私には、人にはあまり言えない趣味があります。
夜中に、アパートの屋上へ出ること。
そこから、双眼鏡で、自分の住む街を眺めるのです。
昼間とはまるで違う、静まり返った街。
その眺めが、たまらなく好きでした。
私の部屋は、丘の上の古いアパートの、最上階にあります。
そのアパートは、築四十年を超える、古い建物でした。
家賃が、相場より、ずいぶん安かったのです。
角部屋で、隣は、ずっと空き部屋。
静かで、気に入っていました。
今思えば、安すぎたのかもしれません。
何か、わけが、あったのかもしれません。
屋上に出ると、街がぜんぶ、足元に見渡せます。
遠くに、赤い灯のついた鉄塔。
夜更けの幹線道路を、ぽつりと走るタクシー。
暗がりに、まぶしく光る自動販売機。
そういうものを眺めていると、妙に、心が落ち着くのです。
その丘の上から見る夜景には、いくつもの、お気に入りがありました。
二十四時間営業の、コンビニの看板。
川沿いを走る、終電のヘッドライト。
病院の、非常口の、緑のランプ。
どれも、夜だけが見せる、街の素顔でした。
昼間、人で溢れる街が、夜には、まるで別の生き物になる。
それを、ひとり占めしているような気分が、好きでした。
誰にも、邪魔されない時間。
それが、私の、ささやかな宝物だったのです。
アパートの西側には、長い坂道があります。
その坂が、まっすぐ、私の建物に向かって、下ってきています。
屋上から西を見れば、坂道の全体が、正面から見渡せました。
その夜も、いつものように、私は屋上にいました。
梅雨明けの、蒸し暑い夜でした。
この趣味を、友人に話したことがあります。
気味悪がられました。
「お前、それ、覗きじゃねえか」
電話の向こうで、そいつは笑いました。
「違うよ。夜景を見てるだけだ」
「変なやつだなあ。気をつけろよ」
そんな会話を、その夜の少し前に、交わしていました。
まさか、あんなことが起きるとは、思いもせずに。
私が屋上に通うようになったのは、半年ほど前からです。
不眠症で、夜、なかなか寝つけなかったのです。
屋上で夜風に当たっていると、少しだけ、楽になりました。
街の灯りを数えていると、いつのまにか、眠気が来るのです。
風はなく、空気が、ねっとりと肌にまとわりつきました。
※
はじめに気づいたのは、街灯のことでした。
坂道の途中に、いつも灯っている街灯があります。
それが、その夜は、消えていました。
切れたのだろう、と私は思いました。
空気が、おかしい、と感じました。
いつもなら、虫の声が、聞こえるはずでした。
その夜は、しんと、静まり返っていました。
虫一匹、鳴いていなかったのです。
まるで、何かが、息を潜めているような。
そんな、静けさでした。
「気のせいだろ」
私は、自分に言い聞かせました。
よくあることです。
次に気づいたのは、犬でした。
坂の下の家で、いつも吠える犬がいます。
その犬が、鎖をぴんと張って、坂の上を見ていました。
吠えもせず、ただ、じっと。
毛を逆立てて、固まっていたのです。
何を見ているのだろう、と双眼鏡を、そちらへ向けました。
そして、三つめの違和感に、気づきました。
坂道の途中の、自動販売機。
その横に、白いものが、立っていました。
さっきまでは、なかったはずです。
双眼鏡を、自動販売機のほうへ、固定しました。
白いものは、微動だに、しませんでした。
マネキンか、と思いました。
誰かのいたずらで、置かれたのかと。
でも、その考えは、すぐに、消えました。
自動販売機の灯りが、ちかちかと、明滅し始めたのです。
そのたびに、白い影が、ふっと、消えては、現れました。
消えるたびに、少しずつ。
立っている位置が、坂の上へ、ずれていくのです。
「なんだ、あれ」
私は、つぶやきました。
双眼鏡の倍率を、上げました。
※
それは、人でした。
いや、人の形をした、何か、でした。
全裸で、骨が浮くほど痩せた、子どものような姿。
自動販売機の灯りに、青白く照らされていました。
そいつは、坂の上を、まっすぐ見上げていました。
つまり、こちらを。
屋上の、私のほうを。
目が、合いました。
距離は、二百メートルは、あったはずです。
それなのに、はっきりと、目が合ったのが分かりました。
そいつの口が、にいっと、横に裂けました。
笑った、のです。
満面の、笑みでした。
そして、片手を、ゆっくりと持ち上げました。
こちらに向かって、振り始めたのです。
まるで、旧い友人にでもするように。
その笑顔を、どう言えばいいでしょう。
うれしくて、たまらない、という笑顔でした。
ずっと探していたものを、やっと見つけた。
そんな、笑顔だったのです。
だからこそ、ぞっとしました。
私は、あれに、見つかってしまったのだと。
私は、双眼鏡を、握りしめたまま、動けませんでした。
背筋を、冷たいものが、這い上がってきました。
次の瞬間でした。
そいつが、坂道を、駆け上がり始めたのです。
見ているうちに、距離の感覚が、おかしくなりました。
坂の三分の一を、もう、上がってきています。
こんな速さは、ありえません。
自転車でも、こうはいきません。
なのに、足音は、聞こえないのです。
あれだけの速さで走っているのに。
ただ、笑い顔だけが、ぐんぐん大きくなる。
双眼鏡の中で、その顔が、画面いっぱいに、なりました。
歯が、やけに、白く光っていました。
※
猛スピード、でした。
人間の走りでは、ありませんでした。
両手を、だらりと下げたまま。
上半身は、ぴくりとも、揺れません。
足だけが、ありえない速さで、回転していました。
満面の笑みを、こちらに向けたまま。
目を、一度も、そらさずに。
ぐんぐん、ぐんぐん、近づいてきます。
「うそだろ」
私は、我に返りました。
双眼鏡を、ゆっくりと、下ろしました。
肉眼でも、もう、見えました。
坂の中ほどに、白い点が、ありました。
それが、ぐんぐん、大きくなっていきます。
ありえない速さで、こちらへ。
私は、ようやく、体が動きました。
双眼鏡を放り出し、屋上の階段へ、駆け込みました。
四階の自分の部屋まで、転がるように、下りました。
ドアを閉め、鍵をかけ、チェーンもかけました。
心臓が、口から飛び出しそうでした。
「なんだよ、あれ。なんなんだよ」
声が、震えていました。
部屋の電気は、つけませんでした。
つけたら、見つかる気がしたのです。
逃げ込んだあと、私は、窓に近づくのも、怖くなりました。
カーテンの隙間から、外を、うかがいました。
屋上のほうから、何かが、こちらを、見下ろしている。
そんな気配が、ずっと、していました。
気のせいだと、思いたかった。
でも、足音は、本物でした。
あれは、確かに、屋上に、いたのです。
暗闇の中で、私は、息を殺しました。
暗闇の中で、私は、必死に考えました。
あれは、何かの見間違いだ。
酔っ払いか、頭のおかしな誰かだ。
そう思おうとしました。
でも、できませんでした。
あの速さは、人間のものでは、ありませんでした。
「来るな。来るな。来るな」
私は、口の中で、何度も繰り返しました。
額から、汗が、したたり落ちました。
※
しばらくして。
頭の上から、音がしました。
ズダダダダッ。
屋上への、外階段を、駆け上がる音。
さっきまで、私がいた、屋上です。
足音は、屋上を、ぐるぐると、回っていました。
何かを、探すように。
私を、探すように。
私は、台所にあった火かき棒を、両手で握りしめました。
震える手で、それを、胸の前に構えました。
やがて、足音が、止まりました。
そして、今度は。
ズダダダダッ。
外階段を、駆け下りる音。
音は、まっすぐ、私の階へ、下りてきました。
そして、私の部屋の前で、止まったのです。
※
ドアが、叩かれました。
ダンダンダンダンダン。
尋常では、ない、強さでした。
ドアの蝶番が、きしむほど。
続いて、チャイムが、鳴り出しました。
ピンポン、ピンポン、ピポポン、ピンポン。
気が狂ったように、押し続けています。
そのあいだも、ドアは、叩かれ続けました。
叩く音の合間に、別の音が、混じりました。
ドアノブが、かちゃ、かちゃ、と回る音。
鍵をかけたドアを、外から、開けようとしている。
私は、心臓が、止まるかと思いました。
チェーンをかけておいて、よかった。
心の底から、そう思いました。
ノブは、しばらく、回り続けました。
そして、また、激しいノックに、戻りました。
そして、聞こえてきたのです。
うめき声が。
「ウッ、ンーッ。ウッ、ンーッ」
言葉に、なっていませんでした。
獣のような、それでいて、どこか、人のような声。
ドアの、すぐ向こうに、それは、いました。
薄い、一枚の、ドアを、隔てて。
私は、火かき棒を構えたまま、部屋の真ん中で、固まりました。
声を、立てないように。
息さえ、止めるようにして。
時計の針が、進むのが、信じられないほど、遅く感じました。
一分が、一時間のように、思えました。
ドアを叩く音は、ときどき、ぴたりと止みました。
そのたびに、私は、行ったのか、と息をつきました。
でも、すぐに、また始まるのです。
今度は、もっと、激しく。
まるで、私が、油断するのを、待っているように。
一度、ドアスコープを、のぞこうとしました。
でも、できませんでした。
のぞいた先に、あの笑顔があったら。
そう思うと、足が、すくみました。
私は、ただ、火かき棒を握りしめ、祈り続けました。
どうか、朝が来ますように、と。
ただ、ひたすら、夜が明けるのを、待ちました。
※
どれくらい、そうしていたでしょう。
窓の外が、うっすらと、白んできました。
いつのまにか、音は、やんでいました。
叩く音も。
チャイムも。
あのうめき声も。
鳥の鳴く声が、聞こえてきました。
朝が、来たのです。
それでも私は、一時間ほど、動けませんでした。
完全に日が昇ってから、私は、そっと、ドアスコープをのぞきました。
誰も、いませんでした。
おそるおそる、ドアを、開けてみました。
廊下には、誰の姿も、ありませんでした。
ただ。
私の部屋のドアに。
無数の、手の跡が、ついていました。
べたり、べたりと。
泥のような、黒い手の跡が。
そして、その手の指は、どれも、異様に長かったのです。
私は、その手の跡に、触れることが、できませんでした。
指の長さが、明らかに、人のものでは、ありませんでした。
震える手で、写真だけ、撮りました。
あとで見返すと、なぜか、その写真は、真っ黒でした。
何度撮り直しても、同じでした。
管理人に、それとなく、隣の部屋のことを、尋ねました。
管理人は、急に、口が重くなりました。
「あの部屋のことは、聞かないでください」
それだけ言って、目を、そらしました。
私は、それ以上、何も、聞けませんでした。
聞いては、いけない気が、したのです。
※
あれが、何だったのか。
今でも、分かりません。
あんなに目が合ったのに。
あいつは、なぜ、私のところへ来たのか。
なぜ、あの部屋を、知っていたのか。
考えると、今でも、眠れなくなります。
翌日、私は、あの友人に、電話をかけました。
昨夜のことを、震える声で、話しました。
友人は、しばらく、黙っていました。
「お前さ」
低い声で、言いました。
「その坂の上のアパート、前に誰か住んでなかったか」
私は、言葉を、失いました。
そういえば、隣の部屋は、ずっと空き部屋でした。
前の住人が、夜中に、いなくなったのだと。
管理人が、そう言っていたのを、思い出しました。
「やめとけ。もう、その部屋」
友人は、それだけ言って、電話を切りました。
私は、あのアパートを、すぐに引き払いました。
双眼鏡も、捨てました。
あの夜から、私は、双眼鏡というものが、怖くなりました。
レンズの向こうを、覗くという行為そのものが。
覗いた先の何かと、目が合ってしまう。
そんな気が、してならないのです。
遠くを見るための道具は、同時に。
遠くから、こちらが見られる道具でも、あるのかもしれません。
もう二度と、夜中に、街を覗くことは、ありません。
見てはいけないものを、見てしまった気がするのです。
引っ越してからも、しばらくは、眠れませんでした。
目を閉じると、あの笑顔が、浮かぶのです。
新しい部屋では、カーテンを、二重にしました。
夜は、決して、窓の外を、見ません。
見たら、また、目が合う気がするのです。
あれが、私を、見つけてしまったように。
今度は、私が、あれを、見てしまうのではないか。
そう思うと、怖くて、たまりません。
一度だけ。
引っ越した先で、夜中に、物音で目が覚めました。
玄関のドアが、こつ、こつ、と、鳴っていました。
私は、布団を、頭から、かぶりました。
朝まで、決して、出ませんでした。
風だったのだと、思いたいです。
きっと、そうだと、思いたいのです。
いいえ。
本当は、逆かもしれません。
こちらが見ていたのではなく。
ずっと、向こうに、見られていたのかもしれない。
のちに、近所の古い住人から、こんな話を聞きました。
あの坂では、昔、夜中に、人が、よく行方知れずになったと。
「あの坂は、上っちゃいかんよ。特に、夜は」
年老いた住人は、声をひそめて、言いました。
私が見たものと、関係があるのか。
それは、分かりません。
ただ、あの坂を、もう二度と、見たくないだけです。
今でも、坂道を見ると、足が、すくみます。
あの一夜のことを、私は、誰にも、詳しくは話せません。
話すと、また、来る気がするのです。
言葉にした瞬間、あれが、思い出して、戻ってくる。
そんな、ばかげた恐怖が、消えないのです。
だから、この話を書くのも、本当は、ためらいました。
でも、もし、同じ趣味を持つ人が、いるなら。
どうか、夜の街を、覗かないでください。
あなたが見ている、その先から。
何かが、あなたを、見つめ返しているかもしれません。
あの満面の笑みは、今も、私の目の裏に、焼きついています。