
親戚に、霊能者と呼ばれている人がいる。
彼女の地元ではそれなりに有名で、本名とは別に、近所の人は彼女のことを「みちかさん」と呼んでいた。
なんでも「身近」と「未知か」、「道か」が混ざっていて、本人曰く良い感じなので、周りにそう呼ばせているらしい。
みちかさんは今、北海道のM別におり、四十五歳である。
昔は東京で不動産会社の事務をしていたのだが、ふとした切っ掛けで辞めたらしい。
その原因は、今でも話してくれない。
旦那さんとはその時期に別れて、子供も旦那さんが引き取っている。
僕には元々霊感などないし、霊も怖い。
だから「みちかさん」と話すのは、あまり好きではなかった。
初めて話したのは、小学校四年の時、僕が京都に住んでいた頃だ。
その時はちょうど家族で、父親が昔住んでいた北海道を訪ねていた。
八月の終わりで、京都では考えられないほど、空気が乾いていた。
親戚の家は、国道沿いの古い木造で、玄関を開けると、薪ストーブの冷えた匂いがした。
座敷には、親戚が十人ほど集まっていて、僕は誰が誰だか分からないまま、隅でジュースを飲んでいた。
みちかさんは、その中で、一人だけ正座を崩さなかった。
髪を短く切って、化粧をしていなくて、他の女の人たちより、どこか輪郭がはっきりしていた。
親戚の集まりで、座敷の端に座っていた女の人が、いきなり僕を手招きした。
「あんた、家の近くにお墓のある公園があるでしょ」
『えっ』と僕は思った。
「むやみに拝んだらだめだよ。霊がついてくるからね」
初対面で、いきなりこんなことを言われた。
そもそも彼女が何故そんなことを知っているかが、解らなかった。
ただ、当時友達の間でほんの一時期、拝むのが流行って、僕も真似していたのは確かだった。
両親すら知らない事だ。
公園の隅に、古い石塔が三つ並んでいて、僕らは帰り道に、手を合わせてから鬼ごっこをしていた。
石塔は、苔で文字が読めなくなっていて、誰のものかも分からなかった。
拝むと足が速くなる、というのが、流行の理由だった。
実際、僕はその夏、鬼ごっこで一度も捕まらなかった。
それが嬉しかったことを、今は、あまり思い出したくない。
それ以来、拝むのはやめた。
友達には、「飽きた」と言った。
本当は、あの座敷で、みちかさんが右手をずっと膝の下に入れていたのが、妙に怖かったからだ。
東京の葬式の控え室
二回目に会ったのは、東京で祖父の葬式があった時だ。
みちかさんは、北海道から葬式に参加するために来ていた。
後から知ったのだが、その時は既に、霊能者まがいのことを地元でやっていたらしい。
葬儀場は、東京の郊外の、新しい建物だった。
控え室は畳敷きで、壁の一面が白い障子になっていて、外の光が平たく入っていた。
大人たちは、受付や香典の話で、廊下を行ったり来たりしていた。
僕は、黒いネクタイの結び方が分からなくて、父に結んでもらった。
控え室の隅で、みちかさんはお茶を飲んでいた。
北海道から着いたばかりで、喪服の肩に、まだ雨の跡があった。
僕が前を通ると、湯呑みを置いて、こう言った。
「あんた苦労するよ。うん」
「でも、あんたの亡くなったおばあちゃんが、ええ人だからね。守ってくれてるのが救い」
「あんたの父親も苦労人だけど、そのおばあちゃん、つまり父親のお母さんだけど、その力があるから、今は結構幸せにやってるでしょ」
僕のおばあちゃんは、僕が生まれて三年後に亡くなった。
おばあちゃんは、僕をとても可愛がったらしい。
写真でしか、顔を知らない。
仏壇の上の写真は、白黒で、おばあちゃんは笑っていなかった。
父は、その写真の前で、毎朝、手を合わせる人だった。
僕は、それを見て育ったのに、自分からは一度も手を合わせたことがなかった。
それにしても、僕はその時中学一年生だったが、またもや嫌な感じになった。
何故こんなことを、この人は言うのだろう。
そう思っていた。
控え室を出るとき、みちかさんは、湯呑みを左手で持っていた。
右手は、やはり、机の下だった。
今振り返ると、僕の人生は特別不幸という訳でもないが、とりたてて幸せという訳でもなかった。
当たっていないことも、ない。
三回目に会ったのは、祖父の何回忌かの時だ。
僕は大学生になっていて、法事は、父の実家の近くの寺で行われた。
本堂は冷えていて、線香の煙が、天井の梁のところで横に流れていた。
読経の間、僕は正面の位牌ではなく、斜め前のみちかさんの背中を見ていた。
背中は、まっすぐだった。
ただ、右の肩だけが、ほんの少し、下がっていた。
精進落としの席は、寺の離れの広間で、長い机が二列に並んでいた。
小さい頃からみちかさんには嫌な感じを受けていた僕は、話さないようにしていた。
だが、なんとなく目が合って、話さなければいけない雰囲気になってしまった。
「あら、元気」
初めてそう聞かれて、僕はちょっとびっくりした。
「別に会うたびに小言言いたいわけじゃないのよ。ただ気になっただけだからさ」
と彼女は笑って言った。
「霊能者みたいな事しているんですって」
僕は思い切って、彼女に聞いてみた。
「まあね。といっても頼まれた時だけ」
「普通は自分からは何も言わないのよ。そんなに解る訳でもないし。親戚だろうとね」
嘘つけ、と内心思ったが、黙っていた。
「あんたは特別よ」
まるで僕の心を見透したように、彼女は付け加えた。
「ところで、どんな感じなんですか。霊って」
「どんな感じ。そりゃいろいろ。ほんと、いろいろ」
「でもどれも基本的にはさ、人間の思念の残りなわけよ。解る」
解る訳がない。
「個人の何かの思いが霊になっちゃうわけよ。だから、その思いを知るのが大事なの。ね」
「ただ。時々とんでもないのがある。私じゃどうしようもないのが」
「例えば」と僕。
「聞きたいの」
みちかさんは、お茶を左手で一口飲んでから、話し始めた。
みちかさんが諦めた家
みちかさんは知人に頼まれて、北海道のK町に行くことになった。
そこには二年前ぐらいから原因不明の病に罹った、十四歳の少年が待っていた。
なんでも、胸がずっと苦しいらしい。
医者の方でも原因が判らず、かといって命に関わる程危険というものでもない。
入院費用のことも考えて、自宅療養を続けているとのことだった。
学校は、気分が良い時にだけ行っているらしい。
「行ってみてびっくりしたのよ。ほんと」
と彼女は興奮気味に言った。
「最初はさ、まあ私のような胡散くさい人間に頼んでくるくらいなんだから、当然霊がらみなのはわかってたけどさ」
そこは、北海道地方に特有の、屋根が三角に尖った普通の家だった。
壁はクリーム色で、屋根は赤い家。
玄関の脇に、子供用の自転車が、タイヤの空気が抜けたまま、二年分の埃をかぶっていた。
その時には別段、変な感じはしなかったと言う。
僕は、みちかさんの話を聞きながら、その家を思い浮かべていた。
K町は、父の実家から車で二時間ほどの、海沿いの町だ。
冬は風が強く、家々は海に背を向けて建っている。
三角屋根の家は、どこにでもあって、だからこそ、どの家に何が起きていても、外からは分からない。
ところが、家に入ると、
「ウッ」という、胸が押し潰される感覚に襲われたらしい。
「知人に引きつられて中に入ると、その母親が待ってたわけよ。当然だけどね」
「父親は仕事を休んだらしく、少年が寝ているベッドの前で正座してたわ」
「で、挨拶して、『みちかです』と自己紹介したわけ」
「その時ちょっとピンと来たんだけどさ。ま、やりながしたの」
「何を」と聞く前に、彼女は続けた。
「父親がさ、私の名前を聞いて、右の拳を一回、握ったのよ。膝の上で」
「それで、いよいよ少年とご対面。案の定、何か黒っぽい服を着た人が、少年の胸に乗っかっているのね」
「その時ちょうど父親はトイレに行くって下へ行ったのよ。変でしょ、これから除霊をするってのに」
確かに変だ。
「で、よく、その霊の顔を見たらさ。なんと、その父親の顔してるじゃない」
「予感はしてたけど、本当にびっくりしたわ」
「で、母親にちょっと事情を聞いたらさ、どうやら、その子は母親の連れ子らしいのね」
「『ははん。そういうわけか』って思ったの」
「その母親は三年前にその父親と知り合って、再婚したんだって」
「二年前から胸が苦しくなったってことは、どうやら父親がその子を疎ましく思ったみたいね」
なるほど。
僕は、相槌を打ちながら、自分の父のことを考えていた。
父は、優しい人だ。
その父が、夜、眠っている間に、どこかへ出ていくことがあるのだろうか。
考えないようにしても、一度浮かんだ考えは、机の下の影みたいに、そこから動かなかった。
「母親はね、何も気づいてなかった。父親はいい人よ、優しいのよって、何度も言ってた」
「本人もね、たぶん気づいてないの。昼間は優しいんだと思う。本当に」
「夜、寝てる間に、出ていくのよ。本人の知らないところで」
みちかさんは、そこで少し、声を落とした。
「それが、いちばん厄介なの。本人に悪気がないから、止めようがない」
正座したままの両目
「でも困ったことにさ、生霊ってのは私もその時初めてで、除霊したことないのよ」
「故人の霊なら問題ないんだけど。生きている場合はねえ」
「で、どうしようか考えてたらさ。なんと、その父親の生霊が突然」
「私の方すっごい形相で睨んで、私の胸を両手でこう、ぐうって、押しつぶすようにし始めたのよ」
「私、もう『うっ、うっ』ってなって、息できなくなって」
「苦しみながら『外だして、外だして』って知人に言ったの」
「で、連れ出して貰って、玄関出たらすぐ息できるようになって」
「それで結局、除霊はどうしたんですか」
「諦めた」
「えっ」
「だって、父親が原因だなんて言えないし。言ったら家庭が壊れるよ。そりゃ息子はよくなるかもしれないけど」
「そのままにしといたんですか」
「ん。あの父親による思念も、いつも強いわけじゃないから、そのうちね。無くなるでしょ。なんかで」
「いいかげんだなあ」
「だって、別に大金もらってやってるわけでもないし。壷売ってるわけでもないしさ」
みちかさんは、笑った。
「ま、それは冗談として。生霊はね、取り扱いを間違えると本当に大変なことになる」
「当たり前だけどね、亡くなった人よりね、生きている人のほうが思いが強いんだよ」
その後、その少年の話を聞いたが、結局あの夫婦は離婚したとのこと。
それ以来、少年は胸の痛みが消えたそうだ。
玄関脇の自転車は、春に空気を入れ直されて、少年はそれで学校へ通うようになったという。
父親は、町を出た。
どこへ行ったのかは、母親も知らない。
離婚の理由は、父親のほうから切り出したそうで、「自分でも分からないが、この家にいてはいけない気がする」と言ったらしい。
昼間の父親は、最後まで、優しい人のままだった。
「なんかで、無くなるでしょ」の「なんか」が、離婚だったのかどうかは、聞かなかった。
でも、あの時一番怖かったのは、みちかさんの話の最後の部分だった。
「知人が私を外に連れ出そうとした時、知人は、居間で父親を見たらしいんだけど」
「正座して両目見開いて、こっちをがあって見てたって」
「机で右拳を震わせながらね。すごい顔してたって」
「トイレに行ったはずの人が、ずっと居間にいたのよ」
「それ聞いて、生半可な霊よりぞっとしたわ」
僕は、お茶を飲むふりをして、みちかさんの手元を見た。
湯呑みは、左手にあった。
右手は、机の下だった。
広間の端で、誰かが笑い、誰かが徳利を倒した。
その音で、僕はようやく、自分の湯呑みが空になっていることに気づいた。
机の下の右手
法事が終わって、親戚が玄関で靴を履いている間、僕はみちかさんと二人になった。
聞くつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。
玄関は薄暗く、上がり框の上で、親戚の靴が何足も、乱れて並んでいた。
外では、父が車を回していて、エンジンの音が、障子越しに低く聞こえた。
「みちかさん、右手、どうしたんですか」
みちかさんは、靴べらを持ったまま、僕を見た。
笑っていたが、目は笑っていなかった。
「気づいてたの」
「小学校の時から、ずっと、隠してるから」
みちかさんは、少し考えてから、右手を、ゆっくりと上着のポケットから出した。
指が、固く握られていた。
拳の形のまま、小刻みに、震えていた。
「K町の家を出てからね。ずっとこう」
「開かないんですか」
「開くよ。寝てる間だけ」
みちかさんは、拳をポケットに戻した。
「東京の会社を辞めたのもね、似たようなことがあったの。それは、もういいでしょ」
「置いてきたんじゃないんですね。諦めたって言ったけど」
みちかさんは、答えなかった。
玄関の外で、親戚の誰かが、みちかさんを呼んだ。
「じゃあね。公園のお墓、もう拝んでないでしょうね」
「拝んでません」
「よろしい」
みちかさんは、左手で靴べらを戻して、出ていった。
あれから、僕はみちかさんに会っていない。
年賀状だけは、毎年届く。
宛名の字は、去年から、少し崩れた。
左手で書いているのだと、父が言った。
似た話を、このサイトの黒いモノや、もう一つの青い丸が先に着くで読んだとき、僕は、みちかさんのポケットを思い出した。
亡くなった人より、生きている人のほうが、思いが強い。
K町の父親の思いは、少年の胸から離れたあと、どこへ行ったのだろう。
無くなったのではなく、場所を変えただけだとしたら。
法事の帰り、父が車の中で、ぽつりと言った。
高速に乗る手前の、信号の長い交差点だった。
ワイパーが、降り始めた雨を、ゆっくりと払っていた。
「みちかさん、昔は、右利きだったんだけどな」
僕は、窓の外を見たまま、返事をしなかった。
みちかさんの右手が、机の下で、小さく震えていた。
あの震えは、誰のものだったのだろう。