おかめそばと約束の客

公開日: 心霊ちょっと良い話

蕎麦

JRがまだ「国鉄」と呼ばれていた時代、地元の駅には一軒の蕎麦屋があった。

いわゆる「駅そば」だが、チェーン店ではなく、駅の外で営業している個人経営の蕎麦屋が契約して出していた店舗だった。

メニューは少ないが、味は間違いなく、値段も安い。そして、なぜか昼はやっていないという、まるで趣味で営業しているような、働くサラリーマンのためのサービス店のようだった。

この駅は乗り換え駅ではないが、快速電車が停まるため、朝夕の通勤ラッシュ時や、終電前にはけっこう賑わっていた。

ある日、終電が出た後、店を閉めようとしていたおばちゃんのもとに、見慣れたサラリーマンがふらりと現れた。

その常連客は、いつものように蕎麦を注文し、食べ終えて静かに店を後にした。

しかし、彼は駅を出た直後、暴走車に撥ねられて亡くなってしまったのだ。

悲しい出来事からしばらく経った月末の深夜。

おばちゃんが閉店作業をしていると、ちょうど日付が変わる頃、ふらりと一人の客が入ってきた。

見ると、亡くなったはずのあのサラリーマンだった。

驚きながらも、夢でも見ているのかと一瞬思い、蕎麦を出した。

彼は普通に食べて店を出て行ったが、後で片付けようとすると、どんぶりには手がつけられていなかった。

しかも、会計がどうにも合わず、最後の一杯分の代金が足りない。

おばちゃんは、そのとき初めて「おかしい」と気づいたという。

その日以来、月が変わる深夜になると、なぜかお客さんが全く来なくなり、代わりにそのサラリーマンだけがふらりと現れるようになった。

おばちゃんは特に騒ぐこともなく、彼に蕎麦を出し、普通に接していた。

ある晩、彼が少し元気のない様子だったので、おばちゃんは声をかけた。

「何だい、辛気くさい顔して。蕎麦、美味しくなかったかい?」

彼は、少し照れたように答えた。

「いえ、美味しいです。ただ……明日、妹が結婚するんです」

「ほう、それはめでたいじゃないか」

「はい。でも、なんというか……妹を取られたような気がして、少し寂しくて」

「ふぅん、複雑なんだねぇ」

そんな他愛ない会話を交わすようになったが、彼は毎回、まるで初対面のように接してくる。

「妹さんが結婚するんだろう? しゃきっとしなさいよ」と言うと、

「えっ? なんで知ってるんですか?」と、驚いた顔を見せるのだった。

そしてあるとき、その「妹」が店を訪ねてきた。

彼女は、おばちゃんから話を聞き、驚き、涙を浮かべながらこう言った。

「本当に兄なんですか……?」

彼女は兄との関係について、誰にも話せなかった胸の内を語り出した。

実は、兄妹でありながら深い関係になってしまっていた。

彼女は、自分との関係を断つために兄が自殺したのではないかと、ずっと心に抱えていたのだ。

そんな彼女の思いを知ったおばちゃんは、次に彼が現れるとされる夜に、彼女を「バイト」として厨房に入れることにした。

彼が本当に来るのか、半信半疑でありながらも、彼女は覚悟を決めていた。

運命の夜。

彼は、いつものように現れ、いつものように蕎麦を注文した。

そして、おばちゃんと会話を交わし始めた。

その声を聞いた彼女は、間違いなく兄だと確信し、思わず声をかけた。

驚いたように目を見開きながらも、兄は彼女に向き合い、静かに語り始めた。

「自殺なんてしないよ。おまえが幸せなら、それを応援する。俺は男としておまえを愛していた。でも、これからは兄として、おまえをずっと大切に思い続ける」

涙ながらに頷く妹を見届けると、彼はふっと微笑み、次の瞬間、静かに姿を消した。

そのまま彼は現れなくなるかと思いきや、翌月もまた蕎麦を食べに来た。

ただ、その顔にはいつものような影はなく、明るく晴れやかな表情をしていた。

「今日は機嫌がいいねぇ」とおばちゃんが言うと、彼は嬉しそうにこう返した。

「明日、妹が結婚するんです!」

「おぉ、そりゃあおめでたい! 今日はおばちゃんのおごりだよ!」

それからは、毎月末の恒例行事のようになった。

おばちゃんもどこか楽しみにしていた。

そしてある年、2月のうるう年。

その日は2月29日。

彼がいつも現れる1日ではなかった。

そんな日に、ふらりと現れた彼に、おばちゃんは言った。

「あらまあ、今日は1日じゃなくて29日だよ?」

彼は一瞬、きょとんとした顔をした後、何かに気づいたように呟いた。

「ああ、そうか……俺はもう……」

そのまま、静かに言った。

「ご迷惑をおかけしました。もう、来ることはないと思います」

帰ろうとする彼に、おばちゃんは思い切り声をかけた。

「だったら最後に、腹いっぱい食ってきな! 今日は全部おばちゃんのおごりだ!」

彼は一瞬ためらったが、にっこり笑って頷き、全種類の具を堪能した。

「じゃあ、行ってきます!」

彼は元気にそう言って、店を出て行った。

もちろん、食べ終えた後のどんぶりは、一つも手がつけられていなかった。

それ以来、彼は現れなくなった。

駅がJRへと切り替わり、駅そばの契約も終了。

店は駅前へ移転し、深夜営業を始めた。

それでも、おばちゃんは変わらず、月に一度の深夜に、一杯の「おかめそば」を用意し続けた。

そして今、おばあちゃんとなったその店主が入院したとき、私は初めてこの話を聞いた。

実は、私もお盆の夜に、あのサラリーマン風の男性とおばあちゃんが話しているのを見たことがある。

家族の誰も彼を見たことがなく、みんな「おばあちゃんが独り言を言っていた」と言っていたけれど、私は違った。

確かに、そこに「誰か」がいた。

だから、もしおばあちゃんが店に立てなくなったときは、今度は私がその役目を引き継ぐことになる。

一杯のおかめそばを、変わらぬ味で、きっとまた訪れるその人のために作り続けるために。

それはもしかすると、蕎麦屋に宿る優しい守り神のような存在なのかもしれない。

来る人も、作る人も、あの味を通じて何かを伝えたくて、今日もまた暖簾が揺れるのかもしれない。

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