母方の実家は、山陰の、小さな漁村にあります。
その実家に、ずっと一人で暮らしている、母の姉。
私が、伯母と呼ぶ人が、先日、うちへ遊びに来ました。
夕食のあと、みんなで、テレビを見ていました。
古い戦争映画が、流れていました。
激しい爆撃の場面に、思わず、声が出ました。
「うわ、こわ。一瞬で、なにもかも、なくなっちゃうんだね」
そう言いながら、見ていたときでした。
伯母が、画面を見たまま、さりげなく、口を開きました。
とんでもない話を、始めたのです。
伯母は、もう七十を、過ぎています。
気丈で、めったに、弱音を吐かない人です。
その伯母が、その晩は、どこか、様子が違いました。
何度も、湯のみを、両手で包んでいました。
まるで、その温もりを、確かめるように。
「ねえ、不思議な話、聞いてくれる?」
伯母は、そう前置きして、話し始めました。
いつもの、伯母らしくない、低い声でした。
※
伯母の長女、つまり私の従姉が、少し前に、子どもを産みました。
とても、華奢な人でした。
そのせいか、ひどい難産だったそうです。
妊娠の途中から、二か月も、入院していました。
母体も危ない、ということで。
予定より早く、帝王切開で、産むことになったそうです。
今でこそ、母子ともに、元気です。
でも、そのころの伯母は、初孫ということもあり。
心配で、心配で、夜も、眠れなかったといいます。
病院へは、毎日、通ったそうです。
バスを、二本も、乗り継いで。
ガラスの向こうで、管につながれた娘を、見るだけの日々。
「代わってやりたい」
そう、何度も、思ったといいます。
でも、母親には、何も、できません。
ただ、祈ることしか。
家に帰ると、仏壇に、手を合わせました。
近所の神社にも、足を運びました。
お守りを、いくつも、買い求めました。
それでも、不安は、消えませんでした。
夜になると、最悪のことばかり、考えてしまう。
そんな、追い詰められた日々だったのです。
※
ある日のことでした。
病院から帰って、家にいると。
電話が、鳴りました。
相手は、子どものころの、幼馴染でした。
昔は、家も、近かったそうです。
でも、その人は、遠くへ引っ越していきました。
それでも、仲がよかったので。
長いあいだ、手紙のやりとりは、続いていたそうです。
ところが、ここ十年ほど。
ぱったりと、連絡が、途絶えていました。
娘のことで、疲れきっていた伯母です。
思いがけない、懐かしい人からの電話。
本当に、うれしかったそうです。
「久しぶりねえ。元気にしてたの?」
伯母は、はずんだ声で、言いました。
近況を、報告し合おうとしました。
はじめのうちは、本当に、楽しい電話でした。
「あなた、ちっとも、変わってないのね」
「そっちこそ。声、若いままじゃない」
二人は、子どものころの話で、笑い合いました。
一緒に通った、小学校のこと。
放課後に遊んだ、川のこと。
懐かしい名前が、いくつも、出てきました。
伯母は、つかのま、娘の心配を、忘れていました。
そのときでした。
相手の声の調子が、ふっと、変わったのは。
すると、その人が。
想像も、しなかったことを、言い出したのです。
※
「ねえ、私ね」
その人は、明るい声で、言いました。
「今、神様を、やってるのよ」
伯母は、聞き間違いかと、思いました。
「たくさんの人を、救ってあげてるの」
「あなたも、困ったことがあったら、いつでも電話して」
「私なら、助けてあげられると思うわ」
昔のままの、感じのよい声でした。
あまりにも、自然に言うので。
伯母は、「ああ、そう……」としか、返せなかったそうです。
おかしな話だ、と思いました。
でも、その夜でした。
娘と、生まれてくる赤ん坊のことを、考えていると。
疲れていたのでしょう。
そんな、とんでもない電話さえ。
「これも、何かの縁かもしれない」
伯母は、念のため、聞いてみたそうです。
「あなた、今、どこに、住んでるの?」
すると、相手は、ふふ、と笑いました。
「どこにでも、いるのよ。みんなの、心の中に」
その答えに、伯母は、ぞくりとしました。
声は、昔のまま、優しいのに。
言っていることだけが、まるで、別人でした。
電話の向こうから、子どもの、泣き声のようなものが。
かすかに、聞こえた気が、したそうです。
「じゃあ、また、連絡するわね」
そう言って、電話は、切れました。
「明日、頼んでみようかしら」
そう、思ってしまったそうです。
何かに、すがりたかったのでしょう。
電話を切ったあとも、その言葉が、頭に残りました。
神様を、やっている。
救ってあげられる。
普通なら、笑い飛ばす言葉です。
でも、そのときの伯母は、違いました。
わらにも、すがりたかったのです。
娘が助かるなら、何でもよかった。
そんな、心境だったのです。
その夜、伯母は、久しぶりに、ぐっすり眠りました。
※
夢を、見ました。
夢の中に、娘が、出てきました。
そして、子どものころのままの、あの幼馴染も。
娘は、なぜか、お腹が大きくありません。
三人で、仲よく、遊んでいました。
お花畑のような、明るい場所です。
幼馴染は、にこにこ、笑っています。
とても、幸せな夢でした。
夢の中の幼馴染は、本当に、優しい顔をしていました。
子どものころの、あの笑顔のまま。
「ねえ、こっちおいでよ」
幼馴染が、手招きします。
伯母は、なんの疑いもなく、近づきました。
花の香りが、むせ返るほど、濃かったそうです。
あまりに、甘すぎる、香り。
今思えば、あれが、最初の、合図でした。
楽しい夢の中に、ひとつだけ、混じった、違和感。
鞠のようなもので、遊んでいました。
その鞠が、伯母のほうへ、飛んできました。
伯母は、両手で、胸に、受け止めました。
すると。
その鞠の表面が、ずるりと、剥けたのです。
中から、ぬるりとした、何かが、出てきました。
溶けかかった、得体の知れないものでした。
伯母は、思わず、悲鳴を、あげました。
投げ捨てよう、としました。
でも、それは。
指に、絡みついて、離れません。
絡みついたものは、生温かく、脈打っていました。
まるで、何かが、まだ、生きているように。
伯母は、必死に、振りほどこうとしました。
とっさに、誰かに、投げつけようとして。
娘ではなく、幼馴染のほうを、見ました。
母親の、本能だったのでしょう。
娘にだけは、渡したくなかった。
でも、それは、伯母の指から、離れません。
しがみつくように。
まるで、伯母を、選んだように。
※
それを見て、幼馴染が、笑い出しました。
ケラケラ、ケラケラと。
狂ったように、笑うのです。
その目を見て、伯母は、凍りつきました。
白目が、ありませんでした。
目が、ぜんぶ、真っ黒なのです。
まるで、穴が、二つ、開いているように。
得体の知れないものの、鳴き声と。
幼馴染の、幼い子どもの笑い声が。
その笑い声は、二つに、重なっていました。
年老いた女の、笑い声と。
幼い子どもの、笑い声と。
同じ口から、二つの声が、出ているのです。
伯母は、その目から、目を、そらせませんでした。
真っ黒な、二つの穴。
そこに、吸い込まれそうな、気がしたそうです。
「助けてあげる」
その黒い口が、そう、動いた気がしました。
その瞬間、伯母は、飛び起きたのです。
重なって、響きました。
伯母は、飛び起きました。
全身、汗で、びっしょりでした。
心臓が、痛いほど、打っていました。
目覚めてからも、しばらく、動けませんでした。
指先に、まだ、あの感触が、残っているようでした。
ぬるりとした、生温かい、何か。
伯母は、何度も、手を、洗ったそうです。
洗っても、洗っても。
あの感触が、取れない気が、したのです。
窓の外は、よく晴れた、朝でした。
なのに、伯母の心だけが、暗く、沈んでいました。
※
「あのときね」
伯母は、テレビを見たまま、言いました。
「私、思ったのよ」
「あの溶けかけたものは、赤ちゃんだって」
「どうしてかは、分からない」
「人間の姿なんて、もちろん、してなかった」
「鳴き声は、獣みたいだった」
「でもね。絶対に、赤ちゃんだって、思ったの」
私は、背筋が、寒くなりました。
そこまで話して、伯母は、お茶を、ひとくち、飲みました。
居間が、しんと、静まり返っていました。
誰も、何も、言えませんでした。
テレビの音だけが、やけに、大きく聞こえました。
「作り話だと、思うでしょう」
伯母は、寂しそうに、笑いました。
「でも、本当のことなのよ」
伯母は、続けました。
「すごく、不吉に、感じてね」
「それきり、怖くて」
「せっかく電話してくれた幼馴染に、連絡できなかったの」
あんなに、すがろうとしていたのに。
あの夢が、伯母を、引き止めたのです。
※
その後、従姉の子は、無事に、生まれました。
母子ともに、元気でした。
あの、奇妙な電話のことも。
いつしか、忘れて、いきました。
日々の暮らしに、紛れて。
忘れて、しまったのです。
そして、ある日のことでした。
何気なく、つけたテレビ。
昼の、ワイドショーでした。
そこに、映し出された、名前。
年老いた、女性の顔。
伯母は、息を、のみました。
あの、幼馴染の、名前だったのです。
夢とは、かけ離れた。
すっかり、老いた顔でした。
画面には、見覚えのない、教団の名前が、出ていました。
信者たちが、頭を下げる、映像。
その中心に、一人の女性が、いました。
白い、ゆったりとした衣を、まとって。
穏やかに、微笑んでいました。
その笑顔に、伯母は、見覚えが、ありました。
夢の中で見た、あの笑顔と。
そっくり、だったのです。
ただし、目の奥だけが。
あの夢のように、暗く、淀んで見えた、といいます。
※
少し前に、ありましたよね。
怪しげな、新興宗教を、信じてしまった、若い夫婦。
幼くして亡くした我が子を巡って。
取り返しの、つかないことを、してしまった、という事件が。
その夫婦が、神様と、信じていた人。
それこそが。
伯母の、あの幼馴染だったのです。
信じられませんでした。
何不自由ない家庭に、いたはずの人です。
優しくて、明るくて。
伯母の、いちばんの友だちだった人。
報道は、淡々と、伝えていました。
その夫婦が、幼い我が子を、亡くしたこと。
悲しみのあまり、教団に、すがってしまったこと。
そして、教祖の言葉を、信じてしまったこと。
その先のことは、口にするのも、つらいことでした。
信じる、ということが。
これほど、人を、狂わせるものなのか。
伯母は、画面の前で、ただ、震えていました。
あのとき、自分も、すがろうとしたのです。
紙一重だった、と思ったそうです。
伯母の知らない、十年のあいだ。
その人に、いったい、何が、あったのでしょう。
伯母は、何度も、思い返したそうです。
連絡が途絶える前の、最後の手紙のことを。
その手紙には、こう書いてありました。
「最近、つらいことが、続いてね」
「でも、ある人に出会って、救われたの」
今思えば、あれが、始まりだったのでしょう。
優しかった幼馴染が、少しずつ、変わっていった。
その十年を、伯母は、知りません。
知らないあいだに、別の何かに、なっていたのです。
あの明るい声の、奥のほうで。
※
伯母は、怖い、というよりも。
テレビを見ながら、涙が、止まらなかったそうです。
「もし、あのとき」
伯母は、ぽつりと、言いました。
「あの電話で、本当に、相談していたら」
あの夢を、見ていなかったら。
伯母も、あの夫婦のように、なっていたのでしょうか。
あるいは。
あの夢こそが。
伯母を、止めるために、見せられたもの、だったのでしょうか。
私には、分かりません。
ただ、一つだけ、確かなことがあります。
伯母は、最後に、こう言いました。
「あの夢は、誰が、見せてくれたんだろう」
「亡くなった、母だろうか」
「それとも、生まれてくる、孫だろうか」
答えは、誰にも、分かりません。
ただ、あの夢がなければ。
伯母は、あの電話に、かけ直していたでしょう。
そして、深い、深い闇の中へ。
足を、踏み入れていたかもしれません。
弱っているとき、人は、優しい声に、惹かれます。
その声が、どこから来ているのか。
確かめる力さえ、失っているのです。
私は、伯母の話を聞きながら、ふと、思いました。
あの幼馴染も、きっと、最初は、優しい人だったはずです。
誰かを、救いたいと、本気で、願っていたのかもしれません。
だからこそ、怖いのです。
その夜、伯母が帰ったあと、私は、なかなか、寝つけませんでした。
優しい声で、助けてあげる、とささやくもの。
それは、本当に、人間だったのでしょうか。
それとも、もっと、別の何かが。
幼馴染の姿を、借りていただけ、なのでしょうか。
考えれば、考えるほど、分からなくなります。
ただ、一つだけ。
あの夢が、伯母を、救ったことだけは、確かなのです。
窓の外で、夜風が、かすかに、鳴りました。
その音さえ、誰かの、ささやきのように、聞こえました。
私は、布団を、少しだけ、深くかぶりました。
優しい声には、気をつけよう。
伯母の言葉を、胸の中で、繰り返しながら。
その夜は、結局、朝まで、眠れませんでした。
枕元の電話が、鳴らないことを、ただ祈りながら。
善意の顔をして、忍び寄ってくるもの。
それが、いちばん、たちが悪い。
伯母の幼馴染が、どこで、道を、踏み外したのか。
それは、もう、誰にも、分かりません。
懐かしい声で、救ってあげる、とささやくもの。
それは、必ずしも、救いでは、ないのです。
それから、伯母は、孫を、誰よりも、大切に育てました。
あの夢で守られた命だと、思っているからです。
今でも、伯母は、知らない番号からの電話には、出ません。
優しい声ほど、警戒する、と言います。
「救ってあげる、なんて言う人ほど」
「気をつけなきゃ、いけないのよ」
伯母は、孫の写真を見ながら、そう言いました。
その言葉が、妙に、胸に、残りました。
伯母の指に絡みついた、あの感触は。
今でも、忘れられない、と言います。