人形と祈り
公開日: 心霊ちょっと良い話

私は東京で働き、家庭を持っていた。
しかし二年前、重い病を患い、入退院を繰り返す中で、ついに会社を解雇された。
それが主な原因となり、ほかにも様々な事情が重なって、妻とは離婚することとなった。
娘が二人いたが、私にはもう生活能力が無く、妻が彼女たちを引き取り育ててくれている。
申し訳なく思いながらも、今のところ養育費も払えずにいる。
病気はどうにか小康状態を保つようになり、私は郷里に戻って療養生活を送っていた。
とは言え、“療養”という言葉が聞こえはいいものの、実際は年老いた両親のもとに一文無しで転がり込んだ厄介者に過ぎなかった。
当然、近所や親戚の評判も芳しくない。
暇を持て余した私は、せめてもの気晴らしにと中学時代に使っていた古い釣り竿を引っ張り出し、近くの川で鮒釣りをするようになった。
竿も仕掛けも当時のままだったが、なんとなく懐かしさもあってそのまま使っていた。
※
先月のある日、鯉用の仕掛けに替えて一日釣っていたが、まったく釣果はなし。
陽も落ちてきたので竿を引き上げようとしたところ、何かが針に引っかかっている。
手元に引き寄せてみると、ぐしょ濡れの15センチほどの布製の人形だった。
プラスチックではなく、中に綿が詰められていて、毛糸で作られた髪の女の子の人形だった。
その瞬間、30年前のある記憶が、鮮明に蘇った。
※
私がまだ幼稚園に通っていた頃、近所に「ミキちゃん」という一つ年下の女の子がいた。
彼女の家は、私の実家から100メートルほど離れた通り沿いにあり、まるでバラックのような荒れた家だった。
現在はその場所もスーパーの駐車場になっている。
ミキちゃんは片親で、アルコール依存症の父親と二人暮らし。
服装はいつも汚れ、髪もぼさぼさ、遊び道具も持っていなかった。
きっと、家庭でろくに構ってもらえなかったのだろう。
彼女は幼稚園や保育園にも通っておらず、私が帰宅する時間を見計らっては、家の前で私を待ち、
「お兄ちゃん、遊ぼ」
と嬉しそうに声をかけてきた。
そして、いつも脇に抱えていたのが、あの人形によく似た布製のものだった。
※
私が小学校に進学すると、ミキちゃんとは次第に疎遠になった。
新しくできた友人たちから、「変な子と遊んでる」とからかわれるのが嫌で、彼女が目の前にいても、知らないふりをして家に入るようになった。
彼女の見た目もますますみすぼらしくなり、また、彼女の父親が地域で問題を起こすたびに、私の両親も関わりを避けるよう言ってきた。
ある日、河川敷で友人たちと野球をしていると、ミキちゃんが例の人形を草むらに置き、私たちの遊ぶ様子を遠くから見ていた。
私はまたからかわれるのが嫌で、
「帰れ!」
と怒鳴った。
けれど、ミキちゃんはその声が届かないかのように、にこにこと微笑んでいた。
苛立った私は、彼女の方に駆け寄り、人形をつかんで川に投げ捨てた。
土手の草に落ちたそれが川まで流れたかどうか、記憶は曖昧だ。
ミキちゃんはそれを見て、目に涙を浮かべながら、とぼとぼと帰って行った。
※
それから一ヶ月ほど経ち、ミキちゃんは父親からの虐待で命を落とした。
新聞の片隅に、小さな訃報が載っただけだった。
※
釣り上げた人形を見たとき、あの一連の出来事が、一気に心を駆け抜けた。
けれども、30年も経っている布製の人形が今も形を保っているなど、ありえない。
似ているだけの別物に違いない、そう思い直してもう一度よく見ようとしたその時、耳元で
「お兄ちゃん、遊ぼ」
と、はっきり声が聞こえた。
私は驚いて周囲を見渡したが、誰の姿もなかった。
ぞくりと背筋が震え、私はその人形を川に再び投げ捨てた。
水をたっぷり吸った人形は、石のように沈んで、すぐに見えなくなった。
私はまるで逃げるようにその場を後にした。
※
しばらくして一人になったとき、言葉では表せないほど切ない気持ちに襲われた。
そして、ミキちゃんのことを、墓参りに行こうと決意した。
母に尋ねて墓の場所を聞き、私は向かった。
ミキちゃんの墓は、親族の墓の脇に、苔むした自然石がひっそりと置かれているだけだった。
親父は刑務所に収監され、誰も面倒を見る者がいなかったのだろう。
それでも墓があるだけマシなのかもしれない。
私は手を合わせた。
その時、不意に陽が陰り、蝉の鳴き声が止まった。
すると、石碑の陰から黒い小さな影がふっと立ち上がった気がした。
そして、「お兄ちゃん、がんばれ」
と、小さな声が聞こえたように思えた。
いや、もしかするとすべては幻覚だったのかもしれない。
けれど、私はその瞬間、胸が締めつけられるような想いに包まれた。
※
帰り道、私は二人の娘のことを思った。
そして心の中で誓った。
――がんばらなきゃいけないな、と。
今度、ミキちゃんの墓には、立派な人形を買ってお供えしようと思っている。
彼女の寂しかった日々を、少しでも埋めることができるように。
長い話を読んでくれてありがとう。
拙い文章で申し訳ないが、これが僕の、忘れられない記憶です。