古い城下町の話だ。
石畳の路地が、迷路のように入り組んだ、あの町の話である。
※
私は、その町で生まれ、その町で育った。
城下町というのは、古い記憶を、たくさん抱えている。
石畳の一枚一枚に、幾百年の人の営みが、しみ込んでいる。
生きた者の足音も、死んだ者の足音も。
祖母は、よく、路地には気をつけろと言っていた。
「夜の辻には、この世のものでないものが、通る」
子どもの頃は、ただの脅し文句だと思っていた。
その言葉の意味を、私は、後になって思い知ることになる。
私には、佐野という古い友人がいた。
小学校からの、四十年来の付き合いだった。
町の中心には、今も、古い城の石垣が残っている。
その周りに、昔ながらの家並みが、ひしめいていた。
路地は狭く、日が暮れると、ひどく暗くなる。
その夜、佐野は、私の家で酒を飲んでいた。
私の家は、町のはずれにある、古い商家だった。
肴は、女房が煮た、里芋の煮っころがしだった。
二人とも、いい歳になっていた。
昔話に、花が咲いた。
死んだ級友のこと。初恋の相手のこと。
「あの頃は、よかったなあ」
佐野は、しみじみと、そう言った。
話は尽きず、時計の針は、とうに真夜中を回っていた。
「そろそろ帰るわ」
佐野は、赤い顔で、腰を上げた。
「泊まっていけよ」
「いや、女房が待っとるでな」
そう言って、佐野は、夜の路地へ出ていった。
私は、玄関先で、その背中を見送った。
提灯代わりに、と、私は懐中電灯を貸そうとした。
だが、佐野は、いらんいらん、と笑って断った。
「この道は、目をつぶってでも、歩けるわ」
月のない、暗い夜だった。
それが、いつもと変わらぬ、佐野の後ろ姿を見た、最後だった。
※
翌日の昼過ぎ、佐野が、青い顔で、また私の家を訪ねてきた。
「どうした、忘れ物か」
私が聞くと、佐野は、震える声で言った。
「昨夜、妙なものを見た」
佐野は、座敷に上がると、ぽつぽつと語り始めた。
昨夜、私の家を出て、路地を歩いていたときのことだ。
風もないのに、あたりの空気が、急に冷たくなったという。
線香の、甘く焦げたような匂いが、どこからともなく漂ってきた。
佐野は、なんだか嫌な気がして、足を速めた。
そのときだった。
向こうから、行列が、やってきたという。
提灯を提げ、みな、黒い喪服を着ていた。
どこかの、葬式の列だと、佐野は思った。
「こんな夜中に、葬式なんぞ、あるものか」
そう訝しみながらも、佐野は、道の端によけた。
行列は、しずしずと、佐野の横を通り過ぎていく。
不思議なことに、行列の足音は、まったく聞こえなかった。
みな、うつむいて、無言で歩いていた。
顔は、闇に沈んで、よく見えなかった。
提灯の灯りが、ゆらゆらと揺れていた。
よほど、大きな家の葬式なのだろう。
列は、いつまでも、途切れなかった。
佐野は、誰の葬式だろうと、気になった。
知った顔の、誰かだろうか。
つい、そんな好奇心が、頭をもたげた。
佐野は、ふと、列の一人に、声をかけた。
「これは、どちらの葬式ですかな」
すると、その男は、うつむいたまま、こう答えた。
「その先の、佐野さんのお宅のです」
佐野は、ぎょっとした。
佐野さんとは、ほかならぬ、自分のことだ。
耳を疑った。
心臓が、どくんと、跳ねた。
聞き間違いかと思い、佐野は、もう一度、口を開こうとした。
驚いて、もう一度、たずねようと振り返った。
だが、そこには、もう、誰もいなかった。
提灯の灯りも、喪服の列も、跡形もなく、消えていた。
ただ、暗い路地が、しんと、続いているだけだった。
※
佐野は、そこまで話すと、ごくりと、唾を飲んだ。
座敷の空気が、しんと、重くなった気がした。
「怖くなって、走って家に帰った」
佐野は、額の汗を、ぬぐった。
「そしたら、家に、誰もおらんのだ」
いつもなら、奥の間にいるはずの、女房の姿がない。
子どもたちの部屋も、もぬけの殻だった。
「おい、いるのか」と、佐野は、何度も呼んだ。
だが、しんと、静まりかえっているだけだった。
仏壇の、線香の匂いだけが、部屋に残っていた。
家中の電気を点けても、返事は、なかった。
「気味が悪くて、どうにもならん」
「それで、お前のとこに、また来たんだ」
佐野は、そう言って、うなだれた。
私は、笑い飛ばそうとした。
「飲みすぎだ。夢でも見たんだろう」
「今、うちに電話してみろ」
私は、佐野に、受話器を渡した。
佐野が、自分の家に、電話をかける。
呼び出し音が、二回鳴って、つながった。
佐野の指が、番号を押す音が、やけに大きく響いた。
私も、思わず、受話器に耳を寄せた。
受話器から、佐野の女房の、のんびりとした声が、聞こえた。
「はい、佐野でございます」
佐野の顔に、ほっとした色が、浮かんだ。
「な、普通に、家におるじゃないか」
私は、そう言って、佐野の肩を叩いた。
※
それでも、佐野の顔色は、優れなかった。
私は、心配になって、佐野を家まで送っていくことにした。
車で、あの路地の近くを通った。
昼間に見ると、なんの変哲もない、古い町並みだった。
「このあたりで、行列を見たのか」
私が聞くと、佐野は、こくりとうなずいた。
「ちょうど、あの角のところだ」
佐野が指さしたのは、古い辻に立つ、小さなお地蔵さんの前だった。
苔むした、ずいぶん古いお地蔵さんだった。
私は、なんとなく、そこで手を合わせた。
車の窓から見ると、辻のお地蔵さんは、こちらを見ているようだった。
赤いよだれかけが、色あせて、灰色になっていた。
「昔から、あるお地蔵さんだよな」
私が言うと、佐野は、小さくうなずいた。
「じいさんの、そのまたじいさんの頃から、あるらしい」
佐野の家に着くと、女房と子どもたちが、普通に出迎えた。
「あなた、どこ行ってたの」
女房が、けろりとした顔で言った。
佐野は、力なく笑った。
「なんだ、やっぱり夢だったんだな」
私も、そう思うことにした。
そう、思い込もうとした。
※
だが、その夜、私は、なかなか寝つけなかった。
祖母の言葉が、頭から離れなかった。
夜の辻には、この世のものでないものが、通る。
まさか、と思いながらも、胸騒ぎが、収まらなかった。
翌朝、佐野に電話をかけると、いつもの、元気な声が返ってきた。
「昨日は、悪かったな。もう、なんともないぞ」
私は、少しだけ、安心した。
それでも、佐野は、その日から、ふさぎ込むようになった。
電話をかけるたび、声に、元気がなくなっていった。
「なあ」と、あるとき、佐野が言った。
「あの列の、いちばん後ろにな、もう一人、いた気がするんだ」
「その一人だけ、こっちを、じっと見ていた」
私は、なんと答えていいか、分からなかった。
だが、その安心は、長くは、続かなかった。
それから、三日が過ぎた。
その日の夕方、私のもとに、一本の電話が入った。
佐野の、女房からだった。
受話器の向こうで、彼女は、泣きじゃくっていた。
佐野が、交通事故で、亡くなったという。
仕事帰りに、あの辻の近くで、車にはねられたのだ。
信じられなかった。
つい昨日、電話で話したばかりだった。
あんなに、元気だったのに。
即死だった、と聞いた。
受話器を握る手が、小刻みに、震えた。
膝から、力が抜けていくのが、分かった。
まさか、と思った。
あの、たわいない夢だと、片づけたはずだった。
私は、しばらく、言葉が出なかった。
あの、葬列の話が、頭をよぎった。
「その先の、佐野さんのお宅のです」
あの男の、うつむいた声が、耳の奥で、よみがえった。
佐野は、自分の死を、あらかじめ、見せられていたのだ。
※
佐野の葬式は、しめやかに執り行われた。
喪主の女房は、憔悴しきっていた。
女房は、私の顔を見るなり、また泣き崩れた。
「主人は、あなたに、最後に会えて、喜んでいました」
その言葉が、胸に、深く刺さった。
あの夜、泊まっていけと、もっと強く言えばよかった。
私は、悔やんでも悔やみきれなかった。
私は、旧友として、棺を運ぶ役を、任された。
参列者は、みな、佐野の突然の死を、悼んでいた。
「まだ、若いのに」と、あちこちで、ささやく声がした。
祭壇の遺影の中で、佐野は、穏やかに笑っていた。
線香の煙が、細く、まっすぐに立ちのぼっていた。
あの夜、佐野が嗅いだという匂いと、同じ匂いだった。
私は、それに気づいて、ぞくりとした。
読経が終わり、いよいよ出棺のときがきた。
私は、ほかの者たちと、棺を担ぎ、霊柩車へと運んでいた。
そのときだった。
私の、すぐ後ろで、こんな会話が、聞こえた。
「これは、どちらの葬式ですかな」
「その先の、佐野さんのお宅のです」
私は、ぞっとして、足を止めた。
今の声は、聞き覚えがある。
間違いない。あれは、佐野の声だった。
棺を担ぐ手が、汗で、滑りそうになった。
心臓が、早鐘のように、打っていた。
私は、勢いよく、後ろを振り返った。
だが、そこにいたのは、見知らぬ参列者が、二人。
きょとんと、私を見ていた。
だが、確かに、私のすぐ後ろで、声がしたのだ。
聞き間違いなど、するはずがなかった。
四十年、聞き慣れた、佐野の声だったのだから。
「今、そこで話していた人は、どこへ行きました」
二人とも、佐野の遠い親戚だと、あとで聞いた。
私の後ろで話していた者など、心当たりがない、と言う。
私は、その一人に、たずねた。
すると、その男は、不思議そうに、答えた。
「ああ、その人なら、佐野さんのお宅のほうへ、走っていきましたよ」
「でも、妙でしてね」
男は、首をかしげた。
「なんというか、黒い靄がかかったみたいで、顔が、よく見えなかったんです」
私の、背筋が、凍りついた。
※
あの黒い靄がかかった男。
それが、誰であったのか。
考えるまでもなかった。
あれは、佐野、そのものだったのだ。
自分の葬式に、佐野は、来ていたのだ。
私は、いてもたってもいられず、佐野の家へ向かった。
葬儀を抜け出し、あの路地を、駆け抜けた。
佐野の家の戸を、叩いた。
だが、返事は、なかった。
胸騒ぎが、抑えられなかった。
何度も、戸を叩いた。
「奥さん、いますか」と、声をかけた。
だが、しんと、静まりかえったままだった。
戸を開けると、家の中は、がらんとして、誰もいなかった。
三和土には、女房のサンダルが、きちんと揃えて置かれていた。
まるで、たった今まで、誰かがいたかのように。
喪服の女房も、子どもたちも、いない。
みな、葬儀場にいるのだから、当たり前だった。
外は、まだ明るい昼間だった。
それなのに、家の中だけが、やけに、薄暗く感じられた。
畳が、ひやりと、冷たかった。
だが、私は、思い出していた。
あの夜、佐野が言った言葉を。
家に帰ったら、誰もいなかった、と。
佐野が見たのは、これだったのだ。
自分の、葬式の日の、光景だったのだ。
※
※
葬儀のあと、私は、しばらく、眠れぬ夜が続いた。
目を閉じると、あの喪服の列が、まぶたに浮かんだ。
そして、佐野の、うつむいた声が、聞こえてくるのだ。
これは、どちらの葬式ですかな、と。
後日、私は、町の古老に、あの話をした。
あの辻の、お地蔵さんのことも、たずねた。
古老は、深くうなずいて、こう語った。
「あれは、影送り、というものだ」
「この町では、昔から、言い伝えられておる」
「死ぬ者のところへ、あの世から、迎えの葬列が来る」
「その列に、うっかり声をかけて、名を聞いてしまうとな」
古老は、湯呑みの茶を、ひとくちすすった。
「わしが子どもの頃にもな、一人、おった」
「夜道で、葬列に声をかけた、若い衆がな」
「その者も、三日と経たずに、川に落ちて死んだ」
私は、背筋が寒くなるのを、感じた。
「昔の者は、みな、知っておった」
「だから、夜の辻では、決して、口をきくなと」
「たとえ、知った顔が通っても、声をかけてはならん、とな」
「聞いた者は、もう、逃れられんのだ」
「その地蔵はな、影送りを、町に入れぬための、見張りだ」
古老は、そう言った。
私は、あの辻のお地蔵さんの意味を、悟った。
あれは、影の葬列を、この町へ入れぬための、結界だったのだ。
「だが、道を広げてから、地蔵の力も、弱くなった」
「昔は、そういう境が、あちこちにあった」
「祠や、地蔵や、道祖神がな」
「それが、次々と、失われていった」
古老は、そう言って、目を伏せた。
※
※
佐野の四十九日が過ぎた頃、私は、あの辻のお地蔵さんに、参った。
新しいよだれかけを、掛けてやった。
線香を上げ、手を合わせた。
「佐野を、頼みます」
風が、よだれかけを、そっと揺らした。
どこか遠くで、鴉が、一声、鳴いた。
そして、こうも、祈った。
どうか、この町に、もう、あの列が来ませんように、と。
お地蔵さんは、ただ、静かに、そこに立っていた。
それから、何年も経った。
あの町を出て、私は、別の土地で暮らすようになった。
それでも、あの夜のことは、片時も、忘れられない。
私は、あの辻を、通らないようにしている。
あれから、この町でも、いくつかの家が、葬式を出した。
そのたびに、私は、あの夜のことを、思わずにいられない。
死は、いつも、静かに、すぐ隣を歩いている。
それを、私は、佐野から教わった。
けれど、ときどき、夜の路地を思い出す。
提灯を提げた、黒い喪服の列を。
提灯の、ゆらめく灯りを。
足音のしない、静かな行列を。
そして、佐野の、あのうつむいた声を。
死者の列に、決して、声をかけてはいけない。
たとえ、そこに、懐かしい顔があったとしても。
それが、この町に生きる者の、古い掟なのだ。
もし、いつか、私の前に、その行列が現れたら。
私は、決して、たずねはしないだろう。
これは、どちらの葬式ですか、とは。
たとえ、その列の中に、佐野の顔を見つけたとしても。
私は、目を伏せて、やり過ごすつもりだ。
その答えを、聞いてしまったら、もう、終わりなのだから。
死は、名を呼ばれるのを、静かに待っている。
私は、そう信じて、今日も口をつぐんでいる。