ヒサルキ

学童保育で指導員をしている友人から聞いた話です。

彼女の働く施設は、町外れの古い稲荷神社の、すぐ隣にありました。

築五十年は超えるという、木造の平屋でした。

窓を開けると、神社の杜の、湿った土と苔の匂いが流れ込んできます。

夏でも、その一帯だけは、ひんやりとしていたそうです。

日が傾くと、杜の奥から、かすかに鈴の鳴るような音が聞こえました。

風もないのに、です。

友人は最初、近くの風鈴の音だろうと思っていました。

けれど、鈴のついた社は、その神社のどこにもありませんでした。

狐の石像のひとつは、ほかより少しだけ、社のほうへ顔を向けていました。

掃除のたびに直しても、翌朝には、また同じ向きに戻っているのだそうです。

稲荷の杜には、首の欠けた狐の石像が、いくつも並んでいました。

どれも古く、目のあたりだけが、苔で黒く塗りつぶされたように見えました。

神社は地元でも由緒の古いもので、苔むした玉垣が、社をぐるりと囲んでいます。

玉垣というのは、神域を区切る石や柱の柵のことです。

そのうちのいくつかは、先の尖った、古い鉄の柵に替えられていました。

子どもが境内に入って悪さをしないように、という配慮だったそうです。

錆びて赤茶けた、人の背丈ほどの柵でした。

先端は、槍のように鋭く尖っています。

ところが、その尖った先に、よく虫が刺さっているのです。

セミだったり、バッタだったり、小さなトカゲだったりしました。

はじめのうちは、誰も気に留めませんでした。

子どものいたずらかもしれないし、鳥のしわざかもしれない。

神社には小学生もよく遊びに来るので、誰がやったのかは分かりません。

「まあ、モズのはやにえでしょう」

年配の指導員は、そう言って笑っていました。

モズという鳥は、捕らえた獲物を木の枝などに刺しておく習性があります。

だから、誰もたいして気にはしていませんでした。

ただ、友人は、ひとつだけ妙だと思っていたそうです。

刺さった虫は、どれも、神社の社のほうを向いていました。

まるで、何かに見せるように、整然と。

けれど、それも、たまたまだろうと思っていました。

刺さった虫が、日に日に増えていることにも、気づいていました。

月曜の朝には、決まって、数が多いのです。

誰も来ない、土日のあいだに、増えているということになります。

友人は、その曜日の意味を、深く考えないようにしていました。

その頃は、まだ。

梅雨の頃でした。

ある朝、その柵に、モグラが刺さっていました。

さすがに哺乳類となると、見た目のむごさが違います。

園長先生がすぐに片づけ、子どもたちの目に触れないようにしました。

「鳥が、運んできたのね」

園長先生は、自分に言い聞かせるように、そう言いました。

けれど、モグラはふだん、地中で暮らす生き物です。

鳥が掘り出して、わざわざ刺すというのは、考えにくいことでした。

次に刺さっていたのは、一羽のカラスでした。

羽を広げたまま、両目をくり抜かれていました。

その次は、近所の家から逃げた、小型犬でした。

首輪をつけたまま、柵の先で冷たくなっていました。

飼い主は半狂乱で探し回っていたので、すぐに身元は分かりました。

けれど、なぜそこにいるのかは、誰にも説明できませんでした。

それでしばらくすると、今度は野良猫が突き刺さっていました。

近所でよく見かける、痩せた茶トラの猫でした。

これはさすがに、問題になりました。

指導員と、神社の宮司さんが集まって、話し合いをしたそうです。

「誰のしわざなんでしょう」

「鳥にしては、大きすぎる」

「子どもにできることでもない」

猫を、人の背丈ほどの柵の先まで持ち上げて刺すなど、大人でも容易ではありません。

しかも、暴れた跡も、引っかかれた血の跡も、まったくありませんでした。

まるで、猫のほうから、おとなしく刺さりに来たかのようでした。

結局、犯人は分からず、防ぐ手立ても見つかりませんでした。

ただ、宮司さんだけは、何かを知っている様子でした。

問いつめると、宮司さんは、ためらいながら、古い言い伝えを話してくれました。

この稲荷には、もともと、別の神が祀られていたというのです。

名は伝わっていません。

ただ、いつも腹を空かせている神だったと。

昔は、玉垣の上に、供え物を欠かさなかったそうです。

魚や、鳥や、ときには獣を。

「供えを絶やすと、自分で取りに来る」

そう、言い伝えられていたといいます。

いつしか、その神を祀る者はいなくなり、社は稲荷に建て替えられました。

「だが、土地は、古い神を覚えている」

「腹を空かせた神に、いちばん喜ばれる供えが、何か分かるか」

宮司さんは、声をひそめて、そう言いました。

友人が黙っていると、宮司さんは、自分の目を、そっと指さしました。

「見ること。これだ」

「だから、子どもの目を、ほしがる」

その言葉の意味を、友人は、しばらく考えないようにしていたそうです。

宮司さんは、そう言って、口を閉ざしました。

みな、なんとなく気味が悪いと思いながら、口には出しませんでした。

おかしいのは、子どもたちの様子でした。

猫が刺さっていたことを知っても、誰ひとり怖がらないのです。

可哀想だとも、気持ち悪いとも言いません。

ただ、仕方がないことのように、淡々としていました。

「またやられたんだね」

そう言って、すぐに遊びに戻ってしまうのです。

ある女の子は、お絵かきの手を止めずに、こう言いました。

「あれは、ごはんなんだよ」

友人が「誰のごはん」と聞くと、女の子は不思議そうな顔をしました。

「知らないの? みんな、知ってるのに」

友人は、それがいちばん引っかかったと言いました。

まるで、何かが起きるのを、最初から知っているような顔だったと。

そして、ある朝のことです。

学童で飼っていたウサギが、柵に突き刺さっていました。

見つけたのは、友人自身でした。

前の晩には、たしかに小屋のなかで眠っていたはずのウサギです。

小屋の金網には、壊された跡も、こじ開けられた跡もありませんでした。

早朝、宮司さんが境内を掃除したときには、何もなかったといいます。

なのに、子どもたちが来る少し前に、それは現れていました。

白い体が、朝日のなかで、冷たくなっていました。

そのウサギは、子どもたちが、毎日かわいがっていた一羽でした。

名前は、ミミといいました。

前の日も、男の子たちが、餌をやって笑っていたのです。

その小さな体が、なぜ、こんなところにあるのか。

小屋から柵まで、白い毛のひとつも、落ちてはいませんでした。

運ばれた跡が、どこにもないのです。

まるで、最初からそこにいたかのように。

友人の頭は、まったく働かなくなっていました。

片方の目だけが、まっすぐ社のほうを向いて、見開かれていました。

友人は、声も出せずに、その場に立ちつくしました。

そのとき、いつもより早く来ていた男の子が、隣に立ちました。

五歳になる、おとなしい子でした。

その子は、ウサギを見上げて、ぽつりと言いました。

「ヒサルキだよ」

友人は、その言葉の意味が分かりませんでした。

「ヒサルキって、なあに」

そう聞いても、男の子はうまく説明できないようでした。

ただ、当たり前のことのように、もう一度くり返しました。

「ヒサルキが、来たんだよ」

「おなかが、すいてたんだって」

そう言って、男の子は、にこりと笑いました。

その笑顔が、友人にはたまらなく怖かったそうです。

男の子は、それから、こうも言いました。

「ヒサルキはね、目が好きなんだよ」

「いっぱい目があると、いっぱい見えるでしょ」

友人は、思わず、その子から一歩、後ずさりました。

男の子は、きょとんとして、首をかしげました。

「先生、ヒサルキ、見たことないの?」

その晩、友人は、嫌な夢を見ました。

暗い杜のなかに、自分が立っている夢でした。

無数の白い目が、四方から、こちらを見つめていました。

逃げようとすると、足元の地面が、ぬかるんでいて動けません。

目が覚めると、枕が、汗でぐっしょりと濡れていたそうです。

あとで、ほかの子たちにも聞いてみました。

すると、子どもたちはみな、ヒサルキを知っていました。

けれど、誰ひとり、それがどんなものなのか説明できません。

テレビのキャラクターでも、絵本に出てくるものでもありませんでした。

親に聞いても、誰もその言葉を知りませんでした。

子どもが、いつ、どこでその言葉を覚えたのか、誰も思い出せないのです。

そのとき、一人の指導員が、青い顔で言いました。

「昔、その名前の絵を、見たことがある」

数年前に在籍していた、一人の子が描いた絵だというのです。

子どもの描いた絵は、持ち帰らせるので、施設には残っていません。

けれど、その絵だけは、妙にはっきりと覚えていると。

「なんとも言えない、嫌な絵だった」

黒い塊のまんなかに、たくさんの目が描いてあったそうです。

数えきれないほどの、白い目です。

そして、その下に、たどたどしい字で、こう書いてありました。

「ヒサルキ」

指導員は、それだけ言って、口をつぐみました。

「その子に、聞けないんですか」

友人がそう尋ねると、指導員は首を横に振りました。

「あの子は、急に引っ越したの」

そして、声を落として、こう続けました。

「引っ越し方が、変だったから、覚えてる」

挨拶もなく、ある日、突然いなくなったそうです。

引っ越しの少し前から、その子は、よく独り言を言うようになっていました。

誰もいない、神社の杜のほうに向かって。

何かと、話しているようだったといいます。

その子は、絵ばかり描くようになっていました。

どの絵にも、たくさんの目が描かれていました。

日に日に、目の数は増えていったそうです。

そして、ある日から、その子は、片目を手で覆うようになりました。

「こっちの目を、見られたくないの」

そう言って、いつも左目を、隠していたといいます。

そして、引っ越しの朝、その子を、ちらりと見かけました。

車の後部座席に、ちょこんと座っていました。

その子は、両目に、白い眼帯をしていました。

両目です。

ぐるぐると、何重にも巻かれていたそうです。

眼帯の下が、どうなっているのかは、分かりませんでした。

車に乗り込むとき、その子は、小さな声で言っていたといいます。

「目を、つむっておかないと」

「ヒサルキが、入ってきちゃうから」

母親は、青ざめた顔で、ただ前を向いていたそうです。

どこへ引っ越したのかは、誰も知りませんでした。

それから、しばらくして、騒ぎは収まりました。

最後に刺さっていたのは、近所のニワトリだったそうです。

それを境に、大きな動物が刺さることは、なくなりました。

犯人も、ヒサルキの正体も、結局、分からずじまいでした。

ただ、今でも、虫やトカゲは、ときどき柵に刺さっているそうです。

どれも、社のほうを向いて。

友人は、その学童を、しばらくして辞めました。

辞めるきっかけになった出来事が、ありました。

ある日の夕暮れ、子どもたちを見送ったあとのことです。

友人は、戸締まりのために、窓のひとつひとつを閉めて回っていました。

神社に面した、最後の窓を閉めようとしたときです。

杜の暗がりに、いくつもの、白い点が見えました。

はじめは、夕闇に咲く花かと思ったそうです。

けれど、その白い点は、ゆっくりと、まばたきをしました。

ひとつではありません。

いくつも、いくつも、ばらばらの高さで。

地面すれすれから、木のてっぺんの高さまで。

ひとつ残らず、こちらを、見ていました。

友人は、明かりも消さずに、施設を飛び出したそうです。

翌朝、おそるおそる出勤すると、施設の裏口の前に、何かが置かれていました。

一匹の、痩せたネズミでした。

ちょうど、施設のほうを向いて、横たわっていました。

柵ではなく、人の住む建物の戸口に現れたのは、それが初めてでした。

友人は、その日のうちに、辞表を出したそうです。

辞める少し前に、一つだけ、気になることがあったと言います。

お絵かきの時間に、新しく入った女の子が、一枚の絵を描いていました。

黒い、ぐちゃぐちゃの塊のような絵でした。

そのまんなかに、いくつもの、白い丸が描いてありました。

目のように見えました。

数えてみると、ちょうど、刺さった動物の数と同じだったそうです。

友人が「これ、なあに」と聞くと、女の子は笑って答えました。

「ヒサルキ」

その子は、つい先月、入ったばかりの子でした。

引っ越してきたばかりで、近所に知り合いもいない子でした。

前にいた子の絵を、見たはずもありません。

それなのに、その絵は、何年も前のあの子の絵と、そっくりでした。

黒い塊と、無数の目。

まるで、同じ手で描いたかのようでした。

誰からも、その言葉を聞いたはずがありませんでした。

「だんだん、目がふえてくるんだよ」

女の子は、楽しそうに、そう付け足しました。

「あのね、もうすぐ、ここまで来るんだって」

そう言って、女の子は、自分の目を、指でさしました。

友人は、ぞっとして、その絵を取り上げようとしました。

けれど、女の子は、それを後ろ手に隠して、首を振りました。

「だめ。これがないと、ヒサルキ、おこるよ」

友人は、それ以上、何も聞けなかったそうです。

ただ、その日から、神社のほうを見ないようにして、仕事をしていたと。

いまでも、その町の古い稲荷には、尖った鉄の柵が残っています。

そして、その先には、季節になると、小さな影がいくつも刺さっているのです。

子どもたちは、それを見ても、やはり、何も言わないのだそうです。

ただ、ときどき、誰もいない杜のほうを、じっと見上げているのだといいます。

何を見ているのかと聞いても、子どもたちは、決まってこう答えるそうです。

「ヒサルキが、こっちを見てるんだよ」

その町に近づくことは、二度とないだろうと、友人は静かに言いました。

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