
私が働いていたカフェバーに、ある夜、友人が青い顔をして現れた。
彼が語った「ダレモイナイヨ」という言葉を、私は今でも、電話が鳴るたびに思い出す。
これは、その夜に聞いた話である。
開店前のカフェバー
夏の終わりの頃だった。
私は、住宅街の中にぽつんと建つ、小さなカフェバーで働いていた。
客足はまばらで、店はいつの間にか、私と友人たちの溜まり場になっていた。
その日も、開店の準備をしていた。
グラスを磨き、氷を砕き、ラジオの音量を少しだけ絞った。
窓の外では、夕立の名残の雲が、低く流れていた。
厨房から、レモンを切った匂いが漂ってきた。
扉のベルが鳴って、彼が入ってきた。
後ろに、彼女が付いてきた。
彼は、いつも私たちの笑いの中心にいる、明るい男だった。
その彼が、その日に限って、妙に無口だった。
顔色も、少し悪かった。
「どうした? 元気ないじゃん」
私は、いつもの調子で声をかけた。
「何かあったのか」
「ああ」
彼は、カウンターの端に腰を下ろした。
「すげえ怖いことがあった」
「また幽霊か?」
彼は、答えなかった。
彼女の方を見ると、彼女も口を結んで、首を横に振った。
彼に口止めされているらしい。
彼は、霊感が強いらしく、これまでにも何度か、不思議な体験談を聞かせてくれていた。
だから私は、「ああ、また幽霊なんだな」くらいにしか思わなかった。
先月は、旅先の旅館で、夜中に廊下を走る足音を聞いた話だった。
先々月は、古いアパートで、押し入れが内側から叩かれた話だった。
どれも彼は、身振り手振りをつけて、笑いながら話していた。
ただ、今までと違うところがあった。
いつもは、聞かせたくて仕方がない様子なのに、その日は、頭を抱えて黙り込んでいた。
氷の溶ける小さな音だけが、店の中に響いていた。
時計の針は、開店の十五分前を指していた。
それでも私は、グラスを置いて、彼の隣に腰を下ろした。
私は次第に、好奇心を抑えられなくなった。
どうしても聞き出してやろう、という気持ちになった。
しつこく尋ね続けるうちに、彼はようやく、重い口を開いた。
「分かったよ。話すよ」
「ただし、笑うなよ」
鍵のかかった玄関
その日、彼は専門学校の研修旅行から帰ってきた。
自宅のある駅に着いたのは、夕方の六時近くだった。
改札を出たところで、ふと、家の鍵を忘れてきたことを思い出した。
念のため、駅前の電話から、自宅に連絡を入れておくことにした。
彼の家は、人の居なくなることが稀だった。
母は専業主婦で、姉も大学へ通いながら、ほとんど家にいる。
だから、数コールで、誰かが受話器を取った。
「もしもし、俺だけど」
「いま、○○駅。鍵がないから、開けといてよ」
「お願いね」
彼は、一方的にそれだけ話すと、電話を切った。
受話器の向こうから、返事があったかどうか。
彼は、あとになって思い出そうとしたが、はっきりしなかった。
バスに乗り、窓の外の夕焼けを眺めながら、家路についた。
車内には、部活帰りの高校生が数人いて、笑い声が絶えなかった。
彼は、その声を聞きながら、研修旅行の土産袋を膝の上で抱え直した。
袋の中では、お菓子の箱が、がさがさと鳴った。
十五分ほどで、家の前のバス停に着いた。
玄関の扉に手をかけると、びくともしなかった。
鍵が、かかっている。
彼は、不審に思った。
ついさっき、誰かに「開けといて」と頼んだはずだった。
チャイムを押した。
二度、三度、押した。
家の中から、何の反応もなかった。
家の周りを一周してみた。
犬小屋の中では、飼い犬が、じっとこちらを見ていた。
普段なら、帰宅した彼に、尻尾を振って吠えるはずだった。
その日は、鳴きもせず、小屋の奥へ後ずさった。
台所の窓も、居間の窓も、カーテンが閉まっていて、中の様子は分からなかった。
人の気配が、まったくなかった。
夕方の庭は、ひどく静かだった。
母は、洗濯物を取り込む時間には、必ず庭に出る人だった。
物干し竿は、空っぽのまま、西日を受けて光っていた。
郵便受けには、朝刊が差し込まれたまま、夕方まで取り込まれていなかった。
新聞の端が、湿気で少し波打っていた。
それを見た瞬間、彼は、何かがおかしいと確信した。
それでも彼は、「どこか、見えない場所にいるのだろう」と考えた。
数分前には、確かに誰かが、電話に出たのだから。
母は几帳面で、電話を使ったあとは、必ず受話器を掛け台に戻す人だった。
そのことを、彼はなぜか、そのとき思い出していた。
公衆電話の十円玉
彼は、もう一度、電話をかけてみることにした。
近所のタバコ屋の店先に、緑色の公衆電話があった。
店のシャッターは下りていて、店先の電球だけが、ぽつんと点っていた。
電話機の受話器には、使い込まれた白い手垢の跡が残っていた。
十円玉を三枚入れて、自宅の番号を回した。
数回のコールのあと、ガチャ、と受話器の上がる音がした。
「もしもし、俺だけど」
返事はなかった。
「もしもし?」
やはり、何も聞こえなかった。
受話器の向こうには、確かに誰かがいる気配があった。
紙をこするような、かすかな呼吸の音がした。
「もしもし! もしもし!」
「もしもーし!」
「俺だってば!」
何度呼びかけても、相手は黙ったままだった。
電話の故障だろうか、と彼は思った。
数分置きに、もう一度かけてみたが、結果は同じだった。
やがて彼は、家の前で、家族の帰りを待つことにした。
ところが、しばらくして、玄関脇の植木鉢の下に、緊急用の予備の鍵を隠してあったことを思い出した。
鉢をどけると、錆びた鍵が、土の上に転がっていた。
その鍵で、ようやく、家の中に入ることができた。
家の中は、しんと静まり返っていた。
靴は、玄関に一足もなかった。
台所にも、居間にも、二階の姉の部屋にも、誰もいなかった。
電話機は、居間の隅の、いつもの棚に置かれていた。
棚の上には、母の字で書かれた、買い物のメモが貼ってあった。
日付は、三日前だった。
冷蔵庫の中の牛乳は、まだ冷たかった。
受話器は、きちんと掛け台に収まっているように見えた。
彼は、念のため、受話器を持ち上げてみた。
耳に当てると、ツー、という発信音が、普通に聞こえた。
電話に異常は、見当たらなかった。
それなのに、さっき自分は、誰と話そうとしていたのか。
彼は、頭の芯が冷えていくのを感じた。
ダレモイナイヨの声
彼は、もう一度だけ、確かめてみようと思った。
家の鍵を外から閉めて、公衆電話まで戻った。
鍵が、きちんとかかっていることを、扉に手を当てて確かめた。
十円玉を入れる指先が、少し震えた。
自宅の番号を回すと、またコールの音が鳴った。
一回、二回、三回。
ガチャ。
誰かが、受話器を取った。
「もしもし」
返事はない。
「もしもし、姉ちゃんなんだろ」
「答えろよ」
やはり、何も聞こえない。
「なあ、誰なんだよ」
「オマエ、誰なんだよ」
「答えろってば!」
沈黙の中に、壁掛け時計の針の音のようなものが、かすかに混ざっている気がした。
彼は、これが最後だと思って、受話器に向かって怒鳴った。
「オマエ、誰なんだよ!」
「そこにいるのは分かってんだよ!」
「誰かいるんだろ!」
長い、長い沈黙が続いた。
そして、やっと、受話器の向こうから、声がした。
「……ダレモイナイヨ……」
男でも女でもなかった。
子どもの声とも、年寄りの声とも言えなかった。
遠く、深い穴の底から、ゆっくり這い上がってくるような声だった。
聞いた瞬間、耳の奥に、冷たい水が流れ込んだような感覚があった。
彼は、受話器を叩きつけるように置いた。
タバコ屋の店先を飛び出し、家まで全力で走った。
鍵を差し込む手が、うまく回らなかった。
扉を開け、靴も脱がずに、居間へ駆け込んだ。
居間の電話の受話器が、掛け台から外れて、床に置かれていた。
受話器の穴は、真上を向いていた。
床のフローリングは、冷たく、わずかに湿っていた。
そこから、細く、ツー、という音が漏れていた。
彼は、恐る恐る、受話器に触れた。
耳に当てる部分が、人の頬の温度で、温まっていた。
家のどこにも、鍵の開いた窓はなかった。
誰かが出入りした跡も、まったく見つからなかった。
そこまで話すと、彼は、長い息を吐いた。
グラスの氷が、からん、と音を立てた。
私は、笑うことなど、できなかった。
彼はそれ以来、実家の電話が鳴っても、決して自分では出ないようになったという。
電話機は、二年ほどして、新しい型に買い替えられた。
それでも、彼は今も、あの言葉を、夜になると耳の奥で聞くことがあるらしい。
「ダレモイナイヨ」と、あの声は、最後まで、誰を指していたのだろう。
今でも、この話をしたり、人から聞いたりするたびに、首の後ろの毛が逆立つのを感じる。