
イワナ止めの滝まで登った夏の日のことを、俺は長いあいだ、誰にも話さなかった。
話せば笑われると思ったからだ。
笑われるだけなら、まだよかった。
本当に口にできなかったのは、帰り道で見た行列のことではない。
ビクの中の魚のことだ。
実家は、山と湖に挟まれた田舎にある。
湖は小さい。
自転車で一周しても、昼飯の前に戻ってこられる。
その湖に、北の山から細い川が一本だけ流れ込んでいる。
地元の子どもにとって、その川を溯って岩魚を釣るのは、夏休みの決まりごとのようなものだった。
小学校最後の夏、俺は同級生のナオとケンの三人で、谷に入ることになった。
朝は5時半に集合した。
腰には竹で編んだビクを下げ、竿は祖父のお古を借りた。
出がけに、祖父が玄関まで見送りに出てきた。
「谷から戻る時はな、来た道を戻れ」
「違う道を歩かされたら、獲った魚は全部返してこい」
俺は適当に返事をした。
いつもの小言だと思っていた。
自転車の荷台で、ナオが笑った。
「お前の爺ちゃんの話って、毎回それっぽいよな」
ケンは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「うちは、そういうの教えてくれる人がいないからさ」
その時の俺は、羨ましがられているのだと思った。
イワナ止めの滝まで
谷は何度も通った道だった。
どの淵に魚が寄るか、どの岩の陰で流れが溜まるか、三人とも目をつぶっても言えた。
その日は雲ひとつない晴天だった。
水は驚くほど冷たく、足首まで入れると骨の芯が痺れた。
ナオは餌のイクラを指先で潰しながら、鼻歌を歌っていた。
ケンは黙々と竿を振り、最初に型のいい一匹を上げた。
背中の斑点が、濡れた石の色によく似ていた。
針を外す時の、指に張りつく冷たさ。
ビクの底に落ちた魚が跳ねる、乾いた竹の音。
そういうものを、今でもはっきり思い出せる。
昼前には、三人のビクはそれぞれ重くなっていた。
俺が12匹、ナオが11匹、ケンが10匹。
数え終えたケンが、少しだけ笑った。
谷の奥へ進むほど、蝉の声は遠くなった。
代わりに、水の音だけが大きくなっていく。
苔の匂いが濃くなったところで、目の前に滝が現れた。
落差は、大人二人分ほどだったと思う。
魚はここから上へは登れない。
だから地元では、この滝をイワナ止めの滝と呼ぶ。
釣り上がりは、ここで終わりと決まっていた。
滝壺の水は、底が見えないほど青かった。
ケンが小石を投げ入れると、輪は一度だけ広がって、すぐに消えた。
落ちる水の音が、話し声をすべて飲み込んでいく。
縁に腰を下ろして、握り飯を食べた。
祖母の握り飯は、海苔の代わりに茹でた蕗の葉で巻いてあった。
ナオは三つ食べた。
ケンは二つ食べて、残りの一つを大事そうに懐にしまった。
「帰ってから食う」
そう言って、水筒の麦茶を一口だけ飲んだ。
空はどこまでも青かった。
あの時の俺たちは、帰り道に何が待っているのか、少しも考えていなかった。
晴れた谷の小雨
イワナ止めの滝を後にして、帰りは川を下る。
行きに竿を入れた淵をひとつずつ眺めながら、足取りは軽かった。
ナオは冗談を言い、ケンは平たい石を拾って水切りをした。
俺は、腰に当たるビクの重さを誇らしく思っていた。
大きな淵まで下りた頃、頬に冷たいものが当たった。
雨だった。
最初は、木の枝から落ちた雫だと思った。
だが、粒は次々と水面に輪を作っていった。
見上げると、空は晴れていた。
太陽はまぶしく、雲はひとつもない。
その空から、細い雨が降っていた。
「天気予報、降水確率ゼロだったよな」
ナオが言った。
「おかしなこともあるもんだ」
俺がそう返した時だった。
谷全体に、ひとつの声が響いた。
「ケーーーーン」
犬の遠吠えとは違う。
鳥でもない。
喉を細く絞って、空へ突き上げるような声だった。
声は岩壁に当たって、三度、四度と返ってきた。
その余韻が消えるより早く、対岸の杉林が薄暗くなった気がした。
最初に気づいたのはケンだった。
何も言わず、俺の袖を引いた。
杉の根元の暗がりを、人が歩いていた。
黒い紋付き袴の男たちが、一列になって川上へ向かっている。
十人ほどいたと思う。
誰も話さない。
足音もしなかった。
列の真ん中に、一人だけ白い着物の女がいた。
白無垢というものを、俺はその時、初めて見た。
顔は綿帽子に隠れていた。
雨が降っているのに、その白だけが一滴も濡れていないように見えた。
列の最後尾の男が、ふと立ち止まった。
こちらを向いたのかどうかは、わからない。
顔があるはずの場所だけ、杉の影が濃かった。
ケンが走り出した。
それが合図になった。
俺とナオもビクを抱えて、川沿いを一目散に駆けた。
後ろは振り返らなかった。
雨の匂いが、土ではなく、古い箪笥の中のような匂いだったことだけを覚えている。
違う川の河口
どれだけ走ったのかはわからない。
気づくと、雨は止んでいた。
木立の向こうに、湖面が見えた。
ほっとして、膝から力が抜けた。
だが、そこは俺たちの知っている河口ではなかった。
湖の対岸だった。
溯ったはずの川とは、まったく別の川が流れ込んでいる場所だ。
イワナ止めの滝から、一度も川を外れていない。
それなのに、足の下の砂には、見覚えのない跡が一列に残っていた。
人の足より少し小さく、爪先が尖っていた。
三人は黙って顔を見合わせた。
祖父の言葉が、頭の隅で鳴っていた。
違う道を歩かされたら。
それを口にする前に、ナオが言った。
「帰ろうぜ。腹減った」
ケンも頷いた。
湖畔の道で、ナオとケンの家は左、俺の家は右だった。
そこで別れた。
どうやって家まで帰ったのか、俺は覚えていない。
玄関を開けると、祖母が台所から飛び出してきた。
俺の顔を見るなり、手の布巾を落とした。
「何だその顔は。山で何を見てきた」
祖母は土間に膝をつき、俺の両肩をつかんで、小さく念仏を唱え始めた。
その声は、いつもより低く、長かった。
奥から祖父が出てきた。
俺は、ぽつりぽつりと話した。
祖父は最後まで黙って聞いていた。
聞き終えると、ひとつ息を吐いた。
「狐の嫁入りか」
「たぶん、心配はない」
「だが、魚は返してこい。今すぐだ」
祖父に連れられて、湖畔まで歩いた。
ビクの口を逆さにして、魚を水際にあけた。
12匹の岩魚が、浅瀬に散らばった。
どれも、ぴくりとも動かなかった。
白い腹を上に向けて、静かに浮いていた。
ほんの二時間前まで、ビクの中で跳ねていた魚だ。
祖父は、魚が流れていくまで何も言わずに見ていた。
帰り道、祖父がぽつりと言った。
「ナオとケンには、言ってあるのか」
俺は首を振った。
「そうか」
それだけだった。
翌日、俺は二人に何も言わなかった。
言えば、また谷の話になる。
夏休みの残りは、ゲームで潰れていった。
二人のビクの中身
高校を出て、俺は県外の大学へ進んだ。
ナオとケンは地元に残り、同じ工場に就職した。
大学一年の夏、帰省した。
二人から、海釣りの誘いが来た。
「久しぶりに三人で行こうぜ」
「ナオの親父さんの車、借りられるんだ」
二つ返事で承諾した。
出発の前の晩、俺は熱を出した。
悪寒と吐き気で、布団から起き上がれなくなった。
体温計は39度を超えていた。
朝、二人に電話をして断った。
「無理すんなよ」
ナオは笑っていた。
それが、あいつの声を聞いた最後になった。
一晩寝ると、熱は嘘のように引いていた。
その朝、母が部屋に来て、膝をそろえて座った。
言いにくそうに、ゆっくりと話し始めた。
二人の乗った車が、峠のカーブで道を外れたこと。
二人とも、帰らぬ人になったこと。
朝の光が、障子の桟を白く染めていた。
葬儀は別々の家で営まれた。
それから、十年以上が過ぎた。
先週、いつもの通勤電車で、向かいの席の男が渓流釣りの雑誌を広げていた。
表紙の滝の写真に、目が止まった。
その瞬間、ひとつの考えが浮かんだ。
あの二人は、魚を返さなかったのではないか。
返さなければならないことを、誰からも教わらなかったのではないか。
教えてくれる人がいない。
ケンは確かにそう言っていた。
だが、あの朝、玄関で祖父の言葉を聞いていたのは、俺も同じだった。
教えてくれる人がいなかったのは、あの二人だけではなかった。
教えられたのに、伝えなかったのは俺のほうだ。
その日のうちに休暇を出して、実家に戻った。
夕方、ナオの家を訪ねた。
仏壇に手を合わせたあと、線香の煙の向こうで、ナオの母が言った。
出された麦茶は、あの日の水筒と同じ味がした。
「そういえばね、あの子ら、小学校最後の夏に谷へ行ったでしょう」
「あの日の岩魚、うちで焼いて食べたの」
「ナオが、ケンちゃんの分も抱えて帰ってきてね」
「それが不思議でねえ」
「焼いても焼いても、身が砂みたいに崩れて」
「二人とも、釣り方が悪かったんだって笑ってたわ」
ナオの母は、湯呑みを両手で包んで、少しだけ笑った。
俺は何も言えなかった。
帰り道、湖の波の音がやけに近く聞こえた。
明日は、ケンの墓にも行くつもりだ。
今さら魚のことを詫びて、何かが変わるのかはわからない。
ただ、起きたことを、俺は誰かに話さなければならなかった。