
俺と弟は心霊スポットが好きで、夜中に曰く付きの廃墟などに侵入していた悪ガキだった。
残念ながら二人とも霊感はないから、殆ど廃墟探険なのだけど、何もない田舎ではそれだけでも楽しかった。
赤い手形を車に描くまでは、俺たちはただの悪ガキだった。
俺と弟には、守っているルールがひとつだけあった。
何も持って帰らないこと。
石ころ一個、紙切れ一枚、拾わないこと。
それは、中学の頃に叔父の知り合いから教わった、ほとんど唯一の知恵だった。
その代わり、行った先の写真は一枚も撮らなかった。
撮ってしまうと、あとでそれを見返したくなる。
見返せば、また行きたくなる。
行きたくなった夜が、いちばん危ない夜だと、なぜかそのときの俺たちは知っていた。
ある夜、親父が
「お前らもホント好きだな(笑)。」
と笑いながら、これから夜遊びしに行こうとする俺らを嗜めてきた。
この親にしてこの子ありと言うし、親父も昔はこういう事をやっていたんだろうなと悟った俺は、
「今度、親父も行かねぇか?」
と誘った。
そしたら親父もまんざらでもなさそうに、
「仕方ねぇな(笑)。」
と了承したので、近いうちに心霊スポット探索に連れて行くことになった。
俺と弟はアホな悪ガキだったから、
「親父をドッキリにはめてやろうぜ。」
ということになり、心霊スポットへ行く直前、弟の車の後ろに絵の具でベタベタと赤い手形を付けて行くことにした。
赤い手形の仕掛け
準備は万端、晩酌で完全に出来上がった親父を車に乗せるのは容易かった。
「全然怖くねぇよ!俺がお前らの頃には…」
と意気がる親父を尻目に、ほくそ笑む俺と弟。
その日に向かった場所は、40年程前に村八分に遭い、ある冬の夜を境に一家が姿を消したという、町外れにある木造の廃墟だ。
地元では結構有名なスポットであり、近場でもあったため、俺と弟の巡回コースだった。
その廃墟は、巡回コースの最後に置いていた場所だった。
玄関は、黒ずんだ引き戸が半分外れて、土間に斜めに倒れかかっている。
土間の奥には、囲炉裏の跡が四角く残っていた。
障子は破れ、桟だけが肋骨のように浮いている。
いちばん奥の部屋に、一枚だけ、格子の入った窓があった。
その窓ガラスの内側に、小さな手の形をした曇りが、いつも付いていた。
俺と弟は、それを「気のせい」と呼んでいた。
湿気の跡だろう、と。
ただ、何度行っても、その曇りは同じ場所に、同じ大きさで残っていた。
拭いた者がいないのに、消えもしなかった。
国道から外れ、ゴミ処理場へ続く町道を車で走る。
運転席には弟、助手席には俺。後部座席には、先程までふんぞり返っていた親父が、言葉少なになっていた。
舗装されていない砂利道を、ヘッドランプの明かりだけで車はひた走る。
周りには、民家の明かりはもちろん街灯すらない。
町道に入ってしばらくすると、ヘッドランプの光の中に、白いものが舞いはじめた。
雪かと思ったが、季節は初秋だった。
弟が窓を少し開けると、冷たい空気と一緒に、遠くで戸を叩くような音が聞こえた。
トン、トン、トン。
一定の間隔で、乾いた音が続く。
「風で、板が鳴ってんだろ。」
弟はそう言ったが、風は吹いていなかった。
そのとき、後部座席から小さな声がした。
「……やめれ。」
親父だった。
親父は、膝の上で、何度も自分の手のひらを握ったり開いたりしていた。
冗談のつもりで連れてきた俺たちは、そこで初めて、車内の空気がおかしいことに気づいた。
「親父、大丈夫か? 酒、飲み過ぎたんじゃねえの。」
「いいから、前を見ろ。」
声が、かすれていた。
そのとき、弟のスマホが勝手に光った。
ナビの画面に、目的地の名前が出ている。
入力した覚えのない、地名だった。
「目的地付近です。案内を終了します。」
機械の声が、ぽつりと言った。
まだ、廃墟までは数百メートルあるはずなのに。
ピシッピシッとフロントガラスに当たる枝も多くなってきた。
いつも通り馬鹿話で盛り上がる俺と弟。それに対して、雰囲気に圧されたのか完璧に黙りこくる親父。
目的地の廃墟まで数百メートルという所で、いきなり
「おめぇら!やめれ!」
と親父が叫んだ。
突然のことで、俺も流石に心臓が止まるかと思った。弟もこれには急ブレーキ。
後部座席を覗くと、怒り心頭と言うか、何故か尋常ではないほどビビっている親父がいた。
「あんまビビルことないって(笑)」「すぐそこだから(笑)。」
と宥めすかす俺と弟。
それでも、
「うるせぇ!ダメだ!この先に絶対行くな!帰るぞ!」
と言って聞かない親父。
一悶着あったが、家長である親父の命令には逆らえず、結局バックしてそのまま帰ることになった。
引き返す車内
帰り道、肩透かしを食らい白けたムードの車内で、
「わりぃな。ビビっちまってよ…」
と、親父がぽつりと洩らした。
その後は、
「仕方ねぇな(笑)。」
「親父、案外チキンじゃん。」
「うるせぇ、バカヤロー。」
と、何とか行きと同じムードに戻ったので、俺は一安心した。
まあ、本当のお楽しみはこれからだったしね。
帰り道、弟がバックミラーを何度も気にしていた。
「どうした。」
「いや。後ろの窓、さっきから曇ってないか。」
振り向くと、後部座席の窓ガラスの内側に、小さな曇りが張りついていた。
親父は、そこに座っている。
けれど、曇りは、親父の顔の高さよりずっと低い位置にあった。
まるで、子どもが窓に手をついているように。
俺は、見なかったことにした。
家に到着し車のエンジンを切る。
何食わぬ顔で車を降りた俺と弟だったが、横目でしっかり車の後ろへ回り込む親父の姿を捉えていた。
親父が後ろの手形を見つけた瞬間、
「ヒィッ!」
と叫び声を飲み込んだような声を上げた。
作戦は大成功だった。当然、俺と弟は吹き出しそうになった。
それでも堪えて、
「親父、どうしたんだ?」
と聞いたんだよね。
『しょうもないことすんな』と親父からゲンコツ一発はもらうつもりでいたけど、当の本人の様子は、俺たちの予想とは大きくかけ離れていた。
真っ青になりながら、
「いや、何でもない…」
と言って、俺と弟の背中を強引に押し家に入った。
「なあ、親父…」
と食い下がっても、
「うるせぇ!」
と一喝される。
過剰な悪戯に怒ったのかなと思ったが、やはりどちらかと言えば、心の奥底から怯えていると言った方が正しいだろう。
「早く寝ろ。」
と有無を言わせない命令をされた俺たちは、ネタばらしすることもできず、仕方なくそれぞれの部屋に戻った。
明らかにおかしい親父の態度のことを考えると、俺は眠れることはできそうになかった。
夜中の2時か3時頃だったと思う。案の定眠れなかった俺は、ぼんやり外を見ていた。
すると、庭の車に何か影が見えることに気付いた。
車の陰で動いているそれは、ここからではちゃんと確認できない。
妙な胸騒ぎがしたので、裏口からこっそり、足音を立てないように車が見える所まで行った。
車の後ろの影は、明らかに人のものだった。
ぎりぎりまで近付いて、ようやく影が何か判った。正体は親父だった。
親父は、赤い手形の前にしゃがみ込んで、自分の右手を、そっと重ねようとした。
大人の手が、はみ出した。
「小さいな。」
誰に言うでもなく、親父がつぶやいた。
「こんなに、小さかったか。」
その声は、泣く直前の子どもみたいに、震えていた。
親父がこんな真夜中に、バケツと雑巾を持って、あの手形を洗い落としていたのだ。
しかもあろうことに、号泣しながら。
遠くからだったので、多少脳内補完が入っているかもしれないが、こんな風に聞こえてきた。
「許してくれ…ウッ…頼むから許してけれ、な…ゆっちゃん…あの子らだけは…後生…恨むなら……」
何かに詫び続けながら車を磨く親父を見て、何だか恐ろしくなり、俺は急いで家に帰り布団に潜った。
布団の中で、俺は、さっき聞いた名前を何度も頭の中で繰り返した。
ゆっちゃん。
親父の口から、女の人の名前が出るのを、俺は初めて聞いた。
母の名前ではなかった。
泣き腫らした目
翌朝、何事もなかったかのように
「おはよう。」
と起きて来た親父。
それでも目には、明らかに泣き腫らしたと見られる跡があった。
弟も昨日のことで釈然としないのか俺を問い詰めてきたが、深夜の奇妙な行動を話すと、流石に顔を強ばらせた。
深夜に見たものを、俺は、弟にだけ話した。
台所の流しに、真っ赤に染まった雑巾が一枚、水に浸けてあった。
絵の具の赤だと分かっていても、俺はそれに触れられなかった。
朝食の席で、弟が小声で言った。
「親父、さ。昨日の夜、何か呼んでたよな。」
「聞こえたのか。」
「うん。窓、少し開いてたから。」
「……あの名前は、忘れろ。」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
弟は、味噌汁をすすって、それ以上は訊かなかった。
向かいの席で、親父は何も言わずに、ご飯を三杯食べた。
数日後、台所で皿を洗う母に、俺はそれとなく訊いてみた。
「母さん。親父ってさ、冬になると雨戸、二重に閉めるよな。」
母の手が、一瞬だけ止まった。
「……気づいてたの。」
「ガキの頃から。理由は、聞いたことないけど。」
母は、蛇口を止めて、エプロンで手を拭いた。
「結婚する前からよ、お父さん。雪の降る晩は、玄関の戸に、絶対に背を向けないの。」
「向けない?」
「ええ。出入りするときも、後ろ向きに閉めるのよ。戸が見えている間は、ずっと外を見てるの。」
「何かを、待ってるみたいにね。」
俺は、何も言えなかった。
母は、それ以上は何も言わず、皿をまた洗いはじめた。
蛇口から落ちる水の音だけが、台所に残った。
どうしても気になって、俺は町の図書館で郷土史の綴じ込みを繰った。
村八分、という言葉は、どこにも載っていなかった。
代わりに、昭和のある年の年末の、小さな記事が見つかった。
「町外れの農家一家、転居先不明。」
見出しはそれだけで、本文は三行しかなかった。
世帯主の名と、家族五人の名が、機械的に並んでいた。
その一番最後に、ひとつだけ、ひらがなの名前があった。
ゆき。
俺は、その二文字を、しばらく指でなぞっていた。
指先が、紙の冷たさ以上に、冷えていた。
古い記録には、読み返すほど意味が変わる話がある。廃病院の肝試しと三階の警備員も、不気味なカセットテープも、そうだった。
ゆきちゃんの話
それから半年ほどして、祖父の十三回忌があった。
親戚が集まる座敷で、俺は父の弟にあたる叔父の隣に座った。
酒が回った頃合いを見て、俺は思い切って訊いてみた。
「叔父さん。親父って、昔、あの町外れの廃墟に行ったことある?」
叔父は、箸を止めた。
しばらく、障子のほうを見ていた。
「……誰から聞いた。」
「誰からも。ただ、親父が妙だったから。」
叔父は、ふうっと長く息を吐いた。
「兄貴にはな、好きな子がいたんだよ。」
「あの家の、一番下の娘さんだ。ゆきちゃんといってな。ゆっちゃん、って呼ばれてた。」
俺は、息を飲んだ。
「村八分になったのは、父親が村の共有林に勝手に手を入れたとか、そんな話だった。」
「でも実際は、誰が始めたのかも分からん。気づいたら、みんなが口をきかなくなってた。」
「兄貴も、そうだった。」
「……そうだった、って。」
「分かるだろ。大人がやらないことを、若い者がやれるわけがない。」
叔父は、湯呑みの酒を見つめた。
「ある雪の晩にな。ゆきちゃんが、兄貴の家の戸を叩いたんだ。『食べるものを、少しだけ分けてください』って。」
「兄貴は、戸を開けなかった。」
「親父が、村に睨まれるのを恐れて、開けるなと言ったんだ。兄貴は、戸の内側で、ずっと立ってた。」
「ゆきちゃんは、しばらく戸を叩いてたが、そのうち静かになった。」
「次の朝に見たら、戸板に、小さな赤い手形がいくつも付いてたそうだ。」
「赤い、手形だ。凍った手が、割れて血が出てたんだな。」
俺は、冷たい畳の上で、膝が震えるのを止められなかった。
「その何日か後に、あの一家は、いなくなった。」
「どこへ行ったのか、誰も知らん。ただ、廃墟だけが残った。」
「兄貴は、その手形を、一晩かけて雑巾で拭いたそうだ。全部拭けたのか、どうか。」
叔父は、そこで話を切った。
「だからな。お前らが車に付けたあれを見て、兄貴は……」
最後まで、叔父は言わなかった。
言わなくても、分かった。
その夜、俺と弟は、縁側で缶ビールを開けた。
「兄貴。あの手形さ。」
「ああ。」
「俺ら、洗って落とせる絵の具で付けたよな。」
「……落ちたよ。ちゃんと。」
「でも、落ちてたのは、俺らが付けたほうだけかもしれないぞ。」
弟は、冗談とも本気ともつかない声で言った。
俺は、缶を握ったまま、答えなかった。
庭の暗がりの、車を停めていた場所に、一瞬だけ、小さな白い影が見えた気がした。
瞬きをしたら、何もなかった。
結局、あれから一度も、親父にはこのことを話していない。
車の手形も綺麗さっぱり、最初からなかったことになった。
そして例の心霊スポットには、行くことはおろか話すことも、俺と弟の間ではタブーになっている。
あの赤い手形の夜から、うちの冬は、少しだけ静かになった。
ただ、ひとつだけ、変わったことがある。
毎年、雪が降る晩になると、親父は黙って庭に出る。
手には、白い飯を盛った小さな茶碗。
庭の隅の、車を置いていた場所に、それをそっと置いて、手を合わせる。
吐く息が白い。茶碗から上がる湯気も、白い。
雪の粒がひとつ、茶碗の縁に載って、すぐに溶けた。
親父の背中は、あの夜より、少しだけ小さくなった。
それでも親父は、毎年、同じ場所に立つ。
そして、何かを受け取るように、両手のひらを、一度だけ開いてみせる。
「ゆっちゃん。」
その名前を、親父は、声に出さずに唇だけで言う。
俺と弟は、窓の内側から、それを見ている。
戸を開けないのは、あの夜の続きを、まだ許されていない気がするからだ。