霊感の彼女が差し出した両手

星空(フリー写真)

もう随分前になるけれど、僕が体験した、本当に洒落にならない話です。

当時大学生だった僕は、駅前の古書店でアルバイトをしていました。

そこで知り合ったのが、同じ時間帯に入っていた、澄香さんという女の子です。

バイト仲間数人で、映画やボウリングに出掛けるうちに、自然と話すようになりました。

向こうに恋人がいないことも、それとなく確認して、僕は青春の真っ盛りでした。

ただ、彼女には、少し変わったところがありました。

いわゆる、霊感の彼女、だったのです。

古書店の奥の棚の前に立つと、彼女はいつも、すっと半歩だけ下がりました。

一番奥の、背表紙の色褪せた全集の並ぶ棚です。

「ここ、苦手なんだ。」

「埃っぽいから?」

「ううん。髪が、ね。」

彼女は、レジ横の小さなメモ帳に、毎日、鉛筆で数字を書き込んでいました。

『今日 5』『今日 2』『今日 11』。

一日に抜けた髪の本数だと、あとで教えてくれました。

数字が大きい日の彼女は、決まって、口数が少なくなりました。

それをカミングアウトしたのは、バイト仲間で出掛けた、夏の肝試しの夜でした。

定番の怖い話大会の途中で、彼女はふと、自分から切り出しました。

「私ね、霊が視えるの。」

その場の空気が、すっと止まりました。

「外見は、普通の生きている人と変わらないんだけど。」

「じゃあ、どうやって見分けるんだよ。」

「霊が近くにいるとね、頭のてっぺんから鳥肌が立って、髪が抜けるの。」

そう言うと、彼女は長い髪を、指で一掻きしました。

古書店の蛍光灯の下で、彼女がそうして髪を払う姿は、何度も見ていました。

けれど、あの夜ほど、その仕草を、不吉に感じたことはありません。

手のひらには、二、三本の、黒い髪が絡んでいました。

彼女の髪は、長くて黒いこともあり、見た目には結構な量が抜けたようにも見えます。

その場は、大いに盛り上がりました。

本気で怖がり始める人も、ちらほらいました。

しかも彼女は、調子に乗ったように言い足しました。

「私の傍にいると、霊感のない人でも、視えちゃうこともあるんだよ。」

僕は、その輪の隅で、ひとり冷めていました。

帰り道、彼女の髪が一本、僕の肩に落ちてきたことがありました。

街灯の下で拾い上げると、驚くほど長く、艶のある黒でした。

「それ、捨てといて。」

彼女は、こちらを見ずに言いました。

「持ってると、よくないから。」

冗談だと思って笑った僕に、彼女は笑い返しませんでした。

髪の毛なんて、ちょっと引っ張れば、二、三本はすぐ抜けます。

その演出の上手さに、今なら少し感心もできます。

けれど当時の僕は、若かった。

その行為が、あざとく思えて、正直、ちょっと引いてしまったのです。

そんなことまでしなくても、十分に人目を引く容姿に恵まれているのに。

普段は明るく元気で、魅力的な人なのに、何故。

何だか裏切られたような、切ない気持ちでした。

主観で勝手に決めつけて、一人で勝手に傷付いて。

どうしようもない、青春の夏の夜でした。

しかし、そこは若気の至りの日本の夏です。

外見より中身で人を好きになれるほど、こちとら人間が出来てはいません。

程なくして、思いの丈を告白し、めでたくお付き合いすることになりました。

付き合い始めてからの彼女は、よく笑う人でした。

霊感の彼女、などという呼び方が似合わないほど、普通の女の子でした。

映画の帰りに食べたたい焼きの、どちらが先に頭から齧るかで、本気で揉めたこともあります。

ただ、髪のことだけは、冗談にしないでほしいと、一度だけ言われました。

「抜けるのはね、怖いからじゃないの。教えてくれてるんだと思う。」

その意味を、僕はまだ、何も解っていませんでした。

霊感の彼女と国道の夜

付き合って約半年。

季節が巡り、二人は岐阜から福井まで、車で小旅行に出掛けました。

学生ですから、お金の節約のため、高速は使わず下道です。

長くて、楽しい、二人きりのドライブでした。

カーステレオからは、彼女の好きな古い歌が、何度も流れていました。

窓の外の夕焼けが、いつの間にか、紫色に変わっていました。

途中の山あいの道の駅で、トイレ休憩を取りました。

夕方なのに、売店はもうシャッターを下ろし、自動販売機の明かりだけが点いていました。

缶コーヒーを二本買っていると、軽トラックから降りてきた老人が、声を掛けてきました。

老人の作業着の袖口には、乾いた泥がこびり付いていました。

こんな時間に、山あいの道の駅へ何をしに来たのか、そのときは考えもしませんでした。

「あんたら、これから北へ行くんかね。」

「ええ、福井まで。」

「そうかね。夜の国道は、暗いでな。」

老人は、僕の肩越しに、停めてある車の助手席を見ました。

「連れの娘さんは、体が冷えとるようだ。早う宿に入りなさい。」

助手席の彼女は、窓の内側で、目を閉じていたはずなのに。

僕は曖昧に頭を下げて、車に戻りました。

エンジンをかけると、ダッシュボードの時計が、一瞬だけ、00:00と光りました。

しかし、流石に長すぎたのか、澄香さんは車に酔ってしまいました。

助手席のシートの上で、足を折り曲げて、窓のほうを向いてうずくまっています。

「ごめん、ちょっと目、つぶるね。」

「うん、寝ててもいいよ。」

時刻は、夜の九時を少し回った頃でした。

峠を越えた先の、田舎によくある、一本道です。

一・五車線ほどの狭い車道に、すれ違う車はほとんどありません。

辺りには、恐らく田んぼが広がっているのでしょう。

漆黒の闇が、窓の外に、どこまでも続いていました。

対向車のライトが、最後に見えたのは、いつだったでしょうか。

思い返すと、峠を下りてから、一台ともすれ違っていませんでした。

道端の電柱には、街灯もなく、白い反射板だけが、ライトの端で一つずつ浮かんでは消えました。

僕は、気まずい静けさを紛らわすように、昔の流行歌を、小さな声で口ずさんでいました。

ふと、助手席から、微かな寝息が聞こえた気がしました。

けれど、よく耳を澄ますと、それは寝息ではなく、歯のぶつかるような、小さな音でした。

眠っている人の音には、聞こえませんでした。

僕はヘッドライトをハイビームにして、時々彼女に声を掛けながら、今夜の宿を探していました。

ラジオの電波は、峠を越えた頃から、ざらざらと途切れがちになっていました。

ダッシュボードの時計の緑の数字だけが、車内で明るく光っていました。

エアコンの吹き出し口から、かすかに、湿った土の匂いがしました。

窓を開けた覚えはないのに、と、僕は思いました。

闇を横切る行列

その時でした。

突然、前方に、道を横切る人影が現れたのです。

僕は、すぐに徐行しました。

すると、もう一人、前の人のあとを追うように、ゆっくりと道を横切っていきます。

さらにもう一人。

二人。

三人。

一列になって、後から後から、人が横切っていくのです。

とうとう手前で車を停め、彼らが渡り切るのを待つ格好になりました。

不思議な光景でした。

辺りは漆黒の闇夜で、ぽつぽつと見える民家の灯りは、遥か遠くにあるだけです。

よく見ると、細い農道が、僕の走ってきた車道にぶつかっていました。

車道を跨いで、また、細い農道が続いています。

彼らは、その道を、足元を照らす灯りも持たずに、黙々と歩いているのです。

誰も、傘を持たず、荷物も持っていませんでした。

ただ、全員が、右手の指を、胸の前で揃えて、歩いていました。

祈っているようにも、何かを数えているようにも見えました。

昭和の学生服。もんぺ。喪服のような黒い洋装。

時代のばらばらな服が、同じ速さで、同じ方向へ流れていきます。

エアコンの風が、いつの間にか、ひどく冷たくなっていました。

初めのうちは、呑気にしていました。

農家の方たちの寄り合いか何かの帰りなのだろうと、考えていました。

ライトを当てるのは失礼だと思い、サイドランプに切り替えて、大人しく待っていました。

しかし、二十人、三十人と、闇の中から湧き出るように続く行列を見ているうちに、段々と、恐ろしくなってきました。

何か、異様なのです。

服装や性別にまとまりはなく、平均年齢はやや高そうでしたが、老人も、中年も、若い人もいました。

闇の中から現れ、サイドランプに照らされた道を横切り、また闇の中へ溶け込んでいく。

左から右へ、ゆっくりと、一列になって、何人も、何十人も。

しかも彼らは、こちらを、全く見ようとしません。

辺りは、恐ろしく静まり返っていました。

停止中の車のエンジンの、低い音だけが聞こえます。

話し声も、足音すらもありません。

砂利を踏めば鳴るはずの農道なのに、靴の音がしないのです。

裾が風に揺れることもなく、まるで、写真を一枚ずつ、滑らせているようでした。

先頭が闇に消えるたび、最後尾の後ろから、また新しい人が現れて、数は一向に減りません。

僕は、数えてはいけない気がして、それでも、頭の中で、勝手に数えていました。

けれど目の前には、確かに、道を横切る人の列があります。

ハンドルを握る両手が、じっとりと汗ばんでいました。

ミラーを見ると、後ろにも、どこまでも続く闇があるだけでした。

来た道を戻ろうにも、もう、どちらが来た道なのか、判らなくなっていました。

助手席の彼女を見ました。

さっきまでと同じように、窓のほうを向いて、シートの上で足を折り曲げ、頭を抱えるように丸くなっています。

眠っているのでしょうか。

僕は、もはや動けなくなっていました。

彼女に声を掛けることも、Uターンして来た道を引き返すことも、クラクションを鳴らすことも、何一つできませんでした。

体が、動かないのです。

ただ息を潜めて、目の前の行列を見つめることしかできませんでした。

耳の奥で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていました。

フロントガラスの向こうの人々は、その鼓動に合わせるように、ゆっくりと、足を運んでいました。

一人ひとりの顔は、サイドランプの届かない高さにあり、輪郭だけが、暗がりに浮かんでいます。

見てはいけない、と思うほど、視線は吸い寄せられていきました。

もし目が合ってしまったら、もう戻れない。そんな予感だけが、ありました。

列の最後尾にいた子供

行列の最後尾に、小さな子供の手を引いた、老婆がいました。

子供は、行列の中で、ただ一人だけ、こちらを見ました。

目が合った、と思った瞬間、子供は、人差し指を、自分の唇に当てました。

しいっ。

音はないのに、確かに、そう聞こえました。

老婆は、振り向きもせず、闇の中へ子供を連れていきました。

差し出された両手

どれくらいの時間が、そうして過ぎたのでしょう。

気が付くと、目の前に、人影はなくなっていました。

恐らく、百人近い人数だったと思います。

僕は息を潜めたまま、ゆっくりと、確かめるようにして、車のライトを点けました。

目の前には、真っ直ぐな車道が見えます。

細い農道も、確かに見えます。

人影はありません。

ハイビームにしてみました。

やはり、何もありません。

僕は、大きく息を吸い込み、吐き出しました。

全身から、力が抜けていくのが判りました。

シャツは汗で張り付き、指先は、ハンドルから剥がれないほど強張っていました。

ギアをドライブに入れようと、横を見ました。

彼女が、こちらを向いていました。

顔色は、紙のように白く、唇だけが、小刻みに震えていました。

彼女は、震えながら、無言で、僕のほうへ両手を差し出しました。

その両手には、大量の抜け落ちた髪の毛が、絡み付いていました。

僕たちは、すぐに高速道路に乗って、岐阜へ引き返しました。

戻ったのは、夜中でしたが、街の何と明るいことでしょう。

コンビニの白い光も、信号の赤も、驚くほど暖かく、僕は何度も、ハンドルから手を離して確かめました。

助手席の彼女は、帰りの高速の間、一言も口を利かず、両手を膝の上で固く握り合わせていました。

二人でファミレスに入り、お互いの友達に電話を掛け、暇な者を片っ端から呼び出しました。

彼女は、席を外したまま、なかなか戻ってきませんでした。

二十分ほど経って、ようやく席に着いた彼女の髪は、きれいに一つに束ねられていました。

「ごめん、抜けた分、全部、洗ってきた。」

洗面所の鏡の前で、彼女は何を見ていたのでしょうか。

聞く勇気は、ありませんでした。

「全部って、どれくらい。」

「百本。数えたの。ぴったり百本だった。」

僕は、行列の人数を、彼女に言ったことはありませんでした。

『およそ百人』と、あのとき心の中で思っただけでした。

意図せず合コンのようになり、その時に知り合って、後に付き合うことになった者もいます。

けれど、僕たち二人は、その後、三ヶ月ほどで別れてしまいました。

その日も、その後も、この話が二人の間に出ることは、ありませんでした。

彼女が今どうしているのかは、判りません。

別れ際、彼女は一度だけ、僕の肩に落ちた髪を、黙って指でつまみ取ってくれました。

あれが、彼女なりの、最後の優しさだったのかもしれません。

あれから、似たような話を探して読み比べた時期があります。

たとえば満員電車で空いていた席のように、何も起きないことのほうが怖い話もありました。

また沢の桟橋で待っていた友達のように、見えない相手が、ただそこにいるだけの話もありました。

けれど、あの夜の霊感の彼女の両手に勝る話には、出会えていません。

先日、長年乗った車を手放す日に、助手席のシートレールの隙間から、黒い髪の束が出てきました。

車を引き取りに来た整備の人は、何も言わず、その束を僕の手に戻してくれました。

ビニールの袋に入れて、今も、机の引き出しの奥にしまってあります。

捨てるべきなのか、持っているべきなのか、今も決められずにいます。

一本一本が、小さく結ばれていました。

数えるのは、やめました。

きっと、幸せに暮らしていると思います。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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