北欧の港町で聞いた広場の叫び声

ホテル

先月、親父が物置の整理をしていて、夕方の居間にガラクタの山ができた。

古着、錆びた缶、レコード、割れた陶器の人形。

その山の底から、一枚の写真が出てきた。

埃を払うと、ガラス質の光沢が、夕日を受けて鈍く光った。

裏面は、まだ見ていない。

その時の俺は、そんなことを考えもしなかった。

ソファに座った若い頃の親父と、見知らぬ白人の女性が写っている。

親父は痩せていて、中途半端に伸びた髪がおかしかった。

女のほうは、顎が少し緩んでいたが、美人の範疇だと思う。

背景には、白い漆喰の壁と、小さな窓が写っていた。

窓の向こうは、夏だというのに、妙に薄暗かった。

親父は、写真を指先でつまんで、長いあいだ眺めていた。

やがて、広場の叫び声が出てくる話を、ぽつりぽつりと語り始めた。

俺はそれを聞いて、夏の夜の居間の温度が、少し下がったように感じた。

ホテルのウェイトレス

写真について聞くと、親父は大学三年の夏に、ヨーロッパを放浪した時のものだと言った。

「この子のことは、今でもよく分からないんだ」

意味ありげな言い方だった。

親父は普段、冗談ばかり言う人間だった。

その親父が、口元をこわばらせて写真を見ていることが、俺には意外だった。

台所からは、母が夕飯の支度をする包丁の音が、規則正しく聞こえていた。

俺は一夜の色恋話だろうと警戒して、部屋に戻りかけた。

「気味の悪い話でな」

「え、怖い話?」

「ああ」

その一言で、俺は居間のラグに座り込んだ。

親父がヨーロッパに来て一か月半ほど経った頃のことだ。

北欧のフィンランドに足を延ばした。

首都のヘルシンキは物価が高く、早々に出たという。

北部のラップランドの小さな町では、日本人が来たのは初めてだと歓迎された。

地元の新聞に写真まで載って、親父は少し調子に乗った。

味をしめて、今度は西海岸の田舎町を目指したのだそうだ。

港のある小さな町だった。

海から吹く風には、魚の燻製と、湿った石の匂いが混じっていた。

通りの店先には、青い網と、木箱に詰められた小魚が積まれていた。

働く人たちは、旅行者に笑顔を向けるが、日が傾くと、潮が引くように姿を消した。

夜の九時を過ぎると、町のどこからも、人の話し声が聞こえなくなった。

人が寝静まった町には、語られない決まりごとが残るのだと、踏み入るべきではない場所の話を読んだときに思った。

ホテルの廊下の壁には、古い白黒写真がいくつも並んでいた。

どれも、広場で撮られた集合写真のようだった。

中央に立つ男女の顔が、年代ごとに入れ替わっているのに、ひとつだけ変わらない背景があった。

広場の真ん中の、石畳が円形に色の違う場所だった。

そこには、決して誰も立っていなかった。

親父はそれを、ただの装飾だと思って通り過ぎた。

泊まったのは、広場に面した五階建てのホテルだった。

ロビーの床は、年季の入った板張りで、歩くたびに低く鳴った。

「その子が、ホテルのウェイトレスをしていてな」

夏休みのあいだ、住み込みで働いている学生だという。

大学で、東洋の文化を研究しているそうだ。

日本のことなら何でも知りたい、と目を輝かせた。

仕事が終わった後のロビーで、彼女は毎晩のように親父の相手をしてくれた。

片言の英語でも、意外と通じるものだと親父は笑った。

彼女は、折り紙の折り方を知りたがった。

親父は、ホテルのメモ用紙で鶴を折って見せたが、羽がうまく開かずに笑われた。

彼女は、真剣な顔でその鶴を手に取り、窓辺の光にかざした。

「この国にも、似た遊びがあるの。でも、紙の代わりに、麦わらを使うのよ」

「麦わらで?」

「ええ。収穫のあとに、一晩かけて編むの」

そう言って、彼女は少し目を伏せた。

今にして思えば、その仕草には、何か言いかけてやめたような気配があったと親父は言う。

下心が、なかったわけではない。

そのために、無理をして一週間近く滞在しようとさえ思った。

「まあ、アホだったな」

親父は照れくさそうに、鼻の下をこすった。

窓の外は、夜の十一時を過ぎても、うっすらと明るかった。

白夜の季節だった。

町の人は夜更かしをせず、広場に人影はほとんどなかった。

広場の叫び声が止んだ夜

三日目の夜のことだ。

夕食の後、ロビーで彼女と少し話して、親父は五階の部屋に戻った。

いつもはすぐに寝てしまうのに、その日は、なぜか寝付けなかった。

ベッドの中で、だらだらと時間を潰していた。

不意に、声がした。

甲高い、悲鳴のような女の声だった。

「オーッ、オーッ」

腹の底に響く、長く引き延ばされた声だった。

窓ガラスが、その声に合わせて、細かく震えているように見えた。

親父は、枕を抱えたまま、動けなくなった。

夏のはずなのに、足元からじわじわと冷えが這い上がってきた。

外の白い夜の光が、部屋の壁に、うっすらと広場の石畳の影を映していた。

その影の上を、何かが横切った気がした。

あの広場の叫び声は、窓の外ではなく、壁の中から響いているようにも聞こえた。

親父は、自分の心臓の音と、女の声が、同じ拍で重なっていることに気づいた。

それが、いちばん怖かったと言う。

親父は飛び起きて、時計を見た。

午前二時半。

カーテンをめくって、窓の外を見た。

広場には、敷き詰められた石畳が、美しい紋様を描いていた。

悲鳴を上げている人物は、どこにも見当たらなかった。

窓を開けて、左手の道を覗く。

かすかな人影が、こちらに向かっている。

そのとき、また声が聞こえた。

さっきより大きく、体の隅々にまで染み込むような、不快な声だった。

人影の速度が上がった。

親父は慌てて窓を閉めた。

「でも、カーテンの陰から外を見るのは止めなかった」

親父は、そこだけ小さな声で言った。

声はひっきりなしに続いていた。

もはや悲鳴というより、獣の鳴き声に近かった。

五階の窓の外にいても、その音は、鼓膜の裏側を爪で引っかくようだった。

耳を塞いでも、声は骨を伝って入り込んできた。

親父は、毛布で頭を覆おうとして、それができなかった。

目を離した隙に、何かが窓辺に近づいてくる。

そんな予感が、どうしても消えなかったのだ。

それなのに、町の家々からは、誰も外に出てこない。

明かりひとつ、点かなかった。

やがて、人影が広場に入ってきた。

ネグリジェのような白い服を着た女だった。

ブルネットの長い髪を振り乱して、石畳の上を駆けずり回っている。

首を、横に激しく振り続けていた。

親父は、目が離せなくなった。

あの女は何者なのか。

どうして、誰も出てこないのか。

まさか、この世のものではないのか。

そのとき、女がぴたりと立ち止まった。

広場の、ちょうど真ん中だった。

円形に色の違う、あの石畳の上だった。

女は、その円の外には、一歩も出ようとしなかった。

叫び声は、嘘のように止んだ。

石畳の上に立つ女は、顔をゆっくりと上げた。

広場に面した建物の窓を、一つずつ、舐めるように見回している。

その視線が、五階の窓の方向で、ぴたりと止まった。

親父は、息をするのも忘れた。

カーテンの隙間から覗く、自分の目と、女の目が、合った気がした。

静寂が、町全体を支配した。

強烈な寒気が、親父の背筋を這い上がった。

テーブルの上の紙片

親父は、窓から身を引いて、ベッドに潜り込んだ。

指先が痺れて、毛布を握る力が入らなかった。

喉が渇いていたが、水差しに手を伸ばすことができなかった。

枕元の時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てていた。

毛布を引き上げた、その瞬間だった。

ドアが、こんこんと鳴った。

「飛び上がりそうになったよ。こんな時間に、誰だと思うだろう」

ためらっているうちに、もう一度、ノックの音がした。

強くはないが、はっきりした音だった。

恐る恐る覗き穴を見ると、彼女が立っていた。

何を考える余裕もなく、親父はドアを開けた。

彼女は、切羽詰まった顔で、親父の襟首を掴んだ。

そして、耳元に顔を寄せて、囁いた。

「決して、外を見ないで。静かにしていて」

それだけ言うと、彼女は、あっという間に廊下の闇へ消えた。

廊下の灯りが、彼女の去ったあとで、ひとつずつ消えていった。

遠ざかる足音が、階段の下のほうへ吸い込まれていった。

親父は、閉めたドアに背中を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。

掌が汗で濡れていて、ドアノブの冷たさを、まだ覚えていた。

親父は、しばらくドアの前で立ち尽くしていた。

その背後で、絶叫が弾けた。

体が跳ねて、思わず声が漏れた。

ベッドへ飛び込み、頭から毛布をかぶる。

叫び声は、止まなかった。

まるでこの部屋だけを、狙っているかのようだった。

しかも、心なしか、近づいてきている気がした。

ここは五階のはずだった。

一階。

二階。

声が、一段ずつ、壁をなぞって上ってくる。

階段を使っているのではない。

建物の外側を、這うようにして近づいてくるのだ。

そんな気がして、親父は、歯の根が合わなくなった。

それなのに、声は二階、三階、四階と、一段ずつ上ってくる。

広場の叫び声は、壁を伝って、確かに親父の部屋だけを目指していた。

見えないものに居場所を教えてしまう怖さは、溜まりやすい場所の話とも通じていた。

その確信が、骨の髄まで染み込んできた。

やがて、窓のすぐ外から、音がした。

「バンバンバン! バンバンバン!」

窓ガラスを叩く、硬い音だった。

指の関節で、リズムをつけて叩くような音だった。

三回で止まり、また三回。

人の手の音にしては、あまりにも規則正しかった。

そして、窓の鍵が、かちり、と小さく鳴った。

親父が覚えているのは、そこまでだ。

そこで、親父の記憶は、途切れているのだという。

翌朝は、寝坊した。

あんなことがあったのに、目覚めは悪くなかった。

顔を洗うと気分がさっぱりして、ただ悪い夢を見ただけだと思えた。

レストランは、客が少なかった。

パンとチーズの朝食を取っていると、彼女が水を注ぎに来た。

窓の外では、広場の石畳が、朝の陽射しで白く光っていた。

昨夜の叫び声が嘘のように、鳩が数羽、のんびりと歩いていた。

石畳の上には、足跡ひとつ、残っていなかった。

前の夜とはうって変わって、飛び切りの笑顔だった。

昨夜のことを聞こうとしたが、彼女は笑みを浮かべたまま、行ってしまった。

首をかしげながら向き直ると、グラスの横に、小さく折りたたんだ紙片が置かれていた。

写真の裏に書かれた文字

「ラブレターかと思ってな。ポケットに入れて、急いで部屋に戻った」

部屋のドアには、ホテルの鍵がかかっていた。

念のため、チェーンもかけて、窓のカーテンも閉めた。

明るい朝のはずなのに、カーテンの内側は、薄暗くて息苦しかった。

親父は、バツが悪そうに笑った。

ドキドキしながら、紙を広げた。

英語で、短い文が書かれていた。

「あなたは生け贄にされる。早く逃げて」

意味が分からなかった。

どうして、自分が生け贄にならなければならないのか。

彼女に聞かなければと立ち上がったとき、ノックの音がした。

ホテルのご主人だった。

「ゆうべは、よく眠れたかね」

「ええ、まあ。ぐっすりでした」

「そうか、それは何よりだ。この町の夏の夜は、静かだろう」

ご主人は、満足そうに目を細めた。

けれどその目は、親父の顔ではなく、肩のあたりをずっと見ていた。

手塚治虫の漫画に出てくるヒゲオヤジに似た、気のいいおっさんだ。

「あんた、予定では、まだ数日いるんだったな」

「はい」

「もう少し、ゆっくりしていかんか。わしらも、日本のことをもっと聞きたい。値段は、安くするから」

「ええと」

「ウェイトレスも、そう言っておるぞ」

ハッとした。

「いえ、せっかくですが、もう出発しなくちゃいけなくなりました。友達と合流する約束を、忘れていまして」

ご主人は残念そうに引き止めたが、重ねて断ると、案外あっさりと引き下がった。

親父は荷物をまとめ、午前中にホテルを出た。

彼女に一言、別れを告げたかった。

けれど、どこにも姿が見えなかった。

ロビーにも、通りにも、人影はまばらで、そのくせ、やたらと視線を感じた。

道ですれ違う人たちは、みな足を止めて、親父の背中を見送った。

パン屋の店先の老婆が、胸の前で小さく十字を切った。

その手つきが、親父には、弔いの仕草のように見えて仕方なかった。

駅へ向かうバスの中で、親父は一度も、後ろを振り返らなかった。

その日のうちに、親父は国境を越えた。

話を終えると、親父は写真を見つめた。

「デンマークで知り合ったフィンランド人にも、話してみたんだ。でも彼は、そんな化け物の伝説は聞いたことがないと言った」

「担がれたんだろう、とも言われた」

「でも、田舎の人が、そんな手の込んだことをするとも思えなくてな」

俺は、写真を受け取った。

裏返してみたのは、ただの癖だった。

色褪せた白い裏面に、薄い鉛筆で、英語が書かれていた。

親父が、一度もひっくり返さなかった写真だった。

You looked. I am sorry.

文字は、筆圧が弱く、途中で何度も震えていた。

書いた人の手が、恐怖か、悔恨で、震えていたのだと分かる。

その下に、小さく、日付が添えてある。

親父が町を出た日の、前の晩の日付だった。

「親父、これ」

俺は、写真を親父の目の前にかざした。

窓の外では、夕方の最後の光が、庭の木を橙色に染めていた。

親父は、しばらく、何も言わなかった。

やがて、掠れた声で言った。

「ああ、そうか。そうだったのか」

「何が」

「あの子は、俺が外を見たことを、知っていたんだな」

親父の指先が、写真の縁を、ゆっくりとなぞった。

親父は、文字を目で追って、顔色を変えた。

「ああ。名前を思い出せないんだ、この子の。聞かなかったはずは、ないんだが」

そして、ぽつりと言った。

「顔も、なんでか、浮かばない」

その夜、俺は二階の自室で、なかなか寝付けなかった。

階下では、親父がまだ居間の灯りをつけたままだった。

テレビの音ではなかった。

低い声が、誰かと小さく話しているようにも聞こえた。

俺は、階段の途中まで降りて、それ以上は降りなかった。

午前二時半に、遠くから、細い声が一度だけ聞こえた。

俺は、カーテンに近づかなかった。

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