救ってあげる、という声

母方の実家は、山陰の、小さな漁村にあります。

その実家に、ずっと一人で暮らしている、母の姉。

私が、伯母と呼ぶ人が、先日、うちへ遊びに来ました。

夕食のあと、みんなで、テレビを見ていました。

古い戦争映画が、流れていました。

激しい爆撃の場面に、思わず、声が出ました。

「うわ、こわ。一瞬で、なにもかも、なくなっちゃうんだね」

そう言いながら、見ていたときでした。

伯母が、画面を見たまま、さりげなく、口を開きました。

とんでもない話を、始めたのです。

伯母は、もう七十を、過ぎています。

気丈で、めったに、弱音を吐かない人です。

その伯母が、その晩は、どこか、様子が違いました。

何度も、湯のみを、両手で包んでいました。

まるで、その温もりを、確かめるように。

「ねえ、不思議な話、聞いてくれる?」

伯母は、そう前置きして、話し始めました。

いつもの、伯母らしくない、低い声でした。

伯母の長女、つまり私の従姉が、少し前に、子どもを産みました。

とても、華奢な人でした。

そのせいか、ひどい難産だったそうです。

妊娠の途中から、二か月も、入院していました。

母体も危ない、ということで。

予定より早く、帝王切開で、産むことになったそうです。

今でこそ、母子ともに、元気です。

でも、そのころの伯母は、初孫ということもあり。

心配で、心配で、夜も、眠れなかったといいます。

病院へは、毎日、通ったそうです。

バスを、二本も、乗り継いで。

ガラスの向こうで、管につながれた娘を、見るだけの日々。

「代わってやりたい」

そう、何度も、思ったといいます。

でも、母親には、何も、できません。

ただ、祈ることしか。

家に帰ると、仏壇に、手を合わせました。

近所の神社にも、足を運びました。

お守りを、いくつも、買い求めました。

それでも、不安は、消えませんでした。

夜になると、最悪のことばかり、考えてしまう。

そんな、追い詰められた日々だったのです。

ある日のことでした。

病院から帰って、家にいると。

電話が、鳴りました。

相手は、子どものころの、幼馴染でした。

昔は、家も、近かったそうです。

でも、その人は、遠くへ引っ越していきました。

それでも、仲がよかったので。

長いあいだ、手紙のやりとりは、続いていたそうです。

ところが、ここ十年ほど。

ぱったりと、連絡が、途絶えていました。

娘のことで、疲れきっていた伯母です。

思いがけない、懐かしい人からの電話。

本当に、うれしかったそうです。

「久しぶりねえ。元気にしてたの?」

伯母は、はずんだ声で、言いました。

近況を、報告し合おうとしました。

はじめのうちは、本当に、楽しい電話でした。

「あなた、ちっとも、変わってないのね」

「そっちこそ。声、若いままじゃない」

二人は、子どものころの話で、笑い合いました。

一緒に通った、小学校のこと。

放課後に遊んだ、川のこと。

懐かしい名前が、いくつも、出てきました。

伯母は、つかのま、娘の心配を、忘れていました。

そのときでした。

相手の声の調子が、ふっと、変わったのは。

すると、その人が。

想像も、しなかったことを、言い出したのです。

「ねえ、私ね」

その人は、明るい声で、言いました。

「今、神様を、やってるのよ」

伯母は、聞き間違いかと、思いました。

「たくさんの人を、救ってあげてるの」

「あなたも、困ったことがあったら、いつでも電話して」

「私なら、助けてあげられると思うわ」

昔のままの、感じのよい声でした。

あまりにも、自然に言うので。

伯母は、「ああ、そう……」としか、返せなかったそうです。

おかしな話だ、と思いました。

でも、その夜でした。

娘と、生まれてくる赤ん坊のことを、考えていると。

疲れていたのでしょう。

そんな、とんでもない電話さえ。

「これも、何かの縁かもしれない」

伯母は、念のため、聞いてみたそうです。

「あなた、今、どこに、住んでるの?」

すると、相手は、ふふ、と笑いました。

「どこにでも、いるのよ。みんなの、心の中に」

その答えに、伯母は、ぞくりとしました。

声は、昔のまま、優しいのに。

言っていることだけが、まるで、別人でした。

電話の向こうから、子どもの、泣き声のようなものが。

かすかに、聞こえた気が、したそうです。

「じゃあ、また、連絡するわね」

そう言って、電話は、切れました。

「明日、頼んでみようかしら」

そう、思ってしまったそうです。

何かに、すがりたかったのでしょう。

電話を切ったあとも、その言葉が、頭に残りました。

神様を、やっている。

救ってあげられる。

普通なら、笑い飛ばす言葉です。

でも、そのときの伯母は、違いました。

わらにも、すがりたかったのです。

娘が助かるなら、何でもよかった。

そんな、心境だったのです。

その夜、伯母は、久しぶりに、ぐっすり眠りました。

夢を、見ました。

夢の中に、娘が、出てきました。

そして、子どものころのままの、あの幼馴染も。

娘は、なぜか、お腹が大きくありません。

三人で、仲よく、遊んでいました。

お花畑のような、明るい場所です。

幼馴染は、にこにこ、笑っています。

とても、幸せな夢でした。

夢の中の幼馴染は、本当に、優しい顔をしていました。

子どものころの、あの笑顔のまま。

「ねえ、こっちおいでよ」

幼馴染が、手招きします。

伯母は、なんの疑いもなく、近づきました。

花の香りが、むせ返るほど、濃かったそうです。

あまりに、甘すぎる、香り。

今思えば、あれが、最初の、合図でした。

楽しい夢の中に、ひとつだけ、混じった、違和感。

鞠のようなもので、遊んでいました。

その鞠が、伯母のほうへ、飛んできました。

伯母は、両手で、胸に、受け止めました。

すると。

その鞠の表面が、ずるりと、剥けたのです。

中から、ぬるりとした、何かが、出てきました。

溶けかかった、得体の知れないものでした。

伯母は、思わず、悲鳴を、あげました。

投げ捨てよう、としました。

でも、それは。

指に、絡みついて、離れません。

絡みついたものは、生温かく、脈打っていました。

まるで、何かが、まだ、生きているように。

伯母は、必死に、振りほどこうとしました。

とっさに、誰かに、投げつけようとして。

娘ではなく、幼馴染のほうを、見ました。

母親の、本能だったのでしょう。

娘にだけは、渡したくなかった。

でも、それは、伯母の指から、離れません。

しがみつくように。

まるで、伯母を、選んだように。

それを見て、幼馴染が、笑い出しました。

ケラケラ、ケラケラと。

狂ったように、笑うのです。

その目を見て、伯母は、凍りつきました。

白目が、ありませんでした。

目が、ぜんぶ、真っ黒なのです。

まるで、穴が、二つ、開いているように。

得体の知れないものの、鳴き声と。

幼馴染の、幼い子どもの笑い声が。

その笑い声は、二つに、重なっていました。

年老いた女の、笑い声と。

幼い子どもの、笑い声と。

同じ口から、二つの声が、出ているのです。

伯母は、その目から、目を、そらせませんでした。

真っ黒な、二つの穴。

そこに、吸い込まれそうな、気がしたそうです。

「助けてあげる」

その黒い口が、そう、動いた気がしました。

その瞬間、伯母は、飛び起きたのです。

重なって、響きました。

伯母は、飛び起きました。

全身、汗で、びっしょりでした。

心臓が、痛いほど、打っていました。

目覚めてからも、しばらく、動けませんでした。

指先に、まだ、あの感触が、残っているようでした。

ぬるりとした、生温かい、何か。

伯母は、何度も、手を、洗ったそうです。

洗っても、洗っても。

あの感触が、取れない気が、したのです。

窓の外は、よく晴れた、朝でした。

なのに、伯母の心だけが、暗く、沈んでいました。

「あのときね」

伯母は、テレビを見たまま、言いました。

「私、思ったのよ」

「あの溶けかけたものは、赤ちゃんだって」

「どうしてかは、分からない」

「人間の姿なんて、もちろん、してなかった」

「鳴き声は、獣みたいだった」

「でもね。絶対に、赤ちゃんだって、思ったの」

私は、背筋が、寒くなりました。

そこまで話して、伯母は、お茶を、ひとくち、飲みました。

居間が、しんと、静まり返っていました。

誰も、何も、言えませんでした。

テレビの音だけが、やけに、大きく聞こえました。

「作り話だと、思うでしょう」

伯母は、寂しそうに、笑いました。

「でも、本当のことなのよ」

伯母は、続けました。

「すごく、不吉に、感じてね」

「それきり、怖くて」

「せっかく電話してくれた幼馴染に、連絡できなかったの」

あんなに、すがろうとしていたのに。

あの夢が、伯母を、引き止めたのです。

その後、従姉の子は、無事に、生まれました。

母子ともに、元気でした。

あの、奇妙な電話のことも。

いつしか、忘れて、いきました。

日々の暮らしに、紛れて。

忘れて、しまったのです。

そして、ある日のことでした。

何気なく、つけたテレビ。

昼の、ワイドショーでした。

そこに、映し出された、名前。

年老いた、女性の顔。

伯母は、息を、のみました。

あの、幼馴染の、名前だったのです。

夢とは、かけ離れた。

すっかり、老いた顔でした。

画面には、見覚えのない、教団の名前が、出ていました。

信者たちが、頭を下げる、映像。

その中心に、一人の女性が、いました。

白い、ゆったりとした衣を、まとって。

穏やかに、微笑んでいました。

その笑顔に、伯母は、見覚えが、ありました。

夢の中で見た、あの笑顔と。

そっくり、だったのです。

ただし、目の奥だけが。

あの夢のように、暗く、淀んで見えた、といいます。

少し前に、ありましたよね。

怪しげな、新興宗教を、信じてしまった、若い夫婦。

幼くして亡くした我が子を巡って。

取り返しの、つかないことを、してしまった、という事件が。

その夫婦が、神様と、信じていた人。

それこそが。

伯母の、あの幼馴染だったのです。

信じられませんでした。

何不自由ない家庭に、いたはずの人です。

優しくて、明るくて。

伯母の、いちばんの友だちだった人。

報道は、淡々と、伝えていました。

その夫婦が、幼い我が子を、亡くしたこと。

悲しみのあまり、教団に、すがってしまったこと。

そして、教祖の言葉を、信じてしまったこと。

その先のことは、口にするのも、つらいことでした。

信じる、ということが。

これほど、人を、狂わせるものなのか。

伯母は、画面の前で、ただ、震えていました。

あのとき、自分も、すがろうとしたのです。

紙一重だった、と思ったそうです。

伯母の知らない、十年のあいだ。

その人に、いったい、何が、あったのでしょう。

伯母は、何度も、思い返したそうです。

連絡が途絶える前の、最後の手紙のことを。

その手紙には、こう書いてありました。

「最近、つらいことが、続いてね」

「でも、ある人に出会って、救われたの」

今思えば、あれが、始まりだったのでしょう。

優しかった幼馴染が、少しずつ、変わっていった。

その十年を、伯母は、知りません。

知らないあいだに、別の何かに、なっていたのです。

あの明るい声の、奥のほうで。

伯母は、怖い、というよりも。

テレビを見ながら、涙が、止まらなかったそうです。

「もし、あのとき」

伯母は、ぽつりと、言いました。

「あの電話で、本当に、相談していたら」

あの夢を、見ていなかったら。

伯母も、あの夫婦のように、なっていたのでしょうか。

あるいは。

あの夢こそが。

伯母を、止めるために、見せられたもの、だったのでしょうか。

私には、分かりません。

ただ、一つだけ、確かなことがあります。

伯母は、最後に、こう言いました。

「あの夢は、誰が、見せてくれたんだろう」

「亡くなった、母だろうか」

「それとも、生まれてくる、孫だろうか」

答えは、誰にも、分かりません。

ただ、あの夢がなければ。

伯母は、あの電話に、かけ直していたでしょう。

そして、深い、深い闇の中へ。

足を、踏み入れていたかもしれません。

弱っているとき、人は、優しい声に、惹かれます。

その声が、どこから来ているのか。

確かめる力さえ、失っているのです。

私は、伯母の話を聞きながら、ふと、思いました。

あの幼馴染も、きっと、最初は、優しい人だったはずです。

誰かを、救いたいと、本気で、願っていたのかもしれません。

だからこそ、怖いのです。

その夜、伯母が帰ったあと、私は、なかなか、寝つけませんでした。

優しい声で、助けてあげる、とささやくもの。

それは、本当に、人間だったのでしょうか。

それとも、もっと、別の何かが。

幼馴染の姿を、借りていただけ、なのでしょうか。

考えれば、考えるほど、分からなくなります。

ただ、一つだけ。

あの夢が、伯母を、救ったことだけは、確かなのです。

窓の外で、夜風が、かすかに、鳴りました。

その音さえ、誰かの、ささやきのように、聞こえました。

私は、布団を、少しだけ、深くかぶりました。

優しい声には、気をつけよう。

伯母の言葉を、胸の中で、繰り返しながら。

その夜は、結局、朝まで、眠れませんでした。

枕元の電話が、鳴らないことを、ただ祈りながら。

善意の顔をして、忍び寄ってくるもの。

それが、いちばん、たちが悪い。

伯母の幼馴染が、どこで、道を、踏み外したのか。

それは、もう、誰にも、分かりません。

懐かしい声で、救ってあげる、とささやくもの。

それは、必ずしも、救いでは、ないのです。

それから、伯母は、孫を、誰よりも、大切に育てました。

あの夢で守られた命だと、思っているからです。

今でも、伯母は、知らない番号からの電話には、出ません。

優しい声ほど、警戒する、と言います。

「救ってあげる、なんて言う人ほど」

「気をつけなきゃ、いけないのよ」

伯母は、孫の写真を見ながら、そう言いました。

その言葉が、妙に、胸に、残りました。

伯母の指に絡みついた、あの感触は。

今でも、忘れられない、と言います。

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