終点の白いドーム

終点の白いドーム

笑い話だと思って、聞いてください。

たぶん、ただの夢か、疲れによる幻覚だったのでしょう。

それでも、私の鞄には、いまも、説明のつかないものが、ひとつ、残っています。

※

五年ほど前の、冬のことです。

当時の私は、地方都市で、看護師として働いていました。

その夜は、日勤と夜勤が続いて、心も体も、へとへとでした。

その頃は、慢性的な人手不足で、休みも、ろくに取れませんでした。

連勤が続き、頭の芯が、いつも、ぼんやりしていました。

緑ヶ丘までの、四十分の電車だけが、唯一、息のつける時間でした。

窓を流れる、見慣れた夜景。

川を渡る鉄橋の、ガタンという響き。

それらを、半分眠りながら聞くのが、私は、好きでした。

帰りは、いつもの、ローカル線の各駅停車。

乗客もまばらな、最終に近い電車でした。

暖房の効いた車内は、ぬるく、まどろむには十分でした。

私は、つり革にもたれたまま、いつのまにか、眠り込んでいました。

電車の揺れは、いつも、心地よい、ゆりかごでした。

その日も、私は、深く、深く、沈んでいきました。

夢を、見たような気もします。

白い、霧の中を、歩く夢を。

誰かが、遠くで、私の名を、呼んでいました。

振り返っても、そこには、誰も、いませんでした。

降りる駅は、三つ先の、緑ヶ丘。

そのはずでした。

※

肩を、とんとんと、叩かれて、目が覚めました。

車掌さんが、私を、見下ろしていました。

「終点ですよ。お客さん」

声が、どこか、くぐもって、聞こえました。

私は、寝ぼけたまま、礼を言って、立ち上がりました。

車掌さんの顔を、はっきりとは、見ませんでした。

いま思えば、あの人も、もう、こちら側の人では、なかったのかもしれません。

あわてて、時計を見ました。

夜中のはずなのに、窓の外は、なぜか、真昼の明るさでした。

外に出て、私は、立ちすくみました。

そこは、見たことのない、駅でした。

真っ白な、ドーム型の天井。

高い天窓から、白っぽい光が、降り注いでいました。

こんな近代的な駅は、この路線に、ありません。

駅名の表示を、見上げました。

そこには、漢字のような、でも読めない文字が、並んでいました。

「驟娜譌……」

見たこともない、字の羅列でした。

※

ホームの時計を、見上げました。

針が、三本、ありました。

いちばん細い針が、ありえない速さで、逆回りに、回っていました。

壁には、見慣れない記号の、広告らしきものが、貼ってありました。

耳が、おかしくなったのかと思い、私は、手を叩いてみました。

ぱん、という、その音だけが、やけに大きく、響きました。

あれほどの人がいるのに、ほかには、何の音も、しないのです。

ホームには、人が、大勢いました。

けれど、その姿が、おかしいのです。

みんな、灰色がかった、影のように、ぼんやりしていました。

顔の輪郭が、にじんで、はっきりしません。

誰も、喋りません。

足音すら、しませんでした。

それなのに、人だけは、たくさん、いるのです。

床は、つるつるとした、白い石でした。

私の足音だけが、こつ、こつ、と、響きました。

影たちは、みな、同じ方向へ、ゆっくりと、流れていきました。

まるで、見えない川に、運ばれるように。

自分の吐く息だけが、白く、見えました。

それなのに、寒さは、感じませんでした。

体温だけが、この世界から、置き去りにされているようでした。

私は、その流れに逆らって、ひとり、立っていました。

冷たい空気が、首すじを、なでました。

真冬のはずなのに、天窓から差す光は、やけに、まぶしい。

何かが、決定的に、間違っていました。

私は、近くにいた影に、声をかけてみました。

「あの、すみません。ここは、どこですか」

影は、ゆっくりと、こちらを向きました。

けれど、顔のあたりは、霧がかかったように、ぼやけていました。

返事は、ありませんでした。

ただ、ぐにゃりと、また前を向いただけでした。

背すじに、冷たいものが、走りました。

私は、とにかく、引き返そうとしました。

逆方向の電車に乗れば、帰れるはず。

そう、考えたのです。

けれど、反対側のホームの表示も、読めない文字でした。

行き先が、どこにも、わかりませんでした。

※

改札を、出てみることにしました。

外に出れば、タクシーくらい、あるだろう。

そう思って、エスカレーターを、降りました。

ところが、降りた先は、まだ駅の中のはずなのに。

私は、いつのまにか、外に、立っていました。

空が、見えました。

その空の色が、見たこともない、淡い橙色でした。

真冬の夕暮れとも、違います。

時間の感覚が、ぐにゃりと、ねじれていました。

空には、太陽が、ふたつ、あるように見えました。

いえ、もう一つは、月だったのかもしれません。

どちらも、淡く、にじんでいました。

風は、ありません。

空気は、ひんやりと、湿っていました。

かすかに、線香のような、嗅いだことのない匂いが、漂っていました。

私は、パニックになって、走り出しました。

白衣のまま、知らない街を、ただ、走りました。

※

街には、店のようなものが、並んでいました。

けれど、どの看板も、読めない文字でした。

窓の中では、灰色の影が、ゆらゆらと、動いていました。

私は、公衆電話を、見つけました。

受話器を、耳に当てると、砂嵐のような音だけが、流れてきました。

何度、ボタンを押しても、つながりません。

私は、受話器を、そっと、戻しました。

走りながら、スマホで、家に電話をかけました。

コール音は、鳴りません。

代わりに、聞いたことのない、女性の声がしました。

「その番号は、こちらには、ございません」

何度かけても、同じでした。

私の番号が、この世界には、存在しないのです。

足が、すくみました。

知らない街には、車も、走っていませんでした。

信号も、ありません。

建物は、どれも、のっぺりとして、窓のない壁ばかりでした。

その音は、まるで、大勢の人の、ため息のようでした。

聞いていると、自分まで、灰色に、溶けていく気がしました。

遠くで、低い、地鳴りのような音が、ずっと、続いていました。

途中、一軒の、店らしき場所に、入ってみました。

中は薄暗く、棚に、見たことのない品物が、並んでいました。

奥に、店番らしい影が、座っていました。

「あの、助けてください」

声をかけても、影は、ぴくりとも、動きません。

私は、逃げるように、その店を、出ました。

どこにも、頼れる人は、いませんでした。

私は、目についた、バス停のベンチに、座り込みました。

鞄の中の、のど飴を、一粒、口に入れました。

ハッカの味が、やけに、生々しく、舌に広がりました。

夢ではない。

そう、わかってしまいました。

帰れないかもしれない。

そう思うと、涙が、こぼれてきました。

私は、下を向いて、声を殺して、泣きました。

※

通り過ぎる影たちは、誰も、私を、見ませんでした。

泣いている私が、まるで、見えていないようでした。

あるいは、ここでは、私のほうが、影なのかもしれない。

そんな考えが、頭を、よぎりました。

もう、駄目かもしれない。

そう、思いかけたときでした。

どれくらい、そうしていたでしょう。

ふいに、肩に、手が触れました。

顔を上げると、年配の女性が、立っていました。

その人だけは、影ではなく、はっきりと、見えました。

「あんた、顔が真っ青だよ。どうしたの」

私は、しゃくりあげながら、言いました。

「うちに、帰れないんです」

女性は、少し、目を見ひらいて、それから、優しく言いました。

「ああ、あんた、こっちの人じゃないね」

「あの角を曲がって、地下の駅に、もう一度お乗りなさい」

「いいかい、走るんだよ。振り返っちゃ、だめ」

「どうして、わかるんですか」

私が聞くと、女性は、寂しそうに、笑いました。

「わたしも、昔、あんたと同じだったからね」

「でも、わたしは、帰る電車を、逃しちゃってねえ」

その言葉の意味を、考える余裕は、私には、ありませんでした。

いま思えば、あの女性は、帰れなかった人だったのかもしれません。

だから、せめて私だけでも、と。

そう言って、私の背中を、ぽん、と叩きました。

そのとき、なぜか、女性は、一枚のカードを、私の手に握らせました。

「これを、持ってお行き。きっと、帰れるから」

※

私は、言われたとおり、角を曲がりました。

地下へ続く、暗い階段が、ありました。

切符も買わずに、改札を、走り抜けました。

誰も、止めませんでした。

ホームに、一本の電車が、停まっていました。

飛び乗ると、扉が、すぐに閉まりました。

電車は、長い長いトンネルを、走り続けました。

窓の外は、真っ暗で、何も見えません。

ただ、トンネルの壁が、時おり、白く、過ぎていきました。

電車は、いつまでも、止まりませんでした。

私は、立ったまま、つり革を、握りしめていました。

一時間が過ぎたようにも、十分だったようにも、思いました。

時間の感覚は、もう、あてに、なりませんでした。

車内には、私のほかに、誰もいません。

スピーカーから、ラジオのノイズのような音が、流れていました。

そのノイズに混じって、聞き取れない、でたらめな言葉のアナウンスが、繰り返されました。

言葉は、わかりません。

それでも、その響きには、こちらを引き止めるような、粘りが、ありました。

聞いていると、意識が、遠のきそうになりました。

何度も、もう帰れないのではないか、という考えが、押し寄せました。

そのたびに、私は、手の中のカードを、強く、握りなおしました。

あの女性の言葉だけが、頼りでした。

振り返るな。

ただ、前を、向いていろ。

早く。早く。元の駅へ。

心の中で、私は、何度も、繰り返しました。

祈ることしか、できませんでした。

私は、扉の、すりガラスの一点を、見つめ続けました。

私は、頬を、強くつねって、耐えました。

私は、握りしめたカードに、目を落とし、ひたすら祈りました。

どうか、帰れますように、と。

「……喉が、渇いた」

思わず、独り言が、こぼれました。

その瞬間です。

ノイズが、すうっと、晴れました。

そして、はっきりと、聞こえたのです。

「次は、緑ヶ丘。緑ヶ丘です」

※

電車が、止まりました。

扉が、開きました。

降りると、そこは、見慣れた、緑ヶ丘の駅でした。

夜の、いつものホーム。

改札の向こうに、いつもの、ロータリーが見えました。

時計は、ちょうど、終電の時刻を、指していました。

まるで、何ごともなかったかのように。

私は、その場に、へなへなと、座り込みました。

助かった。

その思いだけで、しばらく、動けませんでした。

※

※

翌日、同僚に、この話を、してみました。

みんな、笑って、本気にしませんでした。

「夢でも見たんでしょ。疲れてるのよ」

そう、言われました。

私自身、そう思おうと、しました。

けれど、白衣のポケットには、たしかに、あのカードが、入っていたのです。

あの女性に握らされたカードは、いまも、持っています。

それは、ただの、古いテレホンカードでした。

もう、とうの昔に、誰も使わなくなった、あれです。

絵柄は、二十年以上前に、どこかの企業が配っていた、ありふれたものでした。

つまり、異世界の証拠には、まるで、ならないのです。

ふつうに、昔、売られていたものですから。

気になって、私は、そのテレホンカードを、調べてみました。

たしかに、二十年以上前に実在した、企業の販促品でした。

私が生まれる前に、ふつうに、配られていたものです。

だから、誰に見せても、こう言われます。

「ただの、古いテレカじゃない」

そのとおりなのです。

何ひとつ、証明できません。

それでも、私は、捨てられずにいます。

※

一度、休みの日に、あの路線の終点まで、行ってみました。

終点は、古びた、木造の、小さな駅でした。

白いドームなど、どこにも、ありませんでした。

駅員さんに、聞いてみました。

「この駅に、白いドームの、新しいホームって、ありますか」

駅員さんは、けげんな顔で、首を振りました。

「うちは、昔から、これ一本ですよ」

やはり、あの駅は、この世界には、ないのです。

あの女性のことも、ときどき、考えます。

あの灰色の街で、彼女は、いまも、誰かを待っているのでしょうか。

迷い込んだ人を、一人でも、帰してあげるために。

私を助けてくれた、あの温かい手の感触を、私は、いまも、覚えています。

あの灰色の人々。

読めない駅名。

橙色の、空。

あれ以来、私は、こう思うようになりました。

日常と、異界の境目は、案外、薄いのだと。

眠りと、目覚めの、ほんのわずかな隙間に。

あの女性も、きっと、ある夜、足を、踏み外したのです。

そして、戻る電車を、逃した。

私は、たまたま、運が、よかっただけ、なのかもしれません。

ふいに、足を、踏み外してしまうことが、あるのだと。

あれは、本当に、夢だったのでしょうか。

ときどき、最終電車で眠ってしまうと、ふと、不安になります。

最終電車に乗るたび、私は、緊張します。

ドアが閉まる、あの音。

発車の、揺れ。

それだけで、あの日のことが、よみがえります。

眠ってはいけない。

そう、自分に、言い聞かせます。

それでも、疲れていると、まぶたは、勝手に、落ちてきます。

うとうとするたび、夢の奥に、あの白いドームが、ちらつくのです。

今度、目を覚ましたとき。

また、あの真っ白なドームに、降ろされるのではないか、と。

目が覚めて、見慣れた緑ヶ丘のホームだと、わかると、私は、いつも、ほっと、胸をなでおろします。

けれど、ふと、思うのです。

このホームは、本当に、もともと私が、いた世界の、ホームなのだろうか、と。

そして、もし次に、あの優しい女性が、いなかったら。

この話を、笑い話として、聞いてくれて、かまいません。

ただ、もしあなたも、最終電車で、深く眠ってしまったら。

目覚めた駅の名前を、どうか、一度、確かめてみてください。

私は、もう二度と、帰ってこられないのかもしれません。

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