見えない壁

もう、二十年も前の、秋の話だ。

当時の俺は、中学二年だった。

育ったのは、北関東の、小さな城下町だ。

町の真ん中を、浅い川が、流れていた。

その川沿いに、県道が一本、まっすぐ伸びていた。

片側は、苔むした古い石垣。

もう片側は、背の高い、草の茂った土手だった。

昼でも、車はめったに通らない、寂しい道だった。

アスファルトには、あちこち、ひびが入っていた。

道の途中に、古いお地蔵さんが、一体、立っていた。

赤い前掛けは、もう、すっかり色が褪せていた。

顔も、長い年月で、削れて、よく分からなかった。

子どもの頃から、その前を通るときは、なぜか、足が速くなった。

理由は、自分でも、分からなかった。

祖母は、いつも、こう言っていた。

「あのお地蔵さんには、ちゃんと、手を合わせなさいよ」

子どもの俺は、面倒で、たいてい、素通りしていた。

町は、古い、お城の下に、開けた土地だった。

川には、江戸の頃に架けられたという、石の橋が、残っていた。

県道沿いの家々も、どれも、軒が低く、瓦が、黒くくすんでいた。

昼間でも、人通りは、ほとんど、なかった。

若い者は、みな、町を、出ていく。

残っているのは、年寄りと、子どもばかりだった。

俺も、いずれは、この町を出るのだと、漠然と、思っていた。

だから、その道を歩くのは、退屈な、毎日の一部に、すぎなかった。

その日も、ただの、お使いの、はずだった。

その日、俺は、祖母に頼まれて、郵便局へ向かっていた。

懸賞の応募はがきを、出しに行くだけの、簡単な用事だった。

夕方の、五時を、過ぎた頃だった。

秋の陽は、もう、土手の向こうに、半分沈んでいた。

あたりは、すっかり、藍色に、染まりはじめていた。

俺は、いつものように、その県道を、歩いていた。

郵便局までは、あと、二、三百メートルといったところだ。

川の水音が、やけに、大きく、聞こえた。

それ以外には、本当に、何の音も、しなかった。

風さえ、止んでいた。

土手の枯れ草が、ぴくりとも、動かなかった。

最初に、おかしいと感じたのは、犬だった。

石垣の上の家で、柴犬が、飼われている。

いつもなら、通りかかると、必ず吠える犬だった。

だがその日は、犬は、小屋の奥で、じっと、こちらを見ていた。

吠えもせず、ただ、低く、唸っていた。

毛を、逆立てて、何かに、怯えるように。

妙だな、とは思ったが、気にも、留めなかった。

次に気づいたのは、空気だった。

道の、ある一点を境に、空気が、ひやりと、冷たくなった。

まるで、開いた冷蔵庫の前を、通り過ぎたようだった。

秋とはいえ、まだ、そんな季節では、なかった。

俺は、思わず、首を、すくめた。

それから、音が、消えた。

あれほど大きかった、川の音が、ふっと、遠のいた。

耳が、詰まったような、変な感じが、した。

つばを飲み込んでも、その感じは、消えなかった。

ふと、足を、止めた。

自分の、息の音だけが、やけに、大きく、聞こえた。

道の先の、街灯が、一つ、ちかちかと、点滅していた。

ついたり、消えたりを、不規則に、繰り返していた。

その明かりの下だけが、妙に、白々と、浮かんで見えた。

俺は、なぜか、そこから、目を、離せなくなった。

引き返したほうがいい。

頭の、どこかで、そんな声が、した。

だが、お使いを、放り出すわけにも、いかなかった。

俺は、唾を、飲み込んで、また、歩き出した。

鼻の奥に、土と、線香のような、匂いが、した。

どこかで、誰かが、墓参りでも、しているのか。

そう思おうとしたが、近くに、墓地など、なかった。

ふいに、遠くで、子どもの笑い声が、聞こえた気がした。

だが、振り返っても、誰も、いなかった。

俺は、なんとなく、足を、速めた。

早く、この場所を、抜けて、しまいたかった。

気づけば、お地蔵さんの、すぐ前に、さしかかっていた。

その、一歩を、踏み出した、ときだった。

ゴツン、と、額に、固いものが、ぶつかった。

俺は、思いきり、尻もちを、ついた。

人に、ぶつかったのだと、思った。

「すみません!」

慌てて、謝りながら、立ち上がろうとした。

だが、周りを見ても、誰も、いない。

道には、俺のほかに、人影ひとつ、なかった。

障害物も、何も、なかった。

いつもと、同じ、見慣れた景色が、あるだけだった。

気のせいか、と、もう一度、足を、踏み出した。

その瞬間、また、ゴツッと、何かに、ぶつかった。

今度は、はっきりと、額に、痛みが、走った。

「はぁ?」

思わず、声が、出た。

目の前には、何も、ないはずだった。

なのに、それ以上、前へ、進めない。

俺は、おそるおそる、手を、伸ばしてみた。

指先が、つるりとした、固いものに、触れた。

ひんやりとした、磨いた石のような、感触だった。

ゲームで、よくある、見えない壁。

まさに、あれが、そこに、あった。

透明で、光の反射も、何も、ない。

それなのに、確かに、そこに、ある。

俺は、壁を、両手で、押してみた。

びくとも、しなかった。

拳で、叩いてみた。

コツ、コツ、と、固い音が、返ってきた。

俺は、念のため、壁を、蹴って、みた。

つま先に、固い、衝撃が、返ってきた。

間違いなく、そこに、何かが、ある。

俺は、ポケットの、応募はがきを、握りしめた。

汗で、紙が、ふやけていた。

心臓が、痛いほど、早鐘を、打っていた。

壁は、上にも、どこまでも、続いているようだった。

背伸びをしても、てっぺんには、届かなかった。

俺は、壁伝いに、横へ、移動してみた。

壁は、左にも、右にも、どこまでも、続いていた。

道を、ふさぐように、ぴたりと、立っていた。

土手の方へ、回り込もうとした。

だが、土手の斜面にも、その壁は、続いていた。

まるで、見えない、巨大な、ガラスの板が、道を、断ち切っているようだった。

郵便局の、明かりが、すぐそこに、見えていた。

あと、ほんの、百メートル。

それなのに、どうしても、たどり着けなかった。

道の、向こう側には、数人の人が、歩いていた。

俺は、その人たちに向かって、手を、振った。

「すみません! ここ、通れないんです!」

だが、向こうの人は、誰一人、気づかない。

まるで、俺の声が、届いていないようだった。

一人の、おばさんが、こちらを、見た気がした。

だが、その目は、俺を、素通りしていった。

まるで、そこに、誰も、いないかのように。

背筋に、冷たいものが、走った。

仕方なく、俺は、来た道を、引き返すことにした。

別の道から、回れば、いい。

そう、自分に、言い聞かせた。

早足で、壁に、背を、向けた。

歩き出して、一分も、しないうちだった。

道の、前方から、エンジンの音が、近づいてきた。

顔を上げると、一台の、白い軽トラックだった。

かなりの、スピードが、出ていた。

荷台を、がたがたと、鳴らしながら、突っ込んでくる。

こんな細い道で、ずいぶん、急いでいるな。

そう、思った、次の、瞬間だった。

俺は、はっと、気づいた。

あの軽トラックは、今、俺が、引き返してきた、道を、走っている。

つまり、この先に、あの、見えない壁が、ある。

あんなスピードで、あれに、ぶつかったら。

考えるより、先に、体が、動いていた。

俺は、土手の斜面に、転がるように、飛びのいた。

枯れ草の匂いが、鼻を、ついた。

軽トラックが、すぐ横を、走り抜けていく。

運転席の、男の、横顔が、一瞬だけ、見えた。

ひどく、急いた、青ざめた顔だった。

そして、お地蔵さんの、あたりに、差しかかった、瞬間。

ガッシャアアアン、と。

凄まじい、轟音が、響き渡った。

金属が、ひしゃげる、嫌な音だった。

俺は、土手に、伏せたまま、耳を、ふさいだ。

その轟音に、混じって、もう一つ。

人の、悲鳴のような、声が、聞こえた気がした。

短く、引きつった、男の、叫び声だった。

それから、あたりは、また、しんと、静まり返った。

俺は、おそるおそる、顔を、上げた。

軽トラックは、道の真ん中で、止まっていた。

前部を、めちゃくちゃに、潰して。

何も、ないところで。

ぶつかる、ものなど、何も、ないところで。

フロントガラスは、砕け、ボンネットは、く、の字に、折れていた。

まるで、巨大な、壁にでも、激突したかのように。

ひしゃげた鉄から、白い湯気が、立ちのぼっていた。

俺は、それ以上、見ていられなかった。

立ち上がり、無我夢中で、家まで、走って、逃げ帰った。

後ろを、振り返る、勇気は、なかった。

その晩のことは、ほとんど、覚えていない。

気づくと、布団の中で、がたがたと、震えていた。

祖母に、はがきを、出し忘れたことを、叱られた気もする。

だが、何も、答えられなかった。

翌朝、地元の新聞の、隅に、小さな記事が、載っていた。

「県道で、軽トラック、自損事故。運転の男性、死亡」

事故の原因は、不明、とだけ、書かれていた。

何もない道で、なぜ、トラックが、潰れたのか。

それ以上のことは、どこにも、書かれていなかった。

俺は、その記事を、誰にも、言えなかった。

あの、見えない壁のことも、誰にも、話さなかった。

話したところで、信じてもらえる、はずも、なかった。

事故のあった、数日後だった。

町の、寄り合いで、その話が、出たらしい。

祖母が、帰ってきて、ぽつりと、こう言った。

「またあの場所か。昔から、ようないとこやのに」

俺は、どきりとして、祖母の顔を、見た。

「ばあちゃん、あそこで、前にも、何か、あったの?」

祖母は、少し、口ごもってから、こう答えた。

「お前が、生まれる、ずっと前にな」

「あの道で、何人も、おかしな死に方を、しとるんよ」

それ以上は、祖母は、何も、語らなかった。

ただ、「気をつけなさい」と、それだけ、言った。

それから、何度も、あの道を、通った。

だが、二度と、あの壁が、現れることは、なかった。

空気が、冷たくなることも、なかった。

川の音が、消えることも、なかった。

柴犬は、また、いつものように、吠えた。

ただ、あのお地蔵さんだけは、変わらず、そこに、立っていた。

後になって、近所の、年寄りから、聞いた話がある。

あのお地蔵さんは、ずっと昔、あの場所で、亡くなった、子どものために、建てられたものだという。

荷馬車に、はねられた、女の子だ、と。

それ以来、あの場所では、たびたび、人や、馬が、つまずいた、らしい。

「あそこはな、昔から、何かが、立ち止まる、場所なんよ」

年寄りは、そう言って、口を、つぐんだ。

「立ち止まれた者は、助かる。止まれんかった者は、連れていかれる」

「お前は、止まれたんやな」

年寄りは、俺の顔を、じっと、見て、そう言った。

「あのお地蔵さんが、止めてくれたんやろ」

俺の、背筋が、ぞくりと、震えた。

あの日、額に、ぶつかった、見えない壁。

あれが、もし、お地蔵さんの、手だったとしたら。

いや、あの、女の子の、手だったとしたら。

俺は、そのことを、考えるたびに、今でも、眠れなくなる。

その言葉の意味を、俺は、深くは、聞き返せなかった。

土地は、覚えているのだと、思う。

そこで、何があったのかを、何十年経っても、忘れないのだ。

後で、図書館で、古い新聞を、調べたことがある。

あの県道では、十年に、一度ほど、不可解な事故が、起きていた。

そのどれもが、「原因不明」と、記されていた。

ある者は、何もない道で、転んで、首を、折った。

ある者は、自転車ごと、川へ、落ちた。

目撃者は、口を、そろえて、こう言った。

「何かに、つまずいたように、見えた」と。

だが、そこには、つまずく、ものなど、何も、なかった。

俺は、新聞を、閉じて、深い、ため息を、ついた。

あの場所は、今も、何かを、待っている。

そんな気が、してならなかった。

今でも、俺は、ときどき、考える。

あの、見えない壁は、何だったのか。

俺を、通さなかった、あの壁は。

もし、あのまま、歩いていたら。

潰れていたのは、トラックではなく、俺の、方だったのではないか。

あの壁は、俺を、阻んだのではない。

引き止めて、くれたのだ。

あの女の子が、手を、伸ばして。

お地蔵さんの、苔むした顔は、今日も、川の方を、向いている。

その視線の先に、何が、見えているのかは、誰にも、分からない。

俺は、大人になって、一度、その町を、離れた。

就職で、都会に出て、十年以上が、過ぎた。

だが、あの道のことは、片時も、忘れたことが、なかった。

ふとした拍子に、あの、ひやりとした空気を、思い出すのだ。

耳が詰まる、あの感覚も。

線香の、匂いも。

数年前、祖母の、葬式で、久しぶりに、町へ帰った。

俺は、わざわざ、あの県道を、歩いてみた。

道は、舗装が、新しくなっていた。

だが、お地蔵さんは、変わらず、そこに、立っていた。

赤い前掛けが、新しく、掛け替えられていた。

誰かが、今も、世話を、しているらしい。

俺は、その前に、しゃがみ込んだ。

苔むした顔は、相変わらず、川の方を、向いていた。

その、削れた目元が、ほんの少し、微笑んでいるように、見えた。

気のせいだ、と、自分に、言い聞かせた。

だが、そう思いたくは、なかった。

ポケットから、飴を、一つ、取り出して、供えた。

子どもが、好きそうな、いちごの飴だった。

風が、ふいに、土手の枯れ草を、揺らした。

かさかさ、という、その音が。

まるで、小さな子の、足音のように、聞こえた。

俺は、立ち上がり、もう、振り返らずに、歩き出した。

怖くは、なかった。

ただ、胸の奥が、じんと、温かかった。

あの女の子は、今も、あの道で、誰かを、見守っているのだろう。

つまずいた者を、そっと、引き止めながら。

あるいは、止まれなかった者を、静かに、連れていきながら。

どちらなのかは、俺には、分からない。

ただ、一つだけ、確かなことが、ある。

あの日、俺は、生かされたのだ。

誰かの、見えない手に。

だから俺は、もう、あの場所を、怖いとは、思わない。

子どもの頃は、面倒だった、その仕草で。

ただ、俺は、あの道を通るたび、今でも、手を合わせる。

ありがとう、と、心の中で、つぶやきながら。

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