終点の白いドーム

笑い話だと思って、聞いてください。

たぶん、ただの夢か、疲れによる幻覚だったのでしょう。

それでも、私の鞄には、いまも、説明のつかないものが、ひとつ、残っています。

五年ほど前の、冬のことです。

当時の私は、地方都市で、看護師として働いていました。

その夜は、日勤と夜勤が続いて、心も体も、へとへとでした。

その頃は、慢性的な人手不足で、休みも、ろくに取れませんでした。

連勤が続き、頭の芯が、いつも、ぼんやりしていました。

緑ヶ丘までの、四十分の電車だけが、唯一、息のつける時間でした。

窓を流れる、見慣れた夜景。

川を渡る鉄橋の、ガタンという響き。

それらを、半分眠りながら聞くのが、私は、好きでした。

帰りは、いつもの、ローカル線の各駅停車。

乗客もまばらな、最終に近い電車でした。

暖房の効いた車内は、ぬるく、まどろむには十分でした。

私は、つり革にもたれたまま、いつのまにか、眠り込んでいました。

電車の揺れは、いつも、心地よい、ゆりかごでした。

その日も、私は、深く、深く、沈んでいきました。

夢を、見たような気もします。

白い、霧の中を、歩く夢を。

誰かが、遠くで、私の名を、呼んでいました。

振り返っても、そこには、誰も、いませんでした。

降りる駅は、三つ先の、緑ヶ丘。

そのはずでした。

肩を、とんとんと、叩かれて、目が覚めました。

車掌さんが、私を、見下ろしていました。

「終点ですよ。お客さん」

声が、どこか、くぐもって、聞こえました。

私は、寝ぼけたまま、礼を言って、立ち上がりました。

車掌さんの顔を、はっきりとは、見ませんでした。

いま思えば、あの人も、もう、こちら側の人では、なかったのかもしれません。

あわてて、時計を見ました。

夜中のはずなのに、窓の外は、なぜか、真昼の明るさでした。

外に出て、私は、立ちすくみました。

そこは、見たことのない、駅でした。

真っ白な、ドーム型の天井。

高い天窓から、白っぽい光が、降り注いでいました。

こんな近代的な駅は、この路線に、ありません。

駅名の表示を、見上げました。

そこには、漢字のような、でも読めない文字が、並んでいました。

「驟娜譌……」

見たこともない、字の羅列でした。

ホームの時計を、見上げました。

針が、三本、ありました。

いちばん細い針が、ありえない速さで、逆回りに、回っていました。

壁には、見慣れない記号の、広告らしきものが、貼ってありました。

耳が、おかしくなったのかと思い、私は、手を叩いてみました。

ぱん、という、その音だけが、やけに大きく、響きました。

あれほどの人がいるのに、ほかには、何の音も、しないのです。

ホームには、人が、大勢いました。

けれど、その姿が、おかしいのです。

みんな、灰色がかった、影のように、ぼんやりしていました。

顔の輪郭が、にじんで、はっきりしません。

誰も、喋りません。

足音すら、しませんでした。

それなのに、人だけは、たくさん、いるのです。

床は、つるつるとした、白い石でした。

私の足音だけが、こつ、こつ、と、響きました。

影たちは、みな、同じ方向へ、ゆっくりと、流れていきました。

まるで、見えない川に、運ばれるように。

自分の吐く息だけが、白く、見えました。

それなのに、寒さは、感じませんでした。

体温だけが、この世界から、置き去りにされているようでした。

私は、その流れに逆らって、ひとり、立っていました。

冷たい空気が、首すじを、なでました。

真冬のはずなのに、天窓から差す光は、やけに、まぶしい。

何かが、決定的に、間違っていました。

私は、近くにいた影に、声をかけてみました。

「あの、すみません。ここは、どこですか」

影は、ゆっくりと、こちらを向きました。

けれど、顔のあたりは、霧がかかったように、ぼやけていました。

返事は、ありませんでした。

ただ、ぐにゃりと、また前を向いただけでした。

背すじに、冷たいものが、走りました。

私は、とにかく、引き返そうとしました。

逆方向の電車に乗れば、帰れるはず。

そう、考えたのです。

けれど、反対側のホームの表示も、読めない文字でした。

行き先が、どこにも、わかりませんでした。

改札を、出てみることにしました。

外に出れば、タクシーくらい、あるだろう。

そう思って、エスカレーターを、降りました。

ところが、降りた先は、まだ駅の中のはずなのに。

私は、いつのまにか、外に、立っていました。

空が、見えました。

その空の色が、見たこともない、淡い橙色でした。

真冬の夕暮れとも、違います。

時間の感覚が、ぐにゃりと、ねじれていました。

空には、太陽が、ふたつ、あるように見えました。

いえ、もう一つは、月だったのかもしれません。

どちらも、淡く、にじんでいました。

風は、ありません。

空気は、ひんやりと、湿っていました。

かすかに、線香のような、嗅いだことのない匂いが、漂っていました。

私は、パニックになって、走り出しました。

白衣のまま、知らない街を、ただ、走りました。

街には、店のようなものが、並んでいました。

けれど、どの看板も、読めない文字でした。

窓の中では、灰色の影が、ゆらゆらと、動いていました。

私は、公衆電話を、見つけました。

受話器を、耳に当てると、砂嵐のような音だけが、流れてきました。

何度、ボタンを押しても、つながりません。

私は、受話器を、そっと、戻しました。

走りながら、スマホで、家に電話をかけました。

コール音は、鳴りません。

代わりに、聞いたことのない、女性の声がしました。

「その番号は、こちらには、ございません」

何度かけても、同じでした。

私の番号が、この世界には、存在しないのです。

足が、すくみました。

知らない街には、車も、走っていませんでした。

信号も、ありません。

建物は、どれも、のっぺりとして、窓のない壁ばかりでした。

その音は、まるで、大勢の人の、ため息のようでした。

聞いていると、自分まで、灰色に、溶けていく気がしました。

遠くで、低い、地鳴りのような音が、ずっと、続いていました。

途中、一軒の、店らしき場所に、入ってみました。

中は薄暗く、棚に、見たことのない品物が、並んでいました。

奥に、店番らしい影が、座っていました。

「あの、助けてください」

声をかけても、影は、ぴくりとも、動きません。

私は、逃げるように、その店を、出ました。

どこにも、頼れる人は、いませんでした。

私は、目についた、バス停のベンチに、座り込みました。

鞄の中の、のど飴を、一粒、口に入れました。

ハッカの味が、やけに、生々しく、舌に広がりました。

夢ではない。

そう、わかってしまいました。

帰れないかもしれない。

そう思うと、涙が、こぼれてきました。

私は、下を向いて、声を殺して、泣きました。

通り過ぎる影たちは、誰も、私を、見ませんでした。

泣いている私が、まるで、見えていないようでした。

あるいは、ここでは、私のほうが、影なのかもしれない。

そんな考えが、頭を、よぎりました。

もう、駄目かもしれない。

そう、思いかけたときでした。

どれくらい、そうしていたでしょう。

ふいに、肩に、手が触れました。

顔を上げると、年配の女性が、立っていました。

その人だけは、影ではなく、はっきりと、見えました。

「あんた、顔が真っ青だよ。どうしたの」

私は、しゃくりあげながら、言いました。

「うちに、帰れないんです」

女性は、少し、目を見ひらいて、それから、優しく言いました。

「ああ、あんた、こっちの人じゃないね」

「あの角を曲がって、地下の駅に、もう一度お乗りなさい」

「いいかい、走るんだよ。振り返っちゃ、だめ」

「どうして、わかるんですか」

私が聞くと、女性は、寂しそうに、笑いました。

「わたしも、昔、あんたと同じだったからね」

「でも、わたしは、帰る電車を、逃しちゃってねえ」

その言葉の意味を、考える余裕は、私には、ありませんでした。

いま思えば、あの女性は、帰れなかった人だったのかもしれません。

だから、せめて私だけでも、と。

そう言って、私の背中を、ぽん、と叩きました。

そのとき、なぜか、女性は、一枚のカードを、私の手に握らせました。

「これを、持ってお行き。きっと、帰れるから」

私は、言われたとおり、角を曲がりました。

地下へ続く、暗い階段が、ありました。

切符も買わずに、改札を、走り抜けました。

誰も、止めませんでした。

ホームに、一本の電車が、停まっていました。

飛び乗ると、扉が、すぐに閉まりました。

電車は、長い長いトンネルを、走り続けました。

窓の外は、真っ暗で、何も見えません。

ただ、トンネルの壁が、時おり、白く、過ぎていきました。

電車は、いつまでも、止まりませんでした。

私は、立ったまま、つり革を、握りしめていました。

一時間が過ぎたようにも、十分だったようにも、思いました。

時間の感覚は、もう、あてに、なりませんでした。

車内には、私のほかに、誰もいません。

スピーカーから、ラジオのノイズのような音が、流れていました。

そのノイズに混じって、聞き取れない、でたらめな言葉のアナウンスが、繰り返されました。

言葉は、わかりません。

それでも、その響きには、こちらを引き止めるような、粘りが、ありました。

聞いていると、意識が、遠のきそうになりました。

何度も、もう帰れないのではないか、という考えが、押し寄せました。

そのたびに、私は、手の中のカードを、強く、握りなおしました。

あの女性の言葉だけが、頼りでした。

振り返るな。

ただ、前を、向いていろ。

早く。早く。元の駅へ。

心の中で、私は、何度も、繰り返しました。

祈ることしか、できませんでした。

私は、扉の、すりガラスの一点を、見つめ続けました。

私は、頬を、強くつねって、耐えました。

私は、握りしめたカードに、目を落とし、ひたすら祈りました。

どうか、帰れますように、と。

「……喉が、渇いた」

思わず、独り言が、こぼれました。

その瞬間です。

ノイズが、すうっと、晴れました。

そして、はっきりと、聞こえたのです。

「次は、緑ヶ丘。緑ヶ丘です」

電車が、止まりました。

扉が、開きました。

降りると、そこは、見慣れた、緑ヶ丘の駅でした。

夜の、いつものホーム。

改札の向こうに、いつもの、ロータリーが見えました。

時計は、ちょうど、終電の時刻を、指していました。

まるで、何ごともなかったかのように。

私は、その場に、へなへなと、座り込みました。

助かった。

その思いだけで、しばらく、動けませんでした。

翌日、同僚に、この話を、してみました。

みんな、笑って、本気にしませんでした。

「夢でも見たんでしょ。疲れてるのよ」

そう、言われました。

私自身、そう思おうと、しました。

けれど、白衣のポケットには、たしかに、あのカードが、入っていたのです。

あの女性に握らされたカードは、いまも、持っています。

それは、ただの、古いテレホンカードでした。

もう、とうの昔に、誰も使わなくなった、あれです。

絵柄は、二十年以上前に、どこかの企業が配っていた、ありふれたものでした。

つまり、異世界の証拠には、まるで、ならないのです。

ふつうに、昔、売られていたものですから。

気になって、私は、そのテレホンカードを、調べてみました。

たしかに、二十年以上前に実在した、企業の販促品でした。

私が生まれる前に、ふつうに、配られていたものです。

だから、誰に見せても、こう言われます。

「ただの、古いテレカじゃない」

そのとおりなのです。

何ひとつ、証明できません。

それでも、私は、捨てられずにいます。

一度、休みの日に、あの路線の終点まで、行ってみました。

終点は、古びた、木造の、小さな駅でした。

白いドームなど、どこにも、ありませんでした。

駅員さんに、聞いてみました。

「この駅に、白いドームの、新しいホームって、ありますか」

駅員さんは、けげんな顔で、首を振りました。

「うちは、昔から、これ一本ですよ」

やはり、あの駅は、この世界には、ないのです。

あの女性のことも、ときどき、考えます。

あの灰色の街で、彼女は、いまも、誰かを待っているのでしょうか。

迷い込んだ人を、一人でも、帰してあげるために。

私を助けてくれた、あの温かい手の感触を、私は、いまも、覚えています。

あの灰色の人々。

読めない駅名。

橙色の、空。

あれ以来、私は、こう思うようになりました。

日常と、異界の境目は、案外、薄いのだと。

眠りと、目覚めの、ほんのわずかな隙間に。

あの女性も、きっと、ある夜、足を、踏み外したのです。

そして、戻る電車を、逃した。

私は、たまたま、運が、よかっただけ、なのかもしれません。

ふいに、足を、踏み外してしまうことが、あるのだと。

あれは、本当に、夢だったのでしょうか。

ときどき、最終電車で眠ってしまうと、ふと、不安になります。

最終電車に乗るたび、私は、緊張します。

ドアが閉まる、あの音。

発車の、揺れ。

それだけで、あの日のことが、よみがえります。

眠ってはいけない。

そう、自分に、言い聞かせます。

それでも、疲れていると、まぶたは、勝手に、落ちてきます。

うとうとするたび、夢の奥に、あの白いドームが、ちらつくのです。

今度、目を覚ましたとき。

また、あの真っ白なドームに、降ろされるのではないか、と。

目が覚めて、見慣れた緑ヶ丘のホームだと、わかると、私は、いつも、ほっと、胸をなでおろします。

けれど、ふと、思うのです。

このホームは、本当に、もともと私が、いた世界の、ホームなのだろうか、と。

そして、もし次に、あの優しい女性が、いなかったら。

この話を、笑い話として、聞いてくれて、かまいません。

ただ、もしあなたも、最終電車で、深く眠ってしまったら。

目覚めた駅の名前を、どうか、一度、確かめてみてください。

私は、もう二度と、帰ってこられないのかもしれません。

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