
今朝、洗面所で鏡を見ていて、ふと思い出したことがあるので、ここに書きます。
十年ほど前の話です。
当時、中学生だった私は、母と二人でアルバムを見ていました。
日曜の午後でした。
父は仕事で、姉はまだ帰らず、居間には、庭の木の影が長く伸びていました。
私の家は、築三十年を過ぎた借家で、兄と姉とは、歳が十以上離れています。
二人が子どもの頃に住んでいた家のことを、私はほとんど知りませんでした。
そこに、誰も写っていない部屋の写真が一枚ありました。
部屋の隅の棚には、ドレスを着た女性の肖像画が飾られていました。
その女性の肖像画は、母にも、あとから見た姉にも、見えていなかったのです。
アルバムは、初め、私のものを見ていました。
気に入らない写真をすぐ処分してしまう私のアルバムは、あっという間に見終わってしまいました。
そこで母が、兄の部屋から、もう一冊のアルバムを持ってきました。
兄の部屋は、家でいちばん日当たりの悪い六畳間でした。
押入れの上段に、同じ背表紙のアルバムが十冊近く並んでいたのを覚えています。
私が生まれる前に住んでいた家の写真ばかりでした。
私以外の家族は、写真を大切にする人たちです。
頁はほとんど埋まっていて、開くたびに、古い糊の匂いがしました。
歳が十以上離れた兄や姉の幼い頃。
若い頃の母。
初めて見るものばかりで、私はけっこう夢中になっていました。
母には見えない絵
その中に、人が誰も写っていない写真が、一枚だけありました。
普通の日の、普通の部屋を撮っただけの写真です。
特に目につくものはありません。
けれど、私の記憶にない『我が家』は、それだけで新鮮でした。
よく見ると、部屋の棚は、一部がガラス張りになっていました。
その中に、貴婦人のようなドレスを着た女性の肖像画が、収まっていたのです。
深い緑のドレスでした。
額縁の金色が、写真の端で、わずかに光っていました。
「へぇ、こんなのうちにあったんだ?」
「え? なぁに?」
「この肖像画」
「は? 何のこと?」
「だから、この飾り棚に入ってる、綺麗なドレスの女の人の絵だってば」
要領を得ない母に、写真の棚を指さしました。
母は、無言で、しばらくその写真を見ていました。
「そんな絵、うちにはないよ」
「えー……、だってここに写ってるじゃん」
もう一度見ても、確かに写っています。
母は、うんざりしたようにアルバムを閉じました。
「悪いけど、この写真にそんなの写ってないし、この部屋に飾り棚もなかったよ?」
そう言って、母は煙草を吸いに台所へ行ってしまいました。
換気扇の回る音が、居間まで聞こえてきました。
母は、機嫌が悪いときにしか、昼間から煙草を吸いません。
興醒めした私は、そのまま居間でテレビを観ていました。
女性の肖像画と箪笥
やがて姉が帰ってくると、台所から、姉の声が聞こえました。
「アハ、……え? 本当?」
母が、例の写真の話をしたようです。
姉は居間に来て、アルバムを開きました。
しばらく凝視してから、少し気の抜けたような笑みで、私に声をかけてきました。
「ね、これに女の人が写ってたって、本当?」
「女の人の絵」
「絵? どんな人?」
「ドレス着た人」
「もしかして、髪にパーマかかってた?」
「そうそう、やっぱりちゃんと写ってるよね」
「否…………。髪の長さは?」
「セミロングくらいかな。そんなに長くはない」
「あぁ、誰もいない部屋だもんね。棚に絵が入ってると思うよね」
「ん? どういうこと?」
「これね、飾り棚じゃなくて、箪笥だよ」
私がガラス張りの棚だと思っていたものは、鏡の付いた箪笥だったそうです。
そこは、姉が昔寝ていた部屋でした。
姉は、その箪笥について、妙な体験をしていました。
『鏡の中の女の人が、こっちに手を伸ばしてた』と、姉は言いました。
袖口の白いレースだけを、やけに覚えているそうです。
母は、夜になると、その鏡に必ず手拭いを掛けていたそうです。
理由を尋ねても、姉は『いつも掛けてた』としか覚えていません。
姉がまだ二、三歳の頃です。
その鏡に、ドレスを着た、血まみれの女性が映っているのを見たそうです。
「夢だったんじゃないかと思うんだけど」
姉はそう言いました。
けれど、一緒に寝ていた母は、姉が泣き叫びながら部屋を駆け回っていて、目が覚めたと言います。
箪笥の入手先は、詳しく聞きませんでした。
母の口ぶりでは、どうやら中古だったようです。
あとで母に尋ねると、『近所の古道具屋で、安かったから』とだけ答えました。
結局、母にも姉にも、写真に女の人が写っているようには見えなかったとのことでした。
写真の中で近づく顔
姉からアルバムを受け取り、私は釈然としないまま、もう一度その写真を確認しました。
そして、見た瞬間に、二人の言い分が正しいと気づきました。
私は、黙ってアルバムを閉じました。
掌が、じっとり汗ばんでいました。
アルバムの表紙は、やけに冷たく感じました。
その写真が撮られた時、私は影も形もありません。
私が間違っているのは、当たり前です。
けれど、箪笥の鏡に写っているものが、さっきと違っていたのです。
写っているのは、相変わらず女の人です。
ただ、さっきは全身でした。
全身だったから、私は絵だと思ったのです。
今度は、左側だけの、バストアップでした。
絵ではないことは、明らかでした。
私は、写真を裏返しました。
裏には、鉛筆の薄い字で『三月 二階六畳』とだけありました。
もう一度、表を見ました。
そこで、もう一つ、おかしなことに気づきました。
箪笥の鏡に、撮った人も、カメラも、写っていないのです。
向かい側の壁も、窓も、写っていません。
鏡の中には、あの女性だけが、こちらを向いて立っていました。
変な写真を見つけて、あまりに気味が悪いときは、塩をかけて焼いてしまいます。
けれど、その写真に女の人が見えるのは、私だけのようでした。
もとは兄の物でもあります。
私は、誰にも何も言わず、アルバムを兄の部屋に戻しておきました。
その夜、兄の部屋のほうから、紙の擦れる音がしました。
アルバムの頁を、ゆっくりと繰るような音でした。
兄は、その週、出張で家にいませんでした。
翌朝、母は、何事もなかったように、味噌汁を温め直していました。
私も、何も聞きませんでした。
後日、母に、写真が変わっていたことを話しました。
母は、冗談っぽく、こう言いました。
「それって、何だかどんどん近寄ってきてるみたい。次見る時は顔のアップになってたりしてね」
「あ、でもお姉ちゃんにはこんなこと言っちゃ駄目よ、あの子ビビりだから」
姉ほど怖がりではない私でも、写真そのものより、姉の昔話より、その言葉のほうがよほど不気味でした。
私は、二度とそのアルバムを見ていません。
半年後、帰省した兄に、さりげなく尋ねました。
「あの箪笥のある部屋の写真さ、誰が撮ったの?」
兄は、少し黙ってから、言いました。
「俺じゃない」
それ以上、兄は何も話してくれませんでした。
あの写真を撮った人は、鏡にも、写っていませんでした。
鏡の中の自分
急にこんなことを思い出したのは、今朝、鏡を見たからです。
『なんだか自分の顔、あの写真の人に似てきたなぁ』と思いました。
発想の悪趣味さは、しっかり遺伝しているようです。
母の言葉は、笑い話のつもりだったのでしょう。
次に見る時は、顔のアップ。
そう言われた写真を、私は、あれから一度も開いていません。
けれど、あれから、少しずつ、おかしなことがありました。
今の洗面所の鏡は、引っ越しのときに母が買った新しいものです。
あの箪笥とは、何の関係もないはずです。
写真を見た数日後の夜です。
洗面所で歯を磨いていると、鏡の隅を、緑色のものが、すっとよぎりました。
振り向いても、そこには洗濯かごがあるだけでした。
家族の誰も、緑色の服は持っていません。
翌週、私は髪を伸ばして、セミロングにしました。
夕食の席で、母が、箸を止めました。
「……切りなさい、その髪」
理由を尋ねても、母は、味噌汁の椀を持ったまま、何も答えませんでした。
去年の正月、久しぶりに帰省した姉が、私の顔を見て、言いかけました。
「あんた、横顔が」
そこで、姉は口を閉じました。
私も、続きを聞きませんでした。
そして、最近です。
洗面所の鏡の前で髪を整えていると、気づくことがあります。
鏡の中の左側の顔が、ほんの一瞬だけ、私より遅れて動く気がするのです。
気のせいだと、思っています。
ただ、このところ、洗面所の電気を消すとき、鏡を見ないようにしています。
消したあとの暗がりで、緑色のものが、少しだけ近くにいる気がするからです。
同じ鏡にまつわる話は同じ長さの髪が詰まる排水口にも書きました。身近な水まわりの不思議は口濯ぎさんに愚痴を預けた夏もあわせてお読みください。