誰もいない世界

白い空間

私は2年前まで看護師をしていました。

今は派遣事務の仕事に就いていますが、我ながらよくあの殺人的なシフトをこなしていたなと感心します。17、8時間の拘束は当たり前の世界ですから。

その日は二交代勤務の日勤でした。朝7時半頃にいつもの通用口を通ったのですが、院内が不気味なほど閑散としていました。

人の気配が全く無いのです。いつもなら朝食などでばたばたしているはずなのに。

私は更衣室に向かいましたが、同じシフトの同僚すらいません。

携帯で連絡をしてみると、電源が入っていないか電波が届かないというメッセージが流れます。

取り敢えず、引き継ぎのためステーションへ行こうと思いました。

でもその途中、職員どころか患者さんまで見当たらないのです。

それまでこんな異常事態に遭遇したことがなかったので、怖くなりました。

とにかく誰でも良いから探そうと思い立ちましたが、無闇に歩き回るのも恐ろしく感じ、内線電話の受話器を取りました。

しかし、あの「ツー」という発信前のトーン音さえ聞こえないのです。

軽くパニクっていた私は、もう一度自分の携帯で色々な人に電話をかけようとしたのですが、床に落としてしまいました。

慌てて携帯を拾い待ち受け画面を見ると、実家の番号が出ていたので迷わずダイヤルしました。

いつも聞いているあの発信音が聞こえた時には涙が出ました。

「ガチャ」という音と共に、私はまくし立てました。

「もしもしお母さん? 私」

「あんた今どこにいるの? △△さん(同僚)から連絡あったわよ、病院から。

時間になっても来ないから、もしかして事故にでも遭ったんじゃないかって」

それを聞いて、私は力が抜けたというか腰が抜け、その場に座り込みました。

そしてぞっとすることに気が付きました。

先程携帯を落とした場所にバッテリーが落ちていたのです。

バッテリーも無いのに母と会話をしていたのです。

携帯を投げ出して、どこへ向かうでもなく私は逃げ出しました。

どこをどう走ったのかは覚えていませんが、通用口の近くまで来て一歩も前に進めないほど疲れ果て、中腰の姿勢のまま息を整えようとしました。

あともう少しで外に出られるのにどうしてそこで休もうとしたのか、未だに解りません。

私はふと顔を上げました。

目の前には壁に設置された姿見がありました。

しかしよくよく見ると、鏡に映っていなければならない私の姿が無かったのです。

そこで意識を失いました。

目覚めた時、私はステーション内のソファーの上にいました。

周りはいつもの活気ある職場です。

私が最初に連絡し、自宅に電話をくれた同僚が言うには、通用口近くで私は倒れていたらしいのです。

不思議なのは、それを彼女に教えてくれた方がいたのですが、どうしても思い出せないと言うことです。

彼女は実際にその人を見たのに、どんな顔だったのか、どれくらいの身長だったのか、性別さえも「思い出せない」のです。

その同僚に私も色々質問されましたが、私の身に起きたことを裏付ける確たる証拠は挙げられませんでした。

投げ捨てた携帯電話や、更衣室のロッカーに入れた所持品が何もかも無くなっていたからです。

それに私の見た大きな鏡さえ元々無いのですから。

関連記事

体育館(フリー写真)

異世界の体育館

中学一年の夏休み、部活で合宿に行った。 合宿所の体育館で遅くまで練習した後、三年の先輩に付き合ってもらって練習していた。 フローターは同級生で一番最初に打てるようになったの…

タクシー(フリー写真)

三日前の異世界

俺の出身は宇都宮で、高校を卒業して3年制の専門学校へ行くために上京した。 夏休みのある日、赤羽駅の近くの居酒屋で深夜まで飲み、タクシーを捕まえて家の近くの大きな公園まで乗せても…

命の大切さ

つい最近の出来事です。 職場で色々あって、自殺未遂しちゃったのね。 それで気分転換のため田舎に帰省したんだ。もちろん自殺未遂のことは秘密にして。 すると、信心深いばあ…

チャイムが鳴る

ある蒸し暑い夏の夕暮れ時、俺は自宅の2階で昼寝をしていた。 「ピンポ~ン、ピンポ~ン」 誰か来たようだ。俺以外家には誰もいないし、面倒くさいので無視して寝ていた。 「…

トンネル(フリー写真)

旧生駒トンネル

大阪と奈良を結ぶ近鉄奈良線。 その間に生駒山が立ちはだかり、電車は長いトンネルを通ります。 現在使われているのは「新生駒トンネル」。 しかし昭和30年代に掘削された…

交差点

交差点での時間停止

10年前、僕が小学6年生の時の話です。 ある日、学校からの帰り道、人通りの多い交差点で信号待ちをしていたところ、突然、自分以外の周りの人や道路を走っている車が一斉に動きを止めま…

エスカレーターの中の母娘

とあるヨーロッパの国に留学してた時の話を。 まあ言葉もままならない頃、よく日本人の友達を家に呼んで飲んでたんだが。俺の家は屋根裏で、大き目の丸窓から地下鉄の出口が見える。 …

赤い橋

赤い橋

俺が高校生だった頃の話。 両親が旅行に出かけて、俺は一人でお婆ちゃんの所に行ったんだ。 婆ちゃんはよく近所の孤児院でボランティアをしていて、俺もよく介護のボランティアをして…

ドライブイン

奇妙なドライブイン

この話はオカルトや怪談に入るものなのか少し微妙なところなのだが、個人的には非常に怖かった体験です。 それと、もう何ヶ月も前の事なので会話はうろ覚えの部分が多く、『当時こんな感じだ…

雑居ビルの怪

今からもう14年くらい前の、中学2年の時の話です。 日曜日に仲の良い友人達と3人で映画を観に行こうという話になりました。友人達を仮にAとBとします。 私の住んでいる町は小さ…