お盆の夜釣りで見たもの

海

俺の実家は、岩手県のとある地方にある。

毎年帰省しているが、田舎には「本家」という、一族を統括する家が存在することを知っているだろうか。
血筋の出所であり、親戚縁者の中心となる家だ。

俺の一族にも、その本家がある。
三百年ほどの歴史を持ち、かつては土地の権力を握っていた家だ。
老朽化してはいるが、その造りは立派で、どこか威厳を感じさせる。

俺が小学生の頃の夏、お盆の時期に本家へ行ったときのこと。
囲炉裏のある部屋で、大人たちが何やらひそひそと話をしていた。

俺と従兄弟は気になり、こっそり盗み聞きを試みた。
声の主は、親戚のおじさんや祖父、ほか親類の面々。
狭い田舎では、皆がどこかで血の繋がった顔ぶれだ。

「…どうすん…部屋…」
「空いて…近づくしかね…閉め…」

はっきりとは聞き取れなかったが、何やら物騒な響きが混じる。

しかし、すぐに気付かれ、親戚のおじさんが鬼気迫る表情で迫ってきた。

「おめら、何も聞いてねぇべな!! 聞いてねぇべな!!」

普段はとても優しい人だけに、その剣幕に俺たちは息を呑んだ。
慌てて「聞いてない」と答えると、おじさんは肩の力を抜き、いつもの穏やかな笑みに戻った。

その安堵の表情が、妙に印象に残った。

当時、大人たちからは「お盆の海には近づくな」と繰り返し言われていた。
霊の話や怪談めいた言い回しで脅すのは、子どもを海から遠ざけるための常套句だろう。
だが俺たちは気にも留めず、海で泳いだり釣りをしたりしていた。

ある日、いつも釣りに連れて行ってくれるおじさんが、どこか元気がなかった。
心配になって「どうしたの?」と聞いても、「どうもしねから、どうもしねから」と上の空の返事。

夕方、いつものように「夜釣りに行こう」と頼んだが、この日は頑なに拒否された。
普段なら自分から「行くべ」と誘ってくる人なのに、不思議で仕方がなかった。

それでも俺たちは、こっそり夜釣りへ出かけた。
盆の入り直後だったと思う。

海辺で釣りをしていると、従兄弟が俺の肩を突き、「A(俺)、あっちに人、立ってねぇか?」と指差した。

視線の先は、コの字型の岸壁の中央。
海の真ん中に、人影が立っているように見える。

最初は漁師が舟の上にいるのかと思った。
だが舟は見当たらない。波間に揺れる足元は、水面そのものだった。

それが幽霊だと直感したが、なぜか俺たちは怖がるよりも興奮し、声を上げてはしゃいでいた。

そこへ、おじさんと祖父の車が山道を飛ばすようにやってきた。
港の奥の漁港から、息を切らせて駆けつけたのだ。

見つかった俺たちは車に押し込まれ、道中で問い詰められた。

「何か見たか? 見てねぇべ!?」

俺たちは幽霊を見たとは言わず、「見ていない」と答えた。
すると二人は、ほっとしたように肩をなで下ろした。

本家に戻ると、祖母が駆け寄ってきて同じことを言った。

「何も見なかったべな!! 何も見なかったべな!!」

否定すると、その場に崩れ落ち、涙を流した。
事情は分からなかったが、胸がざわついた。

やがて祖母は落ち着きを取り戻し、夕顔の煮物を出してくれた。
しかし、その笑顔の奥に残る緊張は消えていなかった。

夕食の後、俺はふと、囲炉裏端での会話を思い出し、軽い気持ちで尋ねてしまった。

「この間、部屋がどうとか閉めるとか話してたでしょ?」

その瞬間、空気が凍り付いた。
祖母は再び泣き出し、おじさんはうろたえ、祖父は電話をかけ始め、両親は黙り込んだ。

俺と従兄弟は恐ろしくなり、泣き出してしまった。

おじさんに別室へ連れて行かれると、そこは盆棚のある部屋だった。
十分ほど拝まされ、「今日はもう寝ろ」と言われたが、緊張で眠れるはずがなかった。

祖父は、俺に向き合って静かに話し始めた。

「お前はこの家の造りをだいたい分かっているだろう。部屋はいくつある? その中で、物置にしている部屋があるな。奥に襖があるのも知っているか?」

言われて思い出した。
小さい頃から、その物置部屋には近づくなと言われてきた。
暗く薄気味悪い部屋で、襖の前には荷物が山のように積まれていた。

祖父の言葉は続く。

「その襖の奥には、錆びた槍の先がしまわれている。代々、この家が預かってきたものだ。昔、この地で飢饉があったとき、人々はその槍で次々と命を絶ったという。理由は分からないが、とにかく忌まわしいものだ」

御祓いの時以外は、決して開けてはならない襖。
坊さんが年に数回訪れ、物置部屋に入るのは、そのためだったという。

「お前の父さんは子どもの頃、好奇心で近づいてしまい、大変なことになったんだ。だから、お前には絶対に近づくなと言っていた」

そう聞かされ、子ども心にも背筋が冷たくなった。

やがて祖母も話しに加わった。

「飢饉では、多くの人が餓死し、自ら命を絶った。みんな楽になりたかったんだと思う。でも、本当は長く生きたかったはずだ。だからこそ、食べられることに感謝し、真面目に生きなければならない。嘘をつくのもいけない」

俺は夜釣りで海に立つ人影を見たことを打ち明けた。
二人は驚くよりも「やっぱりな…」と静かに頷き、不安そうな表情を浮かべた。

祖父は翌日、坊さんを呼ぶことを決めた。

翌日、坊さんが本家に来た。
俺は初めて物置部屋の襖の前まで行くことを許された。
荷物を片付け、小さな祭壇のような棚を設置するのを手伝った。

襖は、わずかに十センチほど開いていた。
坊さんは部屋中を歩き回り、呪文のように何かを唱え、やがて棚の前でお経をあげ始めた。

俺は部屋を出るように言われた。
一時間後、坊さんは本家の人々や近所の者たちと共に再び拝み、剣舞が奉納された。

そして俺に向かって言った。

「今日は、少し驚くことが起きるかもしれない。けれど、大丈夫だ。その時はその場を離れずにいなさい」

その夜、布団に入っても眠れなかった。
物置部屋の斜め隣で、薄暗い廊下越しに気配を感じる。

やがて「ココココ…」と小刻みに何かを叩く音が壁の向こうから響き、低く掠れた声が混じり始めた。

「腹…腹…」
「やんた…やんた…生きてぇ…」
「死にたぐね…やんた…」
「水っこは…やんた…」

それは一つの声ではなかった。
あちこちから、数え切れぬほどの声が重なり、呻き、訴えかけてくる。

全身が凍りついた。
逃げ出したい衝動を必死に抑え、坊さんの言葉を思い出して耐える。

すると、俺の部屋の中からも「ココココ…」という音がした。
恐る恐る目を開けると、壁に掛けられた般若の刺繍が揺れていた。
そして、その目の部分がかすかに動き、同じ言葉を呟いている。

「腹…腹…」
「やんた…やんた…」

意識が遠のき、気づけば朝になっていた。

俺は祖父と坊さんにすべてを話し、寺でお経をあげてもらった。
二人は「よく頑張ったな」と褒めてくれた。

その後もお盆は続き、昼間の岩手の夏は嘘のように明るく、海も空も美しかった。
けれど夜になると、あの声が耳に蘇り、眠るのが怖かった。

しばらくして、祖父とおじさんと共に再び夜釣りへ出かけた。
坊さんからもらった、木の薄片に文字が刻まれたお守りを持っていた。

静かな海で竿を出していると、祖父が聞いた。

「どのあたりで、あれを見た?」

俺は人差し指ではなく視線で海の真ん中を示した。
祖父は「そうか…」と呟き、涙ぐんだ。

帰宅後、祖母に促されて盆棚に手を合わせた。

夜、父が隣に座り、自分の体験を語った。
子どもの頃、突然背中に何かが飛び乗り、「腹っこ…取ってけっつぇ…」と囁かれたこと。
怖かったが、祖父に「この土地には悲しい歴史がある。それを知れば、恐怖は薄れる」と言われたこと。

父は笑いながらも、あの出来事の重さを忘れてはいないようだった。

この土地は、美しい自然の裏に、飢饉や冷害の歴史を抱えている。
毎年吹く「やませ」が農漁業を苦しめ、飢えと死をもたらした。
そして、その記憶は今も、家々に語り継がれ、封じられた襖の向こうで息を潜めている。

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