごくたまに、人を傷つけることもあってな」

「だから、夜に、襖を不意に開けてはいけないと、言い伝えられてきた」

伯父は、そう言って、深くうなずきました。

納得した、という顔でした。

私だけが、納得できずに、いました。

イタチが、襖を波打たせるでしょうか。

イタチが、三方のガラスを、震わせるでしょうか。

何かを引きずる、あの音は、何だったのでしょう。

私は、どう考えても、あれが、イタチの仕業だとは、思えないのです。

伯父の言う「言い伝え」が、いつ、誰によって、作られたのか。

それを思うと、今でも、背すじが、冷たくなります。

祖父は、言いました。

夜に、山へ入ってはいけない、と。

あの晩、私が見た山の光が、本当に、獣よけだったのか。

飢饉で逃げ遅れた者を、弔う祠が、なぜ、山にあるのか。

イタチ、という言葉だけが、その問いに、優しく、蓋をしていました。

あの家の襖を、私は、二度と、不意には、開けません。

訃報を受けて、私が故郷へ向かったのは、八月の半ばでした。

最寄りの駅から、車で、さらに一時間。

道は、次第に細くなり、両脇から、夏草が、車体を擦りました。

集落へ入る手前で、川を、古い石橋で渡ります。

その橋のたもとに、苔むした道祖神が、半ば、草に埋もれていました。

ヘッドライトに照らされたその顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見えました。

祖父の屋敷は、集落のいちばん奥、山の懐に、抱かれるように建っていました。

門をくぐると、広い土間と、黒光りする大黒柱が、出迎えます。

間取りは、田の字に並んだ、四つの座敷を基本にしていました。

その四つを、ぐるりと、長い廊下が、取り囲んでいます。

廊下の角を曲がるたび、空気の質が、変わる気がしました。

古い家とは、そういうものだと、その時は、思っていました。

祖父は、八十八で、亡くなりました。

長く、この集落の、世話役を務めた人でした。

寡黙で、めったに、昔話をしませんでした。

ただ一度だけ、酒の入った晩に、こう漏らしたことがあります。

「この家はな、預かりものなんだ」

「わしらは、ただ、留守を、守っているだけさ」

その言葉の意味を、私は、長いあいだ、考えませんでした。

通夜の席は、しめやかでした。

集落の老人たちが、かわるがわる、祖父の顔を、覗き込みました。

「いい顔をしとる」

「ちゃんと、迎えに来てもろうたんだな」

そんな言葉が、あちこちで、交わされていました。

迎えに、とは、誰のことだろう。

その時は、深く、気に留めませんでした。

夜が更けて、表の話し声も、まばらになりました。

私は、ガラス張りの部屋で、膝を抱えていました。

祖父が眺めたという盆栽は、もう、そこにはありません。

空いた棚が、闇の中で、白く浮かんで見えました。

時計の針が、深夜の一時を、回ったところでした。

集落には、街灯の一つも、ありません。

震えるガラスに、私の顔が、ぼやけて映っていました。

その背後の闇に。

一瞬、もう一つの輪郭が、重なった気がしました。

私の肩越しに、こちらを、覗き込むような。

振り返る勇気は、ありませんでした。

瞬きすら、惜しんで、私は、畳を見つめ続けました。

襖の向こうの気配は、ひどく、辛抱強いものでした。

急ぐでもなく。

去るでもなく。

ただ、私が、襖を開けるのを、待っているようでした。

開けたら、終わりだ。

なぜか、そう、確信していました。

通夜の翌朝、私は、一人で、集落のはずれの祠まで、歩きました。

明るい陽の下でも、その一画だけは、空気が、湿っていました。

祠の前には、新しい花が、供えられていました。

誰が供えたのか、尋ねても、誰も、知りませんでした。

古びた木札には、かすれた文字で、こう、刻まれていました。

「許されよ、留まる者たちよ」

私は、その晩のうちに、屋敷を、辞しました。

帰りの石橋で、もう一度、道祖神を、見ました。

その顔は、やはり、笑っているようにも、泣いているようにも、見えました。

祖父の言葉が、耳の奥で、よみがえりました。

わしらは、ただ、留守を、守っているだけ。

あの晩、留守宅に、本当の主が、帰ってきたのだとしたら。

思えば、この家には、幼い頃の、忘れがたい記憶があります。

夏休みに、泊まりに来た夜のことです。

奥のあの部屋で、私は、夜中に、目を覚ましました。

廊下を、誰かが、歩いている音がしたのです。

祖母に話すと、祖母は、静かに、私の頭を撫でました。

「気にせんでいい。あの音は、聞かんふりをするんだよ」

祖母は、それ以上、何も、教えてくれませんでした。

私は、その晩のことを、長い間、忘れていました。

通夜の席で、隣家の老婆が、私に、そっと囁いたことがあります。

「あんた、奥の部屋に、泊まるのかい」

私が、うなずくと、老婆は、口の中で、何かを唱えました。

「ご先祖さんが、賑やかなのが、好きな家だからね」

「ひとりにしたら、寂しがって、出てきなさる」

そう言って、老婆は、もう、何も話しませんでした。

その意味が、夜半に、私を、捉えることになります。

あの土と線香の匂いが、ふいに、濃くなりました。

すぐ、鼻先で、嗅いだような、近さでした。

そして、襖の向こうから。

ごく、低い声が、聞こえた気がしました。

言葉には、なっていませんでした。

唸るような、訴えるような、声でした。

老婆の言葉が、よみがえりました。

寂しがって、出てきなさる。

故郷から戻って、私は、土地の郷土史を、調べました。

古い記録に、この集落の、飢饉のことが、書かれていました。

逃げ遅れた者たちは、最後に、庄屋の屋敷へ、助けを求めて集まったといいます。

けれど、門は、開かれませんでした。

その者たちが、息絶えた場所が。

いまの、あの屋敷の、奥にあたるのだと、記録は、伝えていました。

ガラス張りの、あの部屋。

祖父が、晩年、わざわざ、改築した部屋です。

なぜ、いちばん奥の、その場所を選んだのか。

留守を守る、とは、何を、守ることだったのか。

問いは、増えるばかりで、答えは、一つも、出ません。

ただ、あの足音だけが、今も、耳の奥に、残っています。

屋敷の天井は、見上げると、闇に溶けるほど、高いものでした。

欄間には、波と千鳥の、古い透かし彫りがありました。

廊下の途中に、一枚だけ、開かずの板戸がありました。

子どもの頃、開けようとして、祖父に、強く叱られた戸です。

「そこは、開けるな」

祖父が、声を荒らげたのは、後にも先にも、その一度きりでした。

奥座敷の祖父の枕元では、蝋燭が、一晩中、灯されていました。

その火を、絶やしてはいけない、というのが、この家の決まりでした。

「火が消えると、道に、迷うからね」

伯母が、そう言って、新しい蝋燭を、継ぎ足していました。

道に迷う、とは、誰が。

問い返すのが、なぜか、はばかられました。

揺れる部屋の中で、私は、ふと、気づきました。

奥座敷の蝋燭の灯りが、廊下の先で、激しく、揺らいでいたのです。

風のない、夜でした。

その灯りが、ふっと、細くなった瞬間。

足音は、ぴたりと、止まりました。

代わりに、襖が、内側へ、わずかに、たわみました。

誰かが、向こうから、手を、ついたように。

夜が明けて、奥座敷を、覗きました。

一晩、灯されていたはずの蝋燭が、根元まで、燃え尽きていました。

芯の周りに、黒い、煤の輪が、残っていました。

伯母が、青ざめて、つぶやきました。

「夜明け前に、消えたんだね」

消えた火が、誰を、どこへ、導いたのか。

私には、確かめる勇気が、ありませんでした。

郷土史を読んだあと、私は、もう一つ、思い出したことがあります。

廊下の途中の、あの、開かずの板戸です。

祖父が、ただ一度、声を荒らげて、私を叱った戸。

あの戸の先が、どこへ続いているのか。

私は、ついに、確かめませんでした。

屋敷は、その後、人手に渡り、取り壊されたと聞きます。

あの板戸の向こうを知る者は、もう、誰も、いません。

あれから、何年も、経ちました。

今でも、夏の、寝苦しい夜に。

ふと、あの、ずるり、という音を、思い出すことがあります。

そんな夜、私は、決して、廊下のほうを、見ません。

見たら、何かと、目が、合ってしまう気がするのです。

イタチの仕業。

そう、口の中で、唱えてみます。

けれど、その言葉は、いつまでも、私を、安心させてはくれません。

後日、いちばん年長の伯父に、電話で、尋ねました。

あの晩の足音は、本当に、イタチだったのか、と。

伯父は、しばらく、黙っていました。

それから、低い声で、こう言いました。

「お前も、聞いたか」

「あれを聞いた者は、この家で、何代も、いるんだ」

「イタチということに、しておくのが、いちばんいいんだよ」

その「しておく」という言葉が、私の胸に、冷たく、残りました。

電話を切ったあと、私は、しばらく、受話器を握っていました。

何代も、聞いてきた者がいる。

その者たちも、みな、襖を、開けずに、やり過ごしたのでしょうか。

開けてしまった者は、どうなったのでしょうか。

考えても、答えの出ない問いだけが、増えていきます。

あの集落は、今も、地図の隅に、静かに、あります。

取り壊しの前に、一度だけ、屋敷を訪ねた、と従兄が言っていました。

がらんとした、奥の部屋に立つと、土と線香の匂いが、まだ、したそうです。

三方のガラスは、もう、外されていました。

それなのに、廊下の奥から、かすかに、軋む音が、聞こえたといいます。

従兄は、それきり、その話を、しなくなりました。

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