
おごめご様というのがいると、従妹から聞いた。
何でも、小学校に出るらしい。
その小学校には俺も通ったんだが、旧館と新館に分かれている。
二つの棟を繋ぐ渡り廊下の側、植え込みの陰に隠れるように、ぽこんとした岩が置いてあった。
黒っぽくて丸っこい、何の変哲もない岩だ。
大人の膝くらいの高さで、上のほうが少し平らになっている。
渡り廊下は、屋根だけあって壁のない、吹きさらしの通路だった。
雨の日は床が濡れて、掃除当番は必ず誰かが滑った。
植え込みはツツジで、春に花が咲くと、岩だけが黒く沈んで見えた。
先生たちは、岩のことを一度も話題にしなかった。
草刈りのときも、岩の周りだけは、鎌を入れなかった。
俺が居た頃は墓石だという噂があって、誰も触ろうとしなかった。
六年生の誰かが肝試しでその岩を蹴っ飛ばしたところ、交通事故に遭って目が見えなくなったとか。
昔、二階の廊下から落ちたやつが、この石で頭を割ったとか。
岩の下には子供が埋まっているとか。
実しやかに囁かれていたものだった。
俺自身は、一度だけ、岩の上に手を置いたことがある。
小四の冬、誰かに押されて、転びかけて、とっさに手をついた。
岩は、真冬なのに、生温かかった。
そのことは、誰にも言わなかった。
言ったら、本当になる気がしたからだ。
その冬、俺は一度だけ、岩に頼みごとをしかけた。
クラスで嫌なことがあって、帰り道、岩の前で立ち止まった。
口を開く前に、植え込みの奥で、何かが動いた気がして、走って帰った。
頼まなかったことを、今は、よかったと思っている。
どうやら、その岩の噂が、新たな変化を遂げたらしい。
このゴールデンウィークに、お茶工場をしている祖母を手伝いに、田舎へ帰った時のことだ。
祖母の家は、山の裾の、茶畑に囲まれた集落にある。
五月は新茶の時期で、工場は朝から晩まで、蒸した葉の青い匂いで満ちている。
俺は大学の二年で、連休の間、揉み機の脇で袋詰めを手伝っていた。
祖母の工場は、祖父が建てたもので、今は祖母と、近所の爺さんが二人で回している。
一日で、百キロ近い生葉が運び込まれる。
蒸して、揉んで、乾かして、袋に詰める。
夕方には、指先が茶渋で茶色くなって、洗っても落ちなかった。
祖母は、「それが茶の家の手だ」と言って、笑った。
従妹のゆきは、小学五年だ。
家はすぐ近くで、学校から帰ると、まっすぐ工場へ来る。
その日も、ゆきは、ランドセルを背負ったまま工場に入ってきた。
そして、目を輝かせて、内緒話をするように、俺に話しかけてきた。
「おごめご様って、兄ちゃん知ってる」
「いや知らん。なに」
すると従妹は、あからさまに落胆した顔をした。
おごめご様の呪文
よく話を聞いてみると、
『学校におごめご様が出る。クラスでおごめご様は良い神様か悪い神様かで揉めた。卒業生の兄ちゃんなら知ってるだろうと思った』
ということらしい。
おごめご様なんて知らなかったので、詳しく話を聞いてみた。
どうやら俺たちが墓石だの何だのと言っていた、あの岩のことらしい。
「おごめご様はね、いい神様なんだよ。ちゃんとお願いすると、何でも叶えてくれるんだって」
「YちゃんとTちゃんが試したってさ」
従妹が一生懸命に言う。
Yちゃんは、テストで百点を取りたいと頼んで、翌週に本当に取ったらしい。
Tちゃんは、転校してしまった友達から手紙が来るように頼んで、三日後に届いたという。
どちらも、偶然で済む話だった。
偶然で済む話が、二つ重なると、子供には偶然ではなくなる。
俺の頃にも、似たことはあった。
岩に石を投げた子が、次の日に熱を出した。
それだけで、岩は一年、誰にも触られなかった。
『ふうん、あのおっそろしかった岩が、今じゃ子供らの神様か』
と、何となく懐かしいような気分になった。
「へえ。ちゃんとって何」
「あのね、おごめご様の前でね、呪文を唱えてね、おごめご様の頭と足を撫でながらお願いを言うの」
「それでまた呪文を言って、叶ったら自分の髪の毛を、おごめご様の後ろに一本置くんだよ」
また随分オカルティックな。
呪文というのは、まず初めに「カマカマカマ」、お終いに「コモコモコモ」だという。
頭は岩の天辺、足というのは岩の下の方。
『こりゃ絶対、高学年のオカルトマニアか誰かが作ったな』
と思いながら、ふと気になったことを聞いてみた。
「ゆきは、おごめご様はいい神様だと思ってんの」
「当たり前じゃん。お願い叶えてくれるんだよ」
「じゃあさ、悪い神様だって言う子たちは、なんで悪い神様だと思ったんだろね」
すると従妹は、思い切り顔をしかめた。
「おごめご様がお化けだって言う子たちがいるんだよ。おごめご様が出たって言うの」
「どんなの」
「渡り廊下の隅っこにね、白い子供が仰向けに寝てるんだって」
「大の字に広がってて、頭だけこっちを向いてて、それで『めごめご、おごおご』って言うんだって」
「だから、おごめご様なんだって」
従妹が、袋詰めの伝票の裏に、下手くそな絵を描いてくれた。
それがまた、何とも言えない怖さだった。
おごめご様は、頭をこちら、足を反対側に向けて寝転がっている。
その頭が、こう、くっと立てられているのだ。
首だけでブリッジしたみたいな感じ。
目は、描かれていなかった。
「目は」
「わかんない。見た子が、そこだけ、おぼえてないんだって」
「最近おごめご様が出るからって、下の廊下を通らない子もいるんだよ」
どうやらこのおごめご様は、良い神様にしろ悪い神様にしろ、相当学校で流行っているようだった。
「ゆきは、お願いしたの」
そう聞くと、従妹は、伝票の絵を折りたたんで、ポケットにしまった。
「ひみつ」
その場は祖母からお呼びが掛かって、お開きになった。
面白くなったのは、その後だ。
五日の晩の酒の席
結局学生の気楽さで、平日も自主休講して二日から六日までお茶の手伝いをした。
明日は帰るかという、五日の晩だった。
従妹は家が近いのに、この時は泊まっていって、もう寝ていた。
祖母と父母、俺で、夕食後にのんびり酒を飲みながら駄弁っていた。
縁側のガラス戸は開けてあって、茶畑の上を、蛙の声が波のように渡ってきていた。
祖母は、八十を過ぎて、耳は遠いが、目は今もよく見える。
茶葉の色で、蒸しの時間を当てる人だ。
父は、祖母の家を継がずに、町で勤め人になった。
そのことを、祖母は一度も責めなかったが、酒が入ると、「継ぐ人がおらん」という話だけは、毎年した。
大方はお茶の話だった。
今年は三月から冷えた日が続いたから、今ひとつ葉っぱの出が悪かったとか。
この辺ももう、お茶を継ぐ人がおらんで大変だとか。
そんな愚痴みたいな話をしていた。
でもその内にふと思い出して、おごめご様の話をしてみた。
「そういやさ、ゆきの学校でさ、なんか変な神様が流行ってんだって。おごめご様とかいってさ」
すると、祖母がぎょっとした顔をした。
「それ、本当か。おごめご」
「らしいよ。よく解んないけど、願いを叶えてくれるやら、お化け説やら、諸説出てるって」
「はあ。まさかゆきは触っとらんだろね」
祖母は、何だか本当に驚いたような顔をしている。
湯呑みを持つ手が、止まっていた。
父母がきょとんとしているので、俺は二人におごめご様の説明をした。
父は膝を叩いて言った。
「あー、知ってるぞ、それ。俺の時は何だったかなあ」
「何だか新館を建てる時に山を削ったら、山の中にあの石があって、邪魔だからって掘ってみたんだな」
「そしたら下から壷に消し炭だか骨だか入ったのが出てきて」
「こりゃなんだか曰くのあるもんだろうっつって、お祓いして岩をあそこに動かしたとか何とか」
初耳だった。
墓石というのも、満更ガセではなかったらしい。
聞けば、俺たちが噂していた二階から落っこちたやつは、親父の四つ上の男子だと言う。
窓の側でふざけていて、身を乗り出し過ぎて落ちたらしい。
確かにあの岩に頭をぶつけて危なかったが、けがで済んだと言う。
「ただな」と、父は少し声を落とした。
「そいつ、落ちる前の週に、岩に何か頼んだって、後で言ってたんだわ」
「何を」
「学校を休みたい、って」
父は、それきり、その話をしなかった。
落ちた男子は、その後、一か月学校を休んだという。
頼んだ通りに、なったわけだ。
父は、そのことには触れなかったが、俺は、湯呑みの中の茶が揺れるのを見ていた。
「ばあさんも知ってるのか、アレ。子供だけの噂だと思ってたわ」
すると祖母は、呆れた顔をした。
Sの山の子供の神様
「知ってるも何も、あんた、ありゃSんとこのモンだい」
「S、ほら、じいさんのハトコが跡とってから、すっかり潰れたろ」
「山ももう持ってられんくなったんだな。ちょうど学校を広げるっつうから、県に売ったんだ」
「近所でも随分止めたが、聞きゃあしない」
「ほいで山潰して学校にして、すぐSの家屋敷も焼けちまったろうが」
Sというのはこの辺に多い名字で、今話題になっているのは家の裏手の方、山際のS家だ。
小さい頃から、あまり良い噂は聞かない家だった。
焼けたという割には、立派な家に住んでいるが。
S家は、集落の一番奥で、道からは、黒い瓦の屋根だけが見える。
子供の頃、その前を通るとき、俺たちは自転車を漕ぐ足を速めた。
理由は、誰も知らなかった。
親が、そうしていたからだ。
焼けたのは、父が中学の頃で、火元は分からなかったという。
燃えたのは母屋だけで、裏の蔵と、蔵の前の小さな祠は、残ったらしい。
「それでまあ、移す時も大変だったよう。わざわざヨソから拝む人連れて来てさ。だから触るなって言ったのになあ」
「え、その山にあったのって、なんかまずいもんだったの」
あまりに祖母が嫌そうに言うので、思わず尋ねた。
祖母は、顔をしかめて言った。
「あれはさ、Sのとこで持ってたモンだで、何でも子供の神様でさあ、よっく祟るんだなあ」
「母ちゃんによく言われたよう、Sの山には入んなって」
「あれって昔から、おごめごって言ってたの」
「おごめごったら、男の子と女の子のことだな」
「ウチらは何て呼んでたかなあ、やっぱりオゴ様とかオゴメ様とか言ってたな」
「Sと仲良い家ってなかなかないだろ。祟られるからだろて」
「祟るって、どういう」
祖母は、湯呑みを置いて、縁側の外を見た。
蛙の声が、いつの間にか、止んでいた。
「頼みごとを、聞くんだわ。子供の頼みだけ」
「聞いた分、持っていく。髪の毛一本じゃ、済まんのさ」
「何を持っていくの」
祖母は答えなかった。
代わりに、「ゆきの髪、見てやれ」とだけ言った。
ここから先は、学校の増築を推進した地主の家の悪口やら、山の値段が下がった話やらになった。
俺は、酒の味が分からなくなっていた。
母は、途中から黙って、ゆきの寝ている部屋のほうを、何度か見た。
父は、二杯目を注がずに、湯呑みを伏せた。
祖母だけが、いつもと同じ速さで、茶を飲んでいた。
怖がっていないのではなく、怖がり慣れているのだと、後で思った。
似た話を、ほそりさまは袖から入るや、しるべ石の子が返しに来たで読んだことがある。
土地の神様は、たいてい、子供の頼みを聞く。
そして、聞いた分を、持っていく。
持っていくものが髪で済んでいるうちは、まだいいのかもしれない。
祖母の「済まんのさ」という言い方が、その先を言っていた。
後ろ髪の短い束
その夜、俺は布団に入ってからも、なかなか寝つけなかった。
裏の山のほうから、何かが、低く聞こえていた。
山といっても、半分は学校になって、残りはS家の蔵の裏に続く雑木林だ。
窓を少し開けると、茶畑の匂いに混じって、湿った土の匂いがした。
月はなく、畑の畝が、黒い縞になって山へ続いていた。
畝の間を、白いものが一つ、山へ向かって動いた気がした。
猫だと思った。
猫にしては、動き方が、仰向けだった。
窓を閉めて、布団を頭までかぶった。
蛙でも、鳥でもなかった。
「めご、めご」と、二音ずつ、間を置いて。
風の音だと思うことにした。
朝、台所で、ゆきが祖母に髪を結ってもらっていた。
味噌汁の湯気の向こうで、祖母の指が、いつもより、ゆっくり動いていた。
俺は、祖母の言葉を思い出して、ゆきの後ろ頭を見た。
右の耳の後ろに、短い束があった。
五センチほど、ざっくりと、何かで切ったように。
「ゆき、ここ、どうした」
祖母は、何も言わずに、その束の上から、ゴムで髪をまとめた。
ゆきは、鏡を見たまま、答えた。
「おねがい、かなったから」
「一本でいいんだろ」
「一本ずつ、置いてるの。かなった日、まいにち」
俺は、何を頼んだのかを、聞けなかった。
聞いたら、本当になる気がした。
小四の冬に、岩に手をついたときと、同じだった。
六日の昼、俺は駅まで、父の車で送ってもらった。
ゆきは、工場の前で、手を振っていた。
振りながら、「また、すぐくるよね」と言った。
「夏休みにな」
「ううん。すぐ」
ゆきは、笑っていた。
右の耳の後ろで、結び残した短い束が、風に立っていた。
電車に乗ってから、シャツの肩に、長い髪が一本ついているのに気づいた。
俺の髪ではなかった。
ゆきの髪にしては、長すぎた。
指でつまむと、髪は、五月の車内なのに、ひどく冷たかった。
窓の外へ捨てようとして、やめた。
一本置くのは、叶ったときの作法だと、ゆきは言っていた。
窓の外で、茶畑が、山の裾へ向かって、ゆっくりと流れていった。
元々はSの家の神様だったのが、学校の中に移って、しかも学校の怪談になっている。
親父の頃も俺の頃も、おごめご様なんて言わなかったのに、何故今になってそんな名前が出てきたんだろうか。
神様の方は誰かの創作だとして、お化けの方のおごめご様を、本当に見た子がいるんだろうか。
というか、おごめご様って、何よ。
謎は尽きないが、取り敢えず終わり。
肩の髪は、まだ捨てていない。