先輩、お願いしますよ

何年も前の、大学の、夏合宿での話だ。

こうして書いてみると、たいして、怖い話でも、ないのかもしれない。

ただ、当の本人にとっては、今でも、忘れられない、ひと晩なのだ。

私は、大学で、ボート部に、入っていた。

夏になると、毎年、山あいの、大きな湖のほとりで、合宿をした。

周りを、深い、緑の山に、囲まれた、静かな湖だった。

朝もやの中を漕ぎ出すのが、私は、好きだった。

古い、木造の合宿所に、部員みんなで、寝泊まりするのだ。

朝から晩まで、湖でオールを漕いで、くたくたになるまで、練習をした。

夜は、みんなで、安い酒を飲んで、馬鹿話で、笑い転げた。

若くて、体力だけは、ありあまっていた。

あの頃は、何もかもが、ずっと、続くものだと、思っていた。

その年は、一年生が、たくさん、入ってきた、にぎやかな夏だった。

中でも、北原は、いちばんの、ムードメーカーだった。

練習はきついのに、いつも、誰かを、笑わせていた。

後輩なのに、私は、あいつのことが、妙に、気に入っていた。

合宿も、半ばを過ぎた、ある日のことだ。

その日は、午後から、練習が休みになった。

一年生のうち、四人が、湖へ、泳ぎに、出かけていった。

止めておけば、よかったのだ。

湖は、見た目より、ずっと、深く、流れも、複雑だった。

地元の人は、夏でも、めったに、泳がない湖だった。

それを、私たちは、よく、知らなかった。

四人のうち、二人が、沖のほうで、足を、取られた。

そのまま、二人とも、水の中へ、沈んでいった。

あっという間の、出来事だったという。

助けに行く、間も、なかったらしい。

残った二人が、必死で、岸まで、助けを呼びに、戻ってきた。

戻ってきた二人は、唇を、紫にして、震えていた。

言葉も、ろくに、出ない様子だった。

すぐに、消防と、警察が、来た。

夕方まで、湖は、捜索の人たちで、ごった返した。

ヘリコプターまで、飛んできて、湖面を、旋回していた。

そのプロペラの音が、夕暮れの山に、虚しく、響いた。

だが、その日のうちには、二人は、見つからなかった。

合宿所の中は、大騒ぎだった。

泣いている者も、呆然としている者も、いた。

私たち上級生も、どうしていいか、わからなかった。

ただ、暗い湖面を、見つめることしか、できなかった。

さっきまで、笑っていた後輩が、その下に、いるのだ。

現実だとは、とても、思えなかった。

沈んだ二人のうち、ひとりは、北原という、一年生だった。

気のいい、よく笑う、明るいやつだった。

その日の朝も、私に、くだらない冗談を、言って、笑っていた。

その声が、まだ、耳に、残っていた。

その晩、私は、なかなか、寝つけなかった。

夜中に、喉が渇いて、私は、布団から、起き出した。

水を飲みに、台所へ、行こうとしたのだ。

合宿所の廊下は、豆電球ひとつの、薄暗がりだった。

古い板張りの廊下が、足の裏で、ひやりと、冷たかった。

外では、虫の声が、やけに、大きく、響いていた。

合宿所の中は、しんと、静まり返っていた。

みんな、疲れ果てて、眠っていたのだろう。

その廊下の、突き当たりに。

誰かが、ぼんやりと、立っていた。

暗い廊下に、北原が、ぼんやりと、立っていた。

こちらを、向いて。

いつもの、練習着の、ままで。

私は、寝ぼけていて、何も、おかしいとは、思わなかった。

「なんだ、北原か。お前も、眠れないのか」

そう、声を、かけた。

北原は、いつものように、ぺこりと、頭を、下げた。

そして、こう言った。

「先輩。俺のリュックの底、ヤバいんすよ」

「お願いします、よ」

私は、寝ぼけまなこで、聞き返した。

「は? お前、何、言ってんだ」

声は、確かに、北原の、声だった。

口調も、いつもの、あいつ、そのものだった。

北原は、もう一度、同じことを、繰り返した。

「俺のリュックの底です。先輩、頼みますよ」

そして、また、深く、頭を下げて。

すうっと、自分たちの、部屋のほうへ、歩いていった。

足音は、まったく、聞こえなかった。

私は、それすら、別に、気に、留めなかった。

寝ぼけていた、としか、言いようがない。

なんだ、あいつ、寝ぼけてるのか。

私は、そう思って、台所で、水を飲んだ。

コップの水を、飲み干した、そのときだ。

背筋が、すうっと、冷たくなった。

北原は。

あの北原は、今日の昼すぎに、湖で、沈んだはずだ。

この目で、岸から、捜索の様子を、見ていた。

まだ、見つかっても、いない。

あの晩、廊下で俺に頭を下げた北原は、その日の昼すぎに、湖で死んでいた。

私は、コップを、握りしめたまま、しばらく、動けなかった。

廊下の突き当たりを、もう一度、見た。

そこには、もう、誰も、いなかった。

豆電球が、じじ、と、小さく、音を立てた。

私は、逃げるように、布団へ、戻った。

その晩は、とうとう、一睡も、できなかった。

それから、二日が、過ぎた。

湖から、二人の遺体が、相次いで、見つかった。

葬儀には、部の顧問の先生と、私たち上級生も、参列した。

北原の両親は、変わり果てた息子の前で、声も、出せずにいた。

母親は、棺に、すがりついて、離れなかった。

父親は、ただ、唇を、噛みしめて、立っていた。

いかにも、昔気質の、厳格そうな、ご両親だった。

とても、見ていられなかった。

私は、焼香の列で、ただ、うつむいていた。

あの晩の、廊下のことは、誰にも、言えなかった。

言ったところで、信じてもらえる、はずも、なかった。

後日、私たち上級生は、ある役目を、頼まれた。

両親が、荷物を、引き取りに来る前に。

亡くなった二人の、合宿所に残された荷物を、まとめておく、という役目だ。

私は、北原の、荷物を、担当した。

あいつの、汗の匂いの残る練習着を、たたむのは、つらかった。

机の上には、飲みかけの、ジュースが、そのままに、なっていた。

畳んだ服や、練習用具を、段ボールに、詰めていく。

そのとき、ふと、あの晩の、言葉を、思い出した。

「俺のリュックの底、ヤバいんすよ」

私は、部屋の隅の、北原のリュックを、手に取った。

そして、いちばん底を、探ってみた。

なぜだか、胸が、どきどきと、鳴った。

あの晩の、頼みごとが、本当だったのか、確かめるように。

底から、出てきたのは、まず、数冊の、エロ本だった。

思わず、私は、ひとりで、笑ってしまった。

こんなときなのに、笑ってしまって、北原に、悪い気が、した。

「なんだ、これか」

いかにも、あいつらしい、と、思った。

こんなものを、親に見られたくない、という、その気持ちは、よくわかる。

男なら、誰だって、そうだ。

それで、わざわざ、化けて出たのか、と。

そう思うと、なんだか、おかしくて、少しだけ、泣けた。

だが、リュックの底から、出てきたのは、それ、だけでは、なかった。

エロ本の、さらに下に。

古い、菓子の缶が、ひとつ、隠してあった。

ガムテープで、ぐるぐると、厳重に、封が、してあった。

ただのエロ本より、よほど、大事に、隠してある。

私は、そっと、その封を、はがした。

その缶の中には、何通もの、手紙が、入っていた。

差出人は、女性の名前だった。

そして、一枚の、写真。

北原と、北原より、いくつも年上に見える、ひとりの女性が、写っていた。

二人とも、はにかむように、笑っていた。

手紙を、少しだけ、読ませてもらった。

その女性は、大学の近くの、定食屋で、働いている人らしかった。

北原とは、ずっと、付き合っていたようだ。

写真の裏には、二人の名前と、日付が、書いてあった。

もう、三年越しの、付き合いらしかった。

手紙の、端々から、二人の事情が、見えてきた。

北原の親は、古い考えの、厳しい人たちだったらしい。

「年上の、水商売の女など、絶対に、許さん」

北原は、そう、親に、反対されていたのだ。

それでも、二人は、こっそりと、付き合いを、続けていた。

いつか、必ず、認めてもらう。

手紙には、そんな、健気な約束が、綴られていた。

「卒業したら、必ず、家族に、紹介する」

「それまで、待っていてほしい」

若い、まっすぐな、文字だった。

読んでいるうちに、私の目も、すっかり、かすんでしまった。

あいつは、こんな大事なものを、誰にも言わずに、ひとりで、抱えていたのか。

なるほど、と、私は、思った。

これを、親に、見られたくなかったのだ。

自分が死んだあとに。

この手紙が、見つかってしまえば。

厳しい親は、きっと、あの女性を、責めるだろう。

あるいは、息子の最後の秘密を、汚いものとして、踏みにじるだろう。

北原は、それを、何より、恐れたのだ。

自分のことより。

残された、あの人のことを。

死んでも、なお。

あの人を、守りたかったのだ。

私は、もう一人の、片づけ役の目を、そっと、盗んだ。

そして、エロ本は、さりげなく、自分の荷物に、紛れ込ませた。

あとで、自分のものとして、こっそり、処分するつもりだった。

菓子の缶の、手紙と写真は。

念のため、近くの、お寺に、お願いして、引き取って、もらった。

きちんと、供養して、もらえるように。

あの女性が、いつか、手を合わせに、来られるように。

それだけは、私の、勝手な、願いだった。

北原の親の元へは、何も、渡らないように、した。

こうして、書いてみると、やはり、たいして、怖くは、ないな。

幽霊が出て、人を、呪うわけでも、ない。

ただ、死んだあとまで、人を、思いやった、後輩の、話だ。

ただ。

あの暗い廊下で。

死んだはずの北原に、ぺこりと、頭を下げられた、あの瞬間だけは。

さすがに、少しだけ、怖かったよ。

いや、正直に、言えば。

腰が抜けるほど、怖かった。

北原。

お前の頼みは、ちゃんと、聞いておいたぞ。

親父さんにも、おふくろさんにも、何も、知られちゃいない。

あの人の写真も、エロ本も、ちゃんと、俺が、始末しておいた。

だから、もう、心配するな。

あとのことは、先輩の、この俺に、任せておけ。

そっちで、あの定食屋の人を、待っていてやれよ。

気の長い話に、なるかもしれないが。

お前なら、きっと、笑って、待っていられるだろう。

それから、もう、湖になんか、入るんじゃないぞ。

まったく、世話の、焼ける、後輩だよ。

いつか、ゆっくり、二人で、認めてもらえる日を、な。

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