
俺がフリーの調査業をしていたころに経験した、廃墟ホテルの調査の話です。
依頼は、とある出版社の心霊特集でした。
いわゆる心霊スポットを訪ね、噂の事実関係を調べるのが、俺の仕事でした。
調べる側の人間が、調べられる側に回ったのは、あの一晩だけです。
その仕事で向かったのは、関東の山奥にある、廃墟になったホテルでした。
昭和の終わりに営業をやめ、そのまま打ち捨てられた建物だそうです。
山の斜面にへばりつくように建つ、六階建ての古い建物でした。
入口の看板は、文字がほとんど剥げ落ちていました。
近づくにつれて、森の匂いに、湿った鉄の匂いが混じりました。
心霊スポットには、決まって「語られる筋書き」があります。
誰かがここで命を落とした、という話です。
このホテルの噂も、ご多分に漏れませんでした。
若い女の人が、恋人に命を奪われ、廃墟の壁の中に埋められた。
その女の人が霊となって、夜な夜な出る。
そういう筋書きでした。
もっともらしい話ほど、実際は根拠が薄いことを、俺は経験で知っていました。
だから、まず調べるのは、事実関係でした。
図書館と聞き込み
最初に向かったのは、その地域の図書館です。
噂の事件が起きたとされる年代の新聞を、一枚ずつ繰りました。
紙の端が茶色く変色して、指先に埃の匂いが移りました。
地元の警察や、土地の持ち主、近所の人にも話を聞きました。
「ああ、あのホテルのことね」
雑貨屋のおばあさんは、箒を持つ手を止めて、首を振りました。
店先には、色あせた団扇と、埃をかぶった駄菓子が並んでいました。
奥の柱時計だけが、やけに大きな音で時を刻んでいました。
「そんな事件、聞いたこともないよ。若い子が面白がって言ってるだけさ」
土地の持ち主も、同じ答えでした。
事件が起きた痕跡も、記録も、どこにも見つかりませんでした。
調査としては、ここで結論が出たようなものです。
廃墟ホテルの調査としては、すでに「根拠なし」と報告しても構わない段階でした。
それでも、夜の現場に足を運ぶのが、この仕事の礼儀だと俺は思っていました。
けれど、夜の現場撮影が残っていました。
依頼の条件に、「夜の写真が欲しい」とあったのです。
同行してくれるのは、一緒に仕事をしている仲間の女性でした。
彼女は、俺を呼ぶとき、必ず「先輩」と付ける人でした。
声をかける前に、一度だけ、ふっと息を整えてから呼ぶのが癖でした。
「先輩、準備できました」
彼女は、リュックの紐を締めながら、続けました。
「先輩、今日の撮影、ちょっと怖くないですか」
「怖いのは、噂のほうだよ。実際は、ただの古い建物だ」
俺はそう答えて、運転席に乗り込みました。
あのときの自信が、今となっては恥ずかしいくらいです。
車に機材を積み込みながら、彼女はそう言って笑いました。
廃墟ホテルの調査当夜
深夜の山道は、街灯もなく、真っ暗でした。
ヘッドライトが、杉の幹を次々に照らしては、闇に戻していきました。
さすがに人気のない山中は、かなり不気味です。
建物の中に入ると、カビの臭いが鼻を刺しました。
湿った絨毯が、靴の裏でぐちゅりと鳴りました。
俺たちは、手分けして外観と内部を撮影し始めました。
彼女のカメラのシャッター音が、階段の上から、一定の間隔で聞こえてきました。
かしゃ、かしゃ、と乾いた音が、廃墟の奥に吸い込まれていきました。
その規則正しさが、そのときは頼もしく思えたのです。
今思えば、音が途切れた瞬間を、俺は聞き逃していました。
俺は一階の廊下を、彼女は階段のほうを担当しました。
懐中電灯の丸い光が、剥がれた壁紙を舐めていきました。
天井の隅には、蜘蛛の巣が白く垂れ下がっていました。
割れた窓から、山の風が、細く笛のように鳴りました。
足元の水たまりには、懐中電灯の光が揺れて映りました。
廃墟ホテルの調査は、慣れていたはずなのに、その夜はなぜか、胃の奥が重かったのです。
あらかた内部の調査も終わり、そろそろ引き上げようと思ったころです。
俺は、建物のどこかにいるはずの彼女に、大きな声で呼びかけました。
「そろそろ引き上げようか」
すると、廊下の奥のほうから、声が返ってきました。
「あ、待ってください。こっちの部屋に来てくれませんか」
彼女の声でした。
俺は、懐中電灯を握り直して、そちらへ向かいました。
増えていた部屋
廊下の突き当たりに、ドアが半分開いた部屋がありました。
ドアの金具が、ほんの少しだけ新しく光っていました。
他の部屋のドアは、どれも錆びて開かなくなっていたのに。
何の変哲もない客室でした。
さっき通ったときは、無かった気がします。
けれど、暗闇の中の記憶は、あてになりません。
部屋に入ると、魚が腐ったような臭いがしました。
カビ臭さと入り混じって、とにかく悪臭が凄まじかったのです。
そこに、俺を呼んだはずの彼女は、いませんでした。
特に気にもせず、俺は部屋を見回しました。
壁が、一箇所だけ、塗り替えたように色が違っていました。
「ああ、これが噂の元になっているんだな」
壁に何かが埋められた、という筋書きの出どころは、これだろうと思いました。
俺は、その壁にカメラを向けて、シャッターを切りました。
フラッシュが、一瞬だけ、部屋の隅々を白く照らしました。
その白さの中に、壁の下から伸びる、細い黒い筋が見えた気がしました。
けれど、確かめる前に、闇が戻ってきました。
そのときです。
持っていた懐中電灯も、カメラも、全ての電源が、急に落ちました。
真っ暗になりました。
指先で何度もスイッチを押しましたが、電池の接点は冷たいままでした。
自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえました。
暗闇の中で、俺は小さくつぶやきました。
「参ったな……」
部屋に入ってくる足音が聞こえました。
靴ではありませんでした。
裸足のような、湿った足音でした。
ぺた、ぺた、と床を踏む音が、すぐそばまで来ました。
ゆっくりと、床板を踏む音でした。
電源が落ちた暗闇
「あのさ。明かりが消えちゃって、点かないんだよ」
俺は暗闇に向かって、話しかけました。
「きりがいいから、引き上げよう」
すると、彼女の声が、すぐ近くで返ってきました。
「もう少しだけ、ここに残りましょう。ね?」
俺が帰ろうと言っても、声は引き止めます。
「もっと撮影したほうがいいですよ」
「壁を掘り返しましょう」
やたらと、引き止めるのです。
「それなら明日にしよう」
そう言って、俺が部屋を出ようとしたときでした。
「待ちなさい!」
強い声とともに、俺の手が掴まれました。
その声は、さっきまでの彼女の声と、まるで違う深さをしていました。
喉の奥から響くような、低い声でした。
その手の感触は、今でも忘れられません。
ぶじゅっ、という音がしました。
筋張っているのに、ものすごく柔らかくて、どろどろしたものが、俺の手を握っていました。
「うわっ!」
俺は、力いっぱい手を振りほどきました。
声は、変わらない調子で言いました。
「もう少しだけ、ここに残りましょう。……ね? もうちょっとだから」
その瞬間、俺は悟りました。
これは、彼女ではない。
俺は、その場から一目散に逃げ出しました。
月明かりだけの廊下で、あちこちに体をぶつけました。
肩も、膝も、痛みが走りました。
けれど、それどころではなかったのです。
建物の外に出ると、車の前で彼女が待っていました。
「先輩、遅かったですね」
彼女は、心配そうな顔で、そう言いました。
聞けば、撮影を始めてすぐに、懐中電灯もカメラも使えなくなったそうです。
だから、ずっとここで待っていた、というのです。
「先輩の声が聞こえたら、すぐ行くつもりだったんですけど」
彼女は、申し訳なさそうに笑いました。
彼女の顔は、血の気が引いたように白く見えました。
手が、小刻みに震えていました。
「じゃ、さっきのは?」
俺は、そう思いました。
けれど、口には出せませんでした。
すぐに立ち去ろうと、運転席に乗り込んだときです。
彼女が、「ひっ!」と、短い悲鳴を上げました。
「あ……あれ」
震える指が、車のミラーを指していました。
俺は、ミラーを見たくありませんでした。
そのまま、車を急発進させ、町へ向かいました。
後日、全ての経緯をまとめて、依頼主に報告しました。
同じような噂話なら、盛り塩の物語にも、似た気配があります。
夜に出会う気配の話としては、トンネルの少女も、忘れられない一編です。
事務所に戻って、撮影したものを確認しました。
けれど、写っていたのは、ごく普通の写真と映像だけです。
何も写ってはいませんでした。
ミラーの中に何を見たのか、彼女は、ついに語りませんでした。
「思い出したくないんです」
ただ、そう言っていました。
報告を受けた依頼主は、最初、乗り気でした。
「面白いじゃないか。使えるよ」
ところが、急に態度を変え、写真と映像を全て処分させたのです。
理由は、今も教えてもらっていません。
俺がそれに気づいたのは、報告書を書き終えた夜でした。
あの部屋で、彼女は一度も俺を「先輩」と呼ばなかった。