これは、学生のころ、下宿の管理人だった老人から、聞いた話だ。
その下宿には、八つの部屋が、あった。
住んでいたのは、わたしのような学生や、近くの工場で働く、独り身の男たちだった。
風呂は、共同。台所も、共同。電話は、廊下に一台、黒いものが、置かれていた。
その黒電話は、ダイヤルの、3の穴が、欠けていて、回すたびに、指が、引っかかった。
夜になると、家じゅうが、しんと、静まりかえった。
そんな夜に、管理人室から漏れる、老人の小さな明かりだけが、なぜか、心強かった。
※
わたしが暮らしていたのは、北国の城下町の、古い下宿だった。
明治のころに建てられたという、二階建ての、木造の家。
廊下を歩くたびに、床板が、きしんで、低く鳴った。
冬になると、窓の桟から、隙間風が、ひゅう、と、細く鳴いた。
管理人の老人は、その家で、もう五十年も、暮らしているという人だった。
夜、わたしがひとりで台所にいると、よく、お茶に誘ってくれた。
その夜も、しんしんと、雪が降っていた。
※
老人は、湯呑みを両手で包みながら、ぽつりと、切り出した。
昔、この下宿に、Kという、変わった青年が、住んでいたという。
Kは、ごくたまに、ものすごい胸騒ぎに、襲われる体質だった。
前触れも、なく。理由も、なく。
急に、顔から、血の気が引き、額に、玉のような汗を、かきはじめる。
そして、しばらく、口もきけなくなる。
老人の話す、Kという青年は、無口で、痩せた、目の大きな男だったという。
友人は、少なかった。けれど、いったん仲良くなると、誰よりも、相手を、大切にした。
そのKが、初めて、胸騒ぎを起こしたのを、老人は、たまたま、目撃していた。
ある春の昼下がり。Kは、廊下で、突然、壁に、手をついた。
顔は、紙のように、白かった。
「気分でも、悪いのか」と、老人が、声をかけても、Kは、答えなかった。
ただ、自分の胸を、ぎゅっと、押さえていた。
※
最初、老人は、Kの持病か何かだろうと、思っていた。
けれど、その胸騒ぎには、ひとつ、決まりがあった。
Kが胸騒ぎを覚えたあと、必ず、彼の親しい誰かが、亡くなるのだ。
しかも、その相手は、決まって、Kから、遠く離れた場所にいる人だった。
近くにいる友人は、なぜか、無事だった。
その三日後だった。
Kの、中学時代の親友が、隣の県で、川に落ちて、亡くなった、と。
Kのもとに、報せが、届いた。
Kは、それを聞いても、不思議と、取り乱さなかった。
ただ、「やっぱり」と、小さく、つぶやいた、という。
その横顔を、老人は、忘れられなかった。
覚悟していた人間の、顔だった。
遠くにいる、会えない誰かだけが、命を落とした。
二度目は、夏の、蒸し暑い夜だった。
Kが、共同の台所で、急に、しゃがみ込んだ。
額の汗が、ぽたぽたと、床に、落ちた。
そのときも、数日後に、Kの、遠い親戚の子が、海で、亡くなった。
三度目のときには、老人も、もう、偶然だとは、思えなくなっていた。
Kが胸を押さえるたびに、老人は、息を、のむようになった。
今度は、誰だ、と。
※
老人は、半信半疑だった。
偶然が、何度か、重なっただけだろう、と。
そう思っていた。
あの、年の暮れの夜までは。
あるとき、老人は、思いきって、Kに、訊いてみた。
なぜ、近くの人間は、無事で、遠くの人間ばかりが、死ぬのか、と。
Kは、しばらく考えて、こう答えた。
「近くにいれば、助けに行ける。だから、たぶん、報せが来ないんだ」
「遠くにいて、どうしようもないやつのことだけ、胸が、騒ぐ」
その理屈が、正しいのかは、わからない。
けれど、Kは、本気で、そう信じていた。
※
その日、老人とKは、二階のKの部屋で、二人で、酒を飲んでいた。
その夜のことを、老人は、何度も、繰り返し話した。
覚えているのは、あの、異様な静けさだった。
雪が、音を、すべて、吸い込んでいた。
二人の、湯呑みを置く音だけが、やけに、大きく響いた。
Kは、その晩、めずらしく、機嫌が、よかったという。
故郷のTと、近々、会う約束をしていたからだ。
その話を、嬉しそうに、していた、まさにその矢先だった。
Kの箸が、宙で、止まったのは。
外は、その夜も、雪だった。
窓の外で、雪の積もる音さえ、聞こえそうな、静かな晩だった。
ふいに、Kの箸が、止まった。
見ると、Kの顔から、みるみる、血の気が、引いていった。
額に、汗が、噴き出していた。
「おい、どうした」と、老人は、声をかけた。
Kは、答えなかった。
※
Kは、突然、立ち上がった。
そして、廊下の、共同の黒電話に、駆け寄った。
懐から、手帳を取り出し、震える指で、ページを、めくる。
そこには、親しい友人たちの、連絡先が、並んでいた。
Kは、片っ端から、ダイヤルを、回しはじめた。
※
電話がつながると、Kは、相手に、こう言った。
「いま、どこにいる」
「そうか。頼むから、今夜だけは、この町から、出るな」
「理由は、あとで話す。とにかく、町を、出るな」
相手が、何を言っても、Kは、それだけを、繰り返した。
その声は、必死だった。
※
老人は、廊下に立って、その様子を、ただ、見ていた。
Kの背中は、汗で、ぐっしょりと、濡れていた。
電話の、黒い受話器を握る手が、白くなるほど、力が、入っていた。
Kは、手帳の連絡先を、上から、ひとつずつ、つぶしていった。
何人かは、つながった。
何人かは、呼び出し音が、鳴り続けるだけで、出なかった。
※
すべてに、かけ終えると、Kは、その場に、座り込んだ。
老人は、Kの隣に、しゃがんで、わけを、訊いた。
Kは、肩で息をしながら、低い声で、言った。
自分が、この胸騒ぎを覚えるときは。
自分の、親しい友人で。
自分の、近くにいない人が。
必ず、死ぬのだと。
※
老人は、背筋が、ぞっと、冷えた。
窓の外の雪が、急に、不吉なものに、見えた。
「だが、みんなに、電話したじゃないか」と、老人は言った。
「町を出るな、と。これで、大丈夫なんだろう」
Kは、首を、横に振った。
「出なかったやつが、いる」
Kは、Tの実家の番号も、知っていた。
急いで、そちらにも、ダイヤルを、回した。
欠けた、3の穴に、Kの指が、何度も、引っかかった。
焦るほど、指は、もつれた。
ようやく出たのは、Tの、母親だった。
「Tは、さっき、友達に呼ばれて、出かけましたよ」
のんびりとした声が、受話器から、漏れた。
Kは、必死で、頼んだ。
「Tさんを、すぐに、家に、戻してください」
けれど、当時、出かけた人間と、連絡を取る術は、なかった。
Kは、受話器を握ったまま、力なく、つぶやいた。
「もう、間に合わない」
電話を切ったあと、Kは、廊下に、座り込んだまま、動かなかった。
老人が、肩に手を置いても、Kは、震えるばかりだった。
「おれが、会おうなんて、言わなければ」
Kは、そう、繰り返した。
「おれが、呼んだから、Tは、浮かれて、出かけたんだ」
自分の胸騒ぎが、Tを、殺したわけではない。
Tの母親の、あの、のんびりとした声が、いまも、忘れられない、と老人は言った。
息子が、もう、この世にいないことを、まだ、知らない声。
その、ほんの数時間の差を、Kは、どうしても、埋められなかった。
それでも、Kは、自分を、責め続けた。
※
電話に出なかったのは、たった、ひとりだった。
Kと、いちばん仲の良かった、同郷の友人だった。
その友人は、ひと足先に、年末年始を、実家で過ごすため。
故郷へ、帰省していた。
つまり、もう、この町には、いなかった。
電話に出なかった、その同郷の友人は、Tといった。
Kと、Tは、同じ村の、生まれだった。
幼いころから、田んぼのあぜ道を、一緒に、駆け回った仲だという。
この町の、同じ大学に進んだのも、二人で、約束したからだった。
Tは、明るく、よく笑う男で、無口なKの、ただ一人の、心を許せる相手だった。
そのTだけが、その夜、電話に、出なかった。
※
報せが、届いたのは、それから、二時間ほど、あとだった。
その友人が、実家の近くの、交差点で。
車に、はねられて、亡くなった、というのだ。
Kが、胸騒ぎを覚えた、ちょうど、その時刻に。
事故は、起きていた。
Tは、その夜、地元の友人の車に、乗せてもらっていた。
久しぶりの再会に、はしゃいでいたのだろう。
村の、見通しの悪い交差点で。
横から来た車に、助手席を、まともに、ぶつけられた。
Tだけが、亡くなった。
運転していた友人は、かすり傷だった。
近くにいた人間は、無事で。遠くにいたTだけが、逝った。
Kの、言ったとおりに。
老人は、Kの手帳のことも、覚えていた。
Tの名前の、横にだけ。
鉛筆で、小さな丸が、いくつも、つけられていた、という。
いちばん、大事な、友達の、しるしだったのだろう。
そして、その丸のついた名前だけが。
あの夜、電話に、つながらなかった。
Tの葬儀に、Kは、村まで、出かけていった。
帰ってきたKの顔は、紙より、白かった、と老人は言う。
Kは、それきり、Tの話を、一切、しなくなった。
部屋に、こもりがちに、なった。
夜中に、Kの部屋から、低い、うめき声が、漏れることが、あった。
老人が、襖ごしに、声をかけても、返事は、なかった。
※
老人は、そこまで話すと、湯呑みの、冷めたお茶を、ひとくち、すすった。
「Kは、その後、この下宿を、出ていった」
「もう、誰とも、親しくなりたくない、と言ってな」
親しい人ができれば、また、あの胸騒ぎが、来る。
そして、自分は、その死を、止められない。
Kは、それに、耐えられなかったのだ。
その後、Kは、人が、変わったように、なった。
誰とも、深く、付き合わなくなった。
親しくなりかけると、自分から、距離を、置いた。
親しい人ができれば、また、あの胸騒ぎが、来る。
そして、自分は、その死を、ただ、報せの形で、受け取るだけ。
何ひとつ、止められない。
その無力さに、Kは、耐えられなかったのだ。
いま思えば、と、老人は言った。
Kにとって、いちばん、つらかったのは。
友を、失ったことでは、なかったのかもしれない。
前もって、それを、知らされていたのに。
何ひとつ、できなかった。
その、無力さこそが、Kを、いちばん、深く、傷つけたのだ。
知らなければ、ただ、悲しむだけで、すんだ。
知ってしまったから、Kは、自分を、許せなくなった。
春になって、Kは、誰にも告げずに、下宿を、出ていった。
行き先は、誰も、知らない。
※
老人の話は、そこで、終わった。
わたしは、すっかり冷えた茶を、飲み干すのも、忘れていた。
「その、Kさんは、いまも、どこかで」
わたしが、そう訊くと、老人は、首を、横に振った。
「さあな。便りも、ないよ」
ただ、と、老人は、付け加えた。
「あいつが出ていったあとも、ときどき、この廊下の電話が」
「真夜中に、ひとりでに、鳴ることが、あるんだ」
出ても、誰も、いない。
ただ、ざあ、という、雪の音のような、雑音だけが、聞こえる、という。
わたしは、その下宿で、二年を、過ごした。
卒業して、町を出る、前の晩のことだ。
荷物を、ほとんど、まとめ終えたころ。
深夜に、廊下の、あの黒電話が、鳴った。
こんな時間に、誰だろう。
わたしは、寝間着のまま、廊下に出て、受話器を、取った。
「もしもし」
返事は、なかった。
ただ、ざあ、ざあ、という、雪の降るような、雑音だけが、聞こえた。
わたしは、Kの話を、思い出して、背筋が、凍りついた。
もしもし、と、もう一度、言った。
雑音は、ふつりと、途切れ、電話は、切れた。
翌朝、わたしは、管理人の老人に、そのことを、話した。
老人は、うなずいて、こう言った。
「ああ。あれは、たまに、鳴るんだ」
「気に、するな」
けれど、その目は、笑っていなかった。
わたしは、結局、その電話の正体を、知らないまま、町を、出た。
あれから、もう、ずいぶんと、経つ。
わたしは、いまでも、雪の降る夜には、Kのことを、思い出す。
会ったことも、ない男だ。
それでも、雪の静けさの中で、ふと、胸の奥が、ざわつくことがある。
そんなとき、わたしは、慌てて、頭を、振る。
これは、ただの、気のせいだ。胸騒ぎなんかじゃ、ない。
そう、自分に、言い聞かせながら。
わたしは、Kのことを、かわいそうだとは、思わない。
むしろ、こわい。
未来の不幸を、先に、知らされること。
それは、救いでは、なく、ただの、呪いだ。
何も知らずにいられることが、どれほど、ありがたいか。
わたしは、あの下宿で、それを、学んだ気がする。
あの古い下宿は、数年前に、取り壊されたと聞いた。
廊下の、欠けたダイヤルの黒電話も、もう、ない。
それでも、ときどき、思う。
あの電話は、いったい、誰からの、ものだったのか。
間に合わなかった、Kの祈りが、まだ、線の向こうで、鳴り続けているような。
そんな気が、するのだ。
老人は、最後に、ぽつりと、言った。
「人は、知らないほうが、幸せなことも、あるんだよ」
その言葉が、いまも、雪の夜になると、耳の奥で、よみがえる。
※
わたしは、その話を聞いて、しばらく、口がきけなかった。
窓の外では、雪が、まだ、降り続いていた。
古い下宿の廊下の、あの黒電話は、わたしの時代にも、まだ、残っていた。
その夜から、わたしは、あの黒電話の前を通るのが、こわくなった。
ダイヤルの、欠けた3の穴を見るたび、Tの実家にかけた、Kの、もつれた指を、思った。
間に合わなかった、あの夜の電話を。
もし、いつか、この電話が、真夜中に、鳴って。
出たわたしに、誰かが、低い声で、町を出るな、と、告げたら。
あるいは、ざあ、という、あの雪の音だけが、聞こえてきたら。
その夜から、わたしは、その電話の前を通るのが、少し、こわくなった。
もし、いつか、これが鳴って。
出たわたしに、誰かが、町を出るな、と、言ったら。
わたしは、どうすれば、いいのだろう。