胸騒ぎ

これは、学生のころ、下宿の管理人だった老人から、聞いた話だ。

その下宿には、八つの部屋が、あった。

住んでいたのは、わたしのような学生や、近くの工場で働く、独り身の男たちだった。

風呂は、共同。台所も、共同。電話は、廊下に一台、黒いものが、置かれていた。

その黒電話は、ダイヤルの、3の穴が、欠けていて、回すたびに、指が、引っかかった。

夜になると、家じゅうが、しんと、静まりかえった。

そんな夜に、管理人室から漏れる、老人の小さな明かりだけが、なぜか、心強かった。

わたしが暮らしていたのは、北国の城下町の、古い下宿だった。

明治のころに建てられたという、二階建ての、木造の家。

廊下を歩くたびに、床板が、きしんで、低く鳴った。

冬になると、窓の桟から、隙間風が、ひゅう、と、細く鳴いた。

管理人の老人は、その家で、もう五十年も、暮らしているという人だった。

夜、わたしがひとりで台所にいると、よく、お茶に誘ってくれた。

その夜も、しんしんと、雪が降っていた。

老人は、湯呑みを両手で包みながら、ぽつりと、切り出した。

昔、この下宿に、Kという、変わった青年が、住んでいたという。

Kは、ごくたまに、ものすごい胸騒ぎに、襲われる体質だった。

前触れも、なく。理由も、なく。

急に、顔から、血の気が引き、額に、玉のような汗を、かきはじめる。

そして、しばらく、口もきけなくなる。

老人の話す、Kという青年は、無口で、痩せた、目の大きな男だったという。

友人は、少なかった。けれど、いったん仲良くなると、誰よりも、相手を、大切にした。

そのKが、初めて、胸騒ぎを起こしたのを、老人は、たまたま、目撃していた。

ある春の昼下がり。Kは、廊下で、突然、壁に、手をついた。

顔は、紙のように、白かった。

「気分でも、悪いのか」と、老人が、声をかけても、Kは、答えなかった。

ただ、自分の胸を、ぎゅっと、押さえていた。

最初、老人は、Kの持病か何かだろうと、思っていた。

けれど、その胸騒ぎには、ひとつ、決まりがあった。

Kが胸騒ぎを覚えたあと、必ず、彼の親しい誰かが、亡くなるのだ。

しかも、その相手は、決まって、Kから、遠く離れた場所にいる人だった。

近くにいる友人は、なぜか、無事だった。

その三日後だった。

Kの、中学時代の親友が、隣の県で、川に落ちて、亡くなった、と。

Kのもとに、報せが、届いた。

Kは、それを聞いても、不思議と、取り乱さなかった。

ただ、「やっぱり」と、小さく、つぶやいた、という。

その横顔を、老人は、忘れられなかった。

覚悟していた人間の、顔だった。

遠くにいる、会えない誰かだけが、命を落とした。

二度目は、夏の、蒸し暑い夜だった。

Kが、共同の台所で、急に、しゃがみ込んだ。

額の汗が、ぽたぽたと、床に、落ちた。

そのときも、数日後に、Kの、遠い親戚の子が、海で、亡くなった。

三度目のときには、老人も、もう、偶然だとは、思えなくなっていた。

Kが胸を押さえるたびに、老人は、息を、のむようになった。

今度は、誰だ、と。

老人は、半信半疑だった。

偶然が、何度か、重なっただけだろう、と。

そう思っていた。

あの、年の暮れの夜までは。

あるとき、老人は、思いきって、Kに、訊いてみた。

なぜ、近くの人間は、無事で、遠くの人間ばかりが、死ぬのか、と。

Kは、しばらく考えて、こう答えた。

「近くにいれば、助けに行ける。だから、たぶん、報せが来ないんだ」

「遠くにいて、どうしようもないやつのことだけ、胸が、騒ぐ」

その理屈が、正しいのかは、わからない。

けれど、Kは、本気で、そう信じていた。

その日、老人とKは、二階のKの部屋で、二人で、酒を飲んでいた。

その夜のことを、老人は、何度も、繰り返し話した。

覚えているのは、あの、異様な静けさだった。

雪が、音を、すべて、吸い込んでいた。

二人の、湯呑みを置く音だけが、やけに、大きく響いた。

Kは、その晩、めずらしく、機嫌が、よかったという。

故郷のTと、近々、会う約束をしていたからだ。

その話を、嬉しそうに、していた、まさにその矢先だった。

Kの箸が、宙で、止まったのは。

外は、その夜も、雪だった。

窓の外で、雪の積もる音さえ、聞こえそうな、静かな晩だった。

ふいに、Kの箸が、止まった。

見ると、Kの顔から、みるみる、血の気が、引いていった。

額に、汗が、噴き出していた。

「おい、どうした」と、老人は、声をかけた。

Kは、答えなかった。

Kは、突然、立ち上がった。

そして、廊下の、共同の黒電話に、駆け寄った。

懐から、手帳を取り出し、震える指で、ページを、めくる。

そこには、親しい友人たちの、連絡先が、並んでいた。

Kは、片っ端から、ダイヤルを、回しはじめた。

電話がつながると、Kは、相手に、こう言った。

「いま、どこにいる」

「そうか。頼むから、今夜だけは、この町から、出るな」

「理由は、あとで話す。とにかく、町を、出るな」

相手が、何を言っても、Kは、それだけを、繰り返した。

その声は、必死だった。

老人は、廊下に立って、その様子を、ただ、見ていた。

Kの背中は、汗で、ぐっしょりと、濡れていた。

電話の、黒い受話器を握る手が、白くなるほど、力が、入っていた。

Kは、手帳の連絡先を、上から、ひとつずつ、つぶしていった。

何人かは、つながった。

何人かは、呼び出し音が、鳴り続けるだけで、出なかった。

すべてに、かけ終えると、Kは、その場に、座り込んだ。

老人は、Kの隣に、しゃがんで、わけを、訊いた。

Kは、肩で息をしながら、低い声で、言った。

自分が、この胸騒ぎを覚えるときは。

自分の、親しい友人で。

自分の、近くにいない人が。

必ず、死ぬのだと。

老人は、背筋が、ぞっと、冷えた。

窓の外の雪が、急に、不吉なものに、見えた。

「だが、みんなに、電話したじゃないか」と、老人は言った。

「町を出るな、と。これで、大丈夫なんだろう」

Kは、首を、横に振った。

「出なかったやつが、いる」

Kは、Tの実家の番号も、知っていた。

急いで、そちらにも、ダイヤルを、回した。

欠けた、3の穴に、Kの指が、何度も、引っかかった。

焦るほど、指は、もつれた。

ようやく出たのは、Tの、母親だった。

「Tは、さっき、友達に呼ばれて、出かけましたよ」

のんびりとした声が、受話器から、漏れた。

Kは、必死で、頼んだ。

「Tさんを、すぐに、家に、戻してください」

けれど、当時、出かけた人間と、連絡を取る術は、なかった。

Kは、受話器を握ったまま、力なく、つぶやいた。

「もう、間に合わない」

電話を切ったあと、Kは、廊下に、座り込んだまま、動かなかった。

老人が、肩に手を置いても、Kは、震えるばかりだった。

「おれが、会おうなんて、言わなければ」

Kは、そう、繰り返した。

「おれが、呼んだから、Tは、浮かれて、出かけたんだ」

自分の胸騒ぎが、Tを、殺したわけではない。

Tの母親の、あの、のんびりとした声が、いまも、忘れられない、と老人は言った。

息子が、もう、この世にいないことを、まだ、知らない声。

その、ほんの数時間の差を、Kは、どうしても、埋められなかった。

それでも、Kは、自分を、責め続けた。

電話に出なかったのは、たった、ひとりだった。

Kと、いちばん仲の良かった、同郷の友人だった。

その友人は、ひと足先に、年末年始を、実家で過ごすため。

故郷へ、帰省していた。

つまり、もう、この町には、いなかった。

電話に出なかった、その同郷の友人は、Tといった。

Kと、Tは、同じ村の、生まれだった。

幼いころから、田んぼのあぜ道を、一緒に、駆け回った仲だという。

この町の、同じ大学に進んだのも、二人で、約束したからだった。

Tは、明るく、よく笑う男で、無口なKの、ただ一人の、心を許せる相手だった。

そのTだけが、その夜、電話に、出なかった。

報せが、届いたのは、それから、二時間ほど、あとだった。

その友人が、実家の近くの、交差点で。

車に、はねられて、亡くなった、というのだ。

Kが、胸騒ぎを覚えた、ちょうど、その時刻に。

事故は、起きていた。

Tは、その夜、地元の友人の車に、乗せてもらっていた。

久しぶりの再会に、はしゃいでいたのだろう。

村の、見通しの悪い交差点で。

横から来た車に、助手席を、まともに、ぶつけられた。

Tだけが、亡くなった。

運転していた友人は、かすり傷だった。

近くにいた人間は、無事で。遠くにいたTだけが、逝った。

Kの、言ったとおりに。

老人は、Kの手帳のことも、覚えていた。

Tの名前の、横にだけ。

鉛筆で、小さな丸が、いくつも、つけられていた、という。

いちばん、大事な、友達の、しるしだったのだろう。

そして、その丸のついた名前だけが。

あの夜、電話に、つながらなかった。

Tの葬儀に、Kは、村まで、出かけていった。

帰ってきたKの顔は、紙より、白かった、と老人は言う。

Kは、それきり、Tの話を、一切、しなくなった。

部屋に、こもりがちに、なった。

夜中に、Kの部屋から、低い、うめき声が、漏れることが、あった。

老人が、襖ごしに、声をかけても、返事は、なかった。

老人は、そこまで話すと、湯呑みの、冷めたお茶を、ひとくち、すすった。

「Kは、その後、この下宿を、出ていった」

「もう、誰とも、親しくなりたくない、と言ってな」

親しい人ができれば、また、あの胸騒ぎが、来る。

そして、自分は、その死を、止められない。

Kは、それに、耐えられなかったのだ。

その後、Kは、人が、変わったように、なった。

誰とも、深く、付き合わなくなった。

親しくなりかけると、自分から、距離を、置いた。

親しい人ができれば、また、あの胸騒ぎが、来る。

そして、自分は、その死を、ただ、報せの形で、受け取るだけ。

何ひとつ、止められない。

その無力さに、Kは、耐えられなかったのだ。

いま思えば、と、老人は言った。

Kにとって、いちばん、つらかったのは。

友を、失ったことでは、なかったのかもしれない。

前もって、それを、知らされていたのに。

何ひとつ、できなかった。

その、無力さこそが、Kを、いちばん、深く、傷つけたのだ。

知らなければ、ただ、悲しむだけで、すんだ。

知ってしまったから、Kは、自分を、許せなくなった。

春になって、Kは、誰にも告げずに、下宿を、出ていった。

行き先は、誰も、知らない。

老人の話は、そこで、終わった。

わたしは、すっかり冷えた茶を、飲み干すのも、忘れていた。

「その、Kさんは、いまも、どこかで」

わたしが、そう訊くと、老人は、首を、横に振った。

「さあな。便りも、ないよ」

ただ、と、老人は、付け加えた。

「あいつが出ていったあとも、ときどき、この廊下の電話が」

「真夜中に、ひとりでに、鳴ることが、あるんだ」

出ても、誰も、いない。

ただ、ざあ、という、雪の音のような、雑音だけが、聞こえる、という。

わたしは、その下宿で、二年を、過ごした。

卒業して、町を出る、前の晩のことだ。

荷物を、ほとんど、まとめ終えたころ。

深夜に、廊下の、あの黒電話が、鳴った。

こんな時間に、誰だろう。

わたしは、寝間着のまま、廊下に出て、受話器を、取った。

「もしもし」

返事は、なかった。

ただ、ざあ、ざあ、という、雪の降るような、雑音だけが、聞こえた。

わたしは、Kの話を、思い出して、背筋が、凍りついた。

もしもし、と、もう一度、言った。

雑音は、ふつりと、途切れ、電話は、切れた。

翌朝、わたしは、管理人の老人に、そのことを、話した。

老人は、うなずいて、こう言った。

「ああ。あれは、たまに、鳴るんだ」

「気に、するな」

けれど、その目は、笑っていなかった。

わたしは、結局、その電話の正体を、知らないまま、町を、出た。

あれから、もう、ずいぶんと、経つ。

わたしは、いまでも、雪の降る夜には、Kのことを、思い出す。

会ったことも、ない男だ。

それでも、雪の静けさの中で、ふと、胸の奥が、ざわつくことがある。

そんなとき、わたしは、慌てて、頭を、振る。

これは、ただの、気のせいだ。胸騒ぎなんかじゃ、ない。

そう、自分に、言い聞かせながら。

わたしは、Kのことを、かわいそうだとは、思わない。

むしろ、こわい。

未来の不幸を、先に、知らされること。

それは、救いでは、なく、ただの、呪いだ。

何も知らずにいられることが、どれほど、ありがたいか。

わたしは、あの下宿で、それを、学んだ気がする。

あの古い下宿は、数年前に、取り壊されたと聞いた。

廊下の、欠けたダイヤルの黒電話も、もう、ない。

それでも、ときどき、思う。

あの電話は、いったい、誰からの、ものだったのか。

間に合わなかった、Kの祈りが、まだ、線の向こうで、鳴り続けているような。

そんな気が、するのだ。

老人は、最後に、ぽつりと、言った。

「人は、知らないほうが、幸せなことも、あるんだよ」

その言葉が、いまも、雪の夜になると、耳の奥で、よみがえる。

わたしは、その話を聞いて、しばらく、口がきけなかった。

窓の外では、雪が、まだ、降り続いていた。

古い下宿の廊下の、あの黒電話は、わたしの時代にも、まだ、残っていた。

その夜から、わたしは、あの黒電話の前を通るのが、こわくなった。

ダイヤルの、欠けた3の穴を見るたび、Tの実家にかけた、Kの、もつれた指を、思った。

間に合わなかった、あの夜の電話を。

もし、いつか、この電話が、真夜中に、鳴って。

出たわたしに、誰かが、低い声で、町を出るな、と、告げたら。

あるいは、ざあ、という、あの雪の音だけが、聞こえてきたら。

その夜から、わたしは、その電話の前を通るのが、少し、こわくなった。

もし、いつか、これが鳴って。

出たわたしに、誰かが、町を出るな、と、言ったら。

わたしは、どうすれば、いいのだろう。

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