変わった妹

変わった妹

祖母は、山から持って帰ったものを家に上げるとき、必ず土間で一遍、裏返して置いた。

木の実でも、石でも、拾った空き缶でもそうした。

理由を訊いても、答えは決まっていた。

「こっちの向きに、直しとるんよ」

意味は分からなかった。

ただ、そういうものだと思って育った。

※

俺が住んでいたのは、徳島の那賀川をずっと遡ったところにある、奥檜という集落だ。

平成二年当時で、二十三戸あった。

谷が深く、冬は昼過ぎには日が当たらなくなる。

父は営林署の作業員で、朝の四時に出て、暗くなってから帰ってきた。

母は町のスーパーに勤めていた。

家にいるのはたいてい、祖母のハツエと、俺と、四つ下の妹だった。

妹の名前は七海という。

海のない谷に住んでいるのに、と、よく親戚に笑われていた。

集落は、川に沿って細長く続いている。

平らな土地がないので、家は斜面を削って建ててある。

どの家の裏も、すぐ山だ。

杉の間に、崩れた炭焼き窯の跡がいくつも残っていた。

子どもの遊び場は、そこか、川原しかない。

店は、週に二回来る移動販売の車だけだった。

車が来る日は、集落の年寄りが総出で坂の下に集まる。

祖母は、必ずいちばん最後に買った。

「先に取ったら、あとの人が困るやろ」

そういう人だった。

※

祖母には、言い付けがいくつもあった。

そのうち、いちばんきつく言われたのはこれだ。

「谷で拾うた字は、声に出して読むな」

「なんで」

「読んだら、読んだもんの口が借りられる」

「口が」

「貸したら、返ってくるまで、こっちは黙っとらんといかん」

奥檜には、字を彫った板があちこちにあった。

山の仕事で使う境界の杭や、古い祠の札や、崩れた炭焼き窯の脇に転がっている木札だ。

字といっても、多くは読めない。

墨が流れているか、彫りが浅くなっているかで、形しか残っていなかった。

子どもの頃は、それを拾って遊んだ。

拾って、祖母に見つかって、叱られた。

「読んどらんよ」

「口の中で読んだやろ」

祖母は、なぜかそれを見抜いた。

祖母は、若い頃に炭焼きの家に嫁いできた人だ。

この谷の生まれではない。

それなのに、谷の決まりごとについては、誰よりも細かかった。

「よそから来たけん、覚えなあかんかったんよ」

そう言って笑ったことがある。

笑いながら、目は笑っていなかった。

祖母が言い付けを破ったところを、俺は一度も見ていない。

※

平成二年の五月だった。

俺は高校二年で、成績が落ちていた。

その頃、家の中でよく苛立っていたと思う。

七海とは、しょっちゅう言い合いをした。

たいした喧嘩ではない。

テレビの取り合いとか、風呂の順番とか、その程度のことだ。

ただ、あの子は口が達者で、最後にひとこと余計なことを言う。

そこで俺が黙り込む、というのがいつもの終わり方だった。

それでも、七海は妙なところで俺の味方をした。

中学のとき、俺が近所の畑の柵を自転車で壊したことがある。

あの子は、自分がやったと言い張った。

なぜそんなことをしたのか、あとで訊いた。

「兄ちゃんは、怒られたら三日しゃべらんようになるけん」

「おまえは平気なんか」

「うちは、黙っとったら息が詰まるけん」

そう言って、あの子は笑った。

この言葉を、あとで何度も思い出すことになる。

その日は、川原へ二人で下りた。

五月一日だった。

連休の初日で、父も母も家にいなかった。

母に頼まれて、蕗を採りに行ったのだ。

水が少ない時期で、いつもは沈んでいる石が出ていた。

その石の間に、板が挟まっていた。

幅は手のひらほど。

長さは三十センチくらい。

片面に、字が彫ってあった。

※

字は、ふつうの字ではなかった。

ひらがなに見えるのに、どれも縦に長く引き伸ばされている。

行の途中から、右上へ、右上へと、少しずつ登っていく。

俺は板を持ち上げて、水を切った。

そのとき、七海が横から覗き込んだ。

「なんて書いとん」

「知らん」

「読んでみてよ」

「おまえが読んでみいや」

今でも、あの一言を思い出す。

俺は面倒くさかっただけだ。

板を妹のほうへ向けて、押し付けるようにした。

七海は、素直に受け取った。

そして、声に出して読んだ。

何と読んだのかは、覚えていない。

意味のある言葉ではなかった。

ただ、あの子の声が、途中から、川の音に混ざって聞こえなくなったのは覚えている。

※

その晩から、七海は喋らなくなった。

最初は、俺に腹を立てているのだと思った。

次の日も、その次の日も同じだった。

母が問い詰めても、口を開けたまま、息だけを出す。

喉に手を当てると、震えてはいる。

耳のそばに顔を寄せると、息の音の中に、何かの拍子のようなものが混じっていた。

言葉ではない。

一定の間隔で、短く息が切れる。

数えてみると、四拍で一区切りになっていた。

声にならないだけだ。

町の耳鼻科に連れて行ったが、異常はないと言われた。

徳島市の大きい病院にも行った。

そこでも同じだった。

祖母だけが、何も言わなかった。

俺が板のことを話そうとすると、祖母は俺の口の前に手のひらを立てた。

「言うな」

「けど」

「もう一遍やり直しになる」

※

異変は、少しずつ形を変えた。

最初の一週間は、音だった。

七海の部屋から、夜通し、鉛筆の音がした。

紙をこする音が、一定の速さで続く。

朝、俺は妹が学校へ出たあとに、部屋を覗いた。

机の上にも、屑籠にも、鉛筆の削りかすがひとつも落ちていない。

短くなった鉛筆だけが、筆立てに増えていく。

一週間で、五本増えた。

家に鉛筆を買った者はいない。

母に訊くと、「学校でもろうたんやろ」と言った。

俺は、その五本のうち一本を、こっそり抜いて筆箱に入れた。

翌朝、筆箱に戻っていた。

俺の筆箱ではなく、七海の筆立てに、である。

二週目からは、字だった。

七海のノートを、母が持って帰ってきた。

担任が渡してきたのだという。

数学のノートの前半は、いつもの妹の字だった。

丸っこくて、少し右に傾く。

ある行の途中から、それが変わっていた。

縦に長く引き伸ばされて、右上へ登っていく。

川原の板と、同じ形だった。

母は、そのノートを仏壇の引き出しにしまった。

捨てなかったのは、たぶん、捨て方が分からなかったからだ。

俺は一度だけ、そのノートを出して、字を写してみようとした。

三文字で、鉛筆が止まった。

書いている途中で、線の向きが分からなくなる。

右上へ登るはずのものが、どこから登り始めるのかが、どうしても掴めない。

写せない字がこの世にあるということを、そのとき初めて知った。

※

三週目には、証言が出てきた。

担任が家庭訪問に来て、居間でこう言った。

「授業中、口は動いとるんです」

「声は」

「出とりません。ただ、周りの子は、聞こえる言うんです」

母が、湯呑みを置く手を止めた。

「何が聞こえるんですか」

「それが、みんな、違うことを言うんですわ」

担任は、そこで少し笑った。

笑ってから、笑ったことを悔いたような顔をした。

そのあと、担任は玄関先で、思い出したように付け足した。

「あと、教室の匂いが変わった言う子がおりまして」

「匂い」

「水の匂いや、と。川の、と言うんですわ」

母は返事をしなかった。

その週から、七海の部屋の襖の下に、細かい砂が溜まるようになった。

掃いても、二日で戻る。

白い、川原の砂だった。

※

四週目に、俺は妹の部屋に入った。

あの子が帰ってくる前でないと、鍵を掛けられて入れない。

部屋の中は、前と何も変わっていなかった。

壁も、カーテンも、机の上のぬいぐるみも、そのままだ。

ただ一つだけ、違うところがあった。

日記帳が、机の上に、裏返して置いてあった。

表紙を下にして、背を手前にして。

そのときの俺は、その意味に気づかなかった。

ただ、開けやすいように置いてある、としか思わなかった。

俺は日記帳を開いた。

いま思えば、そこで手を止めるべきだった。

祖母は、拾ったものを裏返して置く理由を、一度も説明しなかった。

説明しなかったから、俺はそれを、ただの癖だと思っていた。

癖だと思っているものを、人は疑わない。

※

前半は、ふつうの日記だった。

友達の名前と、部活の愚痴と、俺の悪口が書いてある。

五月十二日の欄で、字が変わった。

あの、縦に長い字だ。

そこから先は、何十ページも同じ字が続いていた。

意味は取れない。

ただ、ひとつだけ分かることがあった。

日付だ。

いちばん最後のページに書かれていた日付は、まだ来ていない日だった。

六月九日。

その日は、三日先だった。

俺は指で、ページの端を押さえた。

紙が湿っていた。

その日は雨が降っていなかった。

※

背中に人の気配がして、振り返った。

七海が立っていた。

制服のまま、鞄も持ったままだ。

電気を点けていなかったので、顔は影になっていた。

俺は謝ろうとした。

口を開いた瞬間、七海が動いた。

驚くほど速かった。

俺の腕から日記帳を奪って、そのまま部屋を出て行った。

階段を下りる音がして、土間の戸が鳴った。

それきりだ。

七海は、あの晩から家に戻っていない。

※

捜索は一ヶ月続いた。

谷を上から下まで、大人が総出で見た。

営林署の父の同僚も、休みを潰して歩いてくれた。

何も出なかった。

同級生の女の子が、消えた日の下校のことを話してくれた。

七海は、いつもの分かれ道で、ひとりだけ立ち止まったという。

そして、口を動かした。

その子には「ごめん」と見えた、と言った。

別の子は、同じ場面を「またね」と見えたと言った。

警察は、二人の証言を並べて書き取り、それきりだった。

母は、その一ヶ月で、七海の分の茶碗を出すのをやめなかった。

誰も、やめろとは言わなかった。

ひと月が過ぎたころ、区長が家に来て、捜索を切り上げる話をした。

父は、何も言わずに聞いていた。

玄関を出るとき、区長が振り返って、こう言った。

「奥檜は、昔から、そういうことがある谷やけん」

父は、そのときだけ声を荒らげた。

「そういうこと、とは何ぞ」

区長は答えずに、坂を下りていった。

その背中を、父は長いこと見ていた。

鞄も、靴も、日記帳も。

ひと月経ったころ、父が営林署の古い書庫から、一冊の作業日誌を持ち帰った。

昭和八年のものだった。

ある頁に、担当者の走り書きがあった。

字を読み上げた作業員が一名、以後声を発せず。

三十七日後、山中にて所在不明。

手荷物いっさい発見に至らず。

頁の下に、別の筆跡で、後年の書き足しがあった。

読み上げしめたる者の名は記さず。

記せば同じことになると里の者が申すによる。

父は、その頁を俺に見せてから、静かに閉じた。

「三十七日や」

七海がいなくなったのは、板を読んだ日から数えて、三十七日目だった。

そして、日記の最後にあった六月九日の朝。

土間に、濡れた靴跡が一組だけあった。

戸には内側から心張り棒がかかっていた。

跡は、土間の真ん中で終わっていた。

上がり框には、一歩も上がっていない。

母はその日、初めて泣いた。

父は何も言わずに、土間を水で流した。

※

祖母が寝込んだのは、その秋だ。

枕元で、俺は初めて、板のことを話した。

祖母は天井を見たまま、しばらく黙っていた。

それから、こう言った。

「あの子は、ようやっとった」

「どこが」

「日記を、裏返して置いとったやろ」

俺は答えられなかった。

「あれは、こっちの向きに直してから置く、いうことや。読ませんための置き方や」

祖母は、それきり板の話をしなかった。

祖母は年が明けて、静かに息を引き取った。

最後の一週間は、ほとんど喋らなかった。

喋れなかったのではない。

母が枕元で話しかけると、うなずいたり、首を振ったりはした。

ただ、声だけを、出さなかった。

俺はそれを、看護の人に「衰弱です」と説明された。

そうなのだろうと思うことにした。

妹が黙っていたのは、口を貸したからではなかった。

貸したままの口で、何も外に出さないよう、こらえていたのだ。

そして最後に、日記帳を持って出た。

俺に読ませないためだと、いまは思っている。

妹が声を出したのは、あれが最後だった。

※

あれから三十四年が経った。

俺は谷を出て、鳴門で所帯を持った。

父も母も、もういない。

奥檜の家は、盆に行って風を通すだけになった。

谷を出たのは、二十歳の春だ。

理由は自分でも説明できない。

ただ、あの家にいると、夜中に鉛筆の音がするような気がして、眠れなくなった。

妻には、妹のことを一度だけ話した。

行方が分からない、とだけ伝えた。

板のことは話していない。

話せば、口に出すことになるからだ。

去年の夏、中学生になる娘を連れて、久しぶりに泊まった。

川原へ下りるな、とだけ言っておいた。

言っておいたのに、娘は夕方に濡れた靴で帰ってきた。

手に、板を持っていた。

幅は手のひらほど。

長さは三十センチくらい。

片面に、縦に長い字が、右上へ登っている。

「これ、なんて読むん」

俺は、答えなかった。

板を受け取って、土間で一遍、裏返して置いた。

娘が不思議そうに見ていた。

説明はしなかった。

娘は、その板をどこで拾ったかも覚えていないと言った。

気づいたら手に持っていた、と。

俺はそれ以上、訊かなかった。

その晩、娘が寝てから、俺は懐中電灯を持って土間へ下りた。

板は、置いたときのままだった。

ただ、床との間に、白い砂がひとつまみ溜まっていた。

三十年以上、誰も川原の砂を持ち込んでいない家だ。

俺は掃かなかった。

掃けば、板を動かすことになる。

※

その板は、今も奥檜の土間にある。

裏返したままだ。

去年、風を通しに行ったとき、位置が半歩ぶんずれていた。

誰も上がっていない家だ。

俺はそれを、元の場所に戻さなかった。

ずれ方には、規則があるように思う。

去年は半歩、その前の年は指三本ぶん。

毎年少しずつ、上がり框のほうへ寄ってきている。

この調子でいけば、あと何年かで框に届く。

そのとき自分がどうするのかは、まだ決めていない。

戻すには、一度持ち上げなければならない。

持ち上げれば、どうしても、下の面が目に入る。

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