病室に隠された絵日記帳

病室(フリー素材)

この前の夜遅く、俺はハッと目を覚ましてしまった。

どうして急に起きたのだろう、と暗い天井を見つめていると、部屋の隅に何かの気配を感じた。

目を凝らして見ると、それは体育座りをした男の子の霊だった。

いや、霊というよりは、生きているのに生きていないような、不思議な姿だった。

その子が生きているなら、鍵のかかった俺の部屋に入って来られるはずがない。

以前から、壁や天井からラップ音のようなものが聞こえることはあった。

けれど、その姿を目にするのは、これが初めてだった。

あの男の子が探していたのは、病室に隠された絵日記帳だった。

それを知るのは、まだ少し先のことになる。

その夜の俺は、ただ布団の端を握りしめるだけだった。

深夜に現れた男の子

怯みつつも、俺はとりあえず声を張り上げた。

「何やってんだコラ! 他人の家に勝手に入るなやぁ!」

男の子は、消えなかった。

膝を抱えたまま、じっとこちらを見ている。

このまま連れていかれるのだろうか。そんなことを思いながら、俺は布団の上から動けず、そいつを睨み続けた。

しばらくすると、男の子がボソボソと何かを話し始めた。

よく聞こえないので、俺は思わず聞き返した。

「何だよ? お前に恨まれるようなこと、俺はしたか?」

意味のわからないことを言い放ってしまった自覚はあった。

すると男の子は、首を横に振った。

「違うよ。『起こしちゃってごめんなさい』って言ったんだよ、お兄ちゃん」

お兄ちゃん、と呼ばれた。

けれど俺は、この子のことを全く知らない。

寝たいし、怖いしで、俺はとりあえずこう言った。

「寝させてくれ。居るだけで悪寒がするんだ。その悪寒で目が覚めるから、出てってくれ」

それでも、男の子は一向に消える気配を見せなかった。

時計を見ると、もう午前三時だった。

明日は休みだ。俺は腹をくくって、朝まで見張ることにした。

午前三時十分。

じっと見つめているうちに、恐怖よりも興味のほうが勝ってきた。

俺は、質問を投げかけてみることにした。

「何でここにいるの?」

「僕ね、この近くに住んでたんだ」

「ふーん。で、何で俺の部屋なの?」

「ここの近くのはずだったけど…詳しくは覚えてない」

男の子は、膝に顎をのせたまま、ぽつぽつと答える。

声は小さく、少し掠れていた。

窓の外を、遅い電車が通り過ぎていく。

その音が遠ざかると、部屋はまた深い静けさに沈んだ。

「僕が旅立ったときは、意識がぼんやりしてたし…遠くの病院だったんだ」

「なるほどね。で、何で俺の部屋なの?」

男の子は、その質問には答えなかった。

「この近くのお家で、○○って知らない?」

「知らないよ。ご近所付き合いも、あんまり盛んじゃないし」

「そう…僕ね、クラスで一番足が速かったんだ」

急に、身の上話が始まった。

俺は適当に聞き流していたが、男の子の声は、だんだん真剣になっていった。

「僕ね、いなくなる前に『絵日記』を書いて置いてきたんだ」

「病院の中で書いたから、お家にあるかどうかは分からないけど」

「隠しといたから、きっとまだ誰も、このことを知らない」

「見つけて、おかあさんかおとうさんに届けてほしい」

「僕のことが見えて、それで話してくれた人って、いなかったから」

「お兄ちゃんだけ、特別に隠し場所を教えてあげるよ」

「あと、お家がどこにあるのかも教えて。また来るから」

「来んな」

「駄目だよ。最後に、僕のおとうさんとかおかあさんのお顔を、見ておきたいもん」

「自分で探してくれよ」

「絶対だよ」

そう言った瞬間、男の子の姿は、ふっと消えてしまった。

頼まれた三つのこと

取り急ぎ、頼まれたことは三つだった。

ひとつ、絵日記を探してほしい。

ふたつ、家がどこなのか思い出せないので、見つけて報告してほしい。

みっつ、絵日記を、おとうさんとおかあさんに届けてほしい。

まず、一番簡単そうな家探しから始めた。

翌朝、近所を一軒ずつ回った。

表札を見て歩き、郵便受けを覗き、犬を連れた老人に声をかけた。

その家は、意外なほど近くにあった。

俺のアパートから、歩いて五分もかからない場所だった。

馬鹿だな、と俺は思った。こんな近くで、あの子は迷っていたのだ。

玄関で、男の子の両親に会って、事情を話した。

父親は、玄関の柱に手をついたまま、うつむいていた。

どこにでもいる、疲れた顔の男の人だった。

けれど、その背中に、あの子の面影がはっきり重なって見えた。

けれど、当然のように信じてはもらえなかった。

母親は、青ざめた顔で俺を見ていた。

玄関の靴箱の上には、小さな運動靴が一足、きれいに揃えて置かれていた。

かかとの部分が、ずいぶん擦り減っている。

それを見た瞬間、あの子の言葉が胸に蘇った。

クラスで一番、足が速かったのだ。

「あの、どなたかに聞いたんですか」

「いえ、そういうわけでは」

俺はそれ以上、うまく説明できなかった。

そこで、あの子が旅立った日にちと、病院の名前だけを教えてもらい、その場を後にした。

『空白の名前欄を老人が探している』という話を、帰り道でふと思い出した。

名前の欄を探している誰かは、きっと、帰る場所を探している誰かなのだ。

『引取り待ちの椅子が増えていく』に出てくる、迎えを待つ椅子のことも思い出した。

空き部屋の絵日記帳

数日後、俺はその病院へ足を運んだ。

受付で、絵日記帳について説明をした。

待合室には、色褪せた折り紙の動物たちが、壁一面に飾られていた。

小さな子どもが描いたらしい、太陽の絵もあった。

俺はなぜか、その一枚を長く眺めてしまった。

担当だったという看護師さんが出てきたが、首を傾げるばかりだった。

「知りません。そんなものがあったかどうか」

困り果てた俺は、今は空き部屋になっているという病室を、とりあえず探させてもらうことにした。

窓の外は、夕方の光がオレンジ色に傾いていた。

簡素なベッドと、空っぽの棚が並んでいた。

言われたとおりの場所を探ると、ベッドの裏板と壁の隙間から、一冊のノートが出てきた。

表紙には、鉛筆の拙い字で『2ねん3くみ○○○』と書かれている。

看護師さんたちも、驚いたように顔を見合わせていた。

表紙の角は丸くすり減り、何度も開かれた跡があった。

クレヨンの粉が、ページの端に薄く残っている。

鼻を近づけると、消毒液と古い紙の匂いが混じっていた。

棚の埃を払う指が、かすかに震えていた。

俺は、静かにページをめくった。

紙は湿気を吸って、ところどころ波打っていた。

表紙の裏には、ひらがなで住所の一部が書かれていた。

その横に、似顔絵のような丸い顔が、にっこり笑っていた。

俺はその絵に、そっと指先で触れた。

最初のほうには、こう書かれていた。

『このびょうきはすぐに治るらしい。早くたいいんして、○○君とかけっこがしたい』

絵が添えられていて、希望に満ちていた。

けれど、ページが進むにつれて、絵が消えていった。

『太ももがいたい。がまんすれば治るのかな?』

その一行を読んだとき、胸が詰まった。

字が、ほんの少し右へ傾いていた。

きっと、ベッドの上で体を起こして、懸命に書いたのだろう。

ページの余白に、涙の跡のような丸い染みが、いくつか残っていた。

最後の一週間は、字がだんだん小さく、薄くなっていった。

『痛い』

一文字ずつ、震えた線で書かれていた。

気づくと、俺は泣いていた。

手の甲で何度も目を拭ったが、涙は止まらなかった。

隣で看護師さんが、小さく鼻をすする音がした。

廊下の向こうで、誰かがカートを押していく音が遠く聞こえた。

あの元気な子が、ここまで。

かけっこの話をしていたあの子の、細い膝を思い出した。

どれほど走りたかっただろう。

そう思うと、また視界が滲んだ。

原因は、太ももにできた病気だったと、あとで看護師さんが教えてくれた。

いわゆる、小児がんだった。

看護師さんも、絵日記帳を読んで、大泣きしていた。

「この子、いつも廊下を走っては、叱られていたんです」

看護師さんは、涙を拭きながら小さく笑った。

「走るのが、本当に好きな子でした」

最後のページには、短くこう書かれていた。

『あしたもあさがきたら、おかあさんとおとうさんに「おはよう」って言うんだ』

俺は、絵日記帳を抱えて、再びあの子の家へ向かった。

両親は、ページをめくりながら、泣きながら何度も礼を言ってくれた。

教えた帰り道

一週間後の夜、男の子は再び、俺の部屋に現れた。

「僕の家、どこだか分かった?」

「ああ。そこの床屋さんの角を曲がって、まっすぐ行った先だ」

俺は、道順をできるだけ丁寧に教えた。

「ありがとう!」

男の子は、満面の笑みを浮かべた。

そして、クラスで一番足が速かった子らしく、軽やかに駆けていった。

もう、いなくなっているのは分かっていたけれど、最後に俺は言った。

部屋には、いつもの夜の静けさだけが残っていた。

カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込み始めていた。

「元気でな」

それからラップ音も、不思議と消えた。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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