何年も前の、大学の、夏合宿での話だ。
こうして書いてみると、たいして、怖い話でも、ないのかもしれない。
ただ、当の本人にとっては、今でも、忘れられない、ひと晩なのだ。
※
私は、大学で、ボート部に、入っていた。
夏になると、毎年、山あいの、大きな湖のほとりで、合宿をした。
周りを、深い、緑の山に、囲まれた、静かな湖だった。
朝もやの中を漕ぎ出すのが、私は、好きだった。
古い、木造の合宿所に、部員みんなで、寝泊まりするのだ。
朝から晩まで、湖でオールを漕いで、くたくたになるまで、練習をした。
夜は、みんなで、安い酒を飲んで、馬鹿話で、笑い転げた。
若くて、体力だけは、ありあまっていた。
あの頃は、何もかもが、ずっと、続くものだと、思っていた。
その年は、一年生が、たくさん、入ってきた、にぎやかな夏だった。
中でも、北原は、いちばんの、ムードメーカーだった。
練習はきついのに、いつも、誰かを、笑わせていた。
後輩なのに、私は、あいつのことが、妙に、気に入っていた。
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合宿も、半ばを過ぎた、ある日のことだ。
その日は、午後から、練習が休みになった。
一年生のうち、四人が、湖へ、泳ぎに、出かけていった。
止めておけば、よかったのだ。
湖は、見た目より、ずっと、深く、流れも、複雑だった。
地元の人は、夏でも、めったに、泳がない湖だった。
それを、私たちは、よく、知らなかった。
四人のうち、二人が、沖のほうで、足を、取られた。
そのまま、二人とも、水の中へ、沈んでいった。
あっという間の、出来事だったという。
助けに行く、間も、なかったらしい。
残った二人が、必死で、岸まで、助けを呼びに、戻ってきた。
戻ってきた二人は、唇を、紫にして、震えていた。
言葉も、ろくに、出ない様子だった。
※
すぐに、消防と、警察が、来た。
夕方まで、湖は、捜索の人たちで、ごった返した。
ヘリコプターまで、飛んできて、湖面を、旋回していた。
そのプロペラの音が、夕暮れの山に、虚しく、響いた。
だが、その日のうちには、二人は、見つからなかった。
合宿所の中は、大騒ぎだった。
泣いている者も、呆然としている者も、いた。
私たち上級生も、どうしていいか、わからなかった。
ただ、暗い湖面を、見つめることしか、できなかった。
さっきまで、笑っていた後輩が、その下に、いるのだ。
現実だとは、とても、思えなかった。
沈んだ二人のうち、ひとりは、北原という、一年生だった。
気のいい、よく笑う、明るいやつだった。
その日の朝も、私に、くだらない冗談を、言って、笑っていた。
その声が、まだ、耳に、残っていた。
※
その晩、私は、なかなか、寝つけなかった。
夜中に、喉が渇いて、私は、布団から、起き出した。
水を飲みに、台所へ、行こうとしたのだ。
合宿所の廊下は、豆電球ひとつの、薄暗がりだった。
古い板張りの廊下が、足の裏で、ひやりと、冷たかった。
外では、虫の声が、やけに、大きく、響いていた。
合宿所の中は、しんと、静まり返っていた。
みんな、疲れ果てて、眠っていたのだろう。
その廊下の、突き当たりに。
誰かが、ぼんやりと、立っていた。
暗い廊下に、北原が、ぼんやりと、立っていた。
こちらを、向いて。
いつもの、練習着の、ままで。
※
私は、寝ぼけていて、何も、おかしいとは、思わなかった。
「なんだ、北原か。お前も、眠れないのか」
そう、声を、かけた。
北原は、いつものように、ぺこりと、頭を、下げた。
そして、こう言った。
「先輩。俺のリュックの底、ヤバいんすよ」
「お願いします、よ」
私は、寝ぼけまなこで、聞き返した。
「は? お前、何、言ってんだ」
声は、確かに、北原の、声だった。
口調も、いつもの、あいつ、そのものだった。
北原は、もう一度、同じことを、繰り返した。
「俺のリュックの底です。先輩、頼みますよ」
そして、また、深く、頭を下げて。
すうっと、自分たちの、部屋のほうへ、歩いていった。
足音は、まったく、聞こえなかった。
私は、それすら、別に、気に、留めなかった。
寝ぼけていた、としか、言いようがない。
※
なんだ、あいつ、寝ぼけてるのか。
私は、そう思って、台所で、水を飲んだ。
コップの水を、飲み干した、そのときだ。
背筋が、すうっと、冷たくなった。
北原は。
あの北原は、今日の昼すぎに、湖で、沈んだはずだ。
この目で、岸から、捜索の様子を、見ていた。
まだ、見つかっても、いない。
あの晩、廊下で俺に頭を下げた北原は、その日の昼すぎに、湖で死んでいた。
私は、コップを、握りしめたまま、しばらく、動けなかった。
廊下の突き当たりを、もう一度、見た。
そこには、もう、誰も、いなかった。
豆電球が、じじ、と、小さく、音を立てた。
私は、逃げるように、布団へ、戻った。
その晩は、とうとう、一睡も、できなかった。
※
それから、二日が、過ぎた。
湖から、二人の遺体が、相次いで、見つかった。
葬儀には、部の顧問の先生と、私たち上級生も、参列した。
北原の両親は、変わり果てた息子の前で、声も、出せずにいた。
母親は、棺に、すがりついて、離れなかった。
父親は、ただ、唇を、噛みしめて、立っていた。
いかにも、昔気質の、厳格そうな、ご両親だった。
とても、見ていられなかった。
私は、焼香の列で、ただ、うつむいていた。
あの晩の、廊下のことは、誰にも、言えなかった。
言ったところで、信じてもらえる、はずも、なかった。
※
後日、私たち上級生は、ある役目を、頼まれた。
両親が、荷物を、引き取りに来る前に。
亡くなった二人の、合宿所に残された荷物を、まとめておく、という役目だ。
私は、北原の、荷物を、担当した。
あいつの、汗の匂いの残る練習着を、たたむのは、つらかった。
机の上には、飲みかけの、ジュースが、そのままに、なっていた。
畳んだ服や、練習用具を、段ボールに、詰めていく。
そのとき、ふと、あの晩の、言葉を、思い出した。
「俺のリュックの底、ヤバいんすよ」
私は、部屋の隅の、北原のリュックを、手に取った。
そして、いちばん底を、探ってみた。
なぜだか、胸が、どきどきと、鳴った。
あの晩の、頼みごとが、本当だったのか、確かめるように。
※
底から、出てきたのは、まず、数冊の、エロ本だった。
思わず、私は、ひとりで、笑ってしまった。
こんなときなのに、笑ってしまって、北原に、悪い気が、した。
「なんだ、これか」
いかにも、あいつらしい、と、思った。
こんなものを、親に見られたくない、という、その気持ちは、よくわかる。
男なら、誰だって、そうだ。
それで、わざわざ、化けて出たのか、と。
そう思うと、なんだか、おかしくて、少しだけ、泣けた。
だが、リュックの底から、出てきたのは、それ、だけでは、なかった。
エロ本の、さらに下に。
古い、菓子の缶が、ひとつ、隠してあった。
ガムテープで、ぐるぐると、厳重に、封が、してあった。
ただのエロ本より、よほど、大事に、隠してある。
私は、そっと、その封を、はがした。
※
その缶の中には、何通もの、手紙が、入っていた。
差出人は、女性の名前だった。
そして、一枚の、写真。
北原と、北原より、いくつも年上に見える、ひとりの女性が、写っていた。
二人とも、はにかむように、笑っていた。
手紙を、少しだけ、読ませてもらった。
その女性は、大学の近くの、定食屋で、働いている人らしかった。
北原とは、ずっと、付き合っていたようだ。
写真の裏には、二人の名前と、日付が、書いてあった。
もう、三年越しの、付き合いらしかった。
※
手紙の、端々から、二人の事情が、見えてきた。
北原の親は、古い考えの、厳しい人たちだったらしい。
「年上の、水商売の女など、絶対に、許さん」
北原は、そう、親に、反対されていたのだ。
それでも、二人は、こっそりと、付き合いを、続けていた。
いつか、必ず、認めてもらう。
手紙には、そんな、健気な約束が、綴られていた。
「卒業したら、必ず、家族に、紹介する」
「それまで、待っていてほしい」
若い、まっすぐな、文字だった。
読んでいるうちに、私の目も、すっかり、かすんでしまった。
あいつは、こんな大事なものを、誰にも言わずに、ひとりで、抱えていたのか。
※
なるほど、と、私は、思った。
これを、親に、見られたくなかったのだ。
自分が死んだあとに。
この手紙が、見つかってしまえば。
厳しい親は、きっと、あの女性を、責めるだろう。
あるいは、息子の最後の秘密を、汚いものとして、踏みにじるだろう。
北原は、それを、何より、恐れたのだ。
自分のことより。
残された、あの人のことを。
死んでも、なお。
あの人を、守りたかったのだ。
※
私は、もう一人の、片づけ役の目を、そっと、盗んだ。
そして、エロ本は、さりげなく、自分の荷物に、紛れ込ませた。
あとで、自分のものとして、こっそり、処分するつもりだった。
菓子の缶の、手紙と写真は。
念のため、近くの、お寺に、お願いして、引き取って、もらった。
きちんと、供養して、もらえるように。
あの女性が、いつか、手を合わせに、来られるように。
それだけは、私の、勝手な、願いだった。
北原の親の元へは、何も、渡らないように、した。
※
こうして、書いてみると、やはり、たいして、怖くは、ないな。
幽霊が出て、人を、呪うわけでも、ない。
ただ、死んだあとまで、人を、思いやった、後輩の、話だ。
ただ。
あの暗い廊下で。
死んだはずの北原に、ぺこりと、頭を下げられた、あの瞬間だけは。
さすがに、少しだけ、怖かったよ。
いや、正直に、言えば。
腰が抜けるほど、怖かった。
※
北原。
お前の頼みは、ちゃんと、聞いておいたぞ。
親父さんにも、おふくろさんにも、何も、知られちゃいない。
あの人の写真も、エロ本も、ちゃんと、俺が、始末しておいた。
だから、もう、心配するな。
あとのことは、先輩の、この俺に、任せておけ。
そっちで、あの定食屋の人を、待っていてやれよ。
気の長い話に、なるかもしれないが。
お前なら、きっと、笑って、待っていられるだろう。
それから、もう、湖になんか、入るんじゃないぞ。
まったく、世話の、焼ける、後輩だよ。
いつか、ゆっくり、二人で、認めてもらえる日を、な。